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「エアノルアさん、……様!」
お城の玄関で追いついた私は、エアノルアさんに声をかけた。くるりと振り返ったエアノルアさんは、悠然と笑ってみせる。
「贈り物は、つけて貰えなかったみたいだね」
とんとん、と頭を指したエアノルアさんの言葉に、「今日は仕事ですから……」と私は一旦答えてから、「そうじゃなくって!」と拳を握った。
「……え、エアノルアさ、さまって、」
「『さん』で構わないよ。ヴィゼリーでは『さん』みたいな軽い敬称にあたる言葉がないから、少し変な感じがするけれど。アルカとしても、私を呼び捨てにするのは流石に抵抗があるだろう?」
「……お心遣い、感謝した方が良いですか?」
「したいのならね」
エアノルアさんはじろりと向けた私の視線もものともせず、ひょいと肩を竦めてみせる。悪びれる様子のない態度に、何だか毒気が抜かれて、私は長いため息と共に脱力した。
「……エアノルアさん、王女様、だったんですね」
「ああ、いかにも」
どこか不遜ささえも漂わせる笑みは、何となく、兄君や殿下を彷彿とさせた。人の上に立つことを前提として生きてきた人間の微笑みだった。……私、こういう表情に弱いんだよなぁ。
「アルカ、いきなり走り出して一体どうし」
階段を下りてきた殿下が、私の前に立っているエアノルアさんに目を留め、口をつぐむ。落ち着いた足取りで残りの数段を下りると、殿下は胸に手を当てて略式の礼をした。エアノルアさんはそれを受けて、片足を引いて一瞬屈むような仕草をみせた。これが要するに、ヴィゼリーでの簡単な礼ってことだろう。
「言葉を交わすのは初めてですね、ユリシス殿下」
「認識して頂けて嬉しい限りです」
殿下はにこりと綺麗な笑みで、あからさまに私の前に体を割り込ませた。私は思わず一歩下がる。それを見て、エアノルアさんが突如、声を上げて笑った。
「……何か?」
「はは、いや、ウルティカの言っていた通りだと思って、つい。失礼しました」
エアノルアさんは飄々とした態度で肩を竦めると、人差し指を立てる。
「母国に婚約者のいる身として言わせて頂くが、ユリシス殿下、貴方は少し慎重になりすぎというものだと思いますよ」
「……仰る意味が、よく」
しれっと首を傾げた殿下に、エアノルアさんは表情をさして変えないまま、早口に何かを告げた。――え? 何だって?
私が聞き取れなかったエアノルアさんの言葉を、しかし殿下はしっかりと理解したようだった。その口元が一瞬ぴくりと引きつる。
「それを僕に言って、どうなさるおつもりで?」
「いいや、何も? 私は楽しいことが好きな質でしてね、……よく護衛騎士にも叱られてしまうのですが、そういう性質の人間なのだから、仕方がないでしょう」
腰に片手を当てて、エアノルアさんは肩を揺らして笑った。彼女の背後で、これまで一切存在感を出さずに佇んでいた大柄の男性が、深いため息をついて額を押さえる。
ふと、エアノルアさんが低い息混じりの声になって告げた。
「――それに、私は、ユリシス殿下に早く身を固めて欲しいのですよ」
「内政干渉は御法度ですよ」
「まさか! これは私個人の意見でしかありやしません」
どうにも言っている内容がよく飲み込めないが、要するにエアノルアさんは殿下に早く結婚して欲しいらしい。ふーん……。
「どうにもキルディエは排他的でやりづらいのです。これで殿下までもそちらへ転んでしまっては、本格的に二国間の繋がりは保ちづらくなります」
「そちらにとって不都合な政略結婚の可能性を断ちたい、と?」
「我が国から適任と思われる者を連れてきても構わないのですが、……殿下には既にお相手がいる、とウルティカに叱られまして」
ちらりとエアノルアさんの視線がこちらを向いた。どういうことですか、と殿下を見ると、殿下は難しい顔のままふいと私から目を逸らす。
「…………!?」
密かにショックを受ける私をよそに、殿下はエアノルアさんに視線を据えた。
「助言はありがたいですが。……僕の進退に関しては、両親や議会、それに、僕自身が決めることですので」
僅かに硬質になった声音に、私は思わず首を竦めたが、エアノルアさんは小さく声を上げて笑っただけだった。
殿下が何かを早口に言う。それを全く聞き取れず、私は眉をひそめて唇を尖らせた。……ひょっとして、これ、キルディエの言葉じゃないのだろうか?
