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「わ、晴れて良かったですね!」
「そうだね」
目の上に手でひさしを作り、私は空を見上げた。頭上にはあっけらかんとした青空が広がっている。
「長旅になるからな、あまりはしゃぐんじゃないぞ」
「分かってますよ」
隊長にたしなめられ、私は舌を出しつつ若干反省した。
「おれ、西の方に行くの初めてなんですよ。何だかちょっとドキドキしますね……!」
「おい、お前もだぞ、ジャクト」
「はい!」
隊長の注意に勢いよく頷いて、ジャクトがぴんと姿勢を正す。私もいそいそと姿勢を正すと、馬に……は乗らず、馬車に向かって歩き出した。
普段、私は近衛と同じ扱いを望んでいる。だから、いつもなら私もみんなと一緒に馬で移動だが、……今回は行き先の治安とかもある。流石に馬車の中で移動ということになった。護衛対象の一人って扱いだね。
「どうぞ、殿下」
私は殿下の手を取って、馬車の入り口まで誘導する。膝くらいの高さの段差があるので、乗り込むにはちょっと大変である。私の手を借りて馬車に乗り込んだ殿下は、微妙な表情で私を見た。
「……どうかされましたか?」
「ううん、何でもないよ」と殿下は首を横に振る。
「……そうだよね、アルカは僕の護衛官でもあるもんね……」
殿下が低い声で何やらぼそぼそ呟いている隙に、私はできるだけ揺れないようにそっと馬車に乗った。中はそれほど広くない。けど、居心地を良くするための工夫は随所に見られた。うーん、さすがは王家が所有する馬車である。
ほどよい固さの座席に腰掛け、私は内壁に手を滑らせた。滑らかな布張りである。
「なかなか頑丈そうで良いですね」
「そうだね」
数度叩いてみたが、ゴン、みたいな音がしたので、多分大丈夫そうな気がする。むしろ私の手が痛い。
動き出した馬車の中で僅かに揺られながら、私は窓の外を見た。馬の横腹と誰かの足が見えた。私はすぐに顔を引っ込めた。
「ええと、今回は、私の我が儘でこんな大遠征になってしまって……何だかすみません」
私は肩をすぼめて殿下を見た。殿下は事も無げに「謝る必要はないよ」と微笑んだ。
「これはどちらかと言えば僕の我が儘だからね」
「まあ……確かに」
「否定はしないんだね。そういうところ良いと思うよ」
「へへ」
照れ笑い込みで頭を掻いたところで、私はふと殿下の顔に目を留めた。殿下は私の視線を受けて、少し首を傾ける。
「どうかした?」
「いえ……」
私は口ごもった。殿下がじっと目を逸らさずに私の言葉を待っているので、仕方なく口を開く。
「殿下、もしかしてちょっと疲れてます?」
いつもより若干顔色が悪い気がする。身を乗り出して手を伸ばし、殿下の額に触れてみる。うーん、よく分からない。私の手が常に冷ためなのもある。
「最近、ちゃんと休んでますか」
ここ数日、殿下は夜間に私の部屋に侵入してこなくなった。いや、それが普通のことなんだけど……。私が視線を強くすると、殿下はばつが悪そうな表情で目を逸らして、首の後ろに手を当てた。
「まあ……予定を調整する為に色々と詰まっててね」
「やっぱり」
私は浅いため息をついた。元はと言えば私のせいでもあるのだけれど、それにしたってちょっと無理しすぎである。
「できるだけ休んでください。ほら、ここに枕になりそうなクッション置いてありますし」
私が肩を叩くと、殿下は少し苦笑した。「そうだね」と頷いて、腕を組む。
「どこか次の街についたら教えてよ」
「分かりました!」
威勢良く頷くと、殿下は僅かに頬を緩めて、それから瞼を下ろした。思わず私は目を閉じた殿下の顔をじっと眺める。……こんなチャンス滅多にない。身を乗り出し、じろじろと至近距離から殿下の顔を見物していると、殿下が突如ぱちりと目を開いた。
「なっ……!?」
私は咄嗟に動けずに固まった。殿下はすぐ近くにある私の顔を眺め、多少の困惑を含んだ表情で告げる。
「……気配が凄い」
「ごめんなさい」
さっと身を引こうとした途端、「あぁ、なるほどね」と呟いて殿下が両腕を広げた。
「――おいで、アルカ」
