6
何だか懐かしい夢を見た気がする、と思いながら、私は目を覚ました。
今日も天気が良くて何よりである。城の外周を走り終え、私は両手を腰に当てて歩きながら、ゆっくりと息を整えた。城の裏庭に隣接されている訓練場に行くために、庭園を堂々と突っ切っていると、ふと昔のことを思い出す。少し首を巡らせて見回すと、見覚えのある窓が目に入った。
「……まあ、そりゃ撤去されてるか」
前は結構な割合で窓際に植木鉢が吊り下げられていたけれど、どうやら一階の窓を除いて全部撤去されたらしい。あの植木鉢、案外好きだったんだけどなぁ、と思いつつ、私は落ち着いた歩調で庭園を横切った。
「あ、こんにちは隊長」
訓練場の隅でベンチに座っていた隊長に軽く会釈をすると、隊長は片手を挙げることで応えた。
「そういえば、あそこの窓って植木鉢撤去されたんですね」と庭園沿いの城壁を指さす。隊長は「だいぶ前にな」と肩を竦めた。何となくしみじみした気分になって、私は腕を組んで庭園を眺める。
「……思えば、あれがきっかけでしたもんね」
「何がだ? ……ああ、そうか」
一旦首を捻ったものの、すぐに察したらしい隊長が頷いた。
「あのままお前を侍女にしなくて良かった」
やけに重みのある口調だと思ったら、隊長は真剣そのものの表情で付言した。
「もしそうしていたら、今までにどれほどの損害が出ていたか分からない」
「し、失礼な……」
あまり強く言えないのは、私が割った皿の数々が脳裏に蘇るからである。
先程のは一応冗談だったらしい。冗談を言うなら、もう少しそれにふさわしい表情で言ってもらいたいものである。更にもう一段階表情を厳しくして、隊長は回顧するように口を開く。
「侍女に向いていないし、体が利くからといって護衛官の道に放り込んだは良いものの、しばらくの間、俺は自分の判断が正しかったのかずっと悩んでいてな。……まあ、やっぱりこういう戦闘職ってのは、それほど女性が好き好んで選ぶ職業とは言いがたいだろう。大変な職種だし、危険は伴うし、……そんな道に、何も分かっていない少女を引きずり込んで良いものかと思ったんだが、」
「へへ、私は全然大丈夫でしたよ!」
「本人がこれだからな……」
安心させてやろうと笑顔で親指を立ててあげたのに、隊長は何故か沈痛な面持ちで額を押さえてしまった。
「見習いと一緒に訓練に入れた当初、周りの見習いたちがなかなか受け入れる様子がなくて、毎日どうしようかと胃を痛めていたが、」
「ああいや、それほど心配しなくても大丈夫でしたよ。コネだとか裏口とか言われるのは別に良かったんですけど、だんだん殿下のことも悪く言い始めたので、全員ぶちのめしておきましたから」
ぐっと拳を握って胸を張ると、「どうしてそれで俺が安心すると思ったんだ?」と隊長は本気で不可解そうな顔をして私を数秒間眺めた。私は首を傾げる。
「……あれ? 安心しませんでした?」
「胃痛が増した」
どこかげっそりした表情で隊長が息をついたので、私はそっと両手を合わせておいた。
しばらく何やかんやと訓練を行い、体が温まったところで、隊長が「アルカ・ティリ」と私を呼び止める。振り返ると、隊長の背後で居心地悪そうにジャクトが立っていた。そんな態度を取られてしまうと、何だか私も気まずいというものである。
「模擬戦だ」と隊長が私に向かって練習用の剣を放り投げた。それを両手でキャッチし、私は「模擬戦って……」と眉をひそめる。
「ジャクトと、ですか」
私がジャクトをちらと窺うと、隊長は当然だと言わんばかりに頷いた。ジャクトはどこか思い詰めたような表情で私をじっと見つめている。
……ジャクトの視線が私に向くのは、いやに久しぶりのような気がした。その視線を受け止めて、私はにへらと曖昧な笑みで返した。
練習用の剣とはいえ、ただ単に刃を潰しただけの代物である。思い切り叩きつければ骨も折れるし、渾身の力で頭を殴れば普通に鈍器だ。訓練であまり頻繁に使うことはない。
柄を握り、私は重心を探るように数度手の中で転がす。普段私が提げているものと大差なさそうなものだった。恐らくこれを選んだのは隊長だろう。
ある程度の距離を取って、両手で柄を握った私は、ジャクトをじっと眺める。
「ジャクト、良い?」
「……はい」
ジャクトは頷く。心ここにあらずという感じだ。一度は構えた剣を、私は一旦下ろした。
「ジャクト、これは訓練だ。甘えないで」
厳しめの声を作ってそう呼びかけると、ジャクトは目を見開いて私を凝視した。その視線を真っ向から迎え入れて、私は再び剣先をジャクトに向ける。
「アルカ先輩、おれ、……」
「話は後で聞くよ。終わったら一緒にお昼ごはんを食べよう」
