8
何やら言いたげな殿下の視線にあえて気づかないふりをして乗り切り、その日を何とか終えた。とはいえ永遠にうやむやにして逃げ切れるとも思っていない。
「おいで、アルカ」
いっそ恐ろしいほど輝かしい笑みで待ち構えている殿下に、どうしても及び腰になってしまう。そう、今日の日程も丸々移動に当てられている。……馬車で、だ。
「そ、そうだ、隊長も一緒に乗りません?」
「お前は何を言っているんだ」
「何でもないです……」
苦肉の策で隊長に話しかけるが、本気で訝しげな表情が返ってきてやむなく折れた。私は項垂れながら、仕方なく殿下の待ち構える馬車に近づき、そっと中を覗き込む。
殿下は開口一番に言い放った。
「そんなに嫌そうな顔をしなくても良くない?」
私はむりやり口角を上げてため息をつく。
「やっぱり説教ですか……?」
「説教?」
殿下が変な顔をした。「何について?」
その反応に、私はかっと目を見開く。……これは……案外何も気にしていないご様子である。
何だ、どうやら大丈夫らしい、と肩の力を抜いて馬車に乗り込み、扉を閉めた私は、不意に手を引かれて息を飲んだ。
「な、何を、」
「こっち」
目を白黒させる私をやや強引に隣の席に座らせ、殿下はにこりと微笑む。あれ、と私は頬を引きつらせた。
「……まさかアルカに先を越されるとは思わなかったな」
あからさまに拗ねた調子で殿下は囁き、頬に手を添えると、ゆっくりと身を屈めた。
……頭が、沸騰しそうである。
「えーん! 隊長ー! 殿下が朝っぱらから本気出してきまーす!」
私は頬を押さえたまま馬車を飛び出し、鞍を運んでいた隊長の元へ避難した。駆け寄ってきた私を見て隊長は血相を変え、馬車の中で眉間を揉んでいる殿下に詰め寄る。
「殿下、」
「誤解だ……ほっぺたに一回だけだよ……」
「……あまりこいつをいじめないでやってくださいね」
「違うんだ……元々はアルカが手を出してきたんだ……」
沈痛な表情で項垂れた殿下を、隊長に隠れながらちらちらと見る。殿下の言葉を聞いた隊長は、しらっとした目を私に向けた。
「……痴話喧嘩の仲裁を俺に頼るな!」
「ひ、ひどい!」
一喝され、私は愕然と顎を落とす。隊長は鼻息荒く腰に手を当てると、ため息をついた。
「良いですか、今日は抜き打ちで扉を開けますし窓も叩きますからね」
「何でそれ僕に言うの?」
「殿下の方が信頼がおけないので」
隊長は真顔で返した。殿下はすっと目を細める。何事か言い返そうとしたように口を開きかけたが、途中で閉じた。
大人しく馬車の中で健全に座って移動である。殿下は時折私を見たり外を見たりしながら、特に何か喋るでもなく静かにしていた。
私はぼんやりと背もたれに体を預けながら、どうしようもなく昔の記憶に引っ張られる。外の景色は徐々に見覚えのある荒れ地へと移り変わっていた。遠くの日々に馳せられようとする意識に抗うことなく、私はゆったりと目を細める。
だいじょうぶ。私は内心で囁いた。
大丈夫、私には殿下がいる。そう呟いて、胸に手を当てた。
……大丈夫、私は今、確かにここで脈打っているのだ。
***
孤児院を抜け出したって、貧民街にいたんじゃ何も変わらない。街から吐き出されるごみを漁って生きてゆくことなど出来やしないし、したくない。
貧民街は街の周辺をぐるりと囲むように広がり、無秩序に建物とも言えないような壁と屋根が乱立していた。私たちのいる辺りは街にほど近い、まだマシな場所だった。街に続く門はすぐ側だった。
街に行けば何とかなる。それが私たちの合い言葉のようなものだった。その真偽なんて誰も知らない。
秘密裏に仲間を募って、私たちは夜半に孤児院を抜け出そうとした。先導するのはもちろんノッポとメガネで、二人は先の仲違いのことをわざとなかったことにすることに決めたようだった。
