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翌日、室内警備に当てられていた私は、昨日のことをざっと報告しておく。殿下はしばらく反芻するように黙り込み、それから頷いた。
「そっか、ジャクトがそんなことを」
「はい。……しばらくジャクトに避けられていて、本格的に忌み嫌われたらどうしようと思っていたので、少し安心しました」
私が頬を掻くと、殿下はほっと息を吐いて、表情を緩めた。
「でも、それと同時に、どうしても、越えられないものを感じました」
「それで構わないよ。だってアルカとジャクトは別の人間だからね」
殿下は当然のようにさらりと告げる。その通りだと思った。別に私とジャクトの間に限らず、私と殿下の間にだって越えられないものは存在する。他の全ての人との間も同様だろう。
私が最近もやもやしているのは、それとはまた若干異なる方向のところにもあった。どうにも釈然とせず、私は腕組みをする。難しい顔の私に、殿下は促すように「ん?」と首を傾げた。私は一度唇を尖らせ、それから「ええと」と目を伏せる。
「……私は、自分が、ジゼ=イールの生まれであるという自覚がありません。あの街に取り立てて強い思い入れを持っている訳でもないし、記憶も、何一つない、です」
上手く言えないんですけど、と、私は口の中でもごもごと言葉を転がした。殿下はじっと私の言葉を待っている。
「私は、自分が『ソルニア・コルント』だった時期なんて、一瞬たりとも持ち合わせていないのに、私の中には厳然たる事実としてその存在があるんです。少なくとも、みんな、そんな風に私を扱う。それが、どうしても私、気持ち悪くて、」
ここ最近落ち込んでいる私の為に、色々と先輩方やジャクトが気を遣ってくれているのは分かっている。けれど、腫れ物を扱うみたいな態度は、地味に堪えた。
「私、自分が分からないんです。私は、生まれがジゼ=イールであるということが分かっただけで、変わるものじゃないのに。私は何も変わっていないのに、まるで何かが決定的に違ってしまったみたいです」
私は唇を噛んで俯く。私の中でも、周りの人たちの中でも、きっと、何かが変わってしまったように感じた。
「アルカは、アルカだよ」
殿下はしばらく黙った末、それだけ告げた。
「アルカ・ティリ。君の名前だ。……君が放棄しない限り、それが君の名前だ」
殿下は静かな目をしていた。私は唇を引き結び、浅く呼吸を繰り返しながら、その言葉を反芻した。
「私、殿下が私に名前を下さったときのことを、今でもしっかりと覚えていますよ」
「僕もだよ」と殿下は悪戯っぽく肩を竦めた。
――そういえば、僕、君の名前を考えたんだ、とユーリは言った。よく晴れた春の日のことだった。
「この国に伝わる古い言葉で、よくお祈りの言葉にも使われる言葉なんだ」
彼は空中に文字を書くように指先を滑らせながら、私の目を真っ直ぐに見上げた。
「アルカーチェリ。……前途あれ、と一般に訳される言葉だ」
駄目かな、と彼は照れたように首を竦める。私はぎこちなく首を横に振った。
「でも、そのままじゃあまりにも名前らしくないから、」
彼は私の両手を取って、にこりと笑う。その表情に魅入られるように視線を据えたまま、私は無言で頷いた。
「――アルカ。君の名前はアルカ・ティリだ。これまでに何があっても、この先に何があっても、どこまでも続いてゆく道を歩いて行けるように。……少なくとも僕は、君の行く先に道があることを祈りたいから、」
ユーリが、どこか面映ゆいような表情で、頬を紅潮させる。言葉を失ったままの私を見上げると、彼は僅かに不安げな色をその目に宿した。「駄目、かな」と少し恥ずかしそうに言って、そっと上目遣いで私の表情を窺う。
私は慌てて勢いよく首を横に振った。
「駄目じゃない、……ありません」
たどたどしく答えた私に、ユーリがほっとしたように息を吐く。
「アルカ」と彼が私の名前を呼んだ。……私は大きく息を吸って、頬を緩める。
「――はい、ユーリ」
応えると、彼は心底嬉しそうに破顔した。
「……。」
腕を組んで、過去の記憶に思いを馳せていた私に、殿下がどこか言い訳がましく呟く。
「……結構頑張って考えたんだよ、」
