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初夏の頃だった。活気のある街を通り抜けて、私は目抜き通り沿いのとあるお店の前にたどり着いた。
「ごめんなさいウルティカ、待ちましたか?」
「いいえ! 私も今来たところですわ」
お店の前で立っていたウルティカに声をかけると、彼女はにこりと微笑んだ。以前春の定例会で話してから、後日街中で遭遇して、一緒に昼食を食べたことがあったのである。何となくその延長線上で、ときどきこうして会うようになった。
「今日は夏の新作を全部制覇するのですよね」
「はい! お腹は空かせてきましたか」
「ばっちり、ですわ」
どんと胸を叩いて、ウルティカは腰に手を当てる。私も拳を握って、気合いを表した。
「予約はしてくださったんですっけ?」
「ええ。完璧です」
何故か戦場に赴くような面持ちで顔を見合わせた私たちは、華やかな空気に包まれた喫茶店に足を踏み入れた。
扉につけられた鈴が軽やかな音を立てる。予約してあることを告げると、すぐに窓際の席に通された。席についた私たちは、そろってメニューを覗き込む。
「どれも美味しそうですね……」
「名前を見ているだけで幸せになれそうですわ」
私たちはごくりと唾を飲んだ。ウルティカがすっと高く手を挙げる。店員さんが歩み寄ってくる。
「――このメニューの、ここからここまで。全て一つずつお願いします」
季節限定のスイーツが書かれたページに指を滑らせ、ウルティカは決然とした声でそう告げた。店員さんの目つきが変わる。
「今季も、ですね……?」
「ええ」
ウルティカは不敵な笑みを浮かべて肯定する。
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいませ」
しっかと頷いてそう返した店員さんに、私たちも揃って頷いた。
「どうしましょう。私たち、もはや顔を覚えられてしまったようです」
「そりゃ、冬、春と連続して、季節限定メニュー解禁当日に現れては根こそぎ注文する二人組がいれば記憶に残ると思いますよ」
「否定のしようがありませんわ」
何となく自分たちの行いを振り返ってしみじみしてしまう。身元は知られていないから良いものの、もし私が殿下の託宣人とバレてしまったら、……別に支障はないけど、何となく嫌である。
ウルティカは物憂げな表情でため息をつくと、肩を落とした。
「実は私、この間お母様に『一日一つでは駄目なのか』と怒られてしまったんです。……はぁ」
私も思わず真剣な表情で頷く。とてもじゃないが人ごとではないのである。
「私なんて、誰にも言わずにここに来ているので……。もし隊長なんかにバレたら、大目玉ですよ」
「まあ。厳しいのですね」
私は肩を竦めた。「これでも一応戦闘職ですから」と苦笑すると、ウルティカははっと口に手を当てる。
「こんなに甘いものを食べて、大丈夫なのですか? 付き合わせてしまって申し訳……」
「ああいや、帰ったらめちゃめちゃ走りますから」
流石にお腹の肉をたぷたぷさせて殿下の護衛をするのは、私の矜持的にも何となく避けたい。やはり殿下をお守りする立場として、私はいつでもしっかり戦えるようにしておかなければならないのである。
「まっ、でも」と私は言い訳をするようにへらりと笑うと、頬に手を当てた。
「おいしいものを食べて幸せになれるんですから、それに越したことはないって訳ですよ」
「その通りですわ、アルカさん」
ウルティカが強く頷いた。
「はぁ……でも、本当に、隊長とか先輩にはバレないようにしなきゃ」
私は頬杖をついた。……特に隊長だ。隊長ならすぐさま殿下に進言して、殿下に私の説教をさせるくらいのことはしそうである。
「うふふ、でもバレなければ良いんでしょう?」
「わっ、すごく悪い発言だ!」
