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殿下の神託で不具合が起きた話  作者: 冬至 春化
5章 ノロマだった私の話
22/59

6


「……んぁ、」

 寝言の残滓みたいなのを口から漏らして、私は目を開いた。目の前には、腕を組んだまま目を閉じて眠っている殿下がいる。馬車の揺れは相も変わらず規則的で緩やかだ。

「殿下」と私は思わず呟いた。ほんの小さな声で、ほとんど吐息のようなものだったから、殿下が起きなくて当然だった。

 寝る前、『気が変わったらいつでもおいで』と殿下は隣を指し示していた。それを数秒間思い返し、それから私は、無言で席を移動する。


 殿下の隣に腰掛け、私はしばらく固い姿勢で馬車の壁を見据えていた。それから、ゆっくりと肩の力を抜いて、背もたれに体を預ける。

 躊躇いつつ殿下の肩に頭を乗せると、私は再び目を閉じた。



 ***


 その日は妙に重苦しい曇天で、何だかじめじめして嫌になる日だった。じきに雨が降るだろう、と容易に想像がつくような、暗い雲の底の下だ。

 ノッポとメガネが仲違いしてから、一月近くが経った。混み合う朝食の席でも状況は変わらず、私とチビを挟んで二人は目も合わせない。最初の頃はぎこちなかったチビも、徐々にこの状況に慣れてきたようだった。


 孤児院の中の勢力はめまぐるしく変わっていった。派閥がいくつも吸収合併、独立を繰り返し、誰もが自分の優位性を保とうと奮闘していた。そんな中で、ノッポとメガネの立ち位置も変わったようだった。

 ノッポとメガネが決裂したのは傍目から見ても明らかだった。誰にいつ身代わりとして差し出されるか分からない、そんな殺伐とした孤児院内のこの状況を作り出したのは二人だ。どちらかにつくかで、ゆっくりと孤児院が二分するのが見えるようだった。

 そんな中で私が二人に用意できるのは、私とチビ越しの細い繋がりだけだ。



「ノッポ、」

 私は小さな声でノッポに話しかける。ノッポは食事の手を止めて私を見る。

「どうした、ノロマ」

「……ノッポは、ずっとこのままで良いの? その……メガネのこと、」

 その名前を出した瞬間、ノッポがあからさまに顔をしかめた。私がびくりと首を竦めると、反対方向から「ノロマ」と声が飛ぶ。

「余計なことをするな」

 メガネの声だ。どこかが歪んだのか、メガネはすぐにずり落ちそうになる眼鏡を指先で押し上げながら険しい顔を向けた。その動作がまたいちいち気に障るらしい、ノッポは小さく舌打ちをした。

 でも、元はと言えば眼鏡を投げたノッポのせいでもある気もするし、……メガネのあの言葉が、逆鱗だったのもまた事実のような気がするし。


 そんな険悪な空気を意にも介さず、チビはにこにこと私を見上げる。

「ノロマ、わたしね、昨日はひとりで薪を割れたんだよ」

 そっか、と微笑みながら、私はチビをじっと眺めた。……こんな小さな子供に、刃物を使わせたのか。でも、思えば私も、もっと体が小さかった頃は、井戸の中に下ろされて作業したりしたっけ。

 結局はどんな子供も危険な作業をやらされるのである。体の大きな子供なんかは、きつい力仕事をやらされているのをよく見る。

 私はチビの手を取って眉をひそめた。チビはきょとんとした顔で私を見上げる。

「怪我とかはなかった? 指を切ったりすると危ないからね」

「だいじょうぶ!」

 チビが明るい表情で頷いた。その顔に、私は僅かに救われる思いがした。私は思わずチビの頭を撫でる。

「いい子だね」

 チビはほんの少し照れくさそうに首を竦めて笑って、それから手を伸ばして私の頭にちょんと触れた。

「――ノロマも、いい子だよ」

 一瞬息を飲んで、それから私はびっくりするほどぎこちなく頬を緩めた。

 私もこうあれたら、もうちょっと楽なのかもしれないな、と思った。もっと、たくさん、小さなことで笑えるような子供になれたら良いのに。もっと素直に喜びを表せる子供になりたい。私はこんなにてらいなく、何の意図もなく、人を褒められない。


