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見るな触るな近づくな、と周囲を警戒し威嚇する私に、ユーリは懲りずに毎日話しかけてきた。話すのはいつもとりとめのないことばかりで、やれ庭の花が咲いただの、少し珍しい小鳥が部屋の近くに巣を作っただの、兄が階段を踏み外しただのと、わざわざ訪ねてきてまで言わなくてもいいことを、心底楽しそうに話しに来るのである。
「それでね、今日はその子犬を見に行くんだけど、」
にこにこと手で子犬の大きさを示しながら、ユーリは私を見た。
「……どうかな。一緒に、外に出てみない?」
ユーリはおずおずと私を窺った。私は唇を噛んで俯く。
どうやら食べ物にも水にも、変なものは入っていないようだった。こうも毎日せっせと通い詰められて、嬉しそうにしている様子からしても、ユーリ自体には私への悪意がないことも分かっている。……けれど。
この部屋から外に出れば、どんな目に遭うか分からない。ユーリは私に対して決して蔑みの目を向けようとはしないが、大抵の人が私みたいな人間に向ける視線がどんなものかなんて、これまでの生活で十分痛感していた。
私を馬車から引きずり出して、嘲笑しながらその場を去った御者を思い出す。道端でうずくまる私に一瞬だけ視線を向けて、見なかったように足を速める人々の目を、私は忘れられない。
なあノロマ、と、ノッポのかすれた声が脳裏に蘇る。
俺たちを救ってくれる奴なんて、どこにもいやしないんだぜ。
代償なしに救ってくれるものなど、どこにも存在しないのだ。そのうち何かを求められるのだろうか、と、私は最近になって危惧していた。金を請求されても、私にはどうしようもないし、私には取り立てて出来ることもない。殺されるのか、とも思ったけれど、どうせ消す人間をこんなに手厚く世話なんてしないはずだ。
得体の知れない恐怖だった。餓えにも乾きにも悩まされなくなった次に浮かぶ、贅沢な恐怖なのかもしれない。……私はこれ以上、傷つきたくない。
「ねえ、子犬を見に行こうよ。庭師のニト爺が拾った白い子犬なんだって」
ユーリはもう一度言った。辛抱強く、待つように、じっと私の目を見つめて。
私は、ぎゅっと体を縮めた。どうしてユーリがこうも私を外に出したいのか分からない。けれどその目は常に真っ直ぐに私を射貫いていた。
私は恐る恐る、手を伸ばした。いつしか私の体は、ふわりと華やかな香りがするようになっていた。もう、血の匂いも、土の匂いもしない、私の左手。どうしたってユーリみたいに柔らかくて滑らかな手のひらにはならないけれど、そんなの構わない。
「行こう、」
ユーリは私の手を取った。温かくて柔らかい、小さな手だった。――違う、と心のどこかで声がする。もっとひんやりと硬い、大きな手のひらを、私は知っている。忘れられない苦みが喉の奥にこみ上げたけれど、私はそれを無理矢理飲み下した。
「――君は必ず幸せになれる。絶対にね。僕が言うんだから本当のことだよ」
何の根拠もない言葉だった。馬鹿じゃないのか、と唾棄しても良いような、半ば傲慢とも取れる言葉だ。
でも、私は、抗いようもなくその言葉にしがみついた。あまりに輝かしい言葉に、私は為す術もなかった。
「だから前を向こう。大丈夫、僕が一緒だよ」
床に座り込んだまま、私はユーリの手をぎゅっと掴んだ。彼は悠然と目を細めた。
そうして導かれるがままに歩み出た世界は、私の知るそれとはまるで違っていた。見たこともないような巨大な建物は、まるで、物語の中だけで聞いたことのある、『お城』みたいだった。庭の中心で水を噴き上げる大きな噴水は、もはや私の理解を超えていた。太陽の光を跳ね返して飛び散る水しぶきの一つ一つに、目が取られて仕方ない。
「ほら、これが、ニト爺の拾った子犬だよ。シェスって名前なんだって」
ユーリが腕に白い子犬を抱いて笑う。両手で支えられてしまうような、小さな白い塊が、もぞもぞと動いていた。
「ほら、抱いてみて」と、手渡された子犬に、私は慌てふためく。……小さくて温かい、こんな生き物が生きていけるのか。今にも死んでしまうのではないかとおののく私に、ユーリは無邪気な笑顔を向けた。
「かわいいでしょ」
ユーリが私の手の中で丸まっている子犬の額を撫でた。子犬はくぅんと甘えるような声を上げて、ユーリの指先を舐める。
まるで意味が分からなかった。目の当たりにした光景は、あまりに現実離れしていた。夢にすら見たこともないような、輝かしい世界だ。
「シェスは、大人しいでしょう」
これが、庭師のニト爺とやらなのだろう。穏やかな声で話しかけられ、私は言葉に詰まった。……この人は、私に話しかけているのか?
