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「何でそんなに死にそうな顔をしているんですか?」
すこぶる元気そうな顔で、ジャクトが私を見た。私はげっそりとため息をつき、ふっくらと柔らかいパンを鷲掴みにする。
「考えることが沢山あって……」
「どうせ殿下の関係ですよね」
「一つはね」
私が答えると、ジャクトは目を見開いた。「アルカ先輩って、殿下のこと以外を考えることもあるんですね」とは、なかなかに失礼な発言である。
「何を悩んでいるんですか? おれにドドーンと相談してみましょうよ。こう見えてもおれ、結構親身に話聞きますよ」
「やだ」
「何でですか!」
「何となく……」
私はもそもそとパンを千切っては食べ、千切っては食べを繰り返し、再び長い息をつく。どこのどいつが、後輩にこんな相談をするというのだ。……昔、自分の代わりに人を差し出して見殺しにした、なんて。
唇を引き結んだ私をじっと見て、ジャクトが少し眉根を寄せて微笑んだ。
「……大丈夫ですか?」
私は黙って口角を上げることで応じる。ジャクトは気遣わしげに私を窺いながら、僅かに首を傾けた。
「あんまり抱えこまないでくださいね。おれ、こう見えてもアルカ先輩のこと結構好きですし、結構尊敬してるんですよ」
「ごめん……私には殿下がいるから……」
「そういう好きじゃないです」
一刀両断して、ジャクトはため息をついた。
「……ええと、そういえば、今度聖都で何かお祭りがあるんだっけ?」
話題を変えるべく、私は明るい口調で口火を切った。ジャクトもそれを汲んだようで、すぐにぱっと表情を変える。
「はい、聖火の祝祭ですね! 三日間あるので、二日目と三日目に行こうかなと思ってます」
「そっか、それは良いね」
ジャクトが心底嬉しそうに頷いた。
「それっていつ頃?」
「えっと、ちょうど今から三月後くらいですね」
「ふーん、なるほど」
私が頷くと、ジャクトは「どうかしたんですか?」と首を傾げた。私は少し顎に手を当てて思案すると、「うーん」と唸る。
「私も今度、ちょっと長めの有給を取ろうと思っていて」
「ははーん、婚約ですね?」
「ちょっと黙って」
私は手のひらでジャクトを制し、やや視線を遠くに滑らせた。
「ぶっちゃけ、休みがどれくらいの長さになるか分からないんだよね」
孤児院の様子を見に行くことを、殿下は許可してくれた。ただ、問題は私の出身であるあの街が、王都からどれくらい離れているのか分からないという点である。多分殿下か隊長に訊けばある程度は分かりそうだけれど。向こうでどれくらい滞在するかも、行き帰りにかかる時間も分からない。
ジャクトが私を窺いながら問う。
「……里帰り、とかですか?」
「うん、そうとも言えるかな」
若干の躊躇いを含んだ返答に、ジャクトは咄嗟に口をつぐんだ。何だか変な気を遣わせてしまっている気がする。
「大した用事じゃないよ。ただ、その休みとジャクトの有給が被らないようにしなきゃなって思って」
「そうですね」
頷いたジャクトに頷き返して、私はこの話題を打ち切った。
***
「アルカ」
「はい」
一人で室内警備にあたっていたある日、殿下がふと私を呼んだ。視線を向けると、殿下は机に頬杖をついて私を見ていた。
「僕考えてみたんだけどさ、アルカに一人で旅をさせるのって、何だか良くないよね」
「えっと……?」
「治安が良い王都をぶらぶらお散歩するのとは訳が違うでしょ? 何となくアルカの話を聞くに、アルカの目的地はそれほど安全な街ではなさそうだ」
「否定はしません……」
渋々頷くと、殿下は背もたれに体を預けて足を組む。私を見据えたまま、とんとん、と天板を指先で叩いた。
「アルカは僕の託宣人だし、そのうち僕の伴侶になるし、いくらアルカの腕が立つといったって、一人でそんなところに行かせるのは心配だな」
「はい。……はい?」
「だから誰かしら護衛をつけたいよね」
何か今、当然のことを言うように変なのが混ざっていた。聞き返した私を華麗に無視して、殿下はたたみかけるように話を続ける。
「となると僕が自由に動かせて、信頼のおける人員といえば、僕の近衛でしょ?」
「そうですね」
「でもあんまりそちらに人数を割くと、今度はこっちが手薄だ」
