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殿下の神託で不具合が起きた話  作者: 冬至 春化
5章 ノロマだった私の話
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14


「院長先生! その人は?」

「あなたたちのずっと上のお姉さんですよ、ウェオル」

 へーえ、と、駆け寄ってきた少年が頭の後ろで手を組んで頷いた。私は思わず目を瞬く。

「……今はちゃんと、名前があるんですね」

「え?」

 私が漏らした言葉に、院長は本気で耳を疑ったようだった。呆気に取られた表情で、私を振り返る。院長は酷く動揺した様子で、私の表情を窺った。

「それって、」

「……この話は後にしましょうか」

 興味津々で私たちを見上げ、話に聞き耳を立てている少年をちらと見る。院長は私が言わんとしていることを敏感に察して、小さく頷いた。



「井戸、そのままだ……」

 窓から見えた井戸に、私はぽつりと呟いた。たたた、と子供が脇を駆け抜けて廊下を走り去る。笑い声が遠ざかるのを感じながら、私は立ち尽くした。明るく穏やかな雰囲気とは裏腹に、見覚えのある井戸は、裏庭の隅にひっそりと佇んでいた。

「はい。……何か思い出が?」

 目を細めて井戸を眺める私に、院長は穏やかな声で問うた。私は「ええ」と頷く。

「……私はノロマだったので、一度、あの井戸で大きな失敗をやらかしたことがあるんです。それを、私の兄のような人が庇ってくれて」

「あらあら」

 院長は口元に手をやってころころと笑った。私もそれに合わせるように薄らと頬を緩めて、ノッポの背に刻まれた焼き印を思い浮かべる。暴力に耐えかねて動かなくなった、知らない少女のことを思い浮かべた。



 孤児院の中を見て回るように廊下を歩きながら、ふと院長が口を開いた。

「そういえば、先程名前に関して言ってらしたのは……」

 院長はおずおずと私を窺う。私は苦笑して、頭を掻いた。

「私がいた頃、孤児院の子供たちに名前はなかったんです。子供たちで適当に名前をつけて呼び合っていました」

「まあ……」

 院長は目を見開いて、どう応えたら良いものか量りかねているようだった。私は誤魔化すように「今は新しい名前を頂いて、それで暮らしています」と笑う。


 と、そこで「あら?」と院長が首を傾げた。

「私が新しく院長になる際、前院長のご遺族から、孤児院に関わる資料を色々と頂いたんです。確かそこには、子供たちの名前も記されていたはずです」

 私は思わず息を飲んだ。咄嗟に蘇るのは、ルラに名前を捨てろと言ったノッポの声だった。

「……それって、親がつけた名前、ってことですか?」

「ええ、はい」

 まさか、そんなものを孤児院が記録しているとは知らなかった。子供自身が名を忘れてしまえば、もう消えてしまうものだと思っていたのに。

 突如降って沸いた、昔の名前を知る機会に、私はどこか落ち着かない思いがした。……私が、アルカ・ティリでもノロマでもなかった頃の、名前か。


「気になりますか?」

「知りたくない、と言ったら、……嘘になります」

 私はこっそり足下をうずうずとさせながら、躊躇いがちに頷いた。別に知らなくたって良い。私には既に、アルカ・ティリという殿下が下さった立派な名前があるし、それに、ノッポだって常々『親に貰ったものは捨ててしまえ』と言っていたから。

 私は早口に問う。

「あの、その資料って、今どこに」

「資料は私の自宅にあります。言伝をしておけば、使用人が見せてくれると思いますが……どうしますか?」

 院長は決して押しつけがましくない微笑みで、私に視線を向ける。躊躇う私に、ジャクトが「日程に余裕はありますよ」と囁いた。私はしばらくの間逡巡して、それから顔を上げる。