孤児院を脱走するのを、施設の大人たちは阻止したいようだった。それがどういう理由かは私には分からない。けれど、孤児院を出るところが見つかってしまえばどうなるかは、昔から知っていた。
「行くぞ」とノッポが低い声で囁いた。私たちは息を潜め、窓を開け放つと、一人ずつ慎重に外へと出る。季節はもうほとんど冬のようで、夜になるときんと鋭いような冷たさが満ちていた。
孤児院を囲む柵は私たちの身長より高く、何か物を使うか誰かと協力するかしなければいけないのは自明だった。調達できるような道具なんてない、私たちは自分たちで全てを何とかしなければいけなかった。
とりわけ身軽で体が利くのが私だったので、先陣を切るのは私だった。ノッポの肩に足をかけて、私は大きく飛び上がる。柵の上に手をかけて体を引き上げると、私は後ろを振り返った。柵に足を絡ませて体勢を固定すると、後ろから上がってきた少年を引き上げる。ここで私の役目は終了だった。
とん、と軽い音を立てて柵の外へ降りた私は、思わず息を止めて周囲を見渡した。何てことはない、普段柵の内側から見ていた景色と変わらない光景である。……それでも、私は、この柵の外に出たのは初めてだったのである。少なくとも私の記憶の範疇においては。
私が引き上げた少年が、次々と子供たちを支えて柵を越えさせる。途中でメガネもこちら側に来て、一息ついた。
「見つかった!」
その矢先のことだった。鋭い声が闇の向こうから届き、私たちは一斉に柵に向かって向き直る。見張りをしていた子供たちが全力疾走してくるのを見るやいなや、まだ柵の中にいた子供たちは一斉に柵にしがみついた。これまで静かに一人ずつ上っていたのが嘘のように、騒々しく金属の軋む音を立てて柵を越えようとする。
……でも、そんなに簡単に上れるような代物じゃない。
「行くぞっ!」
メガネが叫んで走り出す。私は目を剥いてメガネを引き留めた。
「まだノッポが!」
そうだ、みんなのために踏み台役を買って出たノッポは、まだ柵の中にいた。一際背の高いノッポは、小さな子供たちを完全に放棄して、柵の頂点の方まで達しようとしている。あともう少しでこちら側まで来られる。
「ノッポ!」
私が呼ぶと、ノッポは一瞬こちらを見た。あと少し、あともう少しだ、と、私はメガネの服の裾を掴んだままノッポを仰ぎ見る。
……と、ノッポの体勢が大きく崩れる。下から何かに引っ張られたような動きだった。
「放せ!」とノッポが声を荒げて腕を振り払った直後、小さな悲鳴が聞こえる。向こうからは灯された火がいくつも近づいてきていた。
「ノロマ!」
メガネが怒鳴る。私は立ち竦んでぱっとメガネの服を放した。気づけば、角を曲がって火の明かりらしきものが迫ってきている。
「行くぞ!」とメガネが私の腕を鷲掴みにして走り出した。咄嗟に振り返ると、ノッポはまだ柵の上の方で何やら手こずっている。私は一瞬の躊躇ののち、ノッポから目を逸らした。メガネのあとについて走り出す。まださして息が上がっている訳でもないのに、心臓がずきずきと痛んだ。どうしようもない痛みだった。「ノッポ、ごめん」と唇で呟く。
暗い路地に入り込む。真っ直ぐな道なんてものはどこにもなくて、果てしなく入り組んだ壁の隙間をすり抜けるようなものだった。足下に転がっているのが何なのかも、この暗闇じゃあ分かりやしない。次第に息が上がっていくのを感じながら、私はメガネの後ろ姿を見失わないように、必死についていった。
子供たちの数もだいぶ減っていた。柵を越えられなかったのもいるし、いつの間にかいなくなっていたのもいる。職員に捕まったのもいた。
少し開けた場所に出て、私たちは分かれ道を前に少し足を緩めた。メガネが「こっちだ」と道の一つを指さした瞬間、そこから「いたぞ!」と大声が聞こえる。
「……と言ったがそれは嘘」
メガネは小さな声で付け加えると、別の道に飛び込んだ。