「ええと……」
雲行きが怪しい。私は身構えつつ殿下の言葉を待った。
「――じゃあ僕も一緒に行けば問題ないよね」
「お、大ありです!」
私は泡を食って首を振る。「駄目です、あんな治安の悪いところ、殿下を連れていけません!」と言いつのると、殿下は「だったらなおさら心配だよ」と眉をひそめた。
「大丈夫、あくまでお忍びでこっそり行って帰ってくるだけだし、滞在は信頼のおける宿を使う」
「そういう問題じゃなくって、」
「君が僕を連れて行くことを躊躇うような危険な街なんだったら、僕としてもアルカをそんなところには送り出せない」
「そんな、殿下……」
私は唇を噛む。確かに、殿下が来るとなれば近衛は全員ついてくるだろうし、気を張り詰めていれば殿下に差し迫った危険が及ぶこともないだろう。私が咄嗟に拒否してしまうのには、また別の理由があった。
あんなところで育ったことを、私は、殿下に知られたくない。
「殿下、私は……」
「アルカがどうしても嫌なら、僕も無理についていくことはしないよ」
俯いて力なく首を振ると、殿下は苦笑交じりに呟いた。私は黙り込んだまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……私は、殿下に、誇れるような生まれじゃありません」
「生まれは殊更に誇るものではないし、ましてや恥じるものでもないよ。ただ事実のみが存在するだけだ」
「っそれでも、殿下にお見せしたくないって思うのは、駄目なことなんですか?」
私が顔を上げて殿下を見ると、殿下は柔らかい声で「ううん」と答えた。
「すべてはアルカの自由だ。全部僕の我が儘なんだよ、アルカ」
殿下は私を手招きして微笑む。私が机の前に立つと、殿下は私の手を取って私を見上げた。
「僕は、アルカが生まれ育った街を見てみたい。アルカが僕と出会う前に何を見てきたのかを知りたいし、アルカのことをもっと分かりたい」
いやに真っ直ぐな視線で私を見据えて、殿下はそう言った。私は顔を引きつらせて及び腰になる。いや、こう……何とも真摯な態度で、『この人めちゃくちゃ私のこと好きなんだろうなぁ』みたいなことを言われてしまうと、私とて人間なのでどうにも照れるのだ。……が、それにしたって、
「重いんだよなぁ……」
「やだなぁ、今更そんなこと言って」
殿下は楽しそうに声を上げて笑うと、私の手を握り直して私を見た。
「ねえ、駄目?」
下から見上げる角度に、私はうっと顔を引きつらせた。この角度で甘えるように言われると、どうにもまだ小さかった頃の殿下を彷彿とさせて良くない。私が揺らいでいるのをじっと観察しながら、殿下はにこりと微笑む。私は決死の思いで口を開いた。
「だッ……駄目、」
「ん?」
「…………じゃ、ないです……」
念を押すように小首を傾げられ、私はあっさりと陥落した。雑魚過ぎ。あまりのチョロさに泣いてしまいそうだ。
「そっか、良かった」と殿下はご満悦で立ち上がると、机を回り込んで私の方に来る。私はその様子をじっと目で追いながら、一歩下がった。
「何で逃げるの」
「逃げてません」
私はそそくさと扉の脇の所定位置に戻り、今は仕事中であることを言外に表明する。殿下は腕を組んで少し思案するように私を眺めると、ぽんと手を打った。
「アルカ、おいで」
そう言って殿下は見たことのある箱を取り出した。私ははっと息を飲む。
「そ、それは……」
「王家御用達高級スイーツ店ユエティ・ロロの、まだ発売前の新作だよ」
「なっ……そんな、そんなお菓子で誘惑しようったって、私は、私は……うっ、」
思わず分かりやすく動揺してしまった私に、殿下は更なる誘惑をかけるように近づいてくる。
「発売になったら、品薄でなかなか手に入らないかも知れないね」
ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、私は睨むような視線で殿下を見据えた。
…………。
「あっ、これおいひい! ……これ、おいしいですよ殿下!」
私は丸くてつやつやしているチョコレートを口に含んで、目を輝かせた。殿下は満面の笑みで私を眺める。
「殿下もお一つどうぞ」
「僕はいいよ」
