Farewell
――こつ、とん、こつ、とん。
足音の隙間に聞こえる音は、杖をつく音のように聞こえた。私は目を伏せて、耳だけでその音を追う。
音は近づき、そして、私たちのいる部屋の前で、ぴたりと止まった。
「どうした」
扉が開き、誰かが顔を覗かせる気配がした。私は俯いたまま、交わされる会話をぼんやりと聞いていた。
「ああ、これが例の」
そんな声に私はふと頭を上げ、そして、床に突き立てられた一本の杖を見つけた。若い声に聞こえるのに、杖をついているのか。そう思って目を凝らすと、その人の左足はどこか不自然に見えた。
…………義足だ。
――違う。心臓がどくんと跳ねた。違う。そんなはずはない。ここは貧民街だ、不幸な事故なんてそれこそ毎日、数え切れないほどに存在するのだ。分かってる。分かっている。痛いほどに知っている。それでも鼓動の音は耳の底で鳴り止まない。
恐る恐る、顔を上げる。杖を持つ手が目に入り、腕、胸、そしてその顔に、視線を移す。
心臓が震えた。
「ノッポ」
私が零した一言に、その人は大きく目を見開いた。
私は浅い呼吸を繰り返し、その人をじっと見据える。暗めの茶髪、それと同じ色をした瞳、荒れた唇、細面で背の高い、――――ああ、みんな記憶のままだ!
「……っノッポ!」
私は身をよじって叫んだ。上手に息が出来ない。もう何も分からなかった。
「ノッポ、ノッポ、私ね、ずっと、」
暴れる私を取り押さえて、少年が「何言ってるんだ、こいつ」と漏らす。私は死に物狂いで縄を振りほどこうと身体を捻った。
「…………ノロ、マ?」
彼は振り返り、呆然としたように呟いた。私は大きく頭を振って頷いた。
「そうだよ、私、……ノロマ、だよ」
彼は目を疑うようにしばらく硬直し、それから大股で私の前まで歩み寄る。顔を歪めて杖を捨てると、彼は私に向かって両手を伸ばした。私は魅入られたようにノッポの目を見つめ、首を伸ばす。
「――この、大馬鹿! 今までどこをほっつき歩いてた!」
肩を強く掴まれ、至近距離で浴びせかけられた怒声に、私は思わず身を竦めた。それでも目は逸らせなかった。ひくひくと喉が戦慄いた。泣き出しそうに胸の奥が揺らぐのに、私の目頭はどこか痺れたように乾いていた。
「俺が、どれほど心配したと……っ!」
叫ぶように吐き捨てると、彼は眉間に皺を寄せ、深く項垂れた。
「……お前は馬鹿だ。ノロマなんて言葉じゃ足りないくらいの大馬鹿だ」
囁いて、彼は私の両肩を掴んだまま、膝から崩れ落ちる。肩で息をするように、その背中が上下した。
「先輩……?」
ジャクトが呆気に取られたように私を窺う。私はその言葉に答えることも出来ず、荒い息で固く目をつぶった。胸が締め付けられるように痛んだ。あまりに息が苦しくて、身動きも出来ない。
「……解いてやれ」
「え?」
ノッポは立ち上がり、手渡された杖を頼りに姿勢を戻す。何も出来ずに様子を見ていた周囲の人間が、躊躇いを露わに眉をひそめた。
「昔の知り合いだ」
短く言って、彼は鋭い視線で周りを見渡す。それが合図となったように、すぐに私の背後の結び目が解かれる。ぱらりと足音に落ちた縄を踏んで、私は腰を上げた。
「ノッポ、」
立ち上がって見てみると、彼の身長は更に増していた。ひょろりと縦長い痩躯に手を当て、私はその顔をじっと見上げる。
「……大きくなったね」
「お前もな」
ノッポは低い声で呟き、私の肩を押して遠ざけた。そのまま手を滑らせて私の腕を掴み、黙って歩き出す。指が食い込むほどに握りしめられ、私は僅かに眉をひそめた。
「……ここ、ノッポの部屋?」
「そういうことになるな」
引き入れられた部屋を見回して、私は唇を噛んだ。机とベッド。小窓。案外清潔で良い部屋である。あまり広くはないが、貧民街でこれだけの環境にいられれば相当に素晴らしい部類だろう。
