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「ひぃー! 何か乾燥しますねぇ、もうおれ、唇がカサカサですよ」
指先で唇に触れながら、ジャクトが周囲を見回した。
「来れば来るほど乾燥地って感じですね。こんなところでどうやって生きてくんでしょう」
無邪気な発言に、私は薄らと笑みを浮かべる。別段、腹は立たなかった。ただ単に見てきた世界が違うだけだ。本当に知らないのだから仕方ない。
「地上の川は出たり消えたりって感じだけど、案外地下には水があるからね。井戸を掘ったり、水が湧き出やすいところに街を作ったりしてるんだよ」
「ははぁ、なるほど。街が作れる環境は限られてるってことですか?」
「そうだね。ここまで来ると、結構街同士の距離も開いてくるから、これから大変かも」
私は腕を組んで、遠くの地平線を見透かすように目を眇めた。うーん、次の街はまだ見えないみたいだ。案外大変な旅になっている。
「そろそろ出発するぞ、準備しろ」
隊長の声が響き、各々が動き始めたのを見計らって、私も馬車の中に戻った。
「でーんか、」
私が声をかけると、足を組んでその上に頬杖をついていた殿下が顔を上げる。連日移動が続く旅のせいか、その表情にはどことなく疲れが見えた。
「大丈夫ですか?」
「アルカは元気そうだね……」
「まあ、これでも一応護衛官ですし。すぐにはへばりませんよ」
「……頼もしい限りで嬉しいよ」
殿下は組んでいた足を解き、ぐったりと背もたれに寄りかかった。殿下は、何というかこう、あまり人に弱みを見せないというか、少なくとも私の前ではいつも平然としているので、こうも弱った姿を見るのは珍しかった。
「へへへ」
「……何?」
動き出した馬車の中、殿下を眺めながら頬を緩めていると、殿下は不服そうに眉をひそめる。珍しい殿下を今のうちに思う存分鑑賞しておこうとしていた私は、「いえ」と白々しく微笑むことで応えた。とはいえそんな雑な濁し方で騙されるような人でもない。殿下はむっと唇を尖らせる。
「僕が疲れてるのがそんなに嬉しい? 悪かったね、体力がなくて……」
拗ね始めた殿下を片手間になだめながら、私は座席に広げて置かれたままの地図を見た。私の視線を追って、殿下は眉を上げる。
「殿下、次の街って、……あそこ、ですよね」
「もう跡地だよ」
殿下は抑えたような声で言った。私は何かがつっかえたような顔をしながら、小さく頷いた。
私は地図を指先で辿りながら呟いた。
「あといくつかの街を辿って、それでも見つからなかったら、引き返すことになるんですよね」
「そうだね。帰るのにも時間がかかるから」
殿下の言葉に頷いて、私はため息をつく。
「イレチアもはずれ、ジゼ=ソビエとジゼ=ユジータも違ったし、はぁ……私が生まれ育った街って本当に存在してるんでしょうか」
「まさか幻の中で生きていた訳じゃあるまいし、存在はしていると思うよ。街が消えたなんて報告は今のところ聞いていないからね」
「でも見つけられるかどうかは別の話、ですよね……」
私がぐでっと座席の上に倒れ込むと、殿下は苦笑した。馬車の振動が伝わってきて、私は唇を尖らせて体を起こす。
「……昔のことって、どこまでお話ししましたっけ」
私が確認すると、殿下は腕を組んで視線をさまよわせた。
「事故が起こったところまで、かな」
「なるほど」
私は小さく首を上下させて、それから指先で顎に触れる。そこから先、どの程度、説明すれば良いんだろう。この際全部言ってしまいたい気持ちもあった。でも、これ以上殿下が嫌になりそうな話をするのは、うーん、何だかなぁ。
……でも、話しても良いのかな。殿下ならきっと聞いてくれる。そう確信できる程度には、私は殿下を信頼していた。
「結局、そのあと私、娼館に入れられたんです」
そう言った瞬間、殿下が目の前から消えた。というか、椅子から滑り落ちたらしい。床に尻餅をついたまま、殿下は愕然として叫んだ。