「晴れてて良かったね」と空を仰いで、ユーリが私に向かって笑いかけた。
体が震えた。胸の底が揺らぐ。何と言って良いのか分からない。けれど、自分が今、想像もしたことがないような幸福に包まれていることは分かっていた。
「ね、一緒に歩こうよ」
ユーリは私の左手を両手で取って、目元を和らげて微笑む。
「見せたいものがたくさんあるんだ。綺麗なものとか、面白いものとか、ちょっと不思議なものとか、いっぱいあるんだよ」
手を引かれる。振り払おうと思えば簡単にそうできる小さな手なのに、どうしてか抗えない。
「どうしたの? 泣いてるの?」
ユーリの怪訝そうな声に、私はただ俯いて首を横に振るしか出来なかった。
私の手を取ったまま、ユーリは私を見上げて笑う。
「そういえば、僕、君の名前を考えたんだ――――」
*
そうして『アルカ』となった私は、ユーリに半ば連れ出されるようにして、外へ出るようになった。自然と、徐々に周りが見えてくるようになるというものである。分かったことは沢山あった。
ここは王都のお城で、私以外の人はみんな、ユーリのことを『殿下』と呼ぶということ。お城にいる『殿下』は、偉い人だってこと。
ここにいる人たちはみんな余裕があって、私に優しくしてくれるか、あるいは決して暴力を振るったりなんてしないことも、だんだんと分かってきた。ユーリといつも一緒にいるあの大きな男の人は、みんなから『隊長』と呼ばれていて、怖い顔をしているけれど、私が道に迷うといつも、どこからともなく現れること。文字が読めないで困っていると、いつも聞こえよがしにそれを読み上げることも気づいている。
――気がついたら、もうすぐ一年が経っていた。
私以外のみんながユーリのことを殿下と呼ぶので、何となく、他の人とユーリの話をするときは、彼のことを殿下と呼ぶようになった。別に意味はないけれど、その方が、私が混乱しないで済んだ。
先生、と呼ばれている女の人が、殿下に何か難しそうなことを説明する片手間に、文字の読み方について教えてくれた。隊長もときどき綴りについて教えてくれる。地図に書いてある文字が読めるようになったので、城の中で迷うことがなくなった。
前にいた場所に帰りたいか、と隊長に聞かれたので、絶対に嫌だと答えた。……もうあの街に、私の居場所なんてない。ここにいたいか、と聞かれて、私は躊躇いがちに頷いた。隊長は怖いけれど、こういうことで私を咎める人じゃないのは、もう、分かっている。
私はひょっとしたら『侍女』というものになるかもしれないらしく、他の人に交じって洗濯物を取り込んだりする作業をすることもあったが、あまりこれは得意でなかった。どちらかと言うと、取り込んだ洗濯物を畳むのが苦手だった。と、言うよりは、丁寧で細かい作業全般が、どうも慣れなくて駄目だったのだ。
「どうも、侍女はあまり向いていないようです」
「そっか……。うーん」
隊長と殿下が悩ましげに話し合っているのを尻目に、私は絵本に出てきた知らない単語相手に奮闘していた。殿下が『知らない単語があってもその先まで読んでみて推測するのも一つの手だよ』だなんて言っていたからである。綴りからして読み方は何となく想像がつくものの、いまいちピンとこない。
「まあ、取りあえずは、様子見ですね」
「そうだね」
私を見ながら、殿下が腕組みをして難しい顔をしていた。
自分の置かれている状況が、どこかぼんやりとして掴めないままでいた、そんなある日のことだった。私が、干し終えた真っ白なシーツ相手に格闘している視界の隅で、殿下が兄君と一緒に庭を散策しているのを見つけて、私はふと手を止める。
……殿下の兄君は、初め、私に近寄ろうともしなかった。怪しい奴め、とでも言わんばかりの胡乱げな視線を覚えている。とはいえ、少ししたら慣れたのか、何だかんだと悪態混じりに話しかけてくれるようになったので、それほど気にしてはいない。
