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「お待たせしました、殿下」
大司教が温和な微笑みでそう言い、部屋に入ってくる。その背後に付き従うおじさんたちは、恐らく神殿のお偉いさんなのだろう。
「いえ」と殿下は愛想の良い声で応じると、私に手招きする。テーブルを回り込んで殿下の方まで行くと、殿下は今まで自分が座っていた席の隣の椅子を引いた。
「アルカ」
ここに座れということなのだろう。私は戸惑いつつ、促されるがままに腰掛ける。
「どうぞ、お座りになって下さい」
殿下は今しがた入ってきた男性陣に、朗らかに声をかけた。重たげな動きでそれぞれ椅子に座った彼らは、息が整ってから、ゆったりと私たちを見る。殿下は口元に薄らと笑みを湛えたまま、自分で椅子を引いてさっさと腰掛けた。向かいの端に座っていた、最も若そうな男性が、ぴくりと頬を震わせたのが見えた。
「では、これから、託宣人の正式な認定へと移りましょう」
真向かいの大司教が穏やかに口火を切った。たっぷりとした袖を難なくさばきながら、背後に控えていた神官から書類を受け取り、私たちの側へ滑らせる。それを受け取り、殿下が書面に素早く目を走らせた。
「立会人は、こちらの面々にお願い致しました。いずれも、大神殿において司教の位を持つ、敬虔な信徒でございます」
大司教に示された左右の司教たちが、無言で頭を下げる。殿下は頷くことでそれに応じた。大司教は少しの間をおいてから、私を見やる。
「――アルカ様、少々お手を頂戴しても?」
大司教に丁寧な口調で語りかけられ、思わず私は体を硬くした。これは恐らく、左手のことだろう。流石の私も、ここでカマトトぶって右手を出すつもりはない。
おずおずと左腕を伸ばすと、下から掬い上げるように大司教が私の手を取った。手首できらめく金の輪をしばらく眺めると、そっと手をかざす。刻まれた文様を辿るように、その指先が腕輪に触れた。
……ややあって、大司教は満足げに頷く。
「ええ、間違いありませんね」
私の隣で、殿下が詰めていた息を吐くのが聞こえた。私も思わず肩の力を抜いて、頬を緩める。ぱらぱらと司教たちが拍手をする中、私は殿下と顔を見合わせた。殿下はにこりと私に微笑んでくれた。
大司教が、穏やかに私を見やる。
「真心から殿下を思い、良き道を殿下と共に探り歩いて行く、その覚悟はありますか」
その言葉に、私は神妙な表情で「はい」と頷いた。続いて大司教は殿下を振り返る。
「託宣人と、その託宣人を選びたもうた神を敬い、疑うことなく共に歩く心構えは、ありますか」
「……はい、」
殿下は一瞬の後にそう答え、頭を垂れた。……そうか、私は神に選ばれたのか、と、どこか人ごとのように、大司教の言葉を反芻する。私は選ばれた。――神、に。
人々が信じる神というものが一体何なのか、正直私はその正体を掴みかねている。幼少の頃からそういった文化に触れて育った訳じゃない。身に染みついた感覚とは言いがたかった。
「よろしい」と大司教は頷き、私たちの前に置かれた書類を指し示した。
「それでは、そちらの書類に、署名を頂いても?」
大司教に促され、私は目の前の書類を見下ろす。上部に並んだ難しい言葉は、咄嗟に理解できない。戸惑って口を半開きにした私の手を取って、殿下が「ここの欄だよ」と囁いた。
「ありがとうございます」
私はペンを持つと、殿下に言われたとおりの欄にたどたどしく名前を綴る。――アルカ・ティリ。
「良い名です」
大司教が、私の手元を見て呟いた。私は咄嗟に顔を上げ、大司教と目が合ってしまう。気まずくなって目を伏せた先に、私の名前が書いてあった。
「……殿下が、つけてくださった名なんです」
私は自分の名前を見つめて、俯きがちにそう漏らした。殿下が隣で「アルカ、」と咎めるように小さく呟く。私は余計なことを言ったと口をつぐんだ。
殿下が、伏し目がちに書類に目を落とし、慣れた調子でペンを走らせるのを、私はぼうっと見つめていた。署名を終えると、殿下は書類を回転させ、大司教に差し出す。
「アルカ・ティリとユリシス・トーレルロッド。――はい、確かに承りました」
大司教が、書類の最下部にサインを施して、くるりと書類を丸めた。長い髭の向こう側で、柔らかく微笑むのが見えたように思えた。
「――託宣人と共に歩む殿下の行く先に、幸あらんことを」
