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「結局、貰ってきちゃったなぁ……」
私はエアノルアさんに貰った髪飾りを灯りにかざしながら、ベッドに仰向けになった。どうやら髪に挿して使うもののようで、細長い金属部分が三本伸びている。ここを髪に挿せってことだろう。
「ガラス……? いや、まさか……ガラスだよね、これ……?」
ごろんと寝返りを打って、私は髪飾りをじっと眺めた。光を跳ね返して輝く細工は、どうやら花を形作っているらしい。複雑な形で絡み合う銀色の台座の上で、繊細に揺れていた。
こんこん、と扉が叩かれ、私は「どうぞ」とベッドから起き上がって応じる。
「アルカ」
殿下が顔を出したので、私は思わず髪飾りを枕元の机に置いた。……何となくやましい気持ちがしたのはどうしてだろう。別に盗んだ訳でもないのに。
「調子はどう? 元気?」と殿下は軽い口調で当然のように部屋に入ってきて、ソファに腰を下ろした。私はベッドの端に腰掛けて、スリッパに足を突っ込む。
「今日は出かけてきたんだっけ」
「はい。イルゾア商会にお邪魔させて頂いて」
足をぶらぶらさせながら頷くと、殿下は「そっか」と微笑んだ。
「そういえば、明日はお客様が来るんですよね。確か……ええと、」
「ヴィゼリーからの使者だね。一応僕も暇だから顔を出すことになってるけど」
タイムリーな話題に、私は身を乗り出す。
「今日ね、ヴィゼリーから持ってきた品物を見せて頂いたんですよ」
「そっか、イルゾア商会は向こうの大陸との交易を行うからね」
殿下は頷いて、腕を組んだ。「アルカは、ヴィゼリーに興味があるの?」と訊かれて、私はうーんと首を捻る。
「それほど興味があるという訳ではありませんが、……何だか、変な感じがします。キルディエの外にも世界があるなんて、ちょっと、自分が小さくなったみたいで心細さがあって」
「そうだね。……僕もときどき、自分があまりに矮小で焦燥感に駆られるよ」
殿下は遠い目をして呟くと、それから自嘲するように頭を掻いた。
そんな会話をした次の日のことだった。
「今日は、近衛じゃなくて託宣人の制服……」
昨日のうちに貼っておいたメモを見ながら、私はいつもとは違う制服をクローゼットから取り出した。真っ白な上着は、何というか、本当に儀礼用といった感じである。こんな、汚れの目立つ服を毎日着ていたら手入れが大変だろう。
鏡の前で襟元を正し、私は自分が暗い表情をしていることに気づく。最近気づくといつもこんな顔をしている気がする。私は両手の人差し指で口角を上げた。
「……大丈夫。私は何も悪いことはしていないんだから、何も怖がらなくたって良いはず。それに、私には殿下がいるし、……きっと、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟いて、気合いを入れて息を吐く。「よし!」と頬を両手で軽く叩くと、私は胸を張って歩き出した。
「おはようございます、殿下ぁ!」
「…………おはよう、アルカ」
気合いの入れすぎで勢い余って、思わずノック抜きで扉をバーンと開け放った私に、殿下は数秒の間を置いてから平然と返事をした。流石は殿下、動じない心をお持ちである。一応「ごめんなさい」と謝罪すると、殿下は「構わないよ」と鷹揚に返してくれた。
普段より幾分か正装に近い格好をした殿下は、すっと私に目を向ける。密やかな微笑みと共にそんな流し目を食らってしまっては、私も大概単純なのでときめいてしまうというものだ。
「ぐっ……」
胸を押さえて崩れ落ちた私に、殿下は満面の笑みで近寄ってくる。さては、全部計算ずくらしい。
「あれ? アルカ、どうかした? あれ? アルカ、何でこっち見ないの?」
「ヒィ……」
やだこの人、めちゃくちゃ煽ってくる、と私は頭を抱えた。
「――俺は一体何を見せられているんですかね」
遮るように分け入ってきた、先輩の冷めた声に、私は気を取り直してこほんと咳払いをする。殿下は一切悪びれた様子も気まずそうな態度も見せずにしれっとしていた。
「シアトス、君ってぶれないね」
「お褒めに与り恐悦至極に存じます」
殿下の嫌味に対して、先輩は胸に手を当てて慇懃に礼をした。殿下がじとりと視線を向けるが、先輩はどこ吹く風である。どちらもなかなか強い。
「アルカ、おいで」
手招きされて、私は殿下の側へ寄る。「ちょっと曲がってるよ」と殿下が私の首元の服に触れた。
「何も曲がっていませんが」
先輩の声を綺麗に無視して、殿下はさっと私の襟元を直すと「うん」と頷く。
「アルカは最高に格好よくて、しかも可愛いときた。流石は僕の託宣人だよ、参っちゃうな」
「へへ……そんな……ご冗談を、」
照れて頬を掻いた私に、殿下は「冗談なんかじゃないよ」と笑顔を向けた。視界の隅では先輩が死んだような目をしていた。
扉が叩かれ、私たちは黙って扉を見やる。「失礼します」とジャクトが顔を出した。
