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殿下のお誕生日の夜に起こった事件(と言ったら殿下には怒られそうだが)から、早数週間。私はことあるごとに動揺しっぱなしである。
「こんなんじゃ、殿下をお守りできない……」
昼休み、殿下から逃げるように走り出てきた裏庭でしゃがみ込み、私は落ち葉の吹きだまりを両手でワサワサしながら呟いた。
「私、どうすれば良いんだろう……」
だって、こんな経験、初めてなのだ。殿下は最近息をするようにそれらしいことを匂わせてくるし、……ん? いや……というかよくよく考えてみれば、前からそんなことを言っていた気もする。
「いきなりすぎるよ……」
私は頭を抱えて呻く。誰に相談すれば良いんだろう、と考えると、どうしても咄嗟に殿下の顔が浮かんでしまうのだ。違う違う、本人に訊いてどうする。うぅ、私にはそんなことを相談できる友達なんて……。
そこまで考えて、私は数秒間固まった。
「っそうだ! ウルティカに訊けば良いんだ」
私は落ち葉を踏みしめて立ち上がる。そうだ、私には友達がいるのだ。普段一緒におやつ食べに行くくらいしかしてないけど、きっと彼女なら相談に乗ってくれるはずだ。
「――なるほど」
ウルティカは口元をナプキンで拭いながら頷いた。
「つまり、殿下のお気持ちにどう応えたら良いか分からない、ということですか?」
「そういうことに……なりますかね……」
私はちびちびとケーキをつつきながら項垂れる。ウルティカは数秒黙り込んでから、ふと私を見た。
「アルカさんには、殿下の思いを拒絶する意思はないのですか?」
「きょ、ぜつ?」
私は目を瞬く。その発想はなかった。
「大抵の場合、どなたかから好意を伝えられた際って、受け入れるか拒絶するかの二択だと思いますの。アルカさんはまた別のところで悩んでいるように見受けられましたので」
「そんな、殿下を拒絶するなんて……」
「そういう、相手に応えて貰うことを望んだ好意の表明なんて、拒否しようが受け入れようが、そんなもの伝えられた側の自由ですのよ。殿下が、アルカさんの返事次第で態度を大きく変えるとも思えませんでしょう?」
私は完全に戸惑って狼狽えた。……殿下を、拒否、かぁ。確かに、私が『すみません』と言ったからといって、殿下が怒ったり私をクビにしたりなんてのは、ないと思う、けど。
「でも、殿下は、私の大切な主君ですし……」
「それなら、『ごめんなさい、その気持ちには応えられません。でもこれからも誠心誠意お仕えさせて頂きます』。別にそう返事をしたって構わないと思いますわ」
ウルティカはさらりとそう告げてから、「もちろん、」と私に微笑みかけた。
「私は、アルカさんが納得できて、幸せになれる道を選ぶのが、一番喜ばしいことだと思っておりますの」
柔らかい声でそう告げたウルティカに、私はゆっくりと頷いた。
「殿下がただの主君でしかないのなら、――アルカさん、あなたは容易く殿下を振っても構わないはずなのですわ」
そうしない理由はなぁに、と、ウルティカは謎かけのように囁き、悪戯っぽく笑った。
***
冬になっても、全然事態が進まない。全部私のせいだ。
……頭がパンクしそうである。私は呻いて殿下の部屋の扉に頭突きした。これから室内警備で、殿下と顔を合わせねばならない。そう考えただけで何故か耳が熱くなった。
「アルカ、何遊んでるんだ」と先輩はため息をつくと、私を扉から引き剥がして素早くノックをする。中から殿下の声で返事があった。思わず肩が跳ねる。
先輩に襟首を捕まえられた状態で、私は殿下の部屋に入った。殿下はいつも通りの笑顔で私たちを出迎えた。殿下が私を見て、それから一際柔らかく微笑む。何故か頬がほてった。何となく殿下の目が見れない、ので、思わず目を逸らしてしまう。
「……周回遅れにも程があるぜ、まったく」
先輩がため息交じりに呟くと、ぱっと手を離す。私は両手で顔を覆った。
「熱があるみたいなので、頭を冷やすために雪に頭を突っ込んできて良いですか?」
