3
「新入りだ」
その一言と共に、どん、と部屋の中に突き飛ばされてきたのは、まだ小さな子供だった。五つにもなっていないだろう。その子供は激しく泣きじゃくりながら、親を呼んでいた。
「大丈夫か」とノッポが子供を抱き上げた。子供はろくに返事も出来ずに泣いているばかりだ。ノッポは子供の顔をじろじろと眺めながら、首を傾げる。
「お前、女か? 男か? 流石に服めくって確認はできないぞ」
「……わたし、ルラ」
「女か」
ルラ、と名乗った女の子は、小さく頷いた。だがノッポは厳しい顔でルラを見据える。
「その名前は捨ててしまえ」
ルラが目を見開いた。「わたしはルラだよ」と小さな声で言う。
「親に貰った名前なんて捨てちまえ。親が俺らを捨てるんじゃない、俺たちが捨ててやるんだ」
「わかんない……」
ノッポの言葉に、彼女は首を横に震わせる。
「そのうち分かるさ」とノッポは吐き捨てるように告げた。
食堂で、新入りを間に挟んで、私はノッポを見る。
「こんなに小さい子供が捨てられるんだね」
私が頬杖をつきながらパンをかじると、ノッポは肩を竦めた。
「ここに来たときのお前なんて、もっと小さかった」
「そうなんだ」
全然覚えていない、と、私は眉を上げる。「ノッポはいつ頃から?」と訊くと、「七つのとき」と短い返事がきた。
「ノロマ、お前は俺とほぼ同時にここに入れられたんだぜ」
「へえ」
それは知らなかった。正直言って、物心ついたときには既にここにいたように記憶している。入れられた当初のことなんて全然覚えていない。
「お前も初めは何か名前を名乗っていたっけ。何だったかな……」
ノッポが腕を組むので、私は慌ててそれを押しとどめた。
「良いよ、別に。もう何も覚えてないし、それに……親のことなんて、興味、ないから」
私がそう言うと、ノッポは少し黙り、それから満足げに頷いた。
「そいつ、何て呼ぶ?」
向かいに座っていたメガネが、話を遮るように入ってくる。
「どうするかな。首にほくろがあるから、ホクロか何かで良いんじゃないか」
「いっか、それで」
ノッポとメガネがそう言い合う。私はぎょっとして話を制した。
「待ってよ、ホクロって、それ、」
……この間、脱走しようとして、翌朝見つかった、あの子と、おんなじ名前。私が戸惑いを滲ませると、メガネは「もう死んだ奴なんて関係ないだろ」と肩を竦めた。
「でも」と私がごねると、ノッポは面倒そうな態度で腕を組む。
「じゃあチビで良いんじゃないか」
うーん、それもそれでなかなかである。いや、私のノロマよりは幾分かマシだけど。私が渋々黙ったのを見て、ノッポは頷いた。新入りに向き直ると、はっきりとした声で告げる。
「良いか、お前は今日からチビだ」
「わたしは、ルラ、だよ?」
「もうルラじゃないんだ。誰ももうお前をそうは呼ばない」
新たに『チビ』となった少女は、きょとんとした顔でノッポを見上げていた。
夜更けになって、私とノッポは井戸の水をこっそり汲みに行こうと外へ出た。玄関から庭に出て、井戸の中に吊り下げられた縄に手をかけた直後、ぐいと襟首を掴んで体が持ち上げられる。ぐ、と喉が締まった。
「子供はもう寝る時間ですよ」
「う……ぐぅ、」
足が地面を離れる。私は歯を食いしばって手を後ろに伸ばし、背後にいる人間を引っ掻くように腕を振り回した。
「っ放せ!」
ノッポが私を持ち上げる腕に掴みかかる。驚いたのか、ぱっと襟を放され、私は地面に落下した。尻餅をつくと、首を押さえて咳き込む。
周囲は暗闇でほとんど何も見えない。すぐ横で、二つの影がもみ合っている気配だけを感じた。
「お前は先に戻っていろ!」とノッポの声が叫んだ。その声に、私は弾かれたように立ち上がり、走り出す。裏口の扉を開け放ち、廊下を駆け抜け、ベッドのある部屋に飛び込むと、布団を被って息を潜めた。全身が汗でびっしょりだった。心臓がどくどくと高鳴る音は、ひょっとしたら外まで聞こえてしまうんじゃないかと怯えてしまうほどだった。
どれほど時間が経ったか分からない。いつしか朝が来たけれど、少しでも寝たのかどうか、自分でもよく分からなかった。ノッポは結局帰ってこなかったのだ。
「ノッポは?」
メガネが声を潜めて訊いてくる。「昨日はノッポとお前の当番だっただろ」と、その言葉に、私は俯いた。
「……井戸で、待ち伏せされてた」