――キャッキャと騒ぎながら注文したスイーツが運ばれてくるのを待っていた、そのとき、扉の鈴が音を立てた。「いらっしゃいませ」と店員さんが声をかける。私は何の気なしにそちらを振り返り、そして弾かれたように顔を戻した。
「まっ……!?」
私は目を見開き、この上なく素早くメニューを引っ掴むと、顔の前に立てた。メニューの中に顔を突っ込み、私はガタガタと震える。
「アルカさん?」
「その名を呼ばないでください」
私は最大限潜めた声で鋭く言った。ウルティカはすぐに口をつぐみ、そっと扉の方を伺う。
「あの方々、殿下のお側にいらっしゃるのを見たことがありますわ」
「殿下の近衛隊長と、私の直属の先輩です」
「それは大変……!」
私は熱心にメニューを眺めるふりで、必死に体勢を低くする。絶対に見間違いなんかじゃない。気配は確実に近づいてきていた。
「いやー、それにしても、久しぶりに非番が被りましたね」
「そうだな」
和気藹々とした会話が背後から聞こえてくる。なんだなんだ、あの人たち、上司と部下の関係でありながら一緒に甘いものを食べに来ているのか。仲良しかよ。よりによってこの店かよ。
「アルカも非番だっていうから誘ってやろうと思ったのに、あいつ、部屋にいないんですよ」
「殿下のところにもいなかったのか?」
「アルカは当番じゃないときは全然、殿下に寄りつこうともしませんよ。殿下が可哀想というか何というか」
「まあ、近衛としての限界だな。俺もさりげなく室内警備をあからさまに増やしてはいるが」
「ははは、職権乱用じゃないですか」
「今のところ殿下からお叱りは受けていないから構わないだろう」
「うはー、悪い人だ」
何やら楽しげな笑い声が聞こえるが、私はそれどころではない。店員さんが軽やかな声で「こちらへどうぞ」と二人を先導して、着実にこちらへと歩いてくる。
私はなお一層体を伏せ、息を殺す。
「来た……!」
「気配を……気配を消すのですわ」
ウルティカも緊張した声音で、身を固くしている。
「殿下も、一回やらかしてからすっかり慎重になってしまわれて」
「進展がなくてつまらないですよねぇ」
「こら、そういう下世話な目で見るのは慎め。俺たちはただ殿下を応援するのみだろう」
わいわいと言いながら、隊長と先輩が私の横に差し掛かった。頼むから気づいてくれるな、と私はメニューを握りしめた、その瞬間。
「あれ? アルカ、……お前、何してるんだ?」
……ッアァアアアアー! 何が『あれ?』だ。変な察知能力を見せやがって!
私は震えながらメニューを頭に被ってテーブルに突っ伏した。隊長が訝しげな声でこちらを向いた気配がした。
「アルカ? ……本当だな」
「何でこんなところで防災訓練してるんですかね」
店員さんが「お知り合いですか?」と声をかけてくる。私は少しだけ頭を上げて、小さく頷いた。それから決然とした表情で店員さんに話しかける。
「この人たちは、ここから一番離れた席に通してください」
「いや、この隣の席とくっつけて貰えますか」
「嫌です。あちらの席に行ってください」
「俺はここの席に座るともう心を決めたぞ!」
「やです! 私は遠回しに、あっち行け! って言ってるんです!」
「何だアルカお前、それが先輩に対する口の利き方か」
「うぎぎ」
店員さんがあからさまに困惑した顔で私たちを見比べている。隊長が真面目な顔で「こちらの席で結構です」と宣言すると、店員さんは「かしこまりました」と隣のテーブルを私たちとくっつけてくれた。
最悪である。一番バレたくない連中どんぴしゃ、である。いや、上司と先輩を連中呼ばわりはよくないですね。反省します。……んんん、でも、もし私が好き放題おやつを食べているのがバレたら、説教は免れないだろう。殿下に報告されちゃうかもしれない。それは嫌だ……。
「アルカ、どうしてそんなに震えているんだ」
机を揺らすほどがたがたと震える私を見て、隊長が首を傾げる。私は「いえ」と首を横に振った。
「こちらは?」