「ノッポって、」と訊きかけて、私は口をつぐむ。彼は怪訝そうに私を見て、続きを促すように首を傾けた。私は言葉を選ぶように目線をさまよわせ、ゆっくりと告げた。
「私、ノッポのこと、何も訊かないことにするね。…………だから、私のことも、何も訊かないで貰えると嬉しい」
首を竦めて目を伏せた私に、彼は黙って視線を向ける。その目が、少し揺らいだ。しかし彼は文句や疑問を言うでなく、あっさりと頷いた。
「分かった。……ああそうさ、お前が生きていると分かれば、それだけで良い」
彼は抑えたような声で囁いて、私の腕からそっと手を外す。私は腕を引っ込め、手を後ろに隠した。
杖をついて、彼は一歩下がる。
「じゃあ、俺のところに帰ってきた訳じゃ、ないのか」
「……うん」
「もう帰る場所があるんだな」
「うん」
「この街じゃないんだろ?」
「うん」
俯いたまま、私は何度も頷いた。彼は静かに笑っていた。「そうか」と呟いて、微笑んでいた。
「じゃあ、こんなところで俺に会ってしまって、災難だったな」
「……ううん、」
自嘲するような口調に、息を飲んだ私は顔を上げて首を横に振った。そんなことない、と私は言ったが、彼はさして信じていないような表情で眉を上げた。
「……でも、まさか会えるなんて、思ってなかったよ」
「そうだろうな。死んだとでも思っていたか?」
「ううん、そうとは。……出来るだけ、考えないようにしてたってのもある、けど」
私はばつの悪い表情で頬を掻く。私はずっと、ここでの日々を、ノッポのことを、思い出さないようにしていた。一度気づいてみれば、それは笑ってしまうほどに明らかだった。
「それがいい」と彼は頷いて、私から一歩距離を取った。机の縁に寄りかかり、彼は項垂れて片手で自らの額を受け止める。彼は肩を揺らし、声もなく笑った。
「――俺は、ノロマのことを、ひとときも忘れられなかった」
その言葉に、私はきつく打ち据えられたように竦んだ。それはまるで、すべてをずっと思考の外に追いやっていた自分を責める言葉のように聞こえたのだ。
「ああ違う、責めてるんじゃない」と彼は頭を振った。「ただ、自分のやり方がまずかったんじゃないかと、ずっと自問自答していただけの話だ」
頭を掻いて髪をかき混ぜ、彼は頬を歪めて私を見た。
「……なあノロマ。何で逃げた」
私は眉根を寄せ、奥歯を噛みしめた。
「あそこにいれば、守ってもらえた。どのみちいつか選んでいただろう道だ、耐えられない生活じゃなかっただろ? あそこなら少なくとも理不尽に殺されることはない、貧民街でも安全な場所だったはずだ。なあ教えてくれよ、俺の判断が間違っていたのか?」
溢れ出すように、彼は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。私は気圧されるように身体を縮め、ぎゅっと拳を握った。
「あそこにいてくれれば、いつか迎えに行くことだって出来たかもしれなかった。あそこなら守ってやれた。それなのに、どうしてお前は逃げたんだ。一体どうして……」
裏切られたような表情で語るノッポに、私は唇を噛んだ。脱走した私の行く末を、ノッポがどのように思い浮かべたことか、それは想像に難くなかった。事実、私は殿下がいなければ死んでいたのだ。
ノッポは私の為にあの環境を用意してくれた。それと同時にノッポも生き延びることが出来る。最善の選択肢だった。……でも、私にだって、言いたいことがない訳じゃないのだ。
「じゃあ、何であんな逃げ方したの」と私は囁いた。「あ?」とノッポは顔をしかめる。
「それだったら、あんな風に突き放さなくたって良かったでしょ」
私は低く潜めた声で告げた。ノッポはやや戸惑ったように眉をひそめ、それから早口に答える。
「だってそりゃ、……ああでもしなけりゃ、お前、俺についてこようとしただろ」
「ほら、やっぱりそうだ、分かってたんだ」