「……あ、アルカが!?」
「何ですかその反応」
「絶対無理でしょ……向き不向きってものがあるんじゃないかな……」
「ちょっと、どことなく失礼じゃないですか? 私だってきっと仕事となれば上手いことやりましたよ」
放心したような顔のまま、殿下は座席によじ登って元の位置まで戻った。
「……って、『きっと』?」
殿下は首を傾げる。私はむすっと唇を引き結んだまま頷いた。
「思うところがあって、すぐ脱走したんです」
「そっか……なるほどね」
私は遠い記憶に思いを馳せながら、ほんのちょっと微笑んで見せた。
「……気にします?」
「……別に、アルカはアルカだから」
歯切れ悪く殿下はそう言って、ふいと目を逸らす。私はにこりと口角を上げると、身を乗り出した。
「娼館に入れられたその日に、私、街を出ました。あのときの記憶は朦朧としていて覚えていないんですけど、結局娼館では何もしないで脱走しちゃったんです」
そう告げると、殿下はあからさまにほっとした様子で胸をなで下ろした。「詳しいことを聞いても?」と視線が帰ってきたので、私は大きく頷く。
「ノッポが足を失って、もうどうにも食べていけなくなったので、ノッポは私を娼館に連れて行きました。今思えばどういう繋がりだったのか分かりませんが、無条件で受け入れてくれる約束だったみたいなんです」
殿下は少し面妖な顔をした。私も、未だにどういう訳だったのかよく分かっていないのである。
「ろくに働けないノッポが、これ以上私を養うのなんて無理でした。だから私も納得して、自分一人でも何とかしようと思ったんです。そのための場所をノッポが用意してくれた訳ですし。……兄貴分からの最後のプレゼントとでも思って、感謝しなきゃな、とかって考えてたんです」
そこまで言って、私は重いため息をついた。殿下は眉を上げて、異変に気づいた様子だった。
「でも、そうじゃなかった。……売られたんです、私」
私は項垂れてそう呟く。殿下はゆっくりと息を吐いた。
「ノッポが、お金を受け取っているところを覗き見してしまったんです。それで、私、頭が真っ白になって」
ノッポが笑う横顔を眺めた。本当はどんな顔をしていたのか分からないけれど、そのときの私には、酷く歪んだ笑顔に見えたのである。
「……裏切られた気持ちになりました。今思えば、身勝手な気持ちですけれど」
待っているように、と言われた部屋でしばらく大人しくしていたけれど、どうしてもじっとはしていられなかった。足音を忍ばせて廊下に顔だけを出すと、私は左右を見る。外から見た印象と同じ、きちんと建てられた建物だった。
ノッポはどうして、こんなところと縁があるのだろう。少なくとも私は、それを知らなかった。……いや、ノッポが全てを私に話さなきゃいけないなんてことはない。当たり前のことだ。きっとノッポは私の為にここを用意してくれたのだろう。
そのとき、ぼそぼそとした話し声が耳に入った。はっと息を飲み、私は体を強ばらせる。
「――んなに貰えるのか、」
ノッポの声だった。敏感にそれを拾い上げた私は、声のした方向に足音を忍ばせて近寄る。半開きになった扉にそっと手をかけ、部屋の中を覗き込んだ。
「感謝するよ」
それは、確かにノッポの声だった。ノッポの声をしたその人は、金を数えていた。私は声もなくその横顔を見つめていた。
血の気が引く。頭がぐるぐるとした。
ノッポは、頬を吊り上げて変な風に嗤っていた。
……そこから後のことは覚えていない。私は建物を抜け出し、街を沢山走った、ような気がする。――――捨てられたんじゃない、私が捨ててやるんだ。そんなことを譫言のように繰り返しながら。
この街にはもういられない。そう思った。二度とノッポの顔を見たくなかった。どこへ行こう。例えば――王都に行けば仕事がある。そうだ、ノッポに紹介なんてされなくたって、私は一人で生きていけるのだ。