先輩がウルティカを指し示して首を傾げる。ウルティカはすぐさま微笑んで、「イルゾア家のウルティカです」と軽く礼をした。
「……イルゾア商会とは、何かご関係が?」
「はい。母が経営しておりますの」
ウルティカは綺麗な微笑みを崩さないまま、にこやかに応じる。自分ばっかりいい顔をして……。私はむっと唇を引き結んだ。
「そういえば隊長は、どれにしますか?」
メニューを開いて、先輩が隊長に差し出す。
「俺はこれだな」と隊長は季節限定メニューの中の一つを指した。メロンを使った大きめのパフェである。
「俺はもうちょっと甘さ控えめで良いですかね」
先輩は頬杖をついてメニューを眺めている。私は気づかれない程度にゆっくりとため息を吐いた。――時は確実に近づいてきていた。さっきまであれほど心待ちにしていたはずの時間が、今や処刑台への道に見える。いや、それは言い過ぎ……。
私は体を強ばらせたまま、遠くの壁を見つめていた。
「アルカはどれにしたんだ?」
隊長がメニューを指しながら声をかけてくる。私はあからさまに顔を背けながら「えーと」と口ごもる。心なしかウルティカも強ばった顔をしている。……限定メニューを全て網羅しに来た、とはあまり感心されるような趣味ではない。
「まあ、その……いやっ……ははは……」
私が下手くそに濁すと、隊長は眉を顰める。
「何だ、今更ケーキの一つや二つにわざわざ目くじら立てたりはしないぞ。勤務中でもあるまいし」
「まあ、限定メニュー全部頼んじゃいました! とか言ったら説教ものですけどね、ははは」
「はは、まさか、流石にそれはないだろう」
その『まさか』である。私とウルティカは、もはや葬式に参列しているような顔をしていた。どんよりと重い空気を垂れ流す私たちをよそに、隊長と先輩は楽しげに語らっている。もうやめて欲しい。
「アルカさん、もう腹をくくりましょう」
顔を近づけ、口元を手で隠しながらウルティカが囁いた。
「スイーツがおいしいことに変わりはないです。どんな状況であろうと、私たちはおいしいケーキやパフェを楽しむ一手しかないのですわ」
「名言ですね。そう……もう、説教は避けられません。だとすれば、上手く受け流しておいしく食べることを最優先すべきです」
「ええ、お手伝いしますわ」
「ありがとう」
私たちは顔を見合わせて、強く頷いた。
「――それにしても、アルカに、あなたのような友人がいたとは知りませんでした」
隊長が柔らかい表情でそう告げた。
「アルカの周りには俺たちみたいなのしかいなかったからな。同じ年頃の友達がいたみたいで安心したよ」
先輩も頷きながら微笑んでいる。
「珍奇な奴ですが、どうぞこれからも仲良くしてやってください」
「私も、仲良くして頂けるなら、とても嬉しいですわ」
ウルティカが微笑む。私は「珍奇……」と微妙な顔をした。
なんだかしみじみした空気になってしまった。うーん、私、案外可愛がられてるんだな、と、内心で噛みしめる。これからはあまり反抗的な態度は取らないようにしよう。
「お待たせしました」と店員さんが両手にお盆を持って登場する。そのお盆に乗った器の数々に、私は思わず顔を引きつらせる。
「チェルタ地方レモンのチーズケーキと、柑橘と生クリームのパフェの大、それからこちらは……」
説明しながら次々とテーブルに置かれるスイーツの数々に、私は目を輝かせる。隣からは何やら不穏な空気が漂ってくるが、うん、気にしない気にしない。
店員さんが「残りはもうしばらくお待ちください」と笑顔で歩き去ってから、隊長と先輩は揃って私たちを見た。
「……アルカ・ティリ」
「ヒィ!」
隊長が私をフルネームや名字で呼ぶときは、大抵勤務中か何か説教のときである。私は弾かれたように姿勢を正し、びしっと膝に手を当てる。
「節度という言葉は知っているか」
「知ってます……」
私はがくりと項垂れた。「ウルティカ嬢も、このように見境なく大量に注文するのは、あまり褒められたことではありませんね」と隊長は厳しい顔をする。