私の言葉に、彼は怪訝そうな表情で腕を組んだ。私は語調荒く言葉を叩きつける。
「私はノッポと一緒にいたかった。……あんな風に、置いて行かれたくなかった!」
ノッポは尖った声で反駁した。
「じゃあお前、あのまま二人して野垂れ死んで良かったっていうのか!?」
「それでも良かったよっ!」
吠えるように叫んで、私は両手で顔を覆った。行き場のない感情に飲み込まれそうだった。ぐるぐるとめまいのように足下がぐらつく。
「……それでも良かった。あのときの私は、それでも良いと思っていた」
馬鹿みたいな駄々をこねているのは自分でも分かっている。おい、と彼は苦り切った声で私に手を伸ばした。
「『死んでも良い」が言い過ぎだとしても、でも、」
巡る記憶に、首をゆっくりと絞められるような感覚だった。『もうついてくるな』とノッポが言う。金を受け取って笑う。『親が俺らを捨てるんじゃない、俺たちが捨ててやるんだ』とノッポは嘲笑していた。
――捨てられたんじゃない、私が捨ててやるんだ。そう吐き捨てて、私は外へ駆け出した。
知っている。私は既に知っている。そんな言葉の裏に隠れているものが何なのか、今の私は既に気づいてしまっていた。それを認めさせてくれた人がいた。
私はそっと顔から手を外し、視線を上げて彼を真っ直ぐに見つめた。
「……私は、あなたにだけは捨てられたくなかったんだよ、ノッポ」
他に打つ手がなかったことも、ノッポが私の為にすべてをしてくれたことも、全部分かっている。それでも、それでもだ。
「――私はあなたと一緒にいたかった」
たとえ死んだって構わない。ノロマにはノッポしかいなかったのだ。
涙混じりに囁いた言葉を、彼は黙って受け止め、静かに目を伏せた。
「立派に口答えできるようになったんだな」と、彼は呆れたように笑った。それから、杖に両手を置いてゆっくりと語り出す。
「……俺は、あのときの自分の判断を間違いだったとは思っていないし、もしあのときに戻ったって同じことを繰り返す。……お前には悪かったと思っているが、謝ることはしない」
彼は義足の付いた左足で床を叩いた。妙に硬質な音がする。
視線を向けた私に気づいたように、彼は裾を持ち上げて義足をちらと見せた。それはどうやら、木か何かで作られているようだった。……事故のことを思い出して、私は僅かに表情を曇らせた。
彼は手を放して裾を戻すと、短いため息をつく。
「……俺もお前と一緒だ。俺にもお前しかいなかった」
彼は穏やかに呟いた。
「お前が俺と離れたくなかったのと同じだけ、俺はお前に死んで欲しくなかった。俺はお前にだけは死んで欲しくなかったんだ、ノロマ」
ああ、と私は声を漏らす。嗚咽するかと思ったが、息は思いのほか平坦だった。けれど目頭は痛いほどに熱くなった。
「たとえ離れることになったって構わなかった。裏切ったと思われたって構わない」
吐き捨てるように彼は言い、骨が浮き出るほどに強く拳を握りしめた。
「どんな手を使ってでも、何を踏みにじってでも、生き伸びた奴が勝者だ」
その言葉には、私には計り知れないほどの重みが乗っているように思えた。ぴんと身体の表面が引きつるような緊張感だった。……私がとうに遠ざかった、切実な覚悟だ。
「生きろよ、ノロマ。……這ってでも、何を啜ってでも」
彼は強い声で告げた。その双眸は決然としていた。
長い沈黙を挟んで、「会えて良かった」と私は言った。彼もその言葉に異論はないようだった。
「ノッポの言葉が聞けて、ちょっとだけ、……吹っ切れそうな気がするよ」
「俺は、お前が生きていたことが分かっただけで十分だ」
ノッポは重い動きで頷いた。
重く凝った空気をかき分けるように、私ははっきりとした口調で告げる。
「――でももう、全部、昔の話だから」
私は手の甲でぐいと頬を拭いながら、おずおずと笑みの形に顔を動かした。
「昔の、話」
「うん」