「……お願いしても、よろしいですか?」

「ええ、もちろんです」


 院長は大きく頷くと、ポケットからメモ帳を取り出して何事か素早く書き付けた。一枚を破り、私に向けて差し出す。

「私の自宅の住所です。ここへ行って、この紙を見せれば、家政婦が中へ入れてくれるはずです」

「……ありがとう、ございます」

 私は恐る恐るその紙を受け取った。鞄を開き、慎重な手つきで手帳に挟み込む。


「そうだ。これ、……寄付金として受け取って貰えませんか?」

 鞄に入れていた封筒を取り出すと、院長は「そんな」と首を横に振った。私は笑みを深めて、「これを渡そうと思ってはるばるここまで来たのです」と封筒を差し出す。

「一体、どちらから?」

「王都です」

「まあ……! さぞかし大変だったでしょう」

 院長は目を丸くして、躊躇する様子を見せた。「わざわざ王都から、」と、頬に手を当てる。

「どうぞ、受け取って下さい。別にやましいお金じゃありません。……これからの時代に使って貰おうと思って貯金していたものです」

 この孤児院も、私がいたときに比べれば遙かにマシだが、まだまだ恵まれた環境とは言えない。「少しでも手助けになれば」と付言すると、院長は折れたようにため息をついた。


「……もとより、ここは皆様方の寄進によって運営しているところですから」

 そう言って、院長は封筒を受け取った。近くにいた職員を呼び寄せ、何事か告げると封筒を手渡す。職員は頷いて、封筒を持って奥へ歩いて行った。金庫にでもしまうのだろう。

「寄進、ということは……じゃあ、ここは神殿が?」

 ジャクトが首を傾げると、院長は「ええ」と頷いた。確かに、院長の来ている服は法衣で、神殿の人間が身に纏うものと同じである。神殿が運営している孤児院であることは何となく察していたが、改めて言われると何だか不思議な気持ちになった。



「神の救いは、神を愛する者ならば、皆平等に与えられる。それが教義です。だから私たちは神の前では誰もが等しく、穏やかな生活が出来ると」

「はい」

 ジャクトが真面目な顔で頷いた。私は黙ったまま、院長の言葉に耳を傾ける。

「そうでない者――たとえばこの子たちのように、貧しく、厳しい境遇に置かれた者は、神を愛していないが故に神に愛されない。……だから救いが与えられていないのだ。だから彼らはそのような境遇にあるのだ。そのように唱える人も、信徒の中には一定数いますね」

 どこか憂いを含んだ表情で、院長は静かに説いた。


「ですが、だからこそ、人が救わなくてはならぬのでしょう」


 私はひっそりと息を飲んだ。院長は気づかなかったように、言葉を続ける。

「神を愛せないが故に苦しむ人を救うのが、神殿の本来の在り方であるはずです。そのために私たち聖職者は、民に神の教えを説き、神の救いが与えられるように尽力しているのですから。孤児院を貧民街に作るのだって、その一環です」


 ジャクトが、どこか衝撃を受けたように黙り込んでいる一方で、私はこみ上げる何かを必死に堪えていた。――そうだ、私は、神を愛せなかった。……きっとこれから先も、愛せないのだ。

「これ以上、何かを憎まずには生きていけぬ人を増やしてはならないのです」

 院長は真っ直ぐな視線でそう告げた。そのあまりの輝かしさに、私はめまいがしそうだった。


「……まあ、そのようなことを言っていたから左遷されたのですが」と院長は目を逸らして小さな声で呟くと、それから目を細めて私に微笑みかけた。

「あなたが下さった寄付金は、大切に使わせて頂きますね。お心遣いに感謝致します」

「はい」

 私は小さく頷く。この人ならきっと、子供たちの為になる使い方をしてくれるだろう。そんな、妙に凪いだ信頼が私の胸には湧いていた。


 暇乞いをして、私たちは孤児院を出た。貧民街の中に穏やかに存在している孤児院は、来たときよりはほんの少しばかり輝いて見えた。きっとここをいつか旅立つ子供たちにも、同じように見えるのだろう。