「嘘だ」
「ほんとだって」
私たちが顔を寄せ合って内緒話をしていると、チビが寄ってきて間に入ってくる。
「どうしたの?」
「ん、何でもない」
メガネはチビの頭をくしゃりと撫でて、顔を逸らした。
何だか嫌な予感がする。そんなことを思いながら食堂に入った私は、その場で立ち竦んだ。
「ノッポ!」
先に叫んだのはメガネだった。私は一拍遅れて走り出す。
食堂の奥で、椅子に縛り付けられたまま、上半身裸のノッポが、がくりと頭を垂れていた。呼んでも返事はない。その肌は大小様々の生傷に覆われている。
「こんな……ひどい、」
メガネが言葉を失ったように呟いた。私は椅子の後ろに回り、縄の結び目に手を伸ばす。そのとき、背中にくっきりと浮かび上がった火傷の跡の生々しさに、息を飲んだ。
「ノッポ、ノッポ!」
メガネが叫んでノッポの肩を掴む。周囲では他の子供たちがざわざわとこちらの様子を窺っている。
「お仲間はお前らか」
子供たちをかき分けて、職員がこちらへ歩み寄ってくる。私は職員を鋭く睨みつけ、ノッポを戒めていた縄をそっと取り払った。
「……う、」と、ノッポが頭を上げる。メガネがノッポに声をかけるが、その目はうつろで、返事をすることも出来ないようだった。
身構える私たちの前に、白く長い法衣を着た院長が姿を現す。メガネが息を飲んだ。
「――昨晩、彼と一緒に外をうろついていたのは誰ですか?」
私とメガネは顔を見合わせる。背後は壁で、周囲は子供たちに囲まれている。どこにも逃げ場はなかった。
「外? 何のことを言っているのか分からないな」
メガネはとぼけるような口調で言う。私もそれに追従して頷いた。
「おや、分かりませんか」と院長はさも意外そうな顔で腕を組む。
「では、お友達が何をしようとしていたのか、あなたたちにも教えてあげましょう」
顔面蒼白のメガネが、そっと私の腕を掴んだ。私もその手を掴み返した。メガネの体の震えが伝わってくる。私は唇を引き結んで唾を飲んだ。
院長は朗らかに笑った。
「そこにいる彼はね、私たちの大切な井戸に、何か細工しようとしていたのですよ」
「なっ……!?」
私は目を剥く。言いがかりにもほどがあった。
「何をしようとしたんでしょうねぇ。……まさか、水に毒でも入れようとした、とか?」
それはお前たちがやったことだろう、とメガネが憎悪に満ちた声で呻く。だがここで、それを声高に言うのは憚られた。
一定の距離を取って遠巻きに見ていた子供たちがざわつく。疑念に満ちた目を向けられて、私はたじろいだ。
「お二人のどちらかが、昨日、外にいたんでしょうか」
院長は腰に手を当てて身を屈め、私たちの顔を見比べる。メガネがぎゅっと唇を噛んで、息を止めた。私も唇を引き結んで、院長を睨んだ。
「口を割らないおつもりですか」と、口調だけはやけに丁寧に、院長は微笑む。
「それでは、彼にもう一度よく訊いてみるしかないですね」
院長がそう呟くと、職員が足を踏み出して、ノッポの腕を掴んだ。片腕で吊り上げられたノッポが低く呻く。
「やめろよ!」
メガネが叫んで職員に掴みかかるが、まるで歯が立たなかった。私は震えたままその場に立ち尽くす。もし私が名乗り出たら、私もノッポと同じ目に遭うのだろうか。まさか無罪放免なんて考えられなかった。
「ノッポ、」
私は呟いて、ノッポの顔を見る。その頬には暴行の跡が残っていた。私の呼びかけに応じて、ノッポが薄く目を開いた。数秒の間、真っ向から視線が重なり、私は立ち竦む。表情の抜け落ちたノッポの顔からは、私に対しての意思は何も読み取れなかった。
「……っ!」
右腕をひねり上げられたノッポが、鋭く息を飲む。私は奥歯を噛みしめた。
「私たちも、こんな強引な方法で共犯を聞き出したくなんてないのですよ」
院長は痛ましげな表情で胸に手を当てる。ノッポが堪えきれない呻き声を喉から漏らした。
私は一度、長く息を吸った。体が震える。隣のメガネが愕然としたように私を振り返った。
「……わた、」
「あいつです」
私の言葉を遮って、ノッポは息も絶え絶えにそう吐き捨てた。私は口をつぐんで目を見開く。ノッポの左腕が持ち上がり、私たちを取り巻いていた子供たちを真っ直ぐに指さす。指先が向けられた先にいた少女が、「違う、」と首を横に振った。
院長は興味深げに顎に手を当てた。
