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これまでと雰囲気がやや変わります。ご注意ください。
「嫌だ! 置いていかないで!」
私は声を限りに叫んだ。足の裏はもう傷だらけで、他にも大小様々の傷が沢山あった。足首を捻った感じもした。でも私はまだ走れる。……逃げれるのに。
「ここから出して! 見捨てないでよっ! いやだ!」
井戸を掘るための穴だった。幸いにもまだ掘削の途中で、それほど深い訳じゃない。でも私の身長よりは確実に高さがあったし、一人で登るには私でもある程度の時間がかかりそうだった。
返事はない。私は歯を食いしばって穴の壁に足をかけ、這うようにして地上へ戻る。
肩で息をしながら顔を上げた。みんなで協力しながら登ろうね、と決めていた壁を、仲間たちが登っていた。――あんなの、私一人じゃ登れない。
高い壁に歩み寄り、私はその壁面を拳で強く殴った。そうしている間にも仲間たちが壁を乗り越える。……ああ、あれで彼らはこの忌まわしい貧民街を出て自由になるのだ。私は呆然とその後ろ姿を見送った。
――――と。
空を切る音がした。炎のついた矢が、夜の闇を横切る。壁の上まで到達していた子供の体が、火を避けようとのけぞる。またある体は、鋭い矢に体を撃ち抜かれる。
落ちてくる。子供が。みんな孤児だ。寄る辺のない、救いようのない、救う価値もない、神に愛されなかった子供たちだ。
重い音を立てて、地面に落ちた。見慣れた顔が潰れていた。一緒にここを出ようねと、この地獄を抜け出そうねと、そう誓い合った仲間たちだった。……否、こいつらは本当に私の仲間か?
足下に飛んできた眼鏡を見下ろす。本来嵌まっているはずのレンズは、とうの昔に外れていた。
「ノロマ」
ふと、背後から声をかけられて、私は振り返った。
「ノッポ……」
そう返すと、孤児院の中でも一番背が高かったノッポは、疲れた表情で笑った。
「残ったのは俺らだけか」とノッポが呟く。火がついたまま地面で倒れ伏す体たちをざっと眺め、ノッポは私に向かって重いため息をついた。
地面に叩きつけられたまま、静かに転がっている眼鏡を数秒眺めると、ノッポは片足を持ち上げる。眼鏡を踏もうとするように足を上にやって、それから逡巡の末に、そっと足を戻した。
「――俺もこいつらに置いて行かれたクチだ。ちょっと手こずっただけなのに」
苦しげに呻く子供の体を爪先で軽くつつきながら、ノッポは嗤った。
「なあノロマ、これからは二人でやっていこうぜ。俺はお前のすばしっこいところを買っているんだ」
私はその言葉に少し躊躇い、それから「分かった」と短く応じた。
足下では、痛みに呻く子供たちが、何人も転がっていた。……でも、私は彼らを救えない。彼らを救うものはどこにもない。
――この最下層の街に、神など存在しないのだ。
***
どうしようもない苦しさに耐えかねて、私は薄らと目を開けた。……何とも嫌な夢を見た。
「――アルカ、起きちゃった?」
ふと、額を撫でながら、枕元に座っている誰かが低い声で囁いた。私は一度目を固くつぶり、それから勢いよく手を振り払う。
「……殿下、私は確かにこちらの居住区に部屋を移すことは了承しましたが、夜な夜な部屋に侵入してきて良いとは言っておりません」
「あはは、厳しいなぁ」
膝に頬杖をついて、殿下が息混じりの声で笑った。私は寝返りを打って、殿下の方を向く。
「さっさとお部屋に帰って休んでください」
「やだ」
「この……」
布団の中で拳を握りしめてしまう。殿下は布団越しに私の肩を数度叩くと、少し目を伏せた。部屋の隅に置かれた燭台の光が、殿下の横顔を柔らかく浮かび上がらせていた。