 そうだったら良いな、と思いながら、私は心持ち口角を上げて、手を振ってくる子供たちに手を振り返した。



 ***


「はぁ、何か緊張しちゃった」

私が肩を回しながら呟くと、ジャクトは「おれも、ちょっとだけ」と息を吐いた。

「あとは帰って、でん……あの方に報告して、……今日中に院長先生の家に行けるかな?」

「そうですね。急ぐ必要もありませんが、出来るだけ早くここを出発できた方が良いでしょうし」

 そんなことを言いながら、何となく重荷も取れて貧民街をてくてくと歩いていた矢先のことだった。


「おっと、」

 前も見ずに走ってきた子供が、どん、とぶつかってきた。避けようとしたが避けきれず、たたらを踏んでしまう。

「大丈夫ですか?」

 ジャクトに背を支えられて、私は「うん」と姿勢を戻す。伸びをしながら、私は腕を回した。

「何だか体が軽くなった気がするよ。んん、やっぱり胸のつかえが取れたからかな」

「いや、違いますよ!」

 ジャクトがいきなり血相を変えて叫んだ。そんなに否定しなくても良いではないか、と私が眉をひそめた瞬間、ジャクトは私を指さす。

「鞄がないからですって!」

「ええ!?」

 私は思わず自分の腰を見やった。……確かに、鞄が、……ない!


「さっきの子!」

 私が振り返った直後、見覚えのある鞄を持った子供が、角を曲がって細い路地へ入っていった。私は咄嗟に走り出す。ジャクトが「先輩!」と慌てたように追いすがった。

 あの鞄にはまだ相当な大金が入っているし、それに、院長の住所と、中に入れるようにという言伝も入っている。金だけなら諦めても良いけれど、流石に人様に迷惑をかける可能性は見過ごせなかった。

「おい!」

 先輩の声も背後から追ってくる。近衛の全員が突如として走り出した私を追ってきているのかもしれない。

「その子、捕まえてください!」

 叫ぶと、通行人に擬態していた近衛が手を広げて子供の前に立ちはだかった。しかし子供はぴょんと道ばたの瓦礫に飛び上がって避けてしまう。


 ……私には地の利があった。それと、少しばかり頭に血が上っていたのもある。貧民街の中で過敏になった神経が、少しの刺激で馬鹿みたいに反応してしまったのだ。

「先輩っ!?」

 私は地面を蹴って、体の幅ほどしかない、道とも言えないような道に体を滑り込ませた。ジャクトの肩幅ではなかなかキツいだろうと思われるほどの狭い道だった。

「ここを抜ければ、隣の通りに出るから、そこで、」

 ぶつぶつと呟きながら、私は壁に肩を擦りつつ、隣の通りへ出た。


「あの子は……?」

 私はその場に立ち尽くし、辺りを見回す。あの子の進路からして、ここの通りに来るのは確定だった。私は注意深く耳を澄まし、そして、近づいてくる荒い息の音を聞きとがめて走り出す。――私の勘は当たった。

「待ちなさい!」

 狭い路地から飛び出してきた子供を、私は正面から取り押さえる。

「何すんだよ!」

 暴れる子供に振り払われ、私は尻餅をついた。すぐさま走り出した子供を追って、私が立ち上がろうと地面に手をついた直後、すぐ脇をジャクトが大股で駆け抜ける。

「――人に、迷惑をかけるのは、駄目だ!」

 ジャクトが叫んで、子供の肩を掴んだ。貧民街に響かせるにはとんでもない綺麗事だな、と思いながらも、私も駆け寄る。


「ごめんね、それ、私の鞄なんだ」

 ジャクトに取り押さえられて、地面に膝をついた子供の前にかがむ。殿下より多少幼い程度の少年だった。

「返して」

 少年が握りしめる鞄を指して、私は静かに告げた。

「それは私のものだから、返して」

 彼の背後に、どうしようもない現実があることは、私だって痛いほど知っている。こうでもしなければ生きていけないのだと分かっていて、それでも私は、ここで彼に中途半端な情けをくれてやることは出来ないのだ。