殿下は笑顔で手を振って、私の方に箱を差し出した。私とて流石に二個も三個も頂くほど強欲ではないので、それは辞退しておいた。
黙って咀嚼していると、足音が近づいてノックの音が響く。殿下が返事をすると、扉が開かれ、先輩が顔を出した。
「失礼します……っと、また餌付け中ですか」
人聞きの悪いことを言わないで欲しい。呆れたような視線を向けられ、私はぱっと片手で口を覆う。「もうバレてるからな」との言葉に、開き直って私は堂々とチョコレートを飲み込んだ。
「言われていた、西方の地図をお持ちしました」
「ありがとう」
先輩が丸めた紙を殿下に手渡す。殿下はさっとそれをローテーブルの上に開き、四隅に物を置いて固定した。私は身を乗り出してその紙を覗き込む。
「……地図、ですか?」
「うん」
殿下は机から筆記用具を持ってくると、私の隣に腰掛けた。先輩も私の斜め後ろに立って、地図を眺めている。
「アルカは自分の生まれ育った街がこの中のどれか分かる?」
そう訊かれて、私は顔を引きつらせた。そんなの分かる訳ない。あのときの私は街の外の世界を知らなかったし、こんな風に国を俯瞰して見るなんて考えたこともなかった。街の名前も、知る必要はなかったのだ。
「分かりません」と答えた私に、殿下はさして落胆した様子も見せずに首を上下させて、足を組んだ。
「僕がアルカを拾ったのは、西方にいる親戚を訪問した帰りだった。その地点が、ちょうど、――この辺りかな」
そう言って、殿下はペンの蓋を嵌めたまま、地図の中心から右に寄った地点を丸く囲んだ。
「この辺は乾いた土地で、あまり栄えていないからね。道といったらこの一本だ」と、殿下は地図の上の線をつつ、となぞる。右下の隅に王都を示す印があり、道はそこに繋がっているようだった。
「アルカは、元々王都に行く予定だったんだよね? 確かあのときそう言っていた」
確認するように視線を向けられ、私は「はい」と頷く。殿下は軽く頷き返すと、ペンをすっと滑らせた。
「となると、アルカはこちらから来た訳だ」
道を逆向きに辿るようにして、殿下は伏し目がちに地図を見下ろす。その横顔を数秒の間ぼけっと眺め、それから私は慌てて視線を地図に向けた。
「この道沿いにある街は、――ああ、これは古い地図だね」
地図を見つつ、不意に殿下が呟く。背後に控えていた先輩は「すみません、これしか咄嗟に見つからず」と頭を下げたが、殿下は「構わないよ」と微笑んだ。先輩は難しい顔で、「いえ」と応じる。
「……一応、少しでも新しい版がないか、再度探してきます」
先輩が足早に部屋を出て行くのを見送って、殿下が気を取り直したように話を再開した。
「この先にある道沿いの主要な街は、イレチア、ジゼ=ソビエ、ジゼ=ユジータと、」
殿下が、ペンの先で道を辿りつつ、そこに記された街の名前を読み上げていく。その道の先を目で追って、私はペンが指す街の名前に息を飲んだ。
「……ジゼ=イール、」
少なくとも十七年は前の地図だね、と殿下が呟く。殿下はそれからいくつかの街の名前を読み上げ、それから顔を上げて私を見た。
「ジゼ=イールは既に存在しない街だよ。僕が生まれたときには消されていた街だ。アルカがここで生まれ育つことは不可能だから、ここが目的の街であることは有り得ないね」
「……はい」
私はぎくしゃくと頷いた。その街の名前は、本で読んだことがあった。けれど、それがどこにあったのかは、寡聞にして知らなかったのだ。私の中では、もはや過去の伝説のような存在だった。まさか私が育ったあの街の近くにあったのか。
「――異端の、街」
私は、ジゼ=イールと書かれたその点を指先で触れた。住人たちが異端に手を染め、それを粛正するために神殿は住人すべてを火刑に処した。……近年で最大規模の宗教犯罪だった。
「ユーレリケ家とコルント家、街を代表する二つの名家が、神殿の掲げる神を否定した。『神の救いは平等である』、それが神殿の教えだったが、ジゼ=イールの人間はそれに疑念を抱いた」
殿下が静かに呟く。さして詳しくなかった私は、吸い寄せられるように殿下に見入った。
「西方――つまり内陸は、乾燥が酷い。砂嵐も頻繁で、人が生きるには、王都や聖都とは比べものにならないくらい厳しい環境だ。神に縋っても、救われないことだってある」