大司教はそう囁き、丸めた書類を傍らの司教に手渡す。それで、認定は終わりだった。
***
昼食を終えて、私たちは大神殿内の散策を許可された。真っ先に案内されたのは、高い天井の豪華な聖堂だった。細かな彫刻が施された柱をいくつも通り過ぎながら、私は感心して眉を上げる。
先導する神官の説明の通りなら、ここが大神殿で一番大きな部屋らしい。「広いですね」と隣の殿下に囁くと、殿下も壁や天井を見上げながら頷いた。
祭壇の前にたどり着くと、私は腕を組む。どうしても、祭壇と見ると以前やらかした悪ふざけを思い出してしまう。結局影響はなかったとはいえ、もし本当に神託に不具合が起きていたら大変だったろう。殿下の方を見やると、ばっちり目が合ったので、どうやら同じことを思い出しているらしかった。
「……肝に銘じます」
「うん、よろしくね」
鷹揚に頷いた殿下を心の中で拝みながら、私は長いため息をついた。
「ここって、どんなことに使う部屋なんですか?」
私が殿下を見ると、殿下は首を傾げて顎に手を当てる。
「神殿関係の大きな儀式とか、あとはまあ……王族の結婚式なんかでも」
ちら、と殿下が私を見ながらそう答えた。私は「なるほど」と頷き、ぐるりと聖堂を見渡す。
「……じゃあ殿下も、いずれここで?」
「恐らく、そういうことになるね」
殿下はじっと私を見上げながら頷いた。謎の視線の圧力にたじろいで、私は思わず後ずさる。
「すごく、楽しみですね」
私は殿下の結婚式の様子を思い浮かべながら呟いた。こんなに綺麗な聖堂で、成長した殿下が……。うわ、もしかして私、感動して泣いちゃうかもしれない。
「楽しみ? 結婚式が? 僕の……?」
殿下が愕然としたように漏らすので、私は力を込めて大きく頷く。
「はい! もし良ければ、末席で構いませんのでぜひ呼んでくださいね」
すっ、と、表情を消しながら、殿下は「そんなことだと思ったよ」と静かに呟いた。
「えと……ごめんなさい、厚かましかったでしょうか?」
目に見えてテンションの下がった殿下の顔を覗き込みながら、私は頬を掻く。確かに、考えてみれば、神聖な殿下の結婚式に、私みたいな孤児が呼ばれるなんて有り得るはずがないのだ。
殿下は真顔で「いや、」と首を振り、それから私ににこりと微笑みかけた。
「じゃあアルカは、結婚する予定はあるの?」
訊かれて、私は思わず「うーん」と真面目に唸って腕を組んでしまう。想像を試みてはみるが、いまいち思い浮かばない。
「誰かと一緒に生きるという感覚が、私にはよく分からないんですよね」
契約により、その先の人生において添う人間を固定する、というのは、果たしてどんな気分なのか。
「それなら、王家と託宣人の関係だって似たようなものじゃない?」
殿下がさらりと言いのけて、私を一瞥する。その言葉に、私ははっと息を飲んで手を打った。
「なるほど……!」
さすがは殿下だ。ご明察にもほどがある。感心して、私は数度その言葉を内心で繰り返した。ええと、要するに、だ。
「つまり、こう……私と殿下はもう結婚してるも同然ってことですね!」
拳を握って自分なりの納得を伝えると、殿下が絶句する。これまでずっと気配を消して、静かに背後で控えていた隊長が「それは違うと思うぞ」と口を挟んだ。
「ん? そうですね、確かに違いますね」
私も言われてみて、自分の解釈が見当違いだったことに気づく。「ごめんなさい殿下、変なことを言って」と頭を下げると、殿下は変に真っ赤な顔で、首を横に振った。
聖堂を出て、広々とした大神殿の中を散策する。廊下は幅があって塵一つない清潔さだし、外に面した外廊下は風が吹き抜けて気持ちいい。私にはいまいち分からないが、庭に植わっている花々の配置も、何だかお洒落に思えた。よく分かんないけど。
庭の外周を歩きながら、私は殿下に向かって微笑む。
「素敵なお庭ですねぇ」
先程から黙り込んだままの殿下に話しかけると、殿下は言葉少なに「そうだね」と返した。何だか元気がない。
「殿下、大丈夫ですか? 何だか頬もちょっと赤いですし、もしかして熱でも……」
「別に、全然大丈夫だってば」
殿下は私から目を逸らしたままそう答え、ふいと顔を背けて庭に視線を投げてしまう。何だか寂しい思いに駆られながら、眦を下げたところで、私は人の気配に体を強ばらせた。