妙に甘ったるい声だった。「ヒィ」と顔を引きつらせると、私は弾かれたように飛びずさり、自分の座席に戻る。殿下はつまらなそうに唇を尖らせ、「甘えてきたいのかと思った」と漏らした。私は慌てて両の手のひらを殿下に見せてのけぞる。
「いやいやいやいやっ、いやまさかそんなそんな!」
「そこまで必死に否定されると何だか心に来るものがあるね」
激しく首と手を横に振ると、殿下は肩を竦めてため息をついた。とはいえ大して気にした様子ではなく、むしろ私が大人しく座っているのを眺めてちょっとご満悦である。
「気が変わったらいつでもおいで」
隣の空いたスペースをとんとんと叩き、それから殿下は再び目を閉じた。私もまさか数秒後に同じ轍を踏むほどの間抜けではないので、きちんとお行儀良く座っておく。馬車の中は静かになり、徐々に私も目を閉じて眠りに落ちた。
***
私たちが共謀してあの少女を差し出してから、孤児院にいる子供たちは少しずつ、しかし確実に様変わりしていった。
端から見ていただけでも、私たちが彼女を身代わりにしたことは分かったらしい。そして、二人以上の仲間がいれば、いざというときに難を逃れられるということも。
真っ先に生まれたのは派閥だった。これまでは一人で過ごしていた子供も、周囲に交わるようになった。その中でも、ノッポとメガネのいる派閥――つまり私のいるところは、孤児院の中でも人数が膨れ上がっていった。知らない子供が私に親切にしてくれる。何もしてないのに仕事を手伝ってくれて、パンを分けてくれる。どうやら私も、敵に回したくない子供の一員になってしまったようだった。
「ノロマ」とチビが舌足らずに私を呼ぶ。
「たくさん食べれて、嬉しいね」
にこにこと楽しげに笑っているチビを見下ろして、私は「うん」と頷くしかなかった。
ノッポとメガネは、そういった、見え透いた媚び売りみたいなのが、あまり好きではないようだった。ほとんどを撥ねのけて、自分から孤立しようとしているようにも見えた。それでも他の子供たちは二人を怖がっているようだった。
私ばかりが頭の悪いノロマだった。何も分からないまま、ぼんやりと生きているばかりだ。ただ、恐らく私は、あの二人の庇護下にいるのだろうと、何となく察していた。
そんなある日のことだった。ゴミ箱を抱えて、私が裏の焼却炉に向かおうとしているときのことだ。角を曲がろうとしたその直前、私は人の気配を感じ取った。
「――ルラ、」
そんな呼びかけが聞こえ、私は思わず耳を疑う。知らず息を潜め、足音を消していた。そっと角から顔を覗かせると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「メガネ……」
私は呆然と呟く。そこにいたのは、メガネとチビだった。
ルラはチビの名だ。彼女が両親から貰った名前である。その名前を、ノッポは捨てろと言った。そしてルラはチビになった。
「イオイス!」
チビあるいはルラ――は、ぱっと表情を明るくし、私の知らない名前を告げる。それを受けてメガネは「し、」と唇の前に人差し指を立てた。
「その名前は秘密だよ」
「あっあっ、そうだった」
チビが両手で口を塞ぐ。上目遣いでメガネを窺い、照れたように小さく笑った。
「良いかい、ルラ」とメガネは言う。
「ここにはね、名前を持たない子供たちも沢山いるんだ」
「おなまえがないの?」
ルラが目を丸くした。メガネは大きく頷き、人差し指を立てた。
「だから名前を捨てろってノッポは言うけど、必ずしもその必要はないだろ?」
「うん……?」
首を傾げつつ曖昧に頷いたルラに対して、メガネは見たこともないほど柔らかく微笑んだ。
「この眼鏡は、両親に貰ったものなんだ」
メガネは、そっと指先で眼鏡に触れながら呟く。私は目を見開いた。
「家族を忘れられないならそれでも良い。僕はこの眼鏡を大切に思っているし、だからメガネと呼ばれるのだって嫌じゃないんだ」
どくどくと耳の底で心臓が変な感じに高鳴っている音を聞いていた。聞いたこともない幸せそうな声で、メガネが語る。
「きっといつか僕の両親は僕を迎えに来てくれる。ルラもきっとそうだ」
手足が痺れるような感覚に襲われた。一体自分がどんな感情を抱えているのか分からなかった。