どれほど走ったか分からない。が、貧民街とあちらを隔てる大きな壁は、着実に近づいてきていた。メガネが目指しているのは、壁の中でも補修がされている地点で、足場の組まれたそこなら、壁を越えることが出来るはずだと言っていた。
「あった!」
メガネが荒い息の隙間に指をさす。私はぱっと顔を上げてそちらに目をやった、瞬間だった。
「あっ!」
突如として地面が消え、私は何かに全身をぶつけ、それから地面に叩きつけられた。呆然として体を起こすと、どうやら何かの穴に落ちてしまったようだった。咄嗟に頭上を見ると、丸く切り取られた暗い空が見えた。
「井戸……?」
大きさからして、これは恐らく掘削途中の井戸だろう。……他に地面に穴を掘る理由はない。一人じゃ上れない深さの穴だった。私は両手を差し伸べてメガネを呼ぶ。
「ノロマ!?」
突然消えた私の姿を探すようにメガネが狼狽える。そしてメガネは穴の底にいる私に目を留めた。「メガネ、引っ張って!」と私は穴の中で伸び上がるが、メガネは数秒の躊躇いの後、ふいと顔を背けた。
「待っ……!」
私は穴の壁面に縋って叫ぶ。返事はない。……見捨てられた、と、その可能性に思い至った途端、首の後ろがぞわりとする。見捨てられた存在は、これまでにだって何度も見てきた。
……水に毒を入れて殺されたあの子、私たちが身代わりにして切り捨てたあの子。……毒を盛られて私たちの目の前で冷たくなったルラ、
――――私が目を逸らして見捨てた、ノッポ。
何もおかしなことなんてなかった。元々が親に見捨てられた私たちである。邪魔なものは切り捨てる。私たちはそうすることでしか生きていけない。
でもそれがいざ自分に差し向けられたときになって、戦慄するような恐怖に襲われるのだ。私は土の壁面に爪を立て、声を限りに叫ぶ。
「っ嫌だ! 置いていかないで!」
靴は走っている内にいつしか脱げてしまっていた。足の裏はもう傷だらけだ。さっきまで気にならなかった痛みが、今になってじくじくと主張し始める。他にも大小様々の傷は沢山あった。足首を捻った感じもした。でも、私はまだ走れる。まだ役に立つ、まだ逃げれる、まだ一緒に……!
「ここから出して! 見捨てないでよっ! いやだ!」
捨てないで、そう縋った。私を捨てないで。……ノッポを見捨て、メガネに見捨てられた今、私に居場所はどこにもなかった。
助けなんて来ない。分かりきっていたことだった。ノッポが何度だって口を酸っぱくして言っていた言葉だ。
――なあノロマ、俺たちを救ってくれる奴なんて、どこにもいやしないんだぜ。
その言葉が、今更真に迫ってくる。ノッポは言っていた。『俺たちに神なんていない』。そうだ、その通りだ。誰も私たちを掬い上げてなんてくれない。
自分で這い上がるしかないのだ。誰の手助けも、期待なんてしちゃいけない。
私は歯を食いしばって、固い土に足をかける。がり、と爪が食い込み、思わず顔を歪めてしまった。あっという間に手も足も土まみれだ。幾度となく滑り落ちて底に戻り、それでもここから出るしか私に選択肢はないのだ。早く戻れば、もしかして、もしかして、メガネたちに追いつけるかもしれない。
やっとの思いで穴をよじ登り、顔を上げた私が見たのは、壁の頂点に達しようとする小さな背中たちだった。
「メガネ、」
私は呆然と呟く。よろよろと歩き出し、それはやがて足を速めて疾走へと変わった。私は壁の真下に駆け寄り、拳で壁を殴りつける。足がかりになりそうな足場は、飛び上がったくらいじゃ届かないところにあった。
私はどうすることも出来ないまま、壁を上っていく仲間たちを眺めた。仲間を集って、みんなでここを脱出してみせるのだ、と誓い合ったのに、結局はこのざまだ。ほとんどが何らかの理由で見捨てられた。……私もだ。