「あ、」
ジャクトと目が合い、私は何か言おうと口を半開きにした。しかしジャクトはどこかおどおどとした様子で目を伏せてしまう。私は上げかけた手を下げ、項垂れた。
「……殿下、そろそろお時間だそうです」
ジャクトは早口でそう言うと、そそくさと部屋を辞してしまった。肩を落として落ち込む私の背を、殿下が無言で叩く。
「ジャクトからしてみれば、いきなり自分の先輩が大犯罪者の一族であると判明したようなものだからな」
先輩は静かに呟いた。殿下は「シアトス」と咎めるように声をかけたが、私はそれを制する。先輩が言っていることは事実だ。
「……やっぱり、ショックなものですかね」
私が俯くと、殿下は躊躇った末に頷いた。
「これはジャクトが考えることだよ。僕にはどうしようもない」
「そうして考えて、……ジャクトが、私を、その……」
言い淀んだ私に、殿下は苦々しげな表情で告げる。
「もしジャクトが僕の命令に逆らうようなことをしたら、そのときは、」
きゅっと眉根を寄せた私の顔を見て、殿下はそれ以上何も言わなかった。その後に続く言葉は何となく分かっている。……少なくとも、近衛にはいられなくなるのだろう。
「そんな、仮定で話をしても仕方がないでしょう」と先輩は肩を竦めて、腰に手を当てた。
「ジャクトのケアは俺たちでやっておきますから、想定だけでそんな話はやめてください。大して信心深くない俺ですら少し動揺しているんですから、あいつはもっと混乱しているはずです」
厳しめの口調で言われ、私は頷いた。殿下も「ごめん」と息を吐く。
「よし、じゃあ行こうか」
殿下が手を打ち合わせて、明るい声で告げた。私も「はい」と表情を改めて応え、一度咳払いをして歩き出した。
***
王太子である兄君、セデロフィル殿下の方は別の用があるとかで席を外しており、私は両陛下に略式の礼をしてから部屋に入った。
「大きな部屋でやるんですね」
「玉座の間だね。相手が相手だから」
殿下は事も無げに頷いて、護衛官の居並ぶ部屋の中をすっと見回す。私はその視線を追うように首を巡らせ、「よほど高位の方がいらっしゃるんですね」と呟いた。
「そうだね、何せヴィゼリー王家の長子だ。順当に行けば次期国王」
さらりとそんなことを言った殿下の言葉に、私は思わず「ひえっ」と体を竦める。殿下は人差し指を立ててにっこりと追い打ちをかけた。
「要するにうちの兄上と同等の人間を寄越してくるんだから、こちらもそれなりの対応が求められるでしょ?」
「はひ……失礼がないようにしなきゃ……」
冷や汗を垂らす私に殿下は「大丈夫だよ」と苦笑して、腕を組む。
「――アルカさん、」
「はい!」
殿下と顔を突き合わせてひそひそと話をしていた矢先、背後から王妃様に声をかけられ、私は本気で飛び上がった。すぐさま振り返って姿勢を正すと、控えめな動きで手招きされる。そっと近寄って身を屈め、私は「何でしょう」と胸に手を当てた。
「……ユリシスから、事情は聞きました」
落ち着いた声で、王妃様は告げた。潜められた声に、私も思わず顔を寄せてしまう。何のことを言われているのかすぐに察した私は、きゅっと唇を噛んだ。
「その……、……大変申し訳ありません。私のせいで、」
「貴女が謝るようなことは、何一つ存在しませんよ」
遮られ、私は口をつぐんだ。視界の隅では、国王陛下までもがこちらを伺っているのだ。何だかいたたまれなくなって、私はますます縮こまった。
「生まれは、恥じるものでも、他者を貶めてまで誇るようなものでもありません。ましてや誰に誹られるものでもないはずです。……ですから私たちは、貴女の出自如何で対応を変えるなんてことは決してしないわ。それが私たちの答えです」
王妃様の肩越しに、陛下がゆっくりと頷くのが目に入った。私は咄嗟に潤んだ両目を誤魔化すべく、高速で瞬きを繰り返す。殿下が横で小さく笑った。
「アルカさん、ユリシスをよろしくね」
「はい! これからも誠心誠意、お仕えさせて頂きます!」
力強く頷いた私に、王妃様は柔らかく微笑んだ。その表情があまりにも殿下に似ていたので、私はうっかり見とれてしまう。
「アルカ? ……アルカ、ちょっと」
「はっ!」
殿下に肩を叩かれ、私は我に返った。跪いていたのを元の体勢に戻し、私は立ち上がって礼をすると、そそくさと元の位置まで戻る。くすくすと王妃様が口元に手を当てて小さく笑っていたので、私は思わず項垂れた。
それから程なくして、正面の扉がゆっくりと開かれた。入ってきたのは、一、二、三……五人。片膝をついてあまり見たことのない形の礼をすると、ヴィゼリーからの客人は顔を上げた。
「エッ……」
大きな声を出しかけて、私は咄嗟に手で口を押さえた。殿下が横目で怪訝そうな視線を寄越してきたが、私はすぐに手を下ろして平静を装う。殿下は不思議そうな顔をしつつ、視線を前に戻した。
私は必死に真顔を取り繕いながら、内心激しく動揺していた。
……え、エアノルアさん……!?