「先輩……」

 表情のないまま手を差し出す私に、ジャクトが呆然としたように呟いた。


「何で、俺だけ……!」

 呪詛のように吐き捨てられた言葉に、私は正しい返事を持たなかった。黙って唇を噛んで、私はきつく目をつぶる。そして目を開けると、

「いてっ!」

 ――顎に頭突きを食らってひっくり返るジャクトがいた。

「馬鹿!」と思わず何のひねりもない罵倒をしてしまってから、私は再び逃げ出した少年を追った。今更引っ込みがつかず、大きめの通りをひた走る少年の後ろを猛然と走る。



 そのときだった。

「っ!?」

 いきなり背後から衝撃を受け、私は地面を転がった。体を丸めて受け身を取ったものの、突然のことに反応が遅れる。気がつけば、私の背中を突いたと思しき男がすぐ背後に立っていた。数人の男たちに囲まれていたのだ。

「おっと、その物騒なものを抜くのはやめてくれよ」

 我に返って剣の柄に手を触れた瞬間、眼前にぴたりと刃物が差し向けられた。内心だいぶ驚いたが、素振りには出さず、私は静かに剣から手を放す。

「こっちの兄ちゃんの指を切り落とされたくなけりゃ、大人しくついてきな」

 後ろ手に腕を取られたジャクトが、「すみません」と項垂れた。私も臍を噛む思いで一度俯き、それから小さく頷く。


「何かされてねぇか?」

「……別に」

 私が追いかけていた少年が、頭を撫でられていた。なるほど、お仲間か、と私は胸の内で独りごちた。



 ***


 どうもほこり臭い小部屋だった。小さな窓から辛うじて光が射し込んでいるが、それ以外にこれといった光はない。薄暗い部屋だ。


「お前ら、何が目的でこんなところに来た」

 椅子に縛り付けられ、私は憮然として口をつぐんだ。殿下に関わることや、私たちの素性に関して話すことは決して出来なかった。

「絶対に言えない」と私は頑なに首を振った。

「……チッ。お前らみたいな上の街から来た奴が、貧民街を荒らすんだ。その申し訳程度の下手な変装と言い、一体何のつもりだ」

 鼻を鳴らされ、私はむっと唇を引き結ぶ。「やっぱ気づかれるか」と呟くと、「当たり前だ」と返された。


 私たちの前に立って顰めっ面をしていた男は、部屋の隅でふて腐れたように立っている少年に目を向ける。

「おい、お前もだぞ。こういうのに迂闊に近づくなって言ったはずだろ」

「いけると思ったんだよ、うるせぇな」

「それでこうしてわざわざ俺たちが出る羽目になってるんだ。ちったぁ反省しろ、このクソ坊主」

 荒々しい語気と舌打ちの音に、ジャクトが肩を跳ねさせた。臆する様子を見せるな、とジャクトの足を蹴ると、ジャクトは何やら文句がありそうな顔で私を見た。

「……何」

「何でそんなに余裕そうなんですか!」

「慌てたって仕方ないでしょ」

 顔を寄せてひそひそと囁いていると、どん、と目の前に音を立てて足を置かれる。


「そっちの姉ちゃんは、随分と余裕そうだな」

「そんなことないよ」

 私は肩を竦めた。

「でも、あなたたちは私たちを殺せないでしょ? いくら貧民街ここで幅を利かせてたって、こういう手合いに喧嘩を売っちゃいけないってことくらい分かってるはず」

 知ったような口を利く私に、男は腕を組む。眉をひそめて私を眺め、「お前、何者だ」と首を捻る。

「素性に関しては答えられないって、もう何回も言った」

「そうじゃねぇ。お前……」

 どう話を進めようか、と、私は少し思案した。私がやらかしたのは事実だし、ただで返されるとも思っていない。良くても金を奪われて放逐って程度だろう。それ以上のこととなれば、殿下の近衛が先に私たちを見つけそうだけれど。


「貧民街を荒らしたのは申し訳ないと思っている。でも別に私たちはここに物見遊山に来た訳じゃないし、ここの人を害そうと思ってる訳じゃない。本当に用事があって来ただけ」

「だからその用事っていうのは何なんだよ!」

 椅子の脚を強く蹴られ、私は驚く様子を見せそうになるのを必死に堪えた。


 ゆっくりと息を吸った。深く俯いて、私は小さな声で答える。

「…………過去を、清算しに来たんだ」


 どこかで、こつり、杖を突くような音がした。




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