3
殿下のお誕生日である。とうとう殿下も十六歳。まだまだ大人とは言えない年齢だが、立派な成長ぶりだ。
「おめでとうございます、殿下」
私がしみじみと呟くと、殿下は笑顔で「ありがとう」と応じた。
「ついこの間まで、こんなに小さかったのに……」
私が鳩尾の辺りに手をやると、「流石にもうちょっとあったよ」と殿下から訂正をされる。確かにちょっと話を盛りすぎたかもしれない。手の位置を上方修正しておく。
「十六歳からは、お誕生日のお祝いが昼食から夕食になるんでしたっけ?」
「うん、夜会だね。もう少し社交的な色合いが濃くなるのかな、僕も初めてだからいまいち分からないんだよね」
「ははぁ、なるほど。分かりました」
よく分かってない顔をしながら頷くと、殿下は少し苦笑した。
「初めてで不安だから、僕の側にいてくれる?」
「もちろんです!」
私は大きく頷く。私は殿下の託宣人だし、それは抜きにしても是非ともお側にはいさせて貰いたい。
「ありがとう」と殿下は微笑んだ。それを受けて、満面の笑みで、私は拳を握る。
「私、ちゃんと殿下のお側におりますから!」
――確かに、そんなことを言ったかもしれない。いや……ばっちり言った、はずだ。
「……いや……無理じゃん……?」
私はきらびやかな会場に、一人ぽつねんと佇みながら呟いた。助けを求めるように隊長に目線をやると、こっちを見るなと言わんばかりに目を逸らされる。
「殿下ぁ……」
私は途方に暮れて眦を下げた。
殿下は会場の中で、大勢に囲まれたまま、にこやかに歓談している。よく見る紳士やら、上品な貴婦人だとか、そんな方々もいるが、大半は素敵なご令嬢である。
「先輩……!」
私は壁際に見覚えのある顔を見つけて、ふらふらと歩み寄った。会場を見渡して警備に立っていた先輩は、分かりやすく顔を引きつらせる。
「おい、来るなって! お前、今は参加客の側なんだぞ、わきまえろよ」
「せ、先輩が冷たい……!? …………いつものことか」
「失礼な奴だな、おいコラ」
先輩が小突いてくるのを避けながら、私はため息をついた。
「殿下が側にいろって言うから参加したのに、その殿下が全然構ってくれないんです」
私がふてくされて唇を尖らせると、先輩は意外そうに眉を上げる。
「何だアルカ、一丁前に独占欲か」
「いや、べ、別に、そんなんじゃないですけど」
私は慌てて首を横に振った。先輩は腰に手を当てると、少し思案するように数秒目線をどこかに流した。
「殿下……さっきから頻繁にこっち見てくるんだけどな」
「え?」
慌てて振り返ると、殿下は微笑みを浮かべて小柄なご令嬢を見下ろしているところだった。嘘じゃん。
「ほら、取りあえず俺の仕事の邪魔だから、参加客は会場に戻った戻った」
「何してれば良いか分からないんです! 今日はウルティカもいないし……」
この夜会とやらは、完全に立食形式であるご様子で、これまでの食事会のように席に着いていれば良いというものではないらしいのだ。殿下に付き従っていれば何とかなると思ったのに、人混みから弾き飛ばされて、このざまである。
私が困惑を表して眉を顰めると、先輩が身を屈めて会場の奥を指さした。
「あっちに食べ物が乗ってるテーブルがあるだろ? あそこのものを飲み食いしていれば良い。見苦しくない程度にな」
声を潜めてそう言った先輩に、私は顔を輝かせる。ほほう。確かに、あちらにもちらほらと人の姿が見えた。
「……なるほど!」
「良いか? 見苦しくないように、色んな種類のものをチマチマ皿に盛って、少しずつ、よく噛んで食べるんだぞ」
「先輩って、息するように私のこと馬鹿にしますよね」
「聞き捨てならないな、心配性の優しい先輩の間違いだろ」
鼻を鳴らして肩を竦めた先輩に、私は少し眉を上げることで応えた。
会場を横切って、私は食べ物が並んでいる長机の方へ向かう。道すがら、殿下のいる人混みの方から、ぱっと笑い声が上がった。殿下が何か、気の利いたことを言ったらしい。
「流石、殿下だなぁ……」
やっぱり、殿下は私とは何かが決定的に違う。きっと、殿下は私にはない何かがあるのだ。あんな大勢の人に囲まれて、それでああも堂々としていられるのだから。
皿の上に肉と申し訳程度の野菜を乗せると、私は小さめの一口でそれらを頬張った。
「うん、美味しい」
いつも通り、お城の優秀な料理人が作ってくれた料理は美味しいのである。そう、味も美味しいし、きっと素材も良いものを使っているし。……でも、だ。
「…………?」
何かが、足りない。私は一人で首を傾げた。
いつもはもっと美味しいのだ。何故だろう。私の舌が肥えたのかな。それとも料理長が替わったとか?
