4
「殿下? ……どこまで行かれるおつもりですか?」
会場である大広間を出て、長い廊下を突っ切っても、殿下はまだ歩調を緩めなかった。歩いて、廊下を抜けて、そして自身の部屋まで来て、そこで殿下は足を止めた。慣れ親しんだ殿下のお部屋に入ると、殿下はようやく私の手首を放す。
部屋の入り口近くで立ち尽くしたままの私をよそに、殿下は机に寄りかかって、ため息交じりに額を押さえた。
「……アルカは、あの人と、どんな話をしたの?」
突如として質問を差し向けられ、私は戸惑う。緒連絡があると言っていたのに、それは良いのだろうか。
「えっと、ああそうです、あの人……私にお手紙を下さったと言っていて。何か勘違いしているみたいなんですよ。私のところに縁談が来てるはずだって」
そんなのありえませんよね、と私が苦笑すると、殿下は一瞬目を見開いた。血相を変える、とでも言うのだろうか。それから殿下は長いため息をつく。「あの人の忠告は聞いておくべきだな、」と殿下が短く吐き捨てた。
「…………殿下?」
私は眉を顰めて、殿下に一歩近づいた。殿下は一度深く俯いて、それからゆっくりと頭をもたげる。殿下の目が、真っ直ぐに私を向いていた。
妙に真剣な表情に、私は思わず唾を飲んで姿勢を正した。
いきなりでごめんね、と殿下は前置いて、ゆっくりと語り出す。
「――アルカは、例えば、結婚相手として自分を幸せにしてくれそうな、条件の良い人がいたとして、その中から自分が自由に選ぶ権利があったとして、……そしたら、どうする?」
「『どうする?』って、どういうことですか?」
訳が分からない。私は咄嗟に問いに問いで返してしまう。すると殿下は「そうだね」と少し息を吐きつつ笑って、肩を竦める。
殿下は机を回り込んで引き出しに手をかけた。鍵を開け、その中から紐でくくられた紙束を取り出す。受け取れ、というように差し出されたので、私は怪訝な表情のまま近づくと、手を出してそれを受け取った。
「何ですか? これ」と私が殿下を見上げると、殿下は渋々とでも言いたげな口調で答える。
「……アルカに来ている縁談だよ」
「えん……!?」
驚きすぎて紙を取り落としそうになった。何とか踏みとどまったものの、何となく紙を見れない。わざとらしい程に目を逸らしながら、私は殿下に視線を向けた。殿下は目を伏せたまま呟く。
「それでも、ほんの一部だ。……アルカを幸せにしてくれそうな人を僕が選んだ。独自に調べさせた調査書もついている」
「えっと……それは、ええと……」
意を決して、ぺらりと紙をめくって中身を見てみる。どこかで薄ら聞いたことのあるような名前がいくつかと、簡単な説明が書かれていた。
「今まで隠しててごめん、」
殿下は、さも罪を犯した人間みたいな顔をして呟いた。断罪を待ってでもいるみたいだ。よほど申し訳ないと思っているらしく、私は安心させようと明るい声で応じた。
「いえ、殿下も殿下のお考えがあってのことだと思いますし……。その……私、今のところあんまり切羽詰まって結婚したいとは考えてないんですけど、でも、殿下がこうして私の為に手間をかけて選んでくださったのかと思うと、少し嬉しいです」
きっと殿下が手ずから選んでくださった人なんだし、みんな立派な人なんだろう。……でも、だ。
「殿下、でも、」
私は眉を顰めた。
「私、やっぱり人と暮らすっていうのがどんなものか分からないんです。知らない人とわざわざ添うくらいなら、私は一人でも全然構わないし、……結婚したら仕事を離れる人もいるって聞きました」
殿下が目を見開く。私はぽつぽつと言葉を続けた。
「それに、殿下。――私、どなたか『幸せにしてくれる』人なんて探してないんです」
私は俯く。知らず、声が揺れた。殿下は真っ直ぐに私を見ている。私は一度息を吸って、それから眼差しを上に向け、静かに告げる。
「だから、……殿下、私は、あなたの口からそんな言葉は聞きたくなかった」
その言葉を受けて、しばらく殿下は何も言わずに、愕然とした表情で私を見据えていた。私は唇を噛む。私は一字一句覚えているのに、殿下はもう忘れてしまったのだろうか。