向かいから歩いてくる男性には、どことなく見覚えがあった。つまりは、王家のイベントによく出席している、良い家柄の人ってことだ。仕立ての良い上着を翻しながら、大股で廊下を闊歩していたその人は、私たちに気づくと歩調を緩めた。
殿下も程なくしてその存在に気づき、「……コルテラ卿」と漏らす。呼ばれたコルテラ卿は、ぴくりと眉を上げると、殿下の前で立ち止まり、略式の礼をした。
「こんにちは、ユリシス殿下」
「まさか、このようなところでお目にかかれるとは思っていませんでしたよ、コルテラ卿」
殿下は僅かに固い声で言う。その頬はくいっと吊り上げられて、どことなく鋭さが見えた。
「大神殿で何をされていたので?」
「託宣人の認定でね」
殿下はちらと私を見ながら肩を竦める。殿下の視線を追い、コルテラ卿の目が私に向けられた。私は姿勢を正し、真面目な表情で軽く頭を下げる。
コルテラ卿はじっくりと私を眺め回すと、それから少し鼻から息を吐いた。その表情に、どことなく侮るような雰囲気が感じられ、私は顔に出さないまでも鼻白んだ。殿下も同じように感じたらしく、しかし殿下はあからさまに顔をしかめて首を傾げる。
「何か異論でもありそうな顔ですね」
コルテラ卿はわざとらしく両手を挙げ、「まさか」と首を竦めた。
「ただ……まあ、先のセデロ殿下のときも、託宣人が平民出の女ということで、少し疑問の声が上がりましたが、今度は身元も知れない近衛ということで、少し……面白いと思いましてね」
「何が言いたいのか分かりかねます」
殿下は苛立ちを分かりやすく出しながら、腰に片手を当てた。コルテラ卿は参ったなと言いたげに眉根を寄せる。
「別に、異論を唱える訳ではありませんよ」
コルテラ卿は、さも言いがかりをつけられた被害者のような顔をして首を振った。それから「ああいや、」とどこか遠くを見る。
「これは私の友人が言っていたことなのですが、まあ――――殿下の神託で不具合でも起きたんじゃないか、なんてね」
殿下が目を見開き、凍り付いたようにコルテラ卿を見据えた。ややあって、殿下が息を吸うのが見えて、私は咄嗟に一歩前に出る。
「……っコルテラ卿、貴殿は口を慎むということを知るべきだな」
堪えきれず、といった様子で、殿下が剣呑な声でそう告げた。私は殿下とコルテラ卿の間に入り、殿下を背にかばうようにして立ち塞がった。
「アルカ、どいて」
「いやです」
私は首を横に振り、コルテラ卿を真っ直ぐに見据える。本当ならここで何か一言、小粋な切り返しでもしたかったんだけれど、あいにく私はそこまで頭が良くなかった。
けれど、だからといってこのまま殿下をコルテラ卿の前に晒すのは躊躇われたのだ。
「――そうですね、殿下の言うとおりです」
不意に背後から声がして、私は呆気に取られて振り返る。大司教がゆったりとした歩調で歩いてきて、私の隣で止まった。
「コルテラ卿、あなたは口に気をつけた方が良さそうですね」と大司教はコルテラ卿に視線を差し向けながら、穏やかな口調で語る。
「あなたの今の発言は、神託への疑惑、つまりは神に対する疑問であり、ひいては異端と取られても仕方がありませんよ」
「い、異端だなんて、そんな! 私が敬虔な信徒であることは、大司教もご存知でしょう」
冷や汗をかきながら反駁したコルテラ卿に、「あなたが多くの寄進をしてくださっていることは知っています」と大司教は頷いた。
「けれど、寄進額にかかわらず、私は神殿の長として、異端を見逃すことは決してできないのです。ですから、発言にはようようお気をつけを」
言われたコルテラ卿は、数秒の間悔しげに歯噛みしていたが、すぐに一言二言漏らすと、早足でその場を歩き去る。それを見送って、大司教は苦笑交じりに呟いた。
「俗世に浸っていると、あのようになってしまうのですか……」
口調はあくまでも柔和なのに、どうしても私は大司教の様子に、言いようのない寒気を覚えずにはいられなかった。その正体はいまいち分からなかったが、私は訳もなく口をつぐみ、立ち尽くすことしかできなかった。
「大変申し訳ございませんでした」と大司教は私たちに向かって深々と頭を下げた。殿下は頷いてそれを受け入れる。
「異端というのは、いつの時代も常に律しておかねば、どこから生まれるか分からないものですね」
大司教は苦笑交じりにそう言った。
……理由は分からない。分からないが、何故だか私はそのとき、街に入るときに先輩が言っていた『排他的』という言葉を思い出していたのだ。