何故か二人揃って軽い説教を受けた。何というか、後半はもはや隊長の甘いものに対する心構えの講義だった。ようやくそれが終わり、私はおずおずと隊長を窺った。
「あのぅ……これ、殿下には……」
「……初回に免じて言わないでおこう」
「よっし!」
私は拳を握って長い息を吐く。
「そういう態度を取るなら殿下にお伝えするのもやぶさかではないぞ」
「は、反省してます……」
しおしおとした態度を取り繕って項垂れると、隊長は重々しく頷いた。
「んー、おいしい」
私はケーキを食べながら呟く。隣では隊長がせっせとパフェを嬉しそうにぱくついていた。……楽しそうで何よりである。
「イルゾア商会ってことは、ウルティカさんは、海の向こうの大陸には行ったことが?」
先輩が興味深そうな顔で首を傾げると、ウルティカはにこりと微笑んで胸に手を当てた。
「実は私、生まれはあちらなのです。八つくらいのときにキルディエに来て。今でも数年に一回はあちらに戻ったりしていますわ」
なるほど、と先輩が頷く。ウルティカは愛想良く応じていた。
「まだ、キルディエと海の向こうは全然交流がないですけれど、私、いつかもっとその距離が近くなれば良いなと思っているのです。……母には夢見がちだってよく言われますけどね」
「うーん、俺も海の向こうとは全く縁がないからなぁ。とても良い目標だと思いますよ」
ウルティカは力強く微笑むと、大きく頷いた。
ぐっと拳を握り、ウルティカは目を輝かせて力説する。
「イルゾア商会は王家とも神殿とも結びついていないし、まだキルディエ国内でも海の向こうに関する情報が不足しているせいで、なかなか厳しいのですわ。逆に、向こうのヴィゼリーなんかでは、キルディエに対する関心が高まっていて、ちょっと良い調子だってお父様が言っていましたの」
「……ヴィゼリー?」と先輩が首を傾げる。
「ほら、国名すら知られていない有様ですわ。やっぱりまだまだキルディエ国内での認知度が低いのです」
ウルティカは不満げに唇を尖らせた。ため息をついて、ウルティカはケーキを大きく掬い上げて頬張った。
「だから私、ユリシス殿下と上手いことお近づきになりたいなと思ったんですけど、」
隊長が突如としてむせ込んだ。慌てて水を差し出すと、死にそうになりながら水を飲んで咳き込んでいる。
先輩は眼鏡を押し上げると、すっと目を細めてウルティカを見た。剣呑な表情でウルティカを見据える。
「――殿下狙いでアルカに近づいた、って訳ではないですよね?」
「なっ……!」
その言葉に私は思わず肩を怒らせた。あまりにも失礼な発言だ。ウルティカはれっきとした私のお茶飲み友達である。
そんな私の憤慨をよそに、ウルティカは意にも介さず胸を張った。
「はい、ご安心くださいませ。むしろ、何もしておりませんのにいきなり牽制されて、私とっても傷ついたのですわ」
「ああ、それは……うちの殿下が申し訳ないことを」
先輩が表情を緩めて苦笑いした。ウルティカは「いえ」とパフェの上に乗っている生クリームにスプーンを挿す。
「もちろん殿下は素敵な方だし、私も一度は思わずぽーっとしてしまいましたけど、あれは手を出すものじゃないなって、それくらいの判断は私にもつきますの」
生クリームを口に入れて、ウルティカは満足げに鼻から長い息を吐いた。
「ふぁー、おいしかった」
それぞれを半分こしながら、全てのメニューを食べ終えた私たちは、満面の笑みで顔を見合わせる。とうの昔に食べ終わっていた先輩が、呆れた表情でため息をついた。
「よくもまあ、そんなに腹に入るもんだ」
「いや、案外甘いものなら食べられるものだぞ」
「そうですよね」
私はしたり顔で隊長に同意する。ウルティカも当然だと言わんばかりの表情である。
「何だ……? 俺がおかしいのか……?」
先輩は眉をひそめて頭を抱えてしまった。私はふふんと笑うと、ウルティカと顔を見合わせたのだった。