何か言いかけたジャクトの言葉を制して、私は肩を竦めて笑った。ジャクトがふっと息を漏らして頬を緩める。
「……良い?」
「はい」
ジャクトが頷いた瞬間、私はその剣先に自らの剣を触れさせた。
……そういえば、最近はこうした実践形式の訓練は、とんとご無沙汰だった――。
剣先に集中する意識の、一枚薄皮の上で、私はそんなことを考えていた。平らにならされた地面の上に足を運び、私は右手を柄から放して、左手だけで強くジャクトの剣を払いのけた。間髪入れずに距離を詰め、両手で柄を握ると、剣を掬うようにしながら捻ってやる。
ただ単に手首の可動域の話である。注意すれば簡単に避けられるはずだし、第一、私とジャクトの単純な力の差で言えば、無理矢理跳ね返すことが出来ないはずもなかった。
剣を取り落とし、それを拾おうと屈んだジャクトに対して、私は抑えた声で告げる。
「……ジャクト、ふざけないで」
ジャクトの背が明らかに強ばった。私は促すように剣を地面に突き立て、「立って」と声をかける。ジャクトはのろのろと立ち上がった。
打ちかかってきたジャクトの剣を両手で受け止め、体をずらして受け流す。止まれず大きく一歩出たジャクトのうなじに剣の腹を当ててやれば、彼はあっさり剣を下ろした。
再び剣を構えるように言い、しばらく剣を受け止めてみるが、どうにも手応えがない。軽く押し返せばすぐに体勢を崩す。
そんなことが数度続き、私は「もういい」と首を横に振った。ジャクトの剣はあまりに精彩を欠いていた。
私は剣を下ろしながら、ジャクトに歩み寄る。
「……誰とやっても、こうなの?」
「今、アルカ先輩と打ち合ったのが、一番だめだめです」
項垂れたジャクトの背を叩いて、私はため息をついた。こういうことか、と隊長に視線を向けると、途方に暮れたと言わんばかりに肩を竦められた。
重苦しい表情のジャクトに、私はそっと告げる。
「……ごめんね。私のせいで、動揺させたね」
「っアルカ先輩のせいじゃありません! それは……そのことは、分かっているんですが、」
勢いよく反駁するも、またすぐに弱々しげに眦を下げてしまう。私は緩く微笑んだまま数度頷き、再びその背を叩いた。
「よし、じゃあ昼食行くか」
隊長が手を打ち合わせて声をかけた。私は明るい表情を作って「はい」と頷いて、ジャクトの腕を引く。
「私と一緒に食事するのは、嫌じゃない?」
確認すると、ジャクトは苦笑しながら首を横に振った。
今日は奮発するらしい。食堂メニューの中でも少々お高めの定食をもりもりと頬張るジャクトを眺めながら、私は勢いよくパンを千切った。
「……ジャクトは、やっぱり、受け入れにくい?」
一応窓際の人気の少ない席とはいえ、何となく話題が話題なので、私は声を潜める。ジャクトはごくんと口の中のものを飲み込むと、しばらく黙って考えこんだ。
ややあって、ジャクトは躊躇いがちに口を開く。
「頭では、分かっているんですが、……おれにはどうしても、神様を愛さずに生きる人生というものが、分からないんです。だから、そうせずに生きる人のことが、どうしても想像できなくて、――恐ろしささえ感じます」
余計なことを言う必要は何もない。黙って頷いた私に、隊長が一瞬視線を向けた。
「おれの根幹にある、最も大切なものを共有していない人のことが、おれは、……理解できない」
重々しく呟いた言葉に、私は思わず目を伏せた。例えるなら、それはきっと、自分とは異なる常識を持った人間に対する忌避感と似たものだろう。――それに、神殿はずっと、そのような人間を、罪人と定めてきた。
まあ、仕方がないのかなぁ、と私はため息をつく。ジャクトの困惑はきっと、私の神への不理解ときっと繋がるものがある。
「……異端は、この国を揺るがす可能性のある大罪です。おれのその意見は、変わらない、ですが」
ジャクトは私を見た。どこか縋るような目をしていた。
「――ただ『その地』で生まれたからという理由で、おれはアルカ先輩をその罪には問えません」
真摯な言葉だった。私には眩しいほどに、私への信頼に満ちた言葉だ。私はやっとの思いで「ありがとう、」とだけ呟いた。
「頭ではそう分かっていても、でも、どうにもなかなか飲み込めなくて」とジャクトは自嘲するように頭を掻く。私は「ううん」と首を横に振った。
「そう思って貰えているだけでも嬉しいよ。……気持ちの整理は、ゆっくりつけて欲しい」
私が言うと、ジャクトは静かに頷く。
「ありがとうございます、アルカ先輩」とジャクトは、それまでより表情を明るくして、私に向かって笑いかけた。私は「うん」と頷くと、その背を強めに叩いた。