「違うと言っていますが?」
「素直に認める奴なんていないだろう。……証言三つで、証拠になるって聞いた。これでひとつだ」
「よく勉強していますね。ですがそれは神殿裁判所の話です。ここは」
「でも、あんたは神殿の人間だ」
ノッポがいつになく強い目で院長を見据えた。
「……悪人は、必ず見つけて、裁かれねばならない」
メガネが、院長を鋭い視線で睨みつけて、低く呟く。伸ばされたノッポの腕の先にいる少女を指さし、はっきりと告げた。
「僕は、ノッポ――彼が、昨晩あいつと部屋を出るのを見た」
私は目を見張った。ここに来てようやく、ノッポとメガネの意図が分かったのである。そんな、と私は唇で呟く。
私がやったことを、あの子に、なすりつけようとしている。
「悪人は、必ず見つけて、裁かれ、適切な罰を受けねばならない。――ええ、確かにその通りです」
院長は顎に手を当てたまま、面白いものを見るように目を細めた。メガネが硬い動きで頷く。
「これで証言は二つですね。これは裁判ではありませんし、神殿裁判所でもありませんが……まあ、やり方を踏襲しても構わないでしょう」
そう独りごちて、院長は私を見た。メガネとノッポも私を見やる。
話題にされている少女は、職員に腕を取られ、半狂乱になって泣き叫んでいた。
「違う! あたしは何もやってない、そいつらがあたしに罪を着せようとしてるんだ!」
激しい声に糾弾され、私は思わずびくりとする。メガネが低い声で「ノロマ」と私に呼びかける。……何を要求されているのかは、流石の私にも分かっていた。
ノッポを見る。酷く焼けただれた背中の火傷に、どうしても目が行った。火傷は何かの文様を形作っていて、ぞわりと鳥肌が立った。焼き印だ、とすぐに分かった。どれほど痛くて熱いだろう。きっと一生消えない傷になる。
――私は、あんな目に、遭いたくなかった。
「わ、たし、も、」
唇が震えた。がたがたと揺れる指先で、私は少女を指さした。少女は絶望の表情を浮かべる。
「……私、も、見ました。あの子が、昨晩、部屋を出る、ところ」
「そうですか。勇気ある証言ありがとうございます」
院長は和やかな口調で応えた。一瞬、何やらちらりと含みのある目で私を見たが、それもすぐに逸らされる。
「違う! 私は何もしてないっ!」
少女は手足を振り回して暴れる。さっと周囲の子供たちが彼女から距離を取った。
「別室で、少しお話をしましょうか。――ああ、あなたたちはもう良いですよ」
院長は少女に歩み寄り、それから私たちを振り返って微笑んだ。解放されたノッポが、床の上に落下する。
「ノッポ!」
メガネがすぐに近づいて、ノッポを助け起こした。少女を捕まえたまま食堂を出て行く院長たちを見送って、私は長い息を吐く。
院長たちがいなくなって、食堂は未だ固い空気を残しつつ、いつも通りに動き出した。貧相な皿の並んだ長机が置かれ、子供たちが三々五々席に着く。
そんな中、私は唇を戦慄かせてノッポを見た。
「……ノッポ、私たち、とんでもないことしちゃったよ」
私が囁くと、ノッポは上体を起こし、「黙っていろ」といつになく鋭い視線で私を睨んだ。
「こうでもしなきゃ、お前がやられてたんだ。お前、名乗り出ようとしただろ」
「だって、本当は私が、」
「ノロマ、何甘っちょろいこと言ってるんだ」
メガネが私の肩を掴む。
「水を汲むことがそんなに大罪か? なあ、ノッポがこうまでされる必要のある罪か?」
激しい口調でそう言って、メガネはノッポを指し示した。酷く腫れ上がった頬に、体が震える。数え切れないみみず腫れと青あざ、火傷の跡、――背に刻まれた焼き印。ノッポは疲れた顔で頷く。
「あいつらがやりたいのは、真犯人を見つけることじゃない。『不穏な動きをする人間はこうなる』という見せしめだ。対象は誰だって良いんだ」
「でも、それでも、だって……」
私は唇を噛んだ。私が名乗り出なかったことで、私が助かったのは分かっていた。ノッポとメガネが私を助けようとしてくれたことも。
「ねえ、何があったの?」
「ああ、チビ、――何でもないさ」
メガネがチビの頭を撫でた。チビは訳が分からない、といった表情で、所在なさげに佇んでいた。まだ小さな少女であるチビは、メガネの服の裾をぎゅっと掴む。
「この話はもう終わりだ。――なあノロマ、俺たちを救ってくれる奴なんて、どこにもいやしないんだぜ」