「はは、それを言われちゃ適わないな」
エアノルアさんは苦笑して、頭を掻いた。殿下も微笑みを絶やさないまま丁寧に礼をすると、「では」と私の手を引いて歩き出した。
「殿下、」
大股で歩く殿下に手を引かれ、小走りになりながら、私は殿下に声をかけた。
「殿下、さっき、何て言ったんですか?」
足を止めた殿下の前に回り込み、下から顔を覗き込む。殿下は少し張り詰めた表情で、鋭めの息を吐いた。
「……『人の婚姻に口を出す前に、自分のそれを振り返ってみてはどうか』って言っただけだよ」
「…………つまり?」
「過ぎたる干渉は受け付けないっていう牽制かな」
殿下は私の手を放さないまま、反対側の指先で自らの顎を包んだ。何事か考えるようにその視線がさまよい、それから盛大に嘆息する。
「……まあ、一理ある、か」
僕も考えていたことだ、と殿下が低く呟く。私はよく分からないまま、とりあえず頷いておいた。
***
非番の日、手持ち無沙汰になった私は、適当に見繕った本を片手に殿下の部屋に乗り込んだ。
「失礼しまーす」
勢いよく扉を開け放つと、殿下が目を丸くしてこちらを見つめる。扉の脇に立っていた隊長も、意外そうな表情である。
「えっと……あれ? 来ちゃ駄目でしたか? 以前、『暇だったらここでたむろして良い』って殿下が……」
「ああいや、別に何の問題もないよ」と、殿下は帰ろうとした私を引き留めるような仕草をした。私はほっと息を吐いて、部屋に入って扉を閉じる。
「『休日アルカ、ついに殿下の部屋に進出』、と……」
「何をメモしてるんですか」
おもむろに手帳を取り出してそんなことを書き付けだした隊長に、私は怪訝な目を向けた。隊長は「大したものじゃない」と手帳を軽く振る。
「……まあ、日々の記録をだな」
「見せて下さいよ、……うわっ」
「何だその反応は」
隊長の手元を覗き込んだ私は、思わず顔を引きつらせた。何というか、日々の記録というよりはむしろ……
「……私の観察日記みたいなものじゃないですか」
「何だって? 見せて貰おうか」
ガタッと殿下が立ち上がり、大股で歩み寄ってくる。その反応の素早さには少々言いたいことがあるが、まあそれは良いとする。
「本当に大したものじゃないね」
「そう言ったじゃないですか」
殿下が腰に手を当てて、手帳に目を通す。並んでいるのは、やれ私がどこに行っただとか、何を食べたとか、そんな程度のことである。何でいちいちそんなことを記録しているのか。何となく薄ら気持ち悪くなってしまう。
「これ、いつから記録してるんですか? 趣味悪ぅ……」
「…………。」
隊長はしばらく気まずそうな顔で目を逸らしていたが、ややあって「初めから」と答えた。首を傾げると、「殿下がお前を拾ったときから」と追加する。私は思わず「うへぇ」と顔を引きつらせた。
「最初の頃のも見せてよ」と殿下が言うと、隊長はページを最初に戻す。そこに書かれている文字列の数々に、私は眉をひそめた。
「『初めて水を飲む』『食べ物に手をつける』『風呂に入る』……犬か何かの成長記と間違ってません?」
唇を尖らせた私に、「いや」と殿下は首を横に振る。どこか遠くを見るように顔を上げ、それから頷いた。
「懐かしいね。こんな頃もあったっけ」
「はい。そのときに記録をつけていた癖が、今まで続いてしまって」
「なるほど」
何やら納得した風の二人を前に、私は困惑しきりだ。私は腕を組んで、遠い記憶に思いを馳せる。
……殿下に、拾って頂いたばかりの頃、私はどんなだったっけ。
「あの頃のお前は、常に張り詰めて、手のつけようもなかった」