繰り返された言葉に、私は必死に作った笑顔で頷く。喉がどうしようもなくひくついた。
「もう帰らなくちゃ」
私は酷薄にそう言って、口角を上げてみせる。彼は僅かに目を見開き、それから視線を落として、頭を掻いた。
「私はもう、『ノロマ』じゃない、新しい名前で生きている。ノッポもそうでしょ?」
「……ああ」
彼は、それ以上何も言おうとはせずに頷いた。何も言わずとも、名乗るつもりはないようだった。……流石はノッポ『だった人』だ。私は胸の底に落ちる重みを感じながら、頷き返した。
突如、激しく扉が叩かれ、焦った様子の少年が顔を出す。言葉の初めに、何とかさん、と名前を呼んだけれど、私はそれを聞かなかったふりをした。
「外に、こいつらの仲間が!」
廊下の先を指さして、少年は息を切らして叫ぶ。私は合点して頷いた。
「……迷惑かけちゃったな」
私は呟いて、少年から目を逸らした。そんな私の言葉にため息をつくと、彼はとん、と杖をついた。
「迎えか」
「うん、そうみたい」
少年が走り去った扉を杖で指して、彼は嗤った。……妙に歪んだその笑顔には、見覚えがあった。彼は杖を持っていない方の手をひらりと振った。
「じゃあな。もう二度と会わないことを願っている」
「…………うん」
私は応えて、一歩後ずさる。彼は私を追わなかった。机に寄りかかったまま、じっと私を見ていた。
「あのね、」と私は唇を息で擦るように囁いた。
「……ノッポは、ノロマの唯一の兄貴分だったよ」
もう私はノロマではないけれど。……かつてノロマだった私が、ここにいる。
私の言葉がいつの会話を指しているのか、彼はすぐに察したようだった。にやりと笑って、肩を竦める。
「――ああ。ノロマは、ノッポの唯一の妹分だったさ」
その言葉に、私はえもいわれぬ静謐さを感じた。心は変に凪いでいて、さも達観ぶったような、高みの淋しさだった。
私たちは、これから本当に、ノロマでもノッポでもない人生を歩むのだ。二度と交わらないであろう道を。
「……ありがとうございました」と、私は震える声で告げて、頭を下げた。
「あなたがいなかったら、きっと今私はここに生きていなかった、っ」
いつか言わなくちゃ、とずっと温めていた言葉だった。だというのに、彼はろくな返事もせずに息だけで笑った。とんとん、と杖で床を小突いて、肩を竦める。
「ほら、さっさと行けよ。迎えが来てるんだろ」
突き放すような言葉だったが、その声は随分と柔らかかった。昔から私は、彼のこういう言葉を聞くと、何だか聞いてはいけないものを耳にしてしまった気分になるのだ。
私は小さく苦笑して、頷いた。
「じゃあね」
「ああ、達者でな」
簡素な別れの言葉を述べて、私は彼に背を向けた。一歩、二歩と歩き、扉に手をかけたところで、どうしようもない心細さに背中を包まれるような心地がした。この部屋を出たら、もう、二度と。……二度と、私はここに戻れない。
そんな寂寥を振り払うように、私は目をつぶって数度、戦慄く唇で深呼吸した。
もう戻れない。……もう、戻らなくて良いのだ。私には帰る場所がある。私にはもう、とびきり素敵な私の居場所があるのだ。
帰ろう。私のいるべき場所、私のいたい場所へ、帰るのだ。
――――殿下の隣へ。
扉の前で逡巡した私を、彼は超然とした眼差しで眺めていた。扉を開け放ち、私は部屋を出る。頬を包み込んだ廊下の空気は少しひやりとしていた。そこでふと私は立ち止まり、肩越しに彼を振り返る。
「――ねえ、一つ訊いても良い?」
「何だ?」
私は扉に手をかけたまま、目を眇めて嗤った。
「 一体、誰が孤児院を燃やしたの? 」
逆光で、彼の表情は窺い知れなかった。……けれどきっと、顔を歪めて笑ったんだと思う。
「さあな」と肩を竦めて、一瞬の空白ののち、彼は杖で強く床を打ち据えた。その音は部屋に鋭く響く。
彼は頬を吊り上げ、低い声で囁いた。
「――――きっと、とっても悪い奴だ」