見間違いか、と何度も瞬きをして見直しても、何回見てもエアノルアさんである。要するに、あれか。エアノルアさんはヴィゼリーからの客人の一行の一人で、イルゾア商会と繋がりがあって、あそこにいたって訳だ。
現実逃避するように、私は視線をうろつかせた。そういえば、例の、ヴィゼリー王家の長子ってのは……ええと……。
不意に、エアノルアさんが綺麗な仕草で胸に手を当てた。ふっとその唇が弧を描き、キルディエではあまり見かけないような明るい色をした双眸が、こちらを見据えた。
「――お初にお目にかかります。ヴィゼリー王オウィレが長女、エアノルアと申します」
エ、エアアアアア――ッ!?
心中で勢いよく絶叫し、私はふらりと膝をつくのを何とか堪えた。本格的に怪しんできた殿下が、「アルカ?」と抑えた声で囁きかけてくる。私は無言でがくがくと首を横に振り、覚束ない足下で後ずさった。殿下に背を支えられて、私は顔面蒼白になる。
ま、まさかエアノルアさんが、ヴィゼリーの王太子だったなんて、知らなかった……! いや、言ってないんだから当たり前である。知る訳ないもん……!
それにしたって、絶対、昨日の時点で何かしら粗相があったはずだ。結構ナメた口を利いていた可能性は大いにあった。
「ま、まさか外交問題に……!」
「……アルカ?」
眉をひそめた殿下が顔を覗き込んでくる。私は胸元で両手を握りしめたまま、「ヒィ」と小さな悲鳴を上げた。
「…………。」
エアノルアさんはしばらく私をじっと見ていたかと思うと、目があった瞬間、ぱちりと片目を閉じて、ドッキリ成功とばかりにお茶目に笑ってみせる。……今の私はそんな気分じゃないです!
「……アルカ、詳しい話は後で聞かせて貰おうか」
「でで殿下……」
近年まれに見る低音に、私は震え上がる。……これは説教である。説教コースまっしぐらだ。……でで、でも、私、悪くないと思うのだ。そうだ、エアノルアさ……様は、わざわざウルティカを制してまで自分の素性を黙っていたんだから、こんなのだまし討ちである。
何やら目の前で真面目そうな話をしているが、いまいち頭に入ってこない。難しい話なのもあるし、元々の私の知識が少ないのもあるし、そして何より、エアノルアショック(私が命名した)である。
まあ簡単に言うと「これから仲良くしていきたいな」みたいなことを言っているらしく、空気はそれほど張り詰めた様子ではなさそうである。エアノルアさんは両陛下を前に臆した様子も見せず、堂々と胸を張っていた。何というか、人間としての格の違い、みたいなものを感じる。
「――ところで、キルディエの関税はどのような基準で決めておられるのですか?」
エアノルアさんが、ふと声を潜めるようにして、陛下を窺った。陛下は悠然と微笑み、「議会で話し合った結果です」とだけ答えた。
「これ以上下げる予定もありません」
陛下はエアノルアさんに口を挟ませることなく、きっぱりとそう言い放つ。何事か言おうと口を開きかけたエアノルアさんは、一度唇を閉じてから、苦笑交じりに「そうですか」と応じた。
エアノルアさんは、数度瞬きを繰り返し、瞼を閃かせて陛下を見据えた。
「ご存知かも知れませんが、現在ヴィゼリーではこちらの大陸、特にキルディエに対する関心がとみに高まっています。キルディエの工芸品や書物なども多く輸入されて、人気を博しております」
「それはありがたいことですね。遠く離れた異国でも我が国のことを知って貰えるとは、何とも嬉しいものです」
王妃様がにこやかに応える。エアノルアさんは表情を崩さないまま、笑みを深めた。
「……ですからぜひ、これからも長い付き合いをしていきたいものですね」
「ええ、本当に」
何だか一瞬ぴりついた、と思ったときには既に、部屋の中は元通りの雰囲気に戻ってしまっていた。
「……?」
気のせいかな、と首を傾げつつ殿下を横目で見ると、殿下は少し難しい顔をしていた。