ノッポは立ち上がりながら言った。私は小さく頷いた。
「俺たちに神なんていない。ましてや、守ってくれる家族なんてのも、もういないんだから」
ノッポがそう呟くと、メガネがふとノッポを見つめた。何か言おうとするように唇を開きかけたが、結局、メガネは何も言わずに口をつぐんだ。
ノッポに強引に話題を打ち切られて、私はどうしようもなく宙ぶらりんな気持ちを抱えたまま立ち上がった。もやもやする。でもそれがどういう理由なのかも、分からなかったのだ。
連れて行かれるときの、あの少女の絶叫が耳の奥で木霊した。
夜頃になって解放された彼女は、その後、日の光を二度と見ることはなかった。
朝を迎え、既に冷たくなった体を見下ろし、私はどうにも苦々しい思いを拭いきれずに俯いた。
***
「――……ルカ? アルカ、大丈夫?」
肩を叩かれて、私ははっと顔を上げた。ベッドに片膝をついた殿下が、私の肩に手を置いたまま、身を屈めて私の顔を覗き込んでいた。
「あ……大丈夫、です」
私は半ば呆然としながら頷いた。殿下は「いきなり黙り込むから、どうしたのかと思ったよ」と気遣わしげに眉をひそめた。
「どうした? 何か嫌なことでも思い出した?」
殿下が柔らかい声で問う。私はふるふると首を横に動かした。
「疲れてるみたいだね、もう休もうか」
殿下が目元を緩めて微笑む。私は無言で頷き、そのまま俯いた。殿下がベッドから降りて、椅子にかけていた上着を羽織る。
「じゃあね。おやすみ、アルカ」
「待って、」
静かに部屋を出て行こうとした殿下の手を取って、私は縋るように呟いた。殿下は立ち止まり、振り返る。促すように首を傾けられ、私は数秒の逡巡の後、口を開いた。
「――殿下、……もし、もし私が、昔、とっても悪いことをしたって知ったら、どうしますか」
情けなくも声が震えた。殿下は虚を突かれたように黙り込んで私を見下ろし、ややあってから「どうもしないよ」と頬を緩めた。
「僕自身は何も変わらない。僕は君を裁くこともできないし、罰を与えることもできないからね」
そんなの答えになってない、と私は緩く頭を振った。
「そうじゃなくって……。……私のこと、嫌いになりますか? ――見捨て、ますか?」
息混じりのかすれた声でそう囁くと、殿下は一瞬目を見開いてから、長いため息をつく。「アルカ、」と殿下は呆れたような声で漏らして、私と目線を合わせた。びくりと竦んだ私に少し微笑むと、殿下は口を開く。
「僕は『何も変わらない』って言ったよ。アルカがどんなことをしたとしても、そんなことには関わりなく僕はずっとアルカのことが好きだったし、これからもそうだ」
「でも、」
「アルカ。君は、自分の評価を丸ごと全てよそに委ねる時期はもう過ぎたはずだよ。君は僕の護衛官で託宣人であると同時に、アルカ・ティリという一人の人間だ。君がどんな人間かは君が決めるんだ」
殿下は私の肩を掴んで、力強い視線を私に向けたまま告げる。
「でもね、アルカ。……その結論がどんなものであれ、僕は君を応援するし、大切に思ってるってことは、覚えておいてよ」
私は呆気に取られて、ぽかんと口を開いたまま殿下をじっと見つめた。殿下は軽い笑みをその頬に湛えたまま、私の視線を受け止めていた。
「考えるのはアルカ自身だ。そうやって考えて考えて、……どうしても分からなかったら僕のところへおいで。そうしたら一緒に悩んであげる」
殿下は立ち尽くす私の両頬に手を当てた。
「償いをしたいと思うのなら、その手助けをする。君がその胸一つにしまっておこうと決めたのなら、何もしないでそっとしておくから」
「でん、か、」
私は言葉に困って、殿下の腕に触れる。殿下はそっと身を屈めながら、にこりと微笑んだ。
「だから今はおやすみ、アルカ」
殿下の顔が近づいた。額を何かが掠めたと思った直後、殿下は姿勢を正して顔を背けた。
…………?
「えっと、おやすみなさい、殿下……」
私は咄嗟にそう返す。……ちょっと今何があったのか分からなかった。殿下は何も言わずに目を逸らして、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
何かが触れた感触のあった額を押さえる。いや……待って……? 一体今のは、な、何だったんだ……?