どうやら思い返していたところは同じらしい。何となく気恥ずかしさのようなものがあるらしく、ごほんとわざとらしい咳払い付きである。何だか可哀想になって、私は話題を変えようと視線をさまよわせた。
「ええと……殿下のお名前はどういう由来なんですか?」
「特に変わったものではないよ。昔の聖人の名前からかな」
一瞬で終わってしまった。私は沈黙する。
「まあ、あまり複雑に考えるものじゃないってことだよ」
その締め方はあんまりにも雑じゃないか? と私は思ったが、何も言わないでおいた。
***
いつの間にか季節は夏真っ盛りである。窓を全開にし、私は額の汗を手の甲で拭う。
「今日は特に暑い日ですねぇ」
私が情けない声で話しかけると、殿下も若干疲れたような調子で「うん」と頷いた。
「……もう少し風通しの良いところへ行こうか」
殿下は立ち上がって伸びをする。どうにも空気のこもる部屋は、確かに居心地が悪い。私も同意して、いそいそと部屋を出た。
「何だか今日はお城全体ががらんとしていますね」
「休暇中だからね。この時期は毎年そうだよ」
「言われてみれば、確かに……」
足音がいつもよりもよく響く。人がいないせいで、何だか城が広く感じた。
「ジャクトは、えーと、何とかの何とかに行くためにしばらくお休みですし、他にもそういう人は沢山いるんでしょうか」
「聖火の祝祭だね。王都からも行く人は大勢いると思うよ」
ひんやりした廊下を歩きながら、私はなるほどと頷く。そういえばそんな名前の祭りだった気がする。
「王都から聖都って、結構遠いですよね」
「うん。どれくらいだっけ、ええと」
「前に行ったときは確か、四日間くらいかかりましたね」
さして重要でもない会話を交わしながら、私たちは階段を下りて一階の渡り廊下に足を踏み入れる。そこで、ふと、殿下が足を止めた。
「懐かしいね。……あのとき、暗殺騒ぎがあったんだっけ」
その言葉に、私は息を飲む。あれは確か、今から三年ほど前のことだった。
「託宣人の認定の帰りでしたね」
軽く左手を挙げて、そこに嵌まっている金の腕輪を示すと、殿下は無言で頷く。私はやや表情を改めて目を伏せた。――ふわりと、どこか遠くで甘い香りが漂った気がした。
「あの人、死罪になったんでしたっけ」
「そうだね。こちらの司法の介入する隙もなかった」
殿下は抑えたような声で呟き、僅かなため息をつく。
「あそこの東屋まで行こうか」と殿下が腕を持ち上げかけたところで、小気味よい足音と共に快活な声が響いた。
「こんにちは、ユリシス殿下、アルカ」
「エアノルアさん!」
渡り廊下の向こうからすたすたと歩いてきたエアノルアさんは、私の呼びかけににこりと笑うことで応える。殿下は眉を上げた。
「エアノルア殿下。お久しぶりですね。……お変わりありませんか?」
「ありがとうございます。私は相も変わらず元気ですよ。キルディエの夏はヴィゼリーに比べて少し暑いですね」
ぱたぱたと手で顔を扇ぐような仕草をしながら、エアノルアさんが屈託なく笑った。殿下も「そうですか」と苦笑気味だ。
「そろそろヴィゼリーに帰らなければいけない時期が近づいていましてね。こんな短期間でどうにかなるとは端から思ってはいませんでしたが、特に何の成果も上げられずに帰還ということになりそうです」
エアノルアさんは手のひらをこちらに向け、肩を竦める。よく飲み込めずに瞬きを繰り返す私をよそに、殿下は「寂しくなりますね」と返事をした。エアノルアさんはその言葉を疑うように一瞬含みのある目をしたが、すぐにそれを隠して一歩進み出る。
「そうだ、以前お会いしたときに、言おうと思って忘れていたことがあるんです」
そう言って、エアノルアさんは問答無用で殿下の手を取った。殿下がぎょっとしたように身を引く。それでも殿下の手を放さず、エアノルアさんは低い声で囁いた。
「お友達になりましょう、ユリシス殿下。……これはあくまで個人的な親交です」
呆気に取られていた殿下の表情が引き締まる。ものすごい勢いで頭を巡らせているのが、手に取るように分かった。……しばらくして、殿下がぎこちなく笑う。
「そんなに僕は与しやすそうに見えますか」
「いいや? 逆に、これほど引き入れにくそうな人はなかなかないくらいですよ」
