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馬車が止まり、こんこん、と窓が叩かれた。抜き打ちで窓を叩くと言っていたのは本当らしい。
わざとらしい顰めっ面で、隊長が馬車の中を覗き込んでくる。バッチリですよ、と私は窓に向かって親指を立ててみせた。隊長が小さく頷き、その顔が引っ込む。ふぅ、と息をついた次の瞬間、ほとんど意味をなさないようなノックと共に扉が開かれた。隊長の顔が覗く。
「うわぁ!」
「二段階確認だ。念のためな」
座席からずり落ちて驚いた私を隊長は冷静に見下ろして、ため息をついた。
いくつかの休憩の度に隊長やら先輩やらと、手を変え品を変え、色々な人が抜き打ちでやってきた。軽い雑談混じりの会話を交わすと、その人たちはどこか安心したような顔で去って行く。初めこそ、あまりの信頼のなさに憤慨してしまったが、だんだんとそういう訳ではないのかな、と私も察してくる。
「アルカ先輩! そろそろ元気は出ましたか!?」
しまいにはこの、やたらと開けっぴろげ、というか隠す気のないジャクトの言葉である。これで私は確証を得た。ジャクトがそう言った途端に先輩が「おいこら」とジャクトの口を塞いだのなんて、完全に決め手だろう。
私は苦笑し、肩を竦めた。
「元気だよ」
そう答えると、ジャクトはほっとしたように「それは良かったです」と相好を崩した。ジャクトの後ろで、様子を窺うみたいにうろうろしている隊長に目を向ける。私の視線に気づくと、隊長は取り繕ったみたいな厳格な表情で、素早く腕を組んだ。
「……アルカ・ティリ。何をにやにやしている」
「んん、いえ、何でもないです」
にんまりと口角を上げて隊長を見つめると、隊長は居心地が悪そうにしながら顔を背ける。
「……ご心配おかけしてごめんなさい」
そう告げた言葉に、隊長は「何の話か分からないな」としらばっくれてみせた。
そんなこんなで宿に着く。今回泊まる街はイレチアという比較的大きな街で、部屋の窓から見ただけでも、その街並みが広大なのがよく分かった。
「イレチア……」
その名前を呟くが、いまいちぴんと来ない。私が自分の育った街の名前を分からないことから、殿下からは『少しでも覚えのある街だったらすぐに言うように』と指示されている。よくよく考えてみれば、目的地を決めるのは私の記憶一つなのである。案外、あてのない旅ってやつだね……。
私が覚えている街の情報を聞いた殿下は、きっとそれなりに大きい街だったのだろうと言っていた。小さな街にはあまり大規模な貧民街が出来ることはないのだそうだ。都市だとか、栄えている大きな街の周辺に、そうしたものは形成されるらしい。
「でも、ここではなさそうかな……」
窓に張り付いて街を見下ろしながら、私は首を捻る。見覚えのない古びた時計塔もあるし、多分ここは私の生まれ育った街ではなさそうだ。
***
静かな部屋の中で、私は膝を抱えて椅子に座っていた。夏が近づいてきているせいもあり、夜に窓を開けてもあまり寒さは感じなかった。
「イレチア、ジゼ=ソビエ、ジゼ=ユジータ、……ジゼ=イール跡地、」
道沿いの大きな街の名前を順に呟く。もう少し行った先の地域では、今の国が出来るより昔、街のことをジゼと呼んだらしい。その名残が街の名前に残っているのだと、本で読んだことがあった。
「それより先の街の名前は何だったっけ。ジゼ=……えーと」
ぼそぼそと独り言を零しながら、私は指を折って数える。ここから四つか五つほど先の街まで行ってみて、どれも故郷でないと感じたら、その時点で帰還を決めるそうだ。それまでに見つかるだろうか、と私は膝に顎を置いた。……見つからなかったら、そのときはそのときである。自分の中できちんと整理して、また日常生活に戻ろうという覚悟はしていた。
部屋を見回すにつけても、今の自分の境遇にめまいがしそうだった。清潔な室内はほんのりと良い香りがしたし、自分が今座っている椅子も、座面はふかふかで、とても綺麗なものだった。空腹は感じていないし、どうしようもない孤独は遠い過去のもの。