メガネが壁の頂点に手をかけた。メガネはこれで貧民街を出て、晴れて街へ上がることが出来るのだ。街の中というものは、一体どういうものなんだろう。
その瞬間、何かが尾を引いて暗闇に光の線を描いた。私は息を飲んで顔を上げる。
「矢……?」
炎をたなびかせて空を切るあれは、矢ではないのか。それは壁の向こうから放たれ、真っ直ぐにメガネに向かっていた。メガネは迫り来る矢をその目ではっきりと捉えたようだった。メガネは矢を避けようと大きくのけぞる。
……それは酷くゆっくりとした光景に見えた。メガネが体勢を崩す。その体がこちらに向かって傾き、落ちてくる。
メガネ、と、唇で呟いた。声は出なかった。壁に手をついて、私はいつになく素早く距離を取った。その直後、びっくりするくらい重たい音を立てて、ひとつの体が落ちてきた。かしゃん、と、軽く鋭い音を立てて、眼鏡が地面に転がる。その響きは、ノッポが眼鏡を叩きつけたときのことを彷彿とさせた。
肩を矢で刺し貫かれた、小さな体が落ちてくる。あとから、他の体も。私は呆けたようにその光景を眺めるしか出来なかった。
……要するに、メガネたちは、拒まれたのだ。それくらいのことは分かっていた。上に住む街の人間たちは、火矢を使った攻撃を厭わぬほどに、私たちを排除しようとしている。
眼下では、痛みに呻く子供たちが助けを求めるようなことを口にしていた。誰に救いを乞うているの、と、私は遠く痺れたような思考で彼らを見下ろした。……私は彼らを決して救えない。それは分かりきっていた。それならば一体何が、彼らを救うのだろう。
足下で静かに眼鏡が語る。『夢見て何が悪い』。私はそれに対する答えを持たない。でも、――夢なんて叶うものじゃないな、という漠然とした諦念を抱いて、私は静かに目を伏せた。
「ノロマ、」
不意に声をかけられ、私は耳を疑いつつ振り返った。果たしてそこには、私が見捨てたはずのノッポがいた。
「ノッポ……」
私は糾弾されるのだろうか。そんな恐れを混じらせながら呟くと、ノッポは無言で首を横に振った。分かってる、とでも言いたげな態度だった。
「残ったのは俺らだけか」
その言葉で、私が見捨ててきた他の子供たちがどうなったかが分かった。僅かに頷くと、ノッポは足を踏み出し、私の側まで歩いてくる。そこで初めて、ノッポは足下に転がった眼鏡に気がついたようだった。
ノッポの視線が素早く地面を這った。仰向けに倒れ、目を閉じたまま苦悶の表情を浮かべるメガネを捉えると、ノッポは重いため息をつく。メガネはもう動かなかった。頭から落ちたのだから、「そう」なっても不思議ではなかった。
ノッポは地面の眼鏡をじっと見下ろした。レンズはとっくに外れている。ノッポがやったことだ。もう眼鏡としての用途なんて果たせないのに、それでもメガネはこれをかけ続けた。ノッポは不意に、しゃくり上げるように鋭く息を飲む。喉の奥で低く唸り、片足を眼鏡の上に持ち上げる。私は黙ってそれを見つめていた。
結局、ノッポは眼鏡を踏まなかった。――踏めなかった。
倒れ伏す子供の体を爪先で小突きながら、ノッポは何かが切れたように嗤いだした。
「俺もこいつらに置いて行かれたクチだ。ちょっと手こずっただけなのに」
よく見れば、ノッポは妙に傷だらけだった。一人で孤児院の柵を越えるのは、どれほど大変だったろう。
「なあノロマ、これからは二人でやっていこうぜ」
ノッポは頬を吊り上げてそう言った。
「俺はお前のすばしっこいところを買っているんだ」
私はそうと気取られぬように、僅かに目を見開く。……ノッポは、私を、許すのか。私は少しの間躊躇し、それから「分かった」と小さく頷く。
呻く子供たちから目を逸らして、私たちは歩き出した。
誰とも知れない何かが救ってくれるのを期待してはいけないのだ。私たちは自分で自分を救うしかできない。
この最下層の街に、神など存在しない。
――――私たちに神はいないのだ。