いつもなら、こういうときは殿下に訊けば良かった。これってどういうことですか、って。……でも、と内心で呟いて、私はちらりと殿下の方を見やる。こんな気持ちになったのは初めてだった。
――――殿下が、遠い。
「こんばんは、」
そのとき不意に声をかけられて、私は振り返った。
「えっと……?」
てっきり誰か知り合いだと思って笑顔で振り向いてしまったけれど、残念ながら知らない人だった。相手も、明らかに私に話しかけようとしたような体勢のまま、目の前で固まってしまう。
「……アルカ嬢でいらっしゃいますか?」
「じょっ……!?」
私に話しかけてきた知らない男性は、にこやかな調子でそう言った。初めての敬称に、思わずたじろいでしまう。……本来その敬称は、良いお家柄のご令嬢に向けられるもののはずである。
「そうです、けど……」
でも否定するのも失礼かなぁ。躊躇いながら頷くと、相手は目を細めて頷いた。どうやら私よりは年上だろうが、まだ若い、先輩と同じくらいの年だろう。
「私はジルシュア伯爵家のラディルと申します」
「えっと、……伯爵家? ……貴族制は、十年以上前に撤廃されたと聞きました」
私が怪訝に首を傾げた瞬間、ラディルさんは目元を少しだけぴくりとさせた。……何かまずいことを言っただろうか。私は思わず身構える。ラディルさんはすぐに表情を戻すと、苦笑交じりに首を竦めた。
「……そうでしたね。すみません、慣れ親しんだ挨拶なもので」
「私も不躾にごめんなさい」
私が頭を下げると、ラディルさんは笑顔で「いえ」と言ってくれる。それでも、さっき見た一瞬の引きつった表情が忘れられず、私は警戒を解かないまま体を硬くした。
「それで、私に何かご用でも?」
私が促すと、ラディルさんは「用というほどのものでは」と微笑する。
「あなたと一度お話ししてみたかったのです」
「……私と?」
奇特な人もいるものだ。別に、私と話したって、大して楽しくないと思うんだけどなぁ。
「ええ」と頷いたラディルさんが、積まれている新しい皿を手に取る。
「既に少し食べられたようですね」と、私が持っている皿を見たので、私は頷いておく。
「えっと……すみません……?」
実はマナー違反だったりするのだろうか。いかんせん勝手が何も分からなくて怖いのである。おずおずと顔色を窺うと、ラディルさんが首を横に振る。
「いえ、構いませんよ」
「それは良かった」
私がほっと息をつくと、ラディルさんは小さく声を上げて笑った
「噂とは異なって、随分と可愛らしいお方でいらっしゃるようですね」
「あー、うーん……。いや……どうもありがとうございます」
どんな噂なのかは怖くて訊けなかったが、どうせろくでもない噂だろう。……おっと、そうだった。今の私は殿下の託宣人で、きりっとした格好いい護衛官なのである。慌てて背筋を伸ばすと、私は顎を引いた。
「アルカ嬢は、現在も近衛として勤務されているのでしたっけ?」
ラディルさんが首を傾げる。その話題は、何というか、私にとってちょっと繊細だ。表情を硬くして「はい」と応じると、ラディルさんは安心させるように微笑んだ。
「素晴らしいことだと思いますよ。両立は大変ではないですか?」
「いえ、それほどでも」
ぶっちゃけこうした催し事でもなければ、託宣人として振る舞うことなどほとんどないし。あとはまあ、外部から呼ばれた学者先生にちょっと色々教わったりすることもある。託宣人として私がやっていることなんて、そんな程度だ。
「この先も、近衛として勤務されるおつもりで?」
そう問われ、私は目を瞬いた。……そんなの、当然のことだ。質問の意味が分からずにきょとんとした私に、ラディルさんは軽く苦笑する。
「ああいえ、女性の場合、例えば結婚なんかで職を離れることもありますから」
「え!? 私たちって結婚したら仕事辞めなきゃなんですか?」
「必ずしも一概にそうとは言いませんが」
ラディルさんは微笑んだが、いまいち釈然としない。思わず変なところに反応してしまったが、この質問は、私に結婚しないのかと訊いているのだろうか。何だっていきなりそんなことを……。
