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連日続く抗議活動は、耳に入るだけでも何となく削られる。城の奥、外の声の聞こえない裏庭に引きこもって、私は東屋でぐったりとしていた。
「うぅ……。何もせずにはいられないのに何も出来なくて、まんじりともせずに日がな一日ごろごろしてなきゃなの、辛いですよ」
「城を囲まれてるから外にも出られないしなぁ」
長いベンチにぐでっと横になり、私は盛大なため息をついた。先輩も暗い表情で膝に頬杖をついている。ここ数日、ほとんど休まずに馬を走らせていたというのだから、私よりよっぽど疲れているだろう。事実、殿下に休養を取るように言われて、今ここにいる。と、いうことは、『私が』世話を見ろということなのである。……多分。
「ジャクト、の、地元って、どこら辺なんですか?」
前はつるんと出せたはずの、その名前が、喉元で変に引っかかった。先輩は「あー……」と頭を掻き、くいと眼鏡を上げる。
「聖都の近くだな。二つくらい手前の街」
「じゃあ結構ここから遠いんですねぇ」
その距離を行って帰ってきたのだから、そりゃ疲れる訳だ。「お疲れ様です」とねぎらって差し上げたというのに、先輩は顔を引きつらせた。
「殊勝なアルカ、気持ち悪いな……」
「何ですか、人がせっかく優しくしてあげようと思ったのに!」
先輩が座っている椅子の脚を軽く蹴って嫌がらせをしようとしたが、先輩がひょいと腰を浮かせたせいで、椅子を蹴り飛ばしただけに終わってしまった。
そのとき、庭の反対側から足音がして、私と先輩は同時に腰に手をやった。職業病である。鞘を抑えて剣の柄を握った私は、姿を現したその人に肩の力を抜いた。
「こら、椅子を蹴らないの」
私の蹴りで吹き飛んでいった椅子を元の位置に戻して、メリザさんがため息をついた。
「そんなつもりじゃなかったんです」
「お行儀には気をつけた方が良いわよ。王妃様、息子の婚約者の作法にはめちゃくちゃ厳しいから」
腰に手を当てて、メリザさんはにやりと笑う。私はその言葉に眉をひそめた。
「息子の、婚約者……? まるで経験者みたいな言い方……」
「あら、しばらく公開しないって言ってたけど、まさかあなたまで知らなかったの?」
兄君、セデロフィル殿下の託宣人であるという情報までは知っていたが、いや、……え? 目をぱちくりさせる私に向かって悪戯っぽく微笑むと、メリザさんは親指を立てた。
「両陛下も大変よねぇ、まさか大事な息子が二人ともどこの馬の骨とも知らない女に求婚しちゃうんだもの」
「二人とも? ……兄君も?」
ええ、とメリザさんは満足げに頷く。「ま、あの人もようやくしっかりしてきたってことよ」
高らかに笑いながら、メリザさんは私の隣に腰掛けた。ふっと表情を和らげて、私の手を取る。
「アルカは、まだ、託宣人なのね」
メリザさんはそう呟いて、私の手首に嵌められた腕輪に指先で触れた。金色に輝くそれは、私が神託で選ばれてからこの方、ぴくりともしない。
「怖くなかった? 得体の知れないもの、けれど誰もが共有するもの、でも決して目に見えないものから、勝手に選ばれて、身に余るような立場を与えられて」
「わたし、」
答えに窮した私に、メリザさんは柔らかく微笑む。
「……私は、怖かったわ。私もキルディエ国民の端くれだから、幼い頃からずっと、神様が側にいるんだって信じていた。けど、まさか自分がそんなものと関わるだなんて、想像だにしなかったわ」
私は勢いよく頷いた。「でしょ」とメリザさんは苦笑して、それからえいやと拳を握り、力こぶを作るような仕草をみせた。
「でも私、結構こう見えてメンタル強いから」
強い、を表すポーズらしい。つるんとした二の腕を少し眺める。対抗するように腕を曲げて拳に力を入れてやると、「うわ……」とあからさまにドン引きされた顔をされた。悲しかったのですぐに腕を戻す。
メリザさんは、空になった指を眺めながら呟いた。
「考えても考えても、神様の気持ちなんて分からなかった。神託で選ばれたと言ったって、神様の声が聞こえる訳でもないし、何をしろとも言われない。とんでもない役目を負わされたもんだって、初めこそ神様を恨んだりもしたけれど」
私はじっとメリザさんを見つめて、その言葉を聞いていた。メリザさんは私の視線を受け止めてから、あっけらかんと笑った。
「どうせ、誰にも神様の考えていることなんて分からないのだもの。だったら好き勝手やったって良いじゃない?」
「え……」
メリザさんは、もはやどこにも何も嵌まっていない十指を掲げる。
「神様は、どこにもいなくて、どこにでもいるんだわ。その人にとって神様がどんな存在かなんて、それぞれよ。みんなが、神様に恥じないような生活を送ることが出来るのが、最良の世界だわ。それこそが最も御許に近づく道よ」
何かを悟ったような表情だった。私には到底たどり着けない位置のように感じた。それまで訥々と説いていたメリザさんは、慌てて私と先輩を見た。
「ちょっと今の、神殿の教義に反する可能性あるから、ここだけの話ね」
「はは、分かりました」
あたふたと両手を振って誤魔化したメリザさんに、私は数度頷く。ほっとメリザさんは胸をなで下ろした。
「神様を愛することが、神様に愛されることだというのは、きっとそういう意味なんだわ。神様に顔向けできるような生活を送ることが、何よりも大切。もしそれが出来ない人がいれば、その人を救うのもまた神様のため」