隊長はしみじみと呟く。殿下は小さく首肯すると、目を細めて私を眺めた。その手がすっと私の頬に滑らされ、私は動けないまま「えっと、」と視線をさまよわせる。
「……昔、アルカは、まるで手負いの獣みたいだった」
その言葉に、ふと、蘇る光景があった。――あのときもこんな風に、頬に触れられていた。
***
頬を、何か温かく柔らかいものが、音もなく掠める感触がした。
「触るな!」
鋭く叫ぶと、その子供は驚いたように手を引っ込めた。丸くなった目をきつく睨みつけると、私は周囲をさっと見回した。……ここは、一体どこだ。
狭い箱の中。これは何? 揺れる箱の中、大きな男と少年の前に、私は横たえられていた。
「……なに、これ」
咄嗟に浮かんだのは、『人攫い』の単語だった。そんなの実在しない、都市伝説みたいなものだって、ノッポが言っていた、けれど、……。
私は手をついて起き上がると、扉のように見える板に飛びついた。取っ手を両手で掴み、ぐいと押し開ける。乾いた風が頬を打ち、高速で流れていく地面が見えた。
「おい!」
勢い余って外へ落ちかけた私の腕を掴んで、男が私を中に引き戻した。私は体を激しく捻って手を振り払う。あまりの恐怖に頭がおかしくなりそうだった。暴れ回る私を、男は立ち上がって取り押さえる。
「っ嫌だ! 出して!」
再び腕を掴まえられ、肩と頬ごと座面に押しつけられた私は、低く呻いた。
殺される。たとえ殺されなくたって、何をされるか分からない。こんなお綺麗な格好をした連中にとって、私みたいな人間は何の価値も持たない存在なのだ。私は既にそれを知っていた。
「やだっ! 放せよ、放せって!」
足をばたつかせ、私は必死にもがく。けれど背後から押さえつける手はびくともせず、私はむせび泣くように哀願した。
「殺さ、ないで……!」
その言葉に、背後にいる男は息を飲んだようだった。力が一瞬緩んだ隙を見逃さず、私は体を反転させ、壁に体を押しつけるようにして距離を取った。
は、は、と浅く息をする。箱の中の二人は、呆気に取られたような表情で顔を見合わせた。
「ええと、」と子供は躊躇いがちに口を開く。
「僕らは君を傷つけるつもりはないよ。ただ、……あのままあそこにいたら、きっと、その」
あどけなさを滲ませる声に、私は僅かに肩の力を緩めた。それに気づいたのか、少年は更にひとつ高い声になって、言葉を続ける。
「大丈夫。何もしないよ。安心して欲しいな。僕はユリシ……えーと」
ちら、と隣の男に視線を向けられ、少年は一旦考え込むように唇を尖らせ、人差し指を顎に当てた。少ししてから、言い直す。
「……僕はユーリ」
「――ユーリ、」
私は小さな声でその名前を反復した。少年はにこりと微笑んだ。
「君の名前は?」
当然のように差し向けられた問いに、私はぐっと奥歯を噛みしめる。……たった一言で突きつけられた違いに、頭がくらくらした。
「ない」と私はただそれだけ言った。こんな奴らに、ノロマだなんて呼ばれたくなかった。けれど代わりに名乗れる名前も持っていないのだ。
「ないの?」
ユーリは不思議そうに小首を傾げて、隣の男を見上げる。男は低い声で「そういう人間もおります」とだけ告げた。それでも納得いかない様子で、ユーリは身を乗り出して私の顔を下から覗き込む。
「じゃあ、君のお父さんとお母さんは? 君のことを何て呼ぶの?」
「……殿下!」
男がユーリを制するように鋭い声を出した。不満げに唇を尖らせつつ、ユーリは口を閉じて黙った。
「えっとね、これからね、僕たち王都に戻るんだよ」
ユーリは少し早口にそんなことを言い出した。「王都、」と私は目を見開いた。……そこは、私が目指していた場所だった。