「アルカは、一体、何の夢を見ているの?」
殿下が静かに囁く。私は布団を顔まで引き上げながら、殿下を目線だけで窺った。殿下は穏やかな目つきで私を見返した。
「昔の、夢です」
消え入りそうな声が出た。殿下は息だけで微笑むと、私の頭に手を伸ばす。一度軽く頭に手を置いてから、顔にかかった髪をどけて、そのまま指先が離れていった。
「殿下、……もう、私みたいな子供は生まれませんか?」
「少しでも減らせるように努力はしているよ。貧民街も確実に縮小してきている」
「そっか、……よかったぁ」
私は目元を緩めて呟いた。柔らかく質の良い布団にくるまれて、私は、ほ、と息を吐く。殿下が再び私の頭を撫でた。ゆっくりと目を閉じると、殿下は小さな声で「おやすみ」と囁いた。
***
私はぱっと目を覚ますと、すぐさま枕元の椅子を振り返って確認した。誰もいない。
「でも絶対殿下来てた……」
寝ぼけててよく覚えてないけど、殿下はちょくちょく夜中に侵入してくる。そろそろどこかに訴えて良いかな。
――私もしかして殿下のこと好きなんじゃない? という件に関して殿下に伝えてから早一ヶ月。諸々の対応がやたら早い(殿下の)。ひとまず偉い人の色恋に関わってきそうな婚姻とかの話題はまるっと(私が)無視して、なし崩し的に託宣人兼護衛官兼恋人、みたいな訳分かんない立ち位置である。ジャクトには先日「おれ、アルカ先輩に対してどう接すれば良いか分からなくて面倒なんですよね。さっさと婚約しちゃいましょうよ」と驚くほど自分本位かつ雑な提案をされた。
殿下には「官舎より城内にある居住区の部屋の方が良い部屋だよ」と雑に勧誘され、気づいたら引っ越してきてしまった。両陛下と階が違うのがせめてもの救いである。あくまでもこれは託宣人待遇なので、別にどこかから怒られたりはしないらしい。ちなみに隣の隣のお部屋はメリザ様の居室だ。
婚約という発想は、何か咄嗟に思い浮かばない。だって私、孤児だし……学はないし……ちょっと良くない気がする。
そんなようなことを一度殿下に言ったら、「まあでも人と人との関係なんて一生続くか途切れるかの二択しかないからね」とよく分からないことを言われた。
「今更手放す気はないから、存分に悩んで良いよ」
これまた余裕綽々で殿下はそう言っていた。どうせ私は転がされているだけなんだろうな、とそろそろ私も分かってくるというものである。
****
昼食、混み合う食堂の席で、先輩は眉をひそめた。
「結局、今のお前の立場は何なんだ」
「…………殿下と多少仲が良い護衛官、兼、託宣人?」
「嘘つけ」
あんなに四六時中いちゃつきやがって、と先輩が私を指さす。一方的に責められるのは納得いかないので、私も先輩を指さし返して唇を尖らせた。
「先輩だって彼女いるんでしょ。寂しいんなら彼女さんに構って貰ってくださいよ」
「あいにく、俺の超素敵で賢く聡明な彼女は、今度の学会の準備で忙しくて俺に構ってる暇はない」
「いつもそれ言ってません?」
「うるせぇ」
額を小突かれて、私は不満の声を上げる。と、そこに「アルカ先輩!」と声がかかった。
「お隣良いですか?」
「良いよ」
頷くと、お盆を持ったジャクトがいそいそと隣に腰掛ける。お盆の上に乗っているのは、お手頃価格の日替わりランチである。
「お邪魔じゃなかったですか?」
「そんな真面目な話はしてなかったから大丈夫」
こちらの様子を窺って首を傾げるジャクトに、私はちょっとかっこつけて答えた。視界の隅で先輩がにやにやしているのがちょっと腹立つ。