それは、あまりに身に染みた経験だった。水がない、農作物も砂嵐に荒らされてろくに収穫出来やしない。生きるのに精一杯だった。
私は黙って唇を噛んだ。殿下は僅かなため息をつく。
「神は、確かに僕たちを救う。神は僕たちの象徴で、誰もが共有する心のよりどころだ。神の存在、そしてそれを掲げる神殿組織こそが、このキルディエという国の形を強固にしている。これは疑いようのない事実だ」
どこか物憂げな表情で、殿下が地図を見下ろした。組んだ足の上に、絡ませた十指を乗せ、殿下は自嘲するように頬をつり上げた。
「でも、それじゃ全ての人を救えないんだ」
殿下はペンの蓋を外し、地図の上に手を伸ばす。地図を左手で押さえると、ペンを手にした右手を差し伸べた。
「だからジゼ=イールのような街が生まれた」
そう囁いて、殿下はその街の名を線で消した。
「その街を、救うどころか、異端として抹消するなんて、」と、そこまで言って、殿下は口を閉じた。この先を口にすることがどんな意味を持つのかは、私にも既に分かっていた。
殿下の唇が動く。――『間違っている』。でも決して言葉にはならないのだ。たとえこの部屋に二人きりだとしたって。
その言葉は罪となる。
私は殿下の顔を眺めたまま、内心で呟く。
…………何となく気づいていた。殿下が、とっても危うい人だってこと。
殿下が、神様に対して妙に冷めた感情を持っていて、神殿のことがあんまり好きじゃなくって、神殿との仲もそれほど良好じゃないってことも。
このままじゃ、いつか、異端者として処刑されちゃいますよ。そんな言葉を冗談としても使えないってこと。殿下は、今にも火刑へ落ちそうな綱渡りを渡っているってこと。
確かに、王家は、神殿の勢力に負けないように、神殿に対して多少強気に出たりもするけど、その中でも殿下はあまりにも先鋭化している。きっと殿下もそれを分かっている。
……もうやめてって言いたいけれど、それが殿下を否定する言葉だってことを、私は分かっている。私が願えば、きっと殿下は表向き矛を収めて、穏健な態度に切り替えてくださるはずだ。そう確信しているのに、私はそうはしないのだ。
そんな私は、恐らく、殿下が思っている以上に殿下に近しいところにいるのだろう。
私が、殿下に影響されたのか。それともあるいは、殿下がこちらに引き落とされたのかも知れなかった。
――――なあノロマ、俺たちを救ってくれる奴なんて、どこにもいやしないんだぜ。
ノッポの声が耳の底で反響する。
神を疑うことは罪なんだそうだ。ましてや否定することは決して許されない大罪なんだそうだ。
私はそっと左腕を持ち上げ、袖を指先で下に引く。金色の腕輪が、いつも通りそこにきらめいていた。神意を表す腕輪だ。……私が神を疑っていたって、神は私を選んだのだ。
「殿下、」
私は息混じりの声で呼びかけた。私が眺めていた腕輪を一瞥し、殿下は小さく苦笑した。
「……こんな主でごめんね、アルカ」
「いいえ」
私は殿下から目を逸らさないままに、ゆっくりと首を横に振る。
「私は、どこまでだってお供致します、殿下」
殿下が目を見張った。私の言葉の真意を探るように、目の奥を抉るようにひたと見据えられる。その視線を真っ向から受け入れ、私は微笑んだ。
「あなたと一緒なら、――――殿下、私は火の中だって怖くないのです」
たとえどんな業火であろうとも、否、たとえそれが聖火だったとしたって。
殿下は数秒間、声を失ったように私を見たまま呆然としていた。それから、じわじわと氷が溶けるように殿下は表情を動かす。きゅっと唇を引き結んだ殿下は、言葉もないまま私に両腕を差し伸べ、そして、肩を引き寄せる。私は抵抗せずに、殿下の胸に体を預けた。
「……アル、カ」
私の背をきつく抱いた殿下が、呻くように私の名前を呼んだ。殿下の肩に顎を乗せ、私は「はい」と囁く。
「君は、そんな覚悟をしなくたって良いんだ」
殿下の声が震えていた。私は腕を持ち上げ、殿下の背を撫で下ろす。
「しなくて良い覚悟であれば、それに越したことはありませんね」
私は笑みを湛えたまま応えた。殿下が頷いた気配がした。
「忘れないでください、殿下。あなたは私の恩人で、主君で、何より大切な人なんです」
あなたの為なら何を擲ったって構いやしない。殿下は私を見て、痛ましげに微笑んだ。