***
遠くに思いを馳せていた私は、ふと殿下の視線が向けられたことで我に返った。
「アルカ」
そう呼ばれて、思わず混乱する。二秒ほどの間をおいて、それが自分の名前であることを思い出した。変な反応を示した私に、殿下は少し怪訝な顔をする。
「どうかした?」
「ああいえ、」
私は咄嗟に誤魔化すような笑いを浮かべて、首を横に振る。その直後、殿下がふっと切なげに目を細めたのを見つけて、私はこっそり息を飲んだ。私が改めて見たときには既に、殿下は平静と変わらない態度で、ゆったりと微笑んでいる。
それを問いただすのはあまりに無粋というものだろう。私は一度俯き、それからぐっと表情を正して顔を上げた。
「殿下」
呼びかけると、殿下は笑みを深めることでそれに応えた。決して威圧するような色を見せない、どこまでも柔らかい微笑みだった。……私はこの優しさにどれほど守られてきたのだろう。
「昔の、話を、しても良いですか?」
そう言うと、殿下は緩く目を細めた。「アルカが話したいのなら」と、殿下は突き放す様子なく告げる。
私はこくりと唾を飲んだ。殿下は急かすことなく私の言葉を待っている。
「私たちは孤児院を脱走しました。孤児院を出て、貧民街からも出て、街で暮らすんだって、みんなでそう決めたんです」
後から思い返せば、なんて無謀な計画なのだろう。……でも、あのときは本当にそれしか方法がないように思えたのである。後に安全な場所から『ああすれば良かったのに』だなんて講釈を垂れることは簡単だ。でも、それをするのは当時の私を含む、消えていった子供たちに対する侮辱になるような気がして、どうしても出来なかった。
「でも、孤児院を出る前に捕まった子供たちも沢山いたし、追われる途中で遅れてしまった子供たちもいた。沢山の子供たちが、同じく子供たちによって切り捨てられた。私もその一人でした」
そう呟くと、殿下は息を止めた。私はほの暗い視線を殿下から逸らしながら続ける。
「何もおかしなことじゃありません。酷いことでもありません。他者を切り捨て、踏みつけることでしか、あそこでは生き延びられない。――でもそのおかげで、私は一命を取り留めました」
訳もなく、殿下の目を見れずに顔を歪めて目を伏せた。殿下にこんなことを語るのが適切なのか、果たして私には判断がつかなかった。自分が、そんな殺伐とした境遇で育った人間であることを、何故だか殿下にはとりわけ知られたくなかった。……そうでなくとも、恨み節に聞こえてしまいやしないか。私は不幸を喧伝したい訳ではないのだ。
ただでさえ、常人より余計に色々なものを背負いがちな立場、性質の人である。私は殿下に自ら石を乗せたい訳ではない。慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「私は途中で後れを取って、街と貧民街を隔てる壁まで皆と一緒にたどり着くことが出来なかったんです。だから、他の子たちが壁を越えようとするのを見ていることしかできなかった」
殿下は痛ましいものを見るように眉をひそめ、「アルカ」と私に手を伸ばしかける。その手を撥ねのけるかのように、私は鋭く付言した。
「――でも、その子たちはみんな、街から射られて死にました」
殿下の指先が、躊躇うように震える。私に触れようとしたその手に、戸惑いが見られた。
「私は取り残されたおかげで生き残った。でもこれはただの偶然です」
殿下は短く息を吸うと、私の肩に触れた。そこに目をやって初めて、私は自分が震えていたことに気がつく。私は大きく肩を上下させて深呼吸すると、自分を落ち着かせようとするみたいに胸を撫でた。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
私は頷いて、鼻から長く息を吐いた。殿下の目を見て、私は静かに告げる。