「私は……」
何を言おうとしたのかは自分でも分からなかった。膝に額を乗せ、私は呻く。
私はもう、ノロマではない。私の名前はアルカ・ティリだ。殿下が下さった名を掲げて生きるのだ。
そのことに一抹の淋しさを覚え、私は慌ててその感情を振り払った。……そんなこと、思っちゃいけない。首をふるふると横に振って、私は両手で自分の頬を挟んだ。
外の街並みのもっと向こうには、だだっ広い貧民街が見えていた。夜になってもちらほらと灯りの見えるこちらの街とは違って、あちらは一つの灯りもなく、真っ暗な闇に沈んでいる。そうした光景を見ると、どうしても意識が吸い寄せられるのは過去のことである。昔のことを思い出してしまうのは、故郷に向かっている今、当然のこととも言えた。
辛いことをわざと思い出さなくたって良い。でも、無理に目を逸らしてなかったことにしても、きっと私は忘れられないだろうな、と思うので。
それなら一度くらい向き合っても良いかもしれない。私は抱えていた足を下ろし、背もたれに体を預ける。はぁ、と私はため息をついて、外をちらと見やった。……もう、ひとつひとつの思い出に傷つく時期は過ぎてしまったのだ。
ノッポとの生活は当然のように厳しかったが、案外と私はすぐに馴染んだ。孤児院では、貧民街というものはどうしようもない無法地帯で、ならず者の住まう場所で、もしここを出ようものならあっという間に身ぐるみ剥がされて殺されるのだ、という風な話を聞いていたが、その真偽はいまいち分からなかった。職員が私たちの脱走を防ぐために誇張したのかも知れないし、あるいはそういう側面も確かにあって、単に私たちが幸運なだけだったのかも知れなかった。
それでも、いつ故意に殺されるか分からない孤児院に比べればマシかな、というのが、私とノッポの見方だった。
タイミングも良かった。実際には違うのだけれど、私たちはどうやら燃える孤児院の火の中から逃げ出してきた子供だと思われているようで、突如すみかを失った子供に対する目はそれなりに優しかったのだ。
ノッポは日中、なにがしかの仕事を見つけていたし、私も近くにある小さな食料品店で手伝いをすることで、余った商品を分けて貰ったりだとか、そうして私たちは何とか毎日を食いつないでいた。
「街に入りたい?」
荷台から木箱を下ろしながら、私は頷いた。店のおかみさんは「うーん」と顎に手を当てる。
「街に行けば沢山仕事があって、もっと良い暮らしが出来るんでしょう?」
「一概にそうとも言えないけどねぇ……」
悩ましげに首を捻って、おかみさんはため息をついた。
――今思えば、彼女が何を言わんとしていたかも分かるというものだ。私は内心で呟いた。口の中が妙に乾いてしまっている。手を伸ばして水差しを取ると、グラスに水を注ぐ。それを口に含みつつ、私は苦笑した。こうも容易く安全な水が手に入るなんて、本当に便利で快適な生活である。
とはいえ、あのときの私も大概だったのだ。端的に言えば、舐めていた。色々とだ。
水を飲み下して、私は長い息をついた。
――私たちはどうしても街に上がりたかった。街に行けばきっとこんな境遇も改善されるのだ、私たちの生活がこんなに苦しいのはこの環境のせいだ。そう盲信して、私たちはおかみさんの協力のもと、街へと上がった。
「すごい……」
荷車の品物に隠れながら、私は大きな門をくぐった。街に入るのは初めてだ。これが、きちんと整えられた街か。
「こら、頭を引っ込めろ」
ノッポに頭を押さえられて、私は首を竦めた。おかみさんたちは、普段から街で仕入れを行っているから街に入るのも容易いけど、私たちみたいな孤児が街に入ってくるのは、あまりいい顔をされないらしい。
道を行く人たちはみんな綺麗な格好をしていて、道はどこもかしこも広くて清潔で、まるで夢みたいな光景が広がっていた。