「私はいつか必ず『幸せになれる』って、殿下が言ってくださったんです。だから前を向けって、殿下が言ったのに。……今更、誰かに幸せにしてもらわなくたって、私は十分に幸せです。だって私、殿下のお側にいさせて頂けるだけで、もう、」
何故か私の手は震えていた。この感情が一体何なのか分からない。しかし、多分私は、今、傷ついている。裏切られたような気持ちだ。……屈辱だった。
「っ、私の幸せは私が決めます。殿下が勝手に決めないでください」
私は唇を戦慄かせながら、やっとの思いでそう呟いた。殿下は唇を引き結んで、私をじっと見つめる。ややあって、殿下は重い声で応じた。
「……ごめん、アルカ」
「別に、構いません」
言葉少なに答える。殿下は私よりよほど苦しげな顔をしていた。私は殿下から目を逸らしたまま、深く俯いた。
殿下が、項垂れたままの私に歩み寄った。
「――僕は、アルカのことが誰より大切なんだ。……それだけは伝えても良い?」
「殿下が、過ぎるほどに私のことを重用してくださっていることは、理解しています」
「そうじゃなくってね」
殿下が声もなく笑う。私は僅かに頭を上げた。
「僕は今回、アルカの気持ちを考えずに先走ってアルカを傷つけた。……本当に馬鹿だったと思う。ごめん」
否定も肯定もできず、私は曖昧に頷く。気力を振り絞って目線を上げると、殿下は眦を下げて微笑んでいた。
「まず伝えておくべきことがあったのに、それを忘れていた訳だ、……上手くいかなくて当然。正面切って行けってそういうことだよね」
……ん? 何となく雲行きが変わったのを感じて、私は半歩後ずさった。どうやら私も随分と勘が鋭くなったみたいだ。
及び腰になった私を見下ろして、殿下が笑みを深める。腰が引けている私の左手を取って、手首に指先を滑らせる。――そこには紛れもない託宣人の証である、金の腕輪が嵌まっているのだ。
「……殿下?」
私は引きつった笑みで殿下を見上げる。殿下は落ち着いた微笑みで応じた。
殿下はあくまでも穏やかな口調で語り出す。
「僕は、アルカのことが、初めて見たときからずっと好きで、ずっと応援しているし、ずっと側にいて欲しいと思っているんだよ」
「私も、殿下のことは好きですけど……」
「ちゃんと最後まで聞いてよ、アルカ」
殿下は軽く叱るように目線を強くする。私はへっぴり腰で頷いた。
「僕は、出来ることならアルカを誰にも渡したくないんだ。正直言って、アルカに届いた釣書だって全部燃やしてやりたかったし、さっきのボンボンの後頭部も一発くらいお盆で叩いておきたかったよね」
いきなり物騒なことを言い出すので、ぎょっとしてしまう。流石にそれは駄目だと思うのだ。唖然とする私に「やらないよ」と殿下は不服そうに唇を尖らせた。
「だから、」と殿下は私の手を強く引く。私は一歩踏み出した。殿下の目と距離が近くなり、思わず息を止める。
「――どこの馬の骨とも知れない男に嫁ぐくらいなら、僕のところにおいで、アルカ」
殿下は真剣な表情で私の目の奥を見据えた。咄嗟に茶化せずに、私は凍り付いたように殿下の双眸を見返す。
「えっと、その……殿下は、私に、そういう意味で、ええと……」
私は殿下から目が逸らせないまま、動揺を露わにした。殿下は、私の手首にある腕輪を指先でなぞってから、「もちろん、それもあるっちゃあるね」と漏らして私の手を放す。解放された直後、私は二歩ほど殿下から距離を取ってしまった。
殿下は酷く優しい顔をして囁いた。
「アルカは、僕が誰よりも信頼を置く護衛官で、僕の唯一無二の託宣人で、僕が生まれて初めて『欲しい』と思った存在で、僕を何よりも励ましてくれる人で、――僕が一番幸せになって欲しいと願っている、僕の好きな人だ」
……過多である。
「まあこんな気持ち、重いって思うのは当然だし、権力でも駆使して無理矢理に応えさせようなんて思わないよ。嫌なら忘れて欲しい」
過多が過ぎる。過過多である。
「でも、ねえアルカ、もう一度言っても良いかな。――僕は、本当に、アルカのことが誰よりも大切なんだ」