私は薄らと笑みを湛える。メリザさんはにこりと笑った。
「少なくとも私は、神様に救われた。託宣人になったおかげで、私もお母さんも、路頭に迷わずに済んだわ。……その上、王太子もものに出来たし。ふふ、ラッキーね。いや、私が魅力溢れる人間だからかしら。うふふ」
それまで敬虔な表情で語っていたメリザさんは、ふいにあくどい笑みになって、それからごほんと咳払いと共に顔を改める。
「だ、だから私は、同じように誰かを救える人になりたいの。そのために求婚を受けたって訳よ。べ、別に、お金の為とかじゃないからね。セデロがどうしても私じゃなきゃ駄目って言うから、仕方なく……。いや、セデロの為って訳でもないわよ! 違うのよ!」
「私、何も言ってませんが……」
怒濤の勢いで自爆した。しばらく呻いていたメリザさんは、大げさに鼻を鳴らして姿勢を戻す。
「とにかく、先人からのありがたーいアドバイスだと思って聞き流して頂戴」
メリザさんはふと真剣な眼差しをして、私の左手を持ち上げる。
「あなたは、私とは比べものにならないくらい、神様と色々な関わり方をしている。それが重たく感じるときもあるでしょう」
その指先が腕輪を辿る。そこに刻まれた言葉を私は読めない。神様がこの腕輪を私に託した真意を、私は測りかねている。
「でもね、忘れないで。……いつかこの腕輪は外れるの、私の指輪と同じように。いつか必ず、この神託は終わるのよ」
メリザさんは優しい声で囁いた。
「明けない夜はないし、止まない雨もないし、萎れない花もなければ、崩れない塔もない。この世の全てに、終わりがあるの。……そしたらまた、新しい何かが始まるのよ」
私は思わず、腕輪のある手首をきつく握りしめた。ひんやりとしたその感触に、私はすっかり慣れてしまっている。
「その先にきっと答えがあるわ、アルカ」
この腕輪が外れるとき、私は一体、そこに何を見つけるのだろうか。メリザさんは立ち上がり、「そろそろ行かなきゃ」と微笑んだ。
「同じ春は二度とは来ないのよ」
そう言い置いて、メリザさんはきびきびとした足取りで歩き去った。
***
この腕輪が外れる日が来ることを、私は想像したことがなかった。指先でつんつんと腕輪をつつきながら、私は唇を尖らせる。
「殿下、これって、いつ外れるんですか?」
「ん? ああ……」
長椅子の上で仰向けになっていた殿下は、額に乗せていた手の甲をどかして私を見た。起こしちゃったかな、と首を竦めた私に、殿下は「構わないよ」と先手を打った。
「そうだね、託宣人というのは『王族が大人になるまでその側にある存在』程度しか明記されていないから。その任期の終わる条件というのは、はっきりしていない」
「……託宣人の制度って、基本的にガバガバですよね」
「失礼な。遊びがあると言ってよ」
殿下は体を起こして、肩を竦める。背もたれに体を預けると、顎に手を当てて唇を尖らせた。
「……正直、腕輪――通常は指輪だけれど――が外れるタイミングというのは、正確には分かっていないんだ。一般的には神託を受けた王族が成人する頃が主だけれど、それにしては少し揺らぎがある。事実、兄上の成人よりも前に姉上の指輪は外れた」
「あねうえ」
当然のように流された呼称に食いつくと、殿下は「うん」と頷いた。やっぱりそういうことらしい。
テーブルの向こうで、殿下が足を組む。
「法律上は十八才で成人だ。ただ、継承とかに関わる話としては、託宣人の体から神託の腕輪が離れた時点から、僕たちは大人であると認められる」
「ふーん」
知識として知ってはいたけれど、普段思っているよりも重要な代物である。手首を色々な方向から眺め回しながら、私は「なるほど」と呟く。殿下は腕を組んで斜め上を見上げた。
「だから、現時点で王位継承権があるのは兄君だけ、かな?」
「お、じゃあこの腕輪が外れたら、殿下、いっちょ王座狙いますか!?」
「やだ。柄じゃないもん」
さっぱりと切り捨てられ、私は掲げた拳を下ろした。私も王妃なんて嫌である。
「……もし、この腕輪が外れなかったら?」
縁起でもないことを言うな、と叱られてしまいそうだ。声を潜めた私に、殿下はあっけらかんと笑う。
「そしたら僕は永遠に半人前だね。別に良いんじゃないかな、きっと歴史に残るよ」
「私の名前まで歴史に残っちゃいます、嫌ですよ」
顔を引きつらせた私をしばらくにこにこと眺めて、それから殿下は手を伸ばして、手招きをするようにして手を差し出させた。私の左手を取ると、くるりと手首に指を回す。くすぐったさに首を竦めると、殿下は息を漏らして笑った。
「――僕たちが神託で神を垣間見るのは、たったの二度きりだ。一つは、神託でこの輪がどこかに出現するとき。もう一つは、この輪が外れるとき」
手首をすいと持ち上げ、音もなく身を屈めて、殿下は私の手首の内側に口づける。
「ヒッ!?」
「ははは」
反射で手を引っ込めた私に楽しげな笑いを浴びせかけてから、殿下は自らの膝に頬杖をついた。
「そこにどんな意味を見いだすかは、僕たちの勝手だ」
殿下は強い目をして私を見据える。私が握りしめている手首を指し、頬を吊り上げた。
「神殿がどう頑張ったって、君は神託で神に選ばれたんだよ。それは僕たちの持っている大きな切り札だ。現に、神殿はそのことに一切触れようとしない」
「……確かに」
息を飲んで顔を上げると、殿下はちょこんと片目を閉じてみせた。