くらくらした。私たちが毎日、いつ死んでしまうだろうかと危惧していた、その隣で、こんな世界が広がっていたなんて。明日はどうやって生き延びようかと不安に包まれながら眠りに落ちる、そこからほんの壁一つ隔てたところに、こんな、街が、あったのだ。
そのとき巻き起こった感情はよく分からなかった。言葉に出来ないやるせなさに襲われながら、私は希望に胸を高鳴らせていた。
「いいかい、戻ってきたくなったらいつでも戻ってくるんだよ」とおかみさんは言った。その言葉に頷きはしたが、私にさして戻るつもりはなかった。こんなに綺麗な街があるのに、それをよそに貧民街に店を構えるおかみさんを不可解に思いさえした。
どこまで行っても街並みは綺麗だった。歩いていればどこからともなく甘い香りがしたし、色彩豊かな様々なものが目に入った。道行く人はみんな幸せそうで、今日から私もこの一員になるのだと夢を描いていた。
街の中心にはとびきり大きな建物があって、白くてきらきらしたそれは、常に天を突いていた。
「あれは何?」
私が指さした先を見て、ノッポは「ああ、」と呟いた。
「神殿だ」
そう告げたときの、ノッポの苦々しげな顔を、私は今でも忘れられないでいる。
結局のところ、私たちは街では生きていけなかった。理由は単純だった。私たちは貧しかったのだ。
私は長いため息をつく。空になったグラスを机に戻し、立ち上がると窓を閉めて、カーテンに手をかけた。このカーテンの布一枚を買う値段で、貧民街の住人の何人が食べ物にありつけるだろう。……そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさした。
別に恵まれた生活が悪いって言うんじゃない。それは努力の成果であり、あるいは与えられた幸運であり、それを手放す必要も、恥じる必要もない。
恥ずべきは、と、私は唇の先で呟いた。
恵まれた場所から、苦しみに喘ぐ人間を嘲笑するような、浅ましい根性だろう。
「神様に愛されなかった、か……」
かつて向けられた言葉を反芻しながら、私はカーテンを閉じ、燭台の炎を吹き消した。
ベッドに潜り込んでも、脳裏に蘇るのは昔のことばかりだ。次から次へと、襲いかかるように浮かび上がる記憶を一つ一つ噛み砕いて、私は固く目をつぶった。
――ねえあれ買って、と、知らない子供が、明るい声で笑う。先程突き飛ばされたせいで、口の中には砂と血の味が混在していた。頬についた砂や泥を払いながら、私は唇を噛んだ。
昨日今日と、何だか調子が悪い。ゴミ捨て場を漁っても大したものは見つからないし、今までこっそりと使っていた井戸を使用しているところを見つかって、酷く暴力を受けた。
街の人たちは、私たちのような身寄りのない孤児に、どうしようもなく厳しかった。私たちに分け与えることの出来るものなんて数え切れないほど持っているのに、彼らは決して私たちを視界に入れようとはしなかった。まるで私たちはこの街に存在しないようだった。
ふわりと甘い香りが漂ってきて、私は思わず顔を歪める。先程の子供の声が蘇る。
「私はあんなものいらない」と、低い声で吐き捨ててみた。別に私はあんな、腹の足しにもならないもの、欲しくなんてないのだ。こっちからあんなもの願い下げだ。
……そう言ったからといって、それが手に入るはずもないのに。
ふっと人の気配を感じて、私は目を開ける。全くこの人は、と思わず内心でため息をついてしまった。
「――殿下、旅先なのにどうやって私の部屋の鍵を」
「ちょっと拝借してきた」
悪びれる様子もなく殿下は口角を上げて、ぱたんと扉を閉じる。私は布団から出る気もしなくて、上体を起こして壁に寄りかかると、殿下をぼんやりと眺めていた。
「アルカ」
殿下が囁く。私は数秒してから頷いた。
「アルカ、」と、殿下は念を押すように言って、私が差し出していた手を取る。
「眠れそう?」
ほら、今日も一日中馬車の中だったから、と、殿下は小さく微笑んだ。言い訳じみたその言葉に、私は僅かに苦笑する。誤魔化すように心持ち顔を伏せると、殿下は身を屈めて私の目を覗き込んだ。