 本当はきっと、私は、チビみたいな、――ルラみたいな、無垢で純粋なこどもになりたかったのだ。


 *


 空模様は案外持ちこたえて、夕食の少し前にぽつぽつと雨が降り始めるくらいだった。風が少し強くて、窓に叩きつけられる雨粒が常にささやかな音を立てていた。ぱたぱたと雨樋から落ちた水滴が水溜まりに跳ねる音。風がどこかの隙間をすり抜ける寒々しい音。

 関係のない遠くの喧噪。馬鹿らしいほど秋めいた虫の声。雨音、誰かの身じろぎで軋む床、誰かの咳払い。チビの呼吸の音。私の鼓動。


 そういった全てが、何故か妙に鋭敏に聴き取れた。……そうだ、そのときから、その日は何だかおかしいって、第六感めいた何かで気づいていたのに。


 いつも大体食堂での席は決まっていて、とりわけ私たちの席は決して横取りされることなく、常に固定だった。だから私は普段通りの椅子に腰掛けて、その右隣にチビが座って。その右にメガネ。私の左にはノッポ。こればっかりだ。

 前はみんな、もっと自由に座っていた。みんなだ。みんな変わってしまった。

 孤児院の子供たちは、周囲とつるむ子供もいれば、一人でも平気な子供も沢山いた。大体みんなお互いにさしたる関心がなくて、ただ薄らと共有している孤児院への恐怖、不信感で私たちは繋がっていた。

 それが今は、お互いの動きを監視しあって、だまし討ちに遭わないように牽制しあう刺々しい空気に満ちている。

 こんなのは少し嫌だな。私は何となく思ったが、それを口にする相手もいないし、たとえ口にしたってどうにもならないのだ。



 スープはいつも通り、ぬるいと冷めているの中間で、固いパンはこれもまた常に習って一欠片。あと何かの葉っぱ。多分野菜なんだろう。

 私はスープの上に身を乗り出して香りをかぐ。ふわりと鼻の奥まで入り込んでくるような、微かな甘い香りがした。初めての匂いに、私は少し眉をひそめる。これは何だろう。普段と違う特別な材料が入っているようにも見えなかった。