蚊帳の外、である。木漏れ日の射し込む渡り廊下で、殿下とエアノルアさんが笑いながらにらみ合っているのを、私は呆然と眺める。ひっそりと気配を消して佇んでいた、エアノルアさんの護衛らしき人に目をやると、詫びるように黙礼された。
「ただ、私は純粋な好意に基づいて、貴方を支えたいと思っているに過ぎません」
エアノルアさんはじっとりと囁く。外を流れる爽やかな風とはまるで対照的な声だった。
「はは、……悪趣味ですね」と殿下が乾いた笑いを漏らす。
「有事の際を手ぐすね引いて待っている、と?」
「まさか。人聞きの悪いことを言わないでください。私はただ、『いざというとき』、殿下のお力になりたいだけですよ」
エアノルアさんが、ふふ、と首を竦めて可愛らしく笑った。殿下は目を逸らさないまま口角をつり上げる。
「……どうです? 私は本当に殿下と仲良くなりたいだけです。お友達になりませんか」
一度手を放して、エアノルアさんは握手を求めるように手を差し出した。殿下は唇を引き結んで、思惑を探るようにじっとその目の奥を睨み据える。エアノルアさんは殿下の厳しい表情をものともせず、薄らと微笑んだままだ。
「前にも言いましたね。――外堀埋めて攻め入らず。ヴィゼリーに伝わることわざです」
エアノルアさんの目が、やや挑発めいた弧を描く。殿下が頬を引きつらせた。
「誕生日に合わせて、良い報告をしたくはありませんか?」
「……随分と性急に背中を押すのですね」
そんな会話を尻目に、私は護衛の人に近づき、口元を手で隠してそっと囁く。
「そのぉ……エアノルアさんって、いつもこうなんですか?」
「…………まあ、大体そうですね」
非常に渋い顔である。どうやら普段から苦労されているらしい。同業者として、何だか人ごとではない。思わず胸の前で手を合わせて拝むと、彼は重々しく頭を下げた。
結局あの会話が何だったのか、途中からろくに聞いていなかったので把握していないが、何だか最近、殿下は忙しそうだ。
「でーんか」
夜に殿下の部屋に顔を出すと、殿下は机に突っ伏して寝ていた。机の上には何やら書きかけの手紙のようなものが置いてあり、どこか格式張った表現がちらりと見えた。誰か格上の人への手紙だろう。
そういう重要書類はあまり見ないようにして、さっと紙をまとめて机の端に寄せる。それから、その肩に手を置いて、私は穏やかな調子で声をかけた。
「殿下、……こんなところで寝てたら、明日の朝、」
殿下が僅かに身じろぎし、口から「ん、」と小さな声を漏らすので、堪えきれず私は息だけで苦笑した。
「……明日の朝、体がバッキバキになって腰が完全に硬直してしまって、全身ガチガチ、顔には髪の跡、目覚めは最悪だし体は動かないしで、起き上がるのも難儀になりますよ」
殿下は半開きの目のまま顔を引きつらせる。
「……やたら細かいね、……もしかして、経験、済み……?」
「ご名答です。早くベッドに移動してください」
私は頷いて、殿下の肩を叩いた。殿下は緩慢な動きで体を起こすと、机に手をついて腰を浮かせる。疲れた様子で髪をかき混ぜる殿下の背を支えて歩きながら、私は眉をひそめる。
「殿下。最近、何だか忙しそうですね。……何かあるんですか?」
そう声をかけると、殿下は肩越しに振り返って、唇の前に人差し指を立てて笑った。その悪戯っぽい表情に、私は首を傾げる。
「……秘密、かな」
そんなことを囁いて、殿下はゆったりと目を細め、とろかすような微笑みを私に向けた。何やら含みを持たせた言葉のようだが、一切ぴんと来るものがない。全力で疑問符を浮かべてしまった私に向き直り、殿下は柔らかく、しかししっかりした声で告げる。
「もう帰りな、アルカ」
殿下は寝室に繋がる扉に手をかけたまま、私を見下ろした。
「殿下、」
私は返す言葉を見つけられず、呆然と呟く。
「……私に、言えないこと、なんですか?」
「うん」
素早い返事だった。迷いのない表情に、何だかざわざわする。私は胸元で十指を突き合わせながら、おずおずと殿下を窺った。
「それって何か、危険なこととか、」
「違うよ。大丈夫」と殿下は苦笑した。私は眦を下げたまま、渋々頷いた。
「おやすみ、アルカ」
「おやすみなさい」
静かに暇乞いをして、私は自室へ戻った。