「今のところ、結婚する予定も、近衛を辞める予定もありませんけど……」
一応答えて、それからこっそり首を傾げる私をよそに、ラディルさんは朗々と語り出した。
「私も、アルカ嬢にはお手紙をお送りしたのですよ。無数に届いている手紙の中では埋もれて忘れられてしまっているでしょうけど」
「手紙?」
私は眉を顰める。するとラディルさんは「ご存知でない?」と身を乗り出した。思わずのけぞってしまう。
「不思議だな、あなたのところには数え切れない釣書が届いているものだと思っていました」
「私に、釣書?」
それってつまり、縁談が来てるってことだ。そんな重要な話があったら、さすがの私でもすぽーんと忘れるなんてありえない、と思う。解せない。あまりに解せない。何かの勘違いだろうけど、何だか変な感じだ。あとで殿下か隊長に相談しよう、と思いながら、私は少し俯いた。
ラディルさんがすっと目を細めたのが何となく怖い。私はさりげなく体を反転してテーブルの上の食べ物を皿に盛ると、話題を逸らそうと口を開いた。
「と、ところで、このサラダに乗っている木の実って、一体何の」
「――つまり、競争相手はいないという訳ですね」
「は?」
私は皿を片手に、唖然として絶句する。何か雲行きが怪しい。すすっと距離を取ろうと後ずさると、ラディルさんは退路を塞ぐようにテーブルに手をついた。
「……何ですか?」
私は訝しむ気持ちを前面に出しながら、皿を一旦テーブルに置く。剣の位置を目で確認した。剣を抜くのはあれだろうが、鞘ごと剣帯から抜けるようにしておくべきだろうか。
「アルカ嬢。現在、私は独り身でしてね」
「……はぁ」
そうですか、といった感じである。私はテーブルに置かれた手と、そこから繋がる腕に目を走らせる。何だか嫌な感じだ。
「この先、ジルシュア伯爵領の領主を継ぎたいと思っているのです。ここ数年で栄えているゼルキス港はご存知でしょう? これから我が領地が更なる発展を遂げることは間違いありません」
「良かったですね。頑張ってください」
その何とか港とやらは、……うーん申し訳ない、寡聞にして聞いたことがないけれど、彼が自分の領地に誇りを持っていることは、うん、よく伝わった。
私が頷いていると、ラディルさんは数秒固まったまま虚空を見つめる。
「……アルカ嬢は私を焦らすのがお上手なようで」
「うん?」
数秒間目をつぶったまま眉間を揉んでいたかと思うと、ラディルさんは不意にそう言った。意味が分からなくてマジで聞き返してしまった。……さっきから礼を失した相槌ばかり打ってしまって申し訳ないなぁ。
「単刀直入に申しますね、」
ずい、と距離を詰められて、私は思わず咄嗟に剣の柄に触れてしまった。一歩下がると、行く手を阻むように置かれた腕に背中が当たる。
「アルカ嬢、私は」とラディルさんが真剣な声音で告げた。と、その矢先、背後に気配を感じる。
「――アルカ、ちょっと緒連絡があるんだけど」
とん、と肩に手を置かれて、私はふと手を剣から離す。背後で聞き慣れたにこやかな声がした。
「こんばんは、次期ジルシュア卿候補の、ええと……どなたでしたっけ?」
「……ラディルと申します。この度はお誕生日おめでとうございます、殿下」
「ありがとうございます」
言わずもがな、殿下である。……なぜここに殿下が? 私は顎に手を当てて首を傾げた。
殿下がいたはずの人混みは、皆がこちらに顔を向けて様子を窺っている。そんな視線をものともせず、殿下は口を開いた。
「すみませんが、この手をどけて頂いても?」
殿下がラディルさんの腕に軽く触れながら少し微笑む。ラディルさんはすぐに手を引っ込めた。何となくちょっとほっとして、私は息を吐いた。
殿下は穏やかな声で告げる。
「アルカ、少しだけ伝えておきたいことがあるからついてきてくれる?」
「……? 分かりました!」
私は頷いて、ラディルさんから一歩離れた。殿下は僅かに笑みを深めると、私の左手首を緩く掴む。この動作は初めてだった。
「アルカ、おいで」
「はい」
歩き出した殿下に連れられて、私は会場を出た。