「どんな話でも聞くよ。……何でも話してよ、アルカ」
殿下は不意に寂しげな表情を浮かべて、低い声で囁いた。私が無言で目を見開くと、殿下は「ごめん、」と息を飲んだ。
「無理に聞き出すつもりなんてないんだ」
分かってます、と私は胸の内で静かに頷いた。あなたがずっと私に何も訊かないでいてくれたことも、あなたがずっと待っていてくれたことも、ずっと好奇の目から守っていてくれたことも、ちゃんと分かっている。
「……ねえ、どうしてですか?」
私はぽつりと呟く。殿下の顔を見たら、堰を切ったように言葉が零れだした。
「どうして私たちは神様に愛されなかったんですか? 親に捨てられたからですか? それとも私が、」
咄嗟に息を止める。殿下に頭ごと抱き寄せられていた。心臓の音がゆっくりと伝わってきた。
「返すべき『正しい』答えは分かっている」
殿下は呻くように囁く。水面から顔を出すように、私は殿下の肩に顎を乗せた。
「私が、神様を愛していないから、……ですね」
「そうだ」
殿下が苦々しい声で頷く。私は思わず固く目をつぶった。
「――だって、私、愛せないです」
何度『それ』に対して呪詛を吐いたか分からない。しまいにはそんな恨み言も言わなくなってしまった。だって私たちに神様なんて、どこにも、
「私を救ってくれない神様のことなんて、愛せない……っ!」
「それでいいよ」
殿下は低い声で告げた。「アルカは何も悪くない」
私の頭を数度撫でて、殿下は息を吐いた。殿下がどんな顔をしているかは大体知れた。きっとどこまでも鋭い目で虚空を見据えていることだろう。
「貧民街にいるより、普通の街にいる方が、私、よっぽどつらかったんです」
私は囁いた。
「あんまりにも無邪気に、当然のように、恵まれた人が存在しているから。自分とは異なる世界があるって突きつけられて、どう足掻いたって届かないものが目の前にぶら下げられて、それで呑気に『いつかああなりたいな』なんて笑ってられるほど、私は可愛くないです」
今でも時折、そんな感情に襲われることがある。きらびやかな催し事なんかに参加するときや、街中で良い香りがしたとき、幸せそうな家族を見たときなんかに。
「ノッポ、と私が呼んでいた少年と一緒に、私は貧民街を出て、街の中心部まで行きました。でも、そこで私たちは生きていけなかった。何から何まで違っていたんです。その違いに打ちのめされて、私たちはすぐ貧民街に戻りました」
街に仕事なんてなかった。……正確に言おう、私たちの為の仕事なんてなかった。特技も何もない、文字は読めず、計算も出来ず、住処も家族も持たない一文無しの子供。誰もが見て見ぬ振りをした。
「それでも、私にはノッポがいただけ幸運でした。……二人なら、なんだって乗り越えられると思っていた」
私は静かに目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、鋭い目をしたノッポの姿ばかりだ。思えば私は、ノッポが心から笑っている姿を見たことがないんじゃないだろうか。
私たちは同じものを見てきた、唯一無二の同士だった。孤児院で生き延び、間一髪で孤児院もろとも燃やされずに済んで、それから支え合って生きてきた。ノッポは決して家族などではなかったが、住処と定めていた場所で待っていれば、ノッポは当たり前のように帰ってくる。……あの頃私は、きっと家族というものはこういうものなのだろうと、ノッポの向こうに幸せな夢を見ていたのだろう。
「貧民街に戻って、私たちは尽くせる手を尽くして日銭を稼いで食いつないでいました。そんな生活も数年続けば、だんだん慣れてくるものです。細々とした暮らしながら、案外私たちは幸せでした」
――だからきっと、揺り戻しが来たのだ。
険しい表情で目を上げた私に、殿下は何か感じ取ったように唇を引き結んだ。私はぎゅっと眉をひそめ、唇を噛む。