「あのときはあまりに混乱していたんです。冷静になって考えてみれば、それが最善だった。ノッポは正しい判断をしていました。私は娼館で食いつなぐことが出来るし、ノッポは私という負担がなくなって楽になる。良いことばっかりです。そう、本当に」
ぽつぽつと言葉を落とす私を、殿下は黙ったまま見つめていた。口は挾まなくても、相槌もなくても、殿下は私の言葉を聞いてくれている。私には確信があった。
「何も間違ってない。良いことずくめなんです。……それなのに私、何であんなに傷ついたんだろう」
私は膝の上に置いた拳を、ぎゅっと握りしめる。
「混乱のまま、私は荷馬車に潜り込みました。王都に行くって言ってたから、それにくっついていけば良いと思ったんです」
王都は、何も持たない貧民には、あまりに遠すぎるのだ。勝手に入り込むしか方法はなかった。
街の入り口で停まっていた荷馬車にこっそり入り込んだ。荷物の隙間に入り込み、覆いを被って息を潜める。心臓は嫌な感じに高鳴っていた。もし見つかったら、と思ったが、無事に馬車は走り出す。
罪悪感というものはなかった。そんな倫理観も私にはなかった。ただそこに都合の良い馬車があったから乗っただけ。
砂の舞う道を順調に進んで、数日目のことだった。覆いを剥ぎ取って私を見つけた御者は、唾棄すべきもののように私を見下ろして嘲笑した。心が冷える思いがした。
――どこかの淵から、突き落とされたみたいだった。
「……でも、途中で見つかって、そこで引きずり下ろされました。そうですよね、荷物が多ければその分、馬も消耗しますから」
自嘲を込めて吐き捨てるように言うと、殿下は腕を伸ばして私の手に触れた。はっとして顔を上げると、殿下は笑顔で自分の唇を指す。その仕草に、私は今まで、うんと強く唇を噛みしめていたことに気づいた。
殿下は、静かに首を傾けた。
「そこを、僕が拾った、のかな?」
「……はい」
力なく頷く。殿下は「そっか」と囁いた。
「アルカ」
殿下は不意にはっきりした声で私を呼んだ。「はい」と私は静かに応えた。
「話してくれて、ありがとう」
「……私が話したかっただけですから、」
私はへらりと笑う。――やっと殿下に出会えた。そんな思いだった。
地面に倒れ伏す私を揺すって、その人は私を助けるように命じた。目を開けた先に、朝日を背に悠然と微笑むその人がいた。
全身は様々な理由で痛んでいたし、空腹のあまり、体の中心はぽっかりと空いたように感じた。胸は締め付けられるように苦しかったし、心は不安と恐怖でいっぱいだった。
私はそれまでに何度も見捨てられてきた。神から、親から、街の人間から、子供たちから、――そしてノッポからも。もう何も信じてはいけないのだ。頼れるものはこの身ひとつしかありはしないのだ。
それなのにその人は言った。『何だか見捨てておけないんだ』と。
――ああ、神様。
あれが私の、人生で最も素晴らしく、輝かしい幸運でした。
「殿下、」
私の手は震えていた。力の入らない手を伸ばすと、殿下はそれを受け取ってくださった。殿下は平然と微笑んでいた。私は殿下の手をきゅっと握った。
「――あなたと出会えたことが、あなたが下さった全てが、あなたの存在が、私にとっての救いです」
私は一体何に、どのように感謝をすれば良いのだろう。……どうやってもこのご恩は返せそうにないのだ。私の貧相な頭では、その方法を思いつかない。
「大げさだよ」と殿下は苦笑して、私の頭を撫でた。私は半ば呆然としたままその手を受けていた。
形容も出来ない幸福だった。私は殿下に救って頂けて、今もお側にいることを許されている。あまつさえ殿下から好いて頂けて、もはや私はこれ以上何を望めば良いのか分からなかった。
私は強い決心と共に拳を握りしめた。
「……私、この命に賭けても、殿下をお守りします。――絶対に」
「うーん……、それより僕は、一緒に生きる道を探したいかな」
そう言って、殿下は驚くほど柔らかく微笑んだ。