「風邪引くからやめてね」
殿下が即座に答える。くそぅ、やはり逃げられないらしい。私はそろそろと手を顔から外し、指の隙間から殿下を見やる。我ながら子供じみた仕草だとは分かっているが、どうにもやめられないのだ。
私が恐る恐る手をどけるのを待ってから、殿下は片手で頬杖をついて、にこりと私に向かって笑顔を向けた。
「アルカのそういう、雑な言い訳で逃げようとするところ、僕は嫌いじゃないよ」
「……殿下は少しばかり、盲目が過ぎるのではありませんかね」
「そう? 可愛くない?」
「こりゃあ重症だ……」
先輩が額を押さえてしまう。……ぶっちゃけ私もそう思う。
どうにも、最近の私は変である。何故だか殿下の顔を見ることができないし、殿下が話しかけてくださるだけで妙に緊張してしまう。以前までどうやって接していたものやら、全然分からないのだ。
「そろそろ一旦休憩にしようかな」
殿下があくびをして本を閉じた。どうやら先生に出された課題が終わらないとか何とかで、最近は少し疲れた様子である。きっと殿下は私よりよほど沢山勉強しなきゃならないのだろうし、私はただお側にいることしか出来ない。
「アルカ、おいで」
殿下が微笑んで、手を差し出した。前ならすぐに向かえたのに、今では咄嗟に躊躇ってしまう。殿下はやや寂しげに眦を下げた。
「そんなに警戒されたかった訳じゃないんだけどな」
「ごめんなさい、」
私は唇を噛む。殿下は無言で口角を上げることでそれに応えた。
「あ、おいしい……」
それにしたって殿下に出されるお菓子ってやつは、いつも美味しいものばかりである。まんまと釣られた私は、しっとりした焼き菓子を頬張りながら、そっと頬を緩めた。
先輩が所用でちょっと呼ばれて部屋を外してしまったせいで、うっかり二人きりになってしまった。何となく気まずい空気が流れて、私は無言のまま、もそもそと焼き菓子をかじる。
「アルカはね」と、殿下は不意に口火を切った。その目は私より少し遠いところに向けられている。
「ちょっと複雑に考えすぎなんだよ」
「……?」
私は首を傾げた。殿下はどこかふて腐れたような表情で、唇を尖らせる。
「まあ僕も気が長い方だから、急かしはしないけどね。……待つよ、いくらだって」
その言葉に、私はそっと俯いた。
「殿下は、どうして、そんなに……」
「うーん、僕がアルカのことをめちゃくちゃ好きだからかなぁ」
殿下が当然のように告げる。思わず「ヒィイ」と顔を覆ってじたばたしてから、私はそっと殿下を伺った。
「――でも私、そんな、大した人間じゃないです。……そうまで言って頂けるような理由がありません」
「理由のある好意の方が偉いなんて誰が決めたの?」
殿下は頬杖をついたまま、にこりと微笑んだ。「えっと」と口ごもると、殿下は「まあもちろん理由は沢山あるんだけど」と続けた。
「アルカは絶対に僕を裏切らないし、ときどきめんどくさいけど基本的に純粋で可愛いし、頑張り屋だし、他にも」
「……い、良いです! もう良いです!」
私はテーブルを手のひらで叩きながら、勢いよく首を横に降る。それでも殿下は口を閉じることなく、ゆっくりと付言した。
「でも、アルカを初めて見たときに、絶対に見捨てておけないって、あんなに強く思った理由は未だに分からないんだよね」
私は唇を引き結んで肩を強ばらせる。殿下はうっすらと微笑みを湛えたまま、じっと私を見据えていた。
***
もういつの間にやら春である。ありえん。むり。私は未だにうだうだとごねては、一人でぐるぐるしてばかりだ。
そよ風に乗って舞う花びらに向かって拳を突き出しながら、私はげっそりとした表情でため息をついた。
「舞い落ちる花びらを三つキャッチできたら、恋が叶うんだって。僕の為に取ってよ、アルカ」
殿下は楽しげに言った。……そんなおまじない、一体どこから仕入れてくるのだ。大体、殿下は私の動体視力と運動神経を舐めすぎである。というか私に取らせるんかい。
「……どうぞ、殿下」