きっとこれは言わねばなるまい。私たちの脱走劇を締めくくった、ひとつの事件のことを。
「……私たちが孤児院を出た数日後、孤児院は焼け落ちました」
殿下がはっと息を飲む。私が過去に言ったことと繋がったのだろうか。私は暗澹とした気持ちで、どこまでも穏やかに呟く。
「全部燃えました。ご存知でしょうが、私の生まれ育った地域は酷く乾燥していますし、……火が上がったって、かける水もない。止めようもなく、全てが燃え尽きた。建物も、中にいる人間も、すべてを分け隔てなく、容赦なくです」
瞼を閉じなくたって蘇る。私はどこか虚空に視線を移した。
***
――遠くに上がった火の手に、私は入り口にかけていた覆いを押しのけて外に出た。もう外は真っ暗で、その中で立ち上る炎はあまりにも鮮やかすぎた。
「ノッポ!」
折しも戻ってきたノッポに呼びかけて、私は空を指さす。ノッポは背後を振り返り、「ああ……」と放心したように呟いて、目を見開いた。
ノッポの手を引いて、私は火元まで向かった。本当にただの、浅ましいまでの野次馬根性で、一体何があったのかと見物しに行くだけのつもりだった。……だから、その場所にたどり着いて、私は言葉を失って立ち尽くした。
「孤児、院、が……」
柵の中で激しい炎に包まれるあの建物は、あまりに見覚えのあるものだった。私はその場に膝をつく。何故なのか分からなかった。別に、あそこに戻りたかった訳なんかじゃない。……それでも、あそこは唯一の、私の育った場所なのだ。
「ノロマ、」
ノッポはその両目に赤い炎を映しながら私を助け起こした。私はノッポに縋るようにしながら、やっとのことで立ち上がる。
「あともう少し遅かったら、」と呟くと、ノッポは無言で唇を引き結んだ。きっとノッポも私と同じことを考えているはずだ、と、私は内心で囁く。
……あともう少し、私たちの脱走が遅かったら、私たちもあの中にいたのだ。
すんでのところで一命を取り留めたという実感に、私は身震いした。
「どうしてこんなことに……」
私がノッポに縋り付いたまま漏らすと、ノッポは険しい顔で孤児院を見据えながら応えた。
「きっと誰かが火をつけたんだろう」
「放火?」
私は目を見張る。ノッポは小さく頷いた。ノッポの顔が、揺らめく光に照らされて、怪しく浮かび上がっている。
「一体誰が孤児院を燃やしたの?」
そう囁くと、ノッポは孤児院から目を逸らさないまま、低い声で答えたのだ。
「さあな。――きっと、とっても悪い奴だ」
灯りなどない貧民街が、その夜はいやに明るく照らされていた。暗い闇の中で、炎の影だけが、轟音と共に蠢いた。
***
「私は数々の幸運によってここに生かされている。それは紛れもない事実です」
胸元をぎゅっと掴む。殿下は静かに私を見つめていた。
「殿下に拾って頂いたのも、きっとそのうちの一つです。これまでの私の人生の中で、一番と言って良いくらいに、幸運なことでした」
「そんなに大したことに捉えなくても良いんだよ。あの時点では、所詮は裕福な子供の我が儘に過ぎなかったさ」
「それでもです」
私はにこりと微笑んで、殿下の手を取る。
「あなたが、私を救ってくれました。私をどん底から掬い上げてくださったのは、殿下と、殿下に連なる全ての優しい方々です」
殿下はどこか面映ゆいような表情で、苦笑交じりに頬を掻いた。私は念を押すようにもう一段階笑みを深めた。
私を救ってくれたのは殿下その人だ。もし殿下と出会わなければ、今の私はいなかった。
でも、それだけじゃない。今私がここにいることは、決して殿下のおかげ『だけ』ではないだろう。
「……ノッポ、」
私は唇の先だけで囁いた。馬車の窓から外を眺めて、遠くの青空を見た。いやに澄み切った空に、何だか目が焼けてしまいそうだ。
――ノッポ、あなたは今、どこで何をしていますか。