 隣でチビがスープ皿を持ち上げ、縁に口をつけてスープを飲む。思わずその動きをじっと注視してしまった。味はいつもと違うのだろうか。

「ねえチビ、今日のスープ、」

 そう声をかけようとして、私ははたと動きを止めた。チビの様子が何だか変だった。その手から皿が滑り落ち、スープが床に広がる。皿は床に転がった。

「チビ!」

 私が手を伸ばしてチビの肩に触れた瞬間、その小さな体が大きくぐらついた。メガネがすぐさま振り返り、目を見開く。


 がたん、と耳障りな音を立てて、チビが椅子から仰向けに落ちた。柔らかい物が落ちる、重い音がした。私は息を引きつらせる。

「ルラっ!」

 メガネが叫んで、倒れたチビの体を慌てて助け起こした。チビは動かない。メガネは半狂乱になってチビの名を呼んだ。

 その様子を呆然と眺めながら、私は「スープだ、」と呟く。

「スープ?」

 ノッポの口元に近づいていたスプーンが、カランと音を立てて落ちた。ノッポが一気に表情を険しくして立ち上がる。

「ルラ、ルラ……っ!」

 メガネはその小さな体を両手で掴んで、必死にチビを呼んだ。チビは目を薄らと開いたまま、口を半開きにして動かない。


「吐かせろ!」とノッポが叫ぶと、メガネは一瞬の躊躇いの後にチビの喉に指を突っ込んだ。しかし上手くいかないのか、チビはぴくりともしないままだ。

 周囲の子供たちが、スープを見下ろして顔を引きつらせる。動かないチビを見下ろして、ざわざわと動揺が広がった。

「……誰だよ」

 ノッポが低い声で呟く。一度息を吸い、それからノッポは声を荒げて周囲を見回した。

「っスープに何か混ぜたのは、誰だ!」

 その怒声に、部屋の中がしんと静まりかえる。私はテーブルの上の皿を見ながら、唇を強く噛んだ。

「ルラ……、」

 メガネがチビの小さな体を抱き寄せる。チビは焦点の合わない目で虚空を見据えていた。


 他にスープを一口も飲んでいない子供がいない、というのは、考えにくかった。絶対、他にもスープを口にした子供はいたはずだ。……それなのに、倒れたのはチビだけ。

 私は立ち上がって、別のテーブルにいた少女の前からスープ皿を奪い取った。その匂いを嗅ぐ。普段と同じ匂いだ、――甘い匂いなんて、何もしない。

「……私たちだけだ」

 私は呟いた。続いてノッポの前から皿を手に取って匂いを嗅ぐ。ふわりと、普段とは僅かに異なる匂いが漂った。

「ノッポ、狙われたのは私たちだ」

 私が囁くと、ノッポは大きく目を見開いた。確かめてはいないがきっと、この甘い香りは何か嫌なものだろう。恐らくメガネの皿からも香るはずだ。

「俺たちだけ?」

 私は無言で頷く。チビは依然として凍り付いたように動かないまま、メガネに揺さぶられている。


 不意に雨脚が強くなった。激しく打ち付ける雨音が、静寂に満ちた食堂を震わせた。気がついたときには、既にあの子の呼吸は聞こえなくなっていた。がたがたと風に揺れる窓枠が、私たちを嘲笑うようだった。

「ルラ、」

 メガネによって閉じられた瞼を見つめながら、私はそう呟いた。今、私はあの子をその名で呼んでやりたかったのだ。……あの子が呼ばれたかった、その名前で。

 私が呼んでも、ルラは動かない。当然だ。どれほどの時間が経ったのか分からなかった。いつしか食堂には私たちだけが残っていた。

 雨音が耳の奥で増幅されるように、わんわんと響いていた。自分の息の音が、どこか遠くのもののように感じられた。冷えたルラの指先を掴んで、私は呆然としていた。

 分かっている。言われなくたって分かっている。……ルラはもう助からない。たとえ助ける術がこの世にあったとしたって、それは決して私たちに届くところにはないし、差し伸べられることもない。

 涙は出なかった。ひとつひとつを心から悼むには、私は幾分か麻痺しすぎていた。


 雨音が周囲を覆う。立ちこめるような水煙が私に降り注いでいるような心持ちだった。もう何も分かりたくなかった。メガネが絶叫した。ノッポはじっと押し黙ってルラを見据えていた。私は床にへたり込んだまま、ぼんやりと息をしていた。


 あんまりじゃないか、と、私は思う。

 あんなに無垢で、何も悪いことをしていない女の子だったのに。まだあんなに小さな女の子だったのに。こんなに呆気なく死んでしまうなんて、あんまりだ。

 誰が何をしたのかは分からない。もしかしたら誰も何もしていなくて、何かの事故の可能性だって、ない訳じゃなかった。誰を責めたら良いか分からない。私には何も分からなかった。


「チビ」とノッポが小さな額を撫でた。ノッポが漏らす。「俺たちのせいなのか」

 その言葉に、メガネは無言で俯いた。肯定でも否定でもなかった。

「どうする」

 脈拍の止まったその体を抱き上げ、メガネはしばらくの間黙り込んで、それから唾を飲むと顔を上げた。

「……燃やそう」

 どこまでも暗い目をして、メガネが囁く。

「祈りを込めて火にくべられた物は、神の元へ届けられるんだろ」

「……ああ」

 ノッポが硬い動きで頷いた。

「もし本当にそんなものがいるんなら、――もし、ルラがそこで幸せに暮らせるんなら、」

 メガネの言葉に、ノッポは応えなかった。どこか不本意そうな表情だったが、異を唱えることはしないようだった。

「届けてやろう。……僕たちの手で」

 私は奥歯を噛みしめ、床に手をついて立ち上がる。ルラを抱いて、メガネが憔悴しきった顔で息を吐いた。


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