2
宵闇がカーテンの隙間から覗く。半開きにした窓から緩やかな風が吹き込んでいた。明るすぎない照明に照らされた室内では、静かに穏やかな時間が流れている。そんな空気を打ち壊したのは、口火を切った私の方だった。
「――孤児院に行きたい?」
殿下が目を丸くして私を見た。私は枕を抱きかかえて小さく頷く。
「私がいた孤児院が、今どうなっているのか、知りたいんです」
「なるほどね。別にその気持ちを否定はしないけど……何だってそんないきなり」
私にあてがわれた部屋のはずなのに、何故か私よりよっぽど寛いだ様子で、殿下は首を傾げた。のんびりと足を組み、膝の上に閉じた本を乗せている。その力の抜けた気楽な様子と対照的に、私は険しい表情で少し俯いた。
「最近、よく思い出すようになったんです。……一度思い出してしまうと、私、どうしてもあの孤児院のことが気がかりで」
殿下は肘掛けに頬杖をついて、しばらく考えこむように顎に手を当て、どこか遠くを見ていた。ややあって、殿下は「分かった」と頷く。
「引っかかることがあるなら、一度自分の目で見るのが一番良い方法だ。そのうち長めの休暇を取れるように、隊長に言っておくよ」
「……! ありがとうございます!」
私が目を輝かせると、殿下は「その前に」と私に指先を向けた。私はぴたっと口をつぐんで殿下の言葉を待つ。
「そもそも僕はアルカが孤児院出身だってことを知らなかったし、だいいちどこの地方の孤児院の話なのかも知らない。考えてみれば、僕はアルカのことを全然知らないんだ」
「で、殿下が聞いて楽しいような話じゃありませんから……」
私は目を逸らした。今まで殿下にこのことについて言及されたことはなかった。――それが偶然とは、流石に思えない。殿下は穏やかな声で告げる。
「無理に話せとは言わないよ。……やっぱり話したくないかな?」
「話したくないといいますか……その、明るい話じゃないですし……殿下の気分を悪くしたくないといいますか、」
躊躇う私に視線を向けて、殿下は優しく微笑んだ。
「僕は聞きたいな。たとえどんな話であろうと、アルカのことなら」
クリティカルヒットである。思わず私は胸を押さえて、腰掛けていたベッドに横向きに倒れ伏す。殿下はいちいち私の心臓を撃ち抜きにかかるのはやめて欲しい。
「いつか死ぬ……」
「死なないでよ」と殿下は呆れたようにため息をついた。
「アルカ、大丈夫? 前は何を言われたってガンガン跳ね返してたのに、いきなり耐久性が落ちたね」
「だって前は全然その……気づかなかったし……」
「そうだね、気づくようになっただけ成長かな」
殿下のからかうような言葉には応じず、私は気を取り直して起き上がると、ごほんと咳払いをする。殿下は妙にご満悦で頷いた。
「……長い話になりますよ」
「大丈夫、まだ夜は始まったばかりだから」
殿下は息を漏らして微笑んだ。
***
親の記憶は、ない。おぼろげに残っている優しい声はきっと、ただの空想の産物かもしれなかった。
井戸の底の水面に、青空が映っている。こんな青天の日に、かつて、「さよなら」と私に囁いた人がいた。
「――ノロマ! 何ボヤボヤしてんだ、早くしろ!」
無声音で怒鳴られて、私は慌てて駆け出した。水がたっぷりと入った桶を両手で抱え、井戸から裏口まで走り抜ける。
「さっさと渡せ」と重たい桶を取り上げられて、私は肩で息をした。私から桶を受け取ったメガネは、桶に蓋を被せて、裏口の脇の茂みに桶をぐいと押し込む。
そそくさとベッドが並べられた部屋に戻ると、扉の前で見張りをしていたノッポが「大丈夫だったか」と囁いた。頷くと、ノッポは満足げに腰に手を当てた。
「これで今日は安心して水が飲めるな」
「そうだね」
小声でわいわいと盛り上がりながら、私たちは部屋に戻る。空が明るくなったばかりの時間帯だ、周囲はまだ静かで、寝息も聞こえた。
与えられた水を飲んで、赤毛のあの子が呼吸を終えたのは、つい最近のこと。
日がしっかり昇った頃になって、扉の脇につけられた鐘が激しく打ち鳴らされた。のそのそと布団から出て、欠伸をしつつゆっくりと着替えていると、気がついたら周りは皆準備が終わってしまっている。
「早くしろ、ノロマ!」
毎日、何度もそう急かされる内に、私の名前はいつしかノロマになっていた。
廊下を走って食堂に向かうと、ちんまりと切り分けられたパンと、具のないスープが並べられている。今日はいつもよりちょっとパンが大きめなので、何か良いことでもあったのだろう。
「あっ、私の!」
椅子に座ろうとした矢先、目の前の皿の上からパンがさっと奪い取られた。手を伸ばして追いすがったが、混雑した見通しのきかない食堂では、誰が犯人かも分からなかった。
「このノロマ」
「うるさい」
隣でパンをかじりながら、メガネが口の端でせせら笑う。私は空の皿を見下ろしながらため息をついた。
「分けてやるよ」と、メガネが親指の先程の大きさにパンを千切って私にくれる。一口にも満たないそれを噛みしめながら、私は唇を尖らせた。
「せっかく、いつもより大きいと思ったんだけどなぁ」
「おとといと昨日で八人が脱走したからね。そりゃパンも大きくなるさ」
「脱走? もしかしてホクロたちが?」
私は目を丸くする。頬に大きめのほくろがあった、ホクロと呼ばれる少女と、その仲間たちが、最近何か画策していたのは知っていた。