殿下は壁際の花壇の側にしゃがみ込んで、兄君はその数歩後ろで、背中で手を組んで立っている。何やら話をしているらしく、どちらも表情は穏やかだった。風が殿下の髪を揺らしているのが、遠目でも分かった。
手を振ろうかな、とも思ったけれど、流石に一年もお城にいれば、本来は殿下がどれほど偉い人なのかも分かってくるというものである。
「……殿下は、王子様、なんだよね」
この間、辞書を引いて知ったことだった。なるほど、それは確かに偉い人だ、と、どうにも現実味が湧かないまま、私はその事実を反芻した。
「どうして、そんな人が、私を拾ってくれたんだろう、」
風が少し収まった隙を見計らって、私はシーツを軽く畳んで籠に入れる。そのまま次のシーツに手を伸ばした矢先のことだった。
――殿下の頭上で、窓枠にぶら下げられていた植木鉢が大きく揺れた。……揺れて、あともう少しで落ちるところまで傾いた。
ざっと血の気が引く。考えるよりも先に走り出していた。
「っ殿下!」
叫んで、私は低い生け垣を飛び越え、花壇の縁を蹴って花の上を横切りながら、手を伸ばす。
「え?」と殿下と兄君の両方が同時に振り返った。そっちじゃない、と口走るのを何とか堪えて、私は大きく息を吸う。
「ユーリ、上!」
私の大声に、それまで何が起きているのかとざわつくだけだった庭園に、一気に悲鳴が響いた。ユーリは一瞬きょとんとしたように私を見て瞬きをし、それから頭上を仰ぐ。
……その瞬間、植木鉢が、フックから外れた。
柔らかい地面を爪先で抉りながら、私は息も出来ずに庭園を駆け抜けた。兄君を片手で押しのける。両手を伸ばし、ユーリの肩を突き飛ばすようにして土の上に頭から倒れ込んだ。しゃがんで膝を抱えていたユーリは、ころりと地面に転がっていった。
その一呼吸あと、私は来たる衝撃に備えて頭を抱える。……しかし、いつまで経っても植木鉢は落ちてこない。恐る恐る目を開けて上を見ると、植木鉢を両手で掴んだ隊長が、肩で息をしているところだった。
「……なるほど、こっちに適性があったか」
呟いて、隊長は大きくため息をつく。手を差し出されたので、いつもなら躊躇うところを、つい手を乗せてしまった。強い力で引き上げられ、私は半ば飛び上がるようにしながら立ち上がる。
隊長がいやに険しい顔をしているので、すわ説教かと首を縮めてしまった。隊長はしばらくの間、大層な仏頂面で私を見下ろしていたかと思うと、それからとてつもなく長い息を吐いた。
「……よくやった」
大きな手が頭に乗せられ、初めての感触に私は呆気に取られて隊長を見上げる。
「あの、」
私が戸惑いを露わに俯くと、隊長は「何だ」と首を傾げた。
「……説教じゃ、ないんですか?」
「何か説教されるような心当たりでもあるのか」
「な、ないです!」
慌てて首を横に振ると、隊長は「なら良い」と鼻を鳴らす。
「……よく気づいたね、アルカ」と殿下が立ち上がりながら、呆然と呟いた。私は今更になって、自分が相当な注目を集めていることに気づく。きゅっと体を縮めながら、「いや、」と口ごもる。
「……だって、私、いつも、……ユ、殿下のこと、見てます、から、」
目を伏せつつ、つっかえつっかえそう呟くと、殿下は一瞬黙った。それからゆっくりと私に背を向ける。
「……殿下?」
「そっとしておいて差し上げろ。処理中だ」
顔を覗き込もうとした私の肩をガッと掴んで、隊長が静かな声で告げた。
「……お前、よくも僕のことを突き飛ばしてくれたな」
背後から立ちのぼってきた、恨みの籠もった兄君の声にびくりと肩を跳ねさせる。直後、殿下がくるりと振り返り、兄君を睨みつけた。
「非常時の咄嗟の行動を咎めるのは、人の上に立つ者としてふさわしい行為とは思えません」
「うっ」
びしりと正面から指さされ、兄君はたじろいだ。しかしすぐさま拳を握って反駁する。
「そ、そういうお前だって! 兄を指さすなんて、失礼だぞ!」
「あ、ごめんなさい」
人差し指を引っ込めながら、殿下は小さく舌を出した。