情報が過多。向けられている思いも過多だし、私の動揺も過多だ。うーんなるほど。……うん、むりだな。ちょっと処理能力が追いつかないのだ。殿下から見た私は、さぞかし呆然とした間抜け面をしていることだろう。
ややあって、私はぽつりと呟いた。
「……急用を思い出しました」
「うーん、このタイミングでかぁ」
私は史上最速で後ろ向きに歩くと、ドアノブに手をかける。ちょっと今は何だか殿下の目が見れない。
「しししし失礼します」
「……まあ、『急用』なら仕方ないよね。いきなり連れてきたうえ、突然変なこと言い出してごめんね」
「あ……えーとその」
いや、これ、なんて返事をすれば良いんですかね!? 私は逆ギレに近い感情を込めて拳を握り締める。
殿下は余裕を取り戻したご様子で、緩く目を細めて私を見やった。
「もう会場には戻らない? うん、そっか、なら僕ももう戻らなくて良いかな」
がくがくと首を上下させる私に、殿下は艶然と微笑んだ。
殿下の部屋を辞した。ぱたん、と後ろ手に扉を閉める。私は数秒の間、虚空を見つめた。
「っ、ありえない……」
呟いて、私はよろよろと廊下を歩き出した。おぼつかない足下のまま、私は徐々に足の回転を速め、とうとう廊下を走り始める。
「……殿下ぁあああああ! 私、受け止めきれないです! むりです!」
訳が分からないです。ありえないです。教えてください、殿下。これってどういうことですか?
私は混乱の極みの中でぐるぐるしながら、誰もいない廊下を駆け抜けた。
***
「――翌日になってそこまで目を赤くして登場されると、何だか罪悪感が湧くね」
「ごめんなざい」
私は一晩中「訳わかんない」と布団の中でぐずぐず言っていた昨夜を思い出しながら呟いた。一旦鼻をかむ。そんな私の状態に、隊長が何か異常を感じたらしい。
「まさか殿下、アルカに何かしたのですか」
隊長が私を背後に庇いながら、険しい声で問う。殿下は「いや、何もしてない……と言ったら多少嘘になるけど……別にそんな、怒られるようなことは、」と顔を引きつらせた。
隊長は腰に手を当てて、眉を潜める。
「……少なくとも、法に反するようなことは、していないのですね?」
「しました」
私は隊長の肩越しに殿下を指さす。殿下は椅子から転げ落ちそうになりながら、「待ってよ、アルカ」と目を剥いた。
「僕がいつ法を破ったって?」
「…………。」
私は唇を尖らせて黙り込む。隊長が呆れたようにため息をついた。
「……なるほど、ついに殿下が勝負に出た、と」
急遽休憩タイムである。角砂糖を三つ入れたコーヒーを啜って、隊長が頷いた。
「『ついに』って何ですか? 前から知ってたんですか? その……ええと」
私は目を剥いて身を乗り出す。隊長と殿下が顔を見合わせ、それから冷めた目でこちらを見てくる。
「気づかない方が不思議だったよね」
「見ているこちらと致しましても、何故あれでしれっとしていられるのか不思議でした」
当然だ、と言わんばかりの態度に、私は思わず自分の膝に突っ伏した。
「そんなの、言ってくれなきゃ分かりませんよぉ……」
「だから昨日言ったじゃん」
「いきなり言われても困りますもん……心構えってやつが」
「だからずっと前からそれとなくアピールしてたってば」
「伝わってないんです! もっと分かりやすくしてくれないと」
「……うーん、要望が多いね。僕も頑張ってたんだけどなぁ」
殿下にばっさり切り捨てられ、私は膝に額を乗せたまま項垂れた。
「私、これから一体どうすれば良いんですか……? そんな、殿下がいくら私のことを、その……ええとその」
「好きだといっても、ねぇ。いきなりじゃ困っちゃうか。ごめんね」
「ヒィ! やめてください……」
「まあ、ゆっくり考えてよ。まさか僕本人の目の前で悩まれるとは思わなかったけど」
殿下は余裕綽々で、頬杖までついている。随分と自信がおありのようだ。――おかしい、こんなのはおかしい。立場が、その……本来なら私が優位に立つはずなのに、どうして私だけが狼狽える側なんだ?