私は両手にこんもりと花びらを乗っけて、殿下に差し出す。殿下は笑顔で「こんなに沢山はいらない」と応えた。こんにゃろ。
やけくそで、私は頭上に向かって花びらを放った。視界いっぱいに、淡い色合いをした花弁が舞った。思わず私は上を仰いだまま立ち尽くす。薄く雲のかかった青空を背景に、花びらが浮かんだ。それらが音もなく、柔らかく足下に落ちてから、殿下は満面の笑みで手を開いた。
その手のひらには、小さな花弁が乗っている。
「ほらアルカ、見てこれ。三つ取れた」
「…………っ!」
私は片手で顔を覆った。いちいち、殿下は、こういう……。
……絶対わざとなのが、これまたたちが悪いのだ。私は呻いて頭を抱える。耳がかっと熱くなるのを感じた。
そんな話を、春の新作メニューを買い占めて店内で食べ比べていたときにした。ウルティカと二人で来る予定だったのに、どうやって聞きつけたのか、先輩とジャクトまでついてきた。
「――アルカ、もうこの際はっきり言っても良いか」
最近殿下を見ていると訳もなく照れて変な動悸がするのだ、と相談すると、先輩はわなわなと震えながら、拳でテーブルを叩いた。私は真剣な表情で頷く。先輩は私の顔を真っ向から指さし、ゆっくりと告げた。
「……お前、殿下のことめっちゃ好きだろ」
…………?
私は目を瞬いた。隣のウルティカを見ると、真顔で首肯された。はす向かいのジャクトに視線を向けると、うんうんと頷かれる。
「……私が?」
「他にどなたがいらっしゃるのですか?」
「私しかいないです……」
私は呆然と呟き、先輩の言葉を複数回反芻し、はたと気づいて動きを止め、それから椅子からずり落ちた。
「わっ、私が、でで、殿下のことを……!?」
そんな、すすす、そ、そんな……!? 一体どういうことだ……!
愕然と口を開いたまま絶句する私を見て、ジャクトがしみじみと呟いた。
「まさかとは思ってましたけど、アルカ先輩、自覚なしにあれだったんですね……」
たった一年しか付き合いがないはずの後輩にまで、知ったような生意気な口をきかれる。私は動転して立ち上がった。
「理解ができません!」
「なら学べ。殿下があれだけ散々頑張って古今東西の恋愛小説を読ませてくださったんだ。一体その中ではどう描写されていた」
「小説では、ええと……」
私は一旦椅子に座って、顎に手を当てる。うーん、例えば、である。
「何か、その人を見ているだけで動悸がするとか」
ん?
「妙に緊張するとか」
……ん?
「恥ずかしくて目が見れないとか」
んん……?
私は目を見張った。まさか、この兆候、全部……!
――――とんでもなく当てはまるのでは!?
私はすっかり混乱して、口をぽかんと開いたまま放心した。一体、これは……どういうことだ。
「私、殿下のこと……」
私は殿下のことが大好きだ。とっても尊敬してるし、殿下は素晴らしい主人で、私はそんな殿下のお側にいられるだけで幸せ、なのだ。
「でも、そんな、」
殿下は、私の、主君、なのだ。
呟くと、ウルティカが柔らかい表情でさらりと告げる。
「まあ、じっくり考えればよろしいこととは思いますが」
「半年も待たせといてようやく、って感じだな」
先輩がやれやれと言いたげに肩を竦めた。私は頭がくらくらするような感覚に襲われて、思わずふらついてしまう。ジャクトが私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか、アルカ先輩」
何とか頷いて、私は胸元の服をぎゅっと掴む。突きつけられた可能性に、動揺が治まらなかった。
私は殿下のことが、誰より大切である。それはもはや自明のことだった。前からそんなことは知っている。それでも、私は、あくまで殿下の護衛官であって、そんな、
殿下が『アルカは複雑に考えすぎなんだよ』と言った、その言葉を思い返す。
「考えてもどうしても分からなかったのなら、殿下に訊けば良いと思いますわ」
ウルティカが楽しげな表情で頬杖をつきながら、ふふ、と声を漏らした。私は少し躊躇して、それから僅かに頷いた。