不意に、肩に手を置かれ、私はびくりと体を跳ね上がらせる。口を手で覆ったまま振り返ると、怪訝な表情をしたノッポがいた。
「どうし――」
口を開きかけたノッポに向かって立てた人差し指を突きつけ、私は慌てて首を横に振る。ノッポは妙な顔をしながら口を閉じた。
その間もルラとメガネの会話は続く。
「わたしのお父さんとお母さんも、いつか、むかえに来てくれるの?」
泣きそうな声でルラが言った。影でその言葉を聞いていた私は、咄嗟にノッポの顔を見上げる。「チビ」と呟いて、ノッポは大きく目を見開いていた。
「ノッポ、」
「そうだ。……その日まで僕は両親に貰ったこの眼鏡を大切にし続けるし、ルラはその名前を大切にしなきゃいけないよ」
「わかった」
私の呼びかけも耳に入らないみたいだった。聞き慣れたメガネの声が応じた途端、ノッポの表情が変わる。何と形容したら良いのか分からない。ぎゅっと唇を引き結び、ノッポは私を押しのけて角を曲がろうとした。私はその腕を掴んで、ノッポを止めようと追いすがる。
「イオイスも、お名前、大切にしなきゃね」
ルラが明るい声でそう告げた。それが聞こえた瞬間、ノッポは驚くほど乱暴に私の手を振り払った。
尻餅をついた私が、すぐさま立ち上がって角を曲がったとき、ノッポは既にメガネの襟首を掴んで馬乗りになっていた。ルラ、あるいはチビが、泣きながらノッポを叩いていた。
「ル……チビ!」
私は両手を伸ばしてチビを呼ぶ。チビは泣きながら私に抱きついてきた。
「何すんだよ!」
地面に押し倒されたメガネが声を荒げる。それを潰すように、ノッポはメガネの首元をぐっと締め上げた。
「っお前が……お前、は、……」
ノッポは言葉も出ないほどに激高していた。その顔が赤くなっているのを、私は声もなく見ているしかできない。
「――俺たちに、迎えなんて、来ないんだよ……っ!」
押し殺した声でノッポが呻く。そんなノッポを力任せに押しのけ、メガネが立ち上がった。背中についた土を払いながら、メガネがノッポを睨みつける。
「お前はそうかも知れないけど、僕たちは違うんだ! 勝手に一緒にするな」
「いい加減現実を見ろよ、甘ったれてんじゃねぇ!」
吠えるように叫んで、ノッポがメガネに掴みかかった。
「夢ばっか見てる奴は死ぬんだよ! ……そういう奴を見ると、腹が立って仕方ない!」
「夢見て何が悪い! どうせお前は羨ましいだけなんだろ!」
ノッポが息を飲んで大きく目を見開く。一瞬の間を置いて、ノッポは言葉にならない叫びと共にメガネの顔を殴り飛ばした。チビが甲高い悲鳴を上げる。私も割って入ることなど到底出来ずに、その場に立ち竦むばかりだった。
メガネは頬を押さえながら、荒々しく吐き捨てる。
「……そりゃ、お前なんかに迎えは来ないだろうさ、こんな図体がでかいだけの乱暴者、手に負えないだろうからな!」
駄目、と漏らして、私は手を伸ばした。でももう遅い。ノッポはぴたりと動きを止めた。その動作に、メガネも何か不穏なものを感じたらしかった。
ノッポは無言でメガネの顔に手を伸ばし、止める間もなくその顔から眼鏡を奪い取る。そのまま彼は強く眼鏡を地面に投げ捨てた。ぱりん、と何かが割れた音に、チビが身を竦める。メガネは血相を変え、レンズの割れた眼鏡を拾い上げた。そのフレームにはもはや何も嵌まっていない。
「何てことを……」
メガネがかすれた声で呻く。ノッポはそれでも無言だった。
メガネはノッポの襟首を掴んで怒鳴る。
「お前っ!」
「……もう二度と俺に話しかけるな、」
それを振り払い、ノッポは固い声でメガネに背を向けた。
「言われなくてもそうするさ」
メガネが吐き捨てる。チビは途方に暮れたように私を見上げた。
それ以来ノッポとメガネは一切口をきかなくなった。メガネはレンズのなくなった眼鏡を頑なにかけ続けた。
ノッポとメガネが会話をしなくても、私とチビはこれまで通り関わり続けた。それに関して二人から何かを言われることもなかった。でも私がメガネに話しかけると、ノッポが少し嫌そうに眉をひそめるのに気づいてからは、メガネからは少し距離を置いた。
結局のところ私はノッポの妹分で、チビはメガネの妹分なのである。