「アルカの立ち位置の話だったな」
「ああ、そういえばアルカ先輩、まだ婚約を了承してないんでしたっけ」
「殿下が可哀想だよなぁ」
「はい。まだるっこしいです。さっさとしろって感じですね」
「そこ、流れるように罵倒しないで」
何とも生意気な後輩である。私はどん、と机を拳で叩きながらため息をついた。とはいえ、これは確かに私の最近の悩みでもあった。私は唇を尖らせて皿の上の魚をフォークでつつく。
「だってー……何か展開早いし……」
「ごねるな、ここまで何年待たせていると思っているんだ。さっさと応えて差し上げろ」
「いや、私にも選択権ってやつがですね」
最近私の周囲から怒濤の『さっさとしろ』コールをよく聞く。多分殿下の根回しがあるだろうなと思ってしまう程度には、殿下に対する私の信頼は薄い。殿下は何だかんだ言ってせこい人である。
「あ、ところで有給って、隊長に申請すれば良いんでしたっけ?」
ジャクトがふと話題を変えた。私と先輩は顔を見合わせ、「そうですよね」と頷き合う。
「何か用事でもあるのか?」
先輩が問うと、ジャクトは笑顔で首肯した。
「はい、聖火の祝祭に行きたくて!」
「聖火の祝祭?」
私は聞き返して首を傾げる。初めて聞く言葉である。怪訝な顔をする私に、ジャクトが「ええ、アルカ先輩知らないんですか……?」と、比較的マジめにドン引きした表情である。何かちょっと傷つく。
「先輩は知ってますか?」
同士が欲しくて先輩を見ると、あっさりと「まあ一応は」と返された。
「聖都で毎年夏にやってるやつだろ? 俺も行ったことはないが」
「そうです!」
ジャクトは目を輝かせて力説する。
「神様が下さった炎を、大神殿で何百年と繋いできたものが聖火で、祝祭ではその火がみんなに分け与えられるんです。聖都では三日間それを玄関先に掲げて、神様のお恵みに感謝するんですよ。寄付金は貧しい人たちの為に使われて、全ての信徒に神様の慈悲を配るお祭りなんです」
「ははーん……なるほどね……」
「アルカ先輩、分かってなさそうな顔してますね?」
図星である。ぺろりと舌を出した私に、ジャクトが肩を竦めた。まったくもう、とため息をついて、ジャクトは語り出す。
「炎ってのは、神様を象徴するもっとも清らかなものじゃないですか。だからみんな死後は遺体を炎で燃やすことで神様の御許に行こうとしますし、異端者はその生を浄化するために火刑に処すんです」
流石にここで「知らなかったなぁ」とは言えず、私はもっともらしい表情で頷く。ジャクトは我が意を得たりと言わんばかりの笑顔で胸を張った。
「そんな炎の中でも、一番尊く清浄なのが、大神殿で繋がれてきた聖火なんです。それを分けて頂けるなんて、素晴らしい栄誉でしょう?」
「……そうだね、火って暖かいし」
「実を言うと、おれの実家の暖炉は祝祭で分けて頂いた聖火を使っているんですよ」
「それはすごいね」
聖火って暖かいのかな? 多分そうなんだろう。火だし。
ジャクトと先輩が何やら会話しているのを聞き流しながら、私はふと昔のことを思い出す。最近とみに思い出すのは、殿下に拾われるよりもっと前のことだ。
どうしてだろう、と私は食堂の壁を眺めながら、内心で呟く。つまるところ、私が気にしているのは、昔のことなのだ。……私は殿下に相応しい人間なのかどうか、とか。そんな、今までは考える必要もなかったことを考えるにつけ、蘇るのは幼い頃の記憶である。
――私の昔の経験は、誰にも話していない。だから誰も知らない。
かつて私がノッポと呼んでいた、ただ一人を除いては。
2019/01/09 追記
全十六話です。