「ああ」とメガネは頷く。私はホクロの顔を思い浮かべてみるが、いまいちはっきりと思い出せない。結局そんな程度の繋がりだったっけ、と私はスープ皿を引き寄せた。
「……あいつら、ここを出るより前に捕まったってさ」
不意に背後に現れたノッポが、低い声で告げた。メガネが息を飲む。
「さっきゴミ捨て行ったら、焼却炉に転がってた」
何が、とは言わずに、ノッポはそう吐き捨てた。荒い動きで椅子に腰掛けると、ノッポはパンを鷲掴みにして足を組んだ。その表情は剣呑で、私はスプーンを握りしめたまま、心臓がどきどきと嫌な感じに高鳴るのを感じていた。
***
「なんかね、とっても劣悪な環境だったんです」
私は両腕で枕をきつく抱きながら呟いた。殿下は黙ったまま私の話を聞いている。
「孤児院の大きさに対して子供は多過ぎだし、食べ物も全然足りない。毎日重労働とか、危険な作業をやらされて、命を落とす子供もたくさんいました」
殿下の眉根がきゅっと寄せられた。私も険しい表情で俯く。
「でも、何が一番怖いって、孤児院の施設の人が、何をするか分からないところですよ」
私は乾いた笑いを絞り出した。
「折檻は当たり前だったし、ちょっとでも失敗すればごはんは抜かれたし、……食べ物には何が入っているか分からないし」
「何が入っているか分からない?」
殿下が、信じがたいと言わんばかりに身を乗り出す。私は自嘲混じりの笑い声で頷いた。
「喉が渇いたって訴えた子供に、施設の人から水が与えられたんです。そんなのいつもは滅多にないことで、その子は喜んで水を飲んで、」
殿下の愕然とした表情に、思わず声が詰まった。笑みをかき消した私は唇を噛む。思えば、あのときの私はきっと、感覚が麻痺していたのだ。こんなの、とてもじゃないけど正常な状態じゃない。
突如として言いようのない恥ずかしさに襲われた。私は『まとも』じゃないのかもしれない。そんな可能性が頭に浮かぶ。……私はこんなところにいて良い人間なんだろうか。
黙り込んだ私に、殿下が首を傾げた。
「……アルカ?」
「すみません、殿下。いきなりこんな話をして、気分が悪いですよね」
「アルカ、また変なことを気にしているでしょ。僕が話してって言ったんだよ、アルカが僕の顔色を窺うのはおかしな話だ」
殿下は足を組み替えてため息をつく。やれやれ、と言わんばかりのわざとらしい態度に、私は少しだけ唇を尖らせる。
「それにしても、国内にそんな孤児院があるとは知らなかったな」
殿下は顎に手を当てて低い声で呟いた。私は「ああいや、」と首を横に振った。
「その孤児院自体は、既になくなったんです」
私は、夜の闇に浮かび上がる炎の影を思い浮かべながら呟く。
「炎に焼かれて、建物も、その中にいた人間ももろともに、みんな」
殿下が目を見開いた。私は抱いていた枕をベッドの上に戻して、布団を膝の上に引き寄せる。
「だから、今あるのは、その土地に再建された新しい孤児院です。運営する人も違うみたいだし、言ってしまえば、私とは縁もゆかりもないんですけど、――でも、そこにいる子供たちが私みたいな目に遭っていないか、少し気になって」
頷いた殿下はソファの肘掛けに軽く寄りかかった。すっと目を細めて、どこか遠くを見るような顔をする。
「その、孤児院が燃えたっていうのは、事故? それとも誰かの犯行?」
数秒黙り込む。僅かに口の中が乾燥するような思いがした。
ややあって、「分かりません」と私は頭を振った。「……でも、きっと放火だろうって、ノッポが言ってました」
「ノッポ?」と問われてから、私は慌てて口を塞ぐ。殿下は「誰それ」と頬杖をついた。私はしばらく躊躇って、言葉少なに応じる。
「……孤児院にいた、私より年上の男の子です」
「ふーん、なるほどね」
目を逸らした私の様子から、どうもそれだけではないと察したらしい。相変わらずの聡明さで、私は嬉しいばかりである。まったくもって……。
「それで?」
「わっ」
私がよそを向いているうちに、殿下はふかふかの大きなソファから、ベッドの近くの椅子まで移動してきていたらしい。いきなり声が近づいたので、思わずベッドから尻が滑り落ちてしまった。よじ登りながら、私は殿下に問う。
「『それで?』って、何ですか?」
「その人は、アルカの何だったの?」と、難しい質問である。
「……一口には言えませんかね」
迷った末に答えると、殿下は僅かに笑んだ。思案するように腕を組むと、一旦私に向かって腕を伸ばしかけて、途中で引っ込めた。
「――まあ、無理に聞き出さなくても良いか」
そう独りごちるのを聞きながら、私はスリッパを脱ぎ捨ててベッドに上がり、殿下から距離を取る。何だ何だ危ない。その手を伸ばして一体何をするつもりだったのだ。
「ごめんってば。戻っておいで、アルカ」
殿下が両手を広げてそう言うが、私は広いベッドの中央で正座したまま首を横に振った。
殿下は軽いため息をついて、苦笑する。
「まあいいや、話を戻そう。――孤児院が燃えたのは、いつの話? アルカが今ここにいるってことは、孤児院を出てからのことだよね」
「はい、でも……」
私は口ごもった。
「正確な時期は分かりません。でも相当昔のことだと思います。私はまだきっと十も行かない頃に孤児院を脱走しましたから」
「脱走?」
殿下が目を瞬くので、私は小さく頷いた。