隊長はのんびりとコーヒーに追い角砂糖を投入しながら、私を見る。
「お前は、どうしたいんだ」
「どうしたいって……」
私が口ごもると、隊長はカップを持ち上げながら、「質問を変えよう」と鋭い視線を私に向けた。
「――お前は殿下のことをどう思っているんだ」
「それを本人の目の前で訊いちゃう人は初めて見たよ」
「私、は……」
「しかも答えるんだね」
……何と答えれば良いのだろう。分からない。私が、殿下のことをどう思っているか? そんなの……。私は答えに窮して俯いた。
「殿下は、私の主君で、私を救ってくださった恩人で、あと……」
私は唇を引き結ぶ。それだけじゃない。そう分かってはいるのに、上手く言葉が見つからないのだ。長らく考えてから、私は躊躇いがちにその答えを口にした。
「……私が、お側に、いたいと思う人?」
隊長は僅かに眉を上げる。隊長が「これは、案外いけるのではないですか」と殿下を振り返ると、殿下は「でしょ」と、何故か得意げに口角を上げた。
昼の休憩の時間になり、休憩室に戻った私は、室内がどうもわいわいと盛り上がっている気配に気づいて首を傾げた。
「こんなに騒いでいたら隊長に怒られそうなものだけど……」
隊長は私より少し前に休憩室に戻ったはずで、隊長がこんな騒ぎを見逃すとは思えない。一体何があったんだ、と慌てて扉を押し開けると、その瞬間、ぴたりと騒ぎが止み、全員がこちらを向いた。
「……さーて、俺はそろそろ訓練に行くとするかな」
「そういえば、あたしも今日までに出さなきゃいけない書類があったんだったわ」
「じゃ、俺ちょっとお手洗いに行ってきまーす」
「おれは……昼寝でもしようかなーっと」
明らかに不自然な様子で三々五々に散り始めた近衛の面々に、私は眉を顰めた。部屋の奥の机に座っている隊長は、平然と新聞を読んでいる。でも逆さまである。へぇ、なるほど、どうやら隊長は文字を上下逆さまに覚えておられるらしい。
「……って、何ですかこれ!?」
私が扉を勢いよく閉めながら問うと、近くの長椅子に座っていたジャクトがあからさまに目を逸らした。
「ジャクト、私が来るまでどんな話をしていたか教えてよ」
「えーっと、おれちょっと昨晩寝不足で……ふぁーあ、あー眠い。じゃあおれ昼寝でもしようかなー……」
「おいコラ、待ちなさいよ」
近くの毛布を頭から被って寝ようとするジャクトから毛布を没収し、私は腕を組む。ジャクトは手で顔を覆って知らないふりを通そうとする。
「隊長! アルカ先輩がおれのこといじめます!」
「アルカ・ティリ。後輩をいじめるな」
「理不尽!」
私は拳を握って叫んだ。隊長がすっと目を逸らす。その仕草に何となく後ろめたそうな感情を見つけて、私は視線を鋭くした。
「……隊長、まさか言い触らしてなんかいないですよね」
「……何の話だ?」
しれっと返され、私は目を移して標的を別に定める。
「ジャクト、隊長から何か聞いた?」
「え!? いや、何も!」
泡を食った様子で跳ね上がったジャクトの様子に、私は「ははーん」と声を漏らした。さてはこいつ、隠し事も出来ないし嘘もつけないタイプと見た。
「早く本当のことを言った方が良いと思うよ、ほらほら」
「お、おれ、本当に何も聞いてませんってば!」
言いつつその目は完全に泳いでしまっている。私はどん、とテーブルに手をついてジャクトに迫る。ジャクトは両手で顔を覆いながら叫んだ。
「別におれ、殿下がアルカ先輩のことがずっと大好きでずっとアピールしてたのに全然気づいて貰えず、ついに業を煮やしてどストレートに告白したなんて話、全然聞いてませんからー!」
「全容じゃねぇか!」
思わず口汚く叫んでしまった。ごほん、と咳払いでごまかす。いかんせん育ちが悪いと、こういうときに言葉遣いの悪さがぽろっと出てしまって困る。ごほんごほん。
私は新聞をひっくり返しながら窓の外を見ている隊長に詰め寄った。
「……まあ、何だ。こんな話題で盛り上がれるのも、平和な証拠ってやつだろう」
「話題の提供主に言われたくないですね」
……隊長は小さく舌を出した。




