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うう、寒い。いつの間にか体の芯まで冷え切ってしまっている。私は袖を指先まで引っ張りながら、首を竦めた。
「さっさと戻ろ……」
私は白い息を吐いて、踵を返す。薄く積もった雪を踏みしめて、私は官舎への道を辿った。
「っへぶしょい!」
「アルカ、部屋の布団は足りてるの?」
ずび、と鼻をかんで、私は「足りてます」と答えた。殿下のお部屋で盛大にくしゃみを響かせてしまったので、反省の意を示して神妙な顔をする。殿下は肩を竦めて私を見た。
「アルカは僕の託宣人なんだから、官舎じゃなくて城の居住区で生活することも出来るんだよ? 僕の寝室のはす向かいの部屋、今空いてるし。おいでよ」
「うーん……、いえ、今のお部屋で私は満足ですので」
私が首を振ると、殿下はあっさりと「そっか」と引き下がった。
「昨日ですね、月がとても綺麗だったので、わざわざ外にまで見に行ったんです」
「へえ。確かに昨日は一日中晴れ渡っていたからね」
「そしたらですね」
「うん」
「すっかり冷えてしまって」
殿下は頬杖をついて数秒黙った。
「……それで風邪を引いたの?」
「はい」
「当然の帰結だよね」
私は「反省します」と苦笑いした。
私は部屋の片隅にある机の上を見て、腰に手を当てて息を吐く。
「それにしても殿下、すごい釣書の量ですね」
「兄上の部屋の方がもっと凄いよ」
殿下は事も無げにそう言ったが、……いや、でもこの量は凄い。
「国内外から色々な話が来てるんですねぇ」
いくつかの区分で分けられた釣書の山を眺めながら、私は『さすがは殿下』と頷いた。
「殿下は……この中では……えっと」
気になる人はいないんですか、と言おうとして、何故か口ごもる。それまで釣書の山に向けられていた殿下の視線が、ちらと私に向けられたからだ。変に鋭い視線だった。
「特にこれという人はいないかな」
殿下は口に出してもいない私の問いに対して、さらりと答えた。
「それほど急いでいる訳でもないし。焦ってこの中から決めなくても」
「そうですね……」と頷きながら、私は触った様子もない綺麗な紙束を振り返った。
それにしたって、目も通さないのはどうかと思いますけど……。
***
「アルカ先輩! おはようございます」
「おはよう、ジャクト。今日はちゃんと起きれたみたいだね」
「はは、アルカが先輩風吹かせてら」
春になって、近衛の中の一人が産休を取る都合上、新人くんが一人新しく入ってきた。私もついに先輩ってやつである。えっへん。私がちょっと先輩らしくするたびに、私の先輩の方が茶々を入れてくるが。
「今日はついに室内警備ですね! おれ、初めてなんです」
「そんなに緊張しなくても良いよ」
私は苦笑して、襟元を正す。よし、今日は殿下にも良いところを見せてやるのだ。私ももう近衛に任命されてから、えーと……四年くらい? 私は後に続く後輩をしっかり教え導けるくらいちゃんとした護衛官に成長した、はずである。
「張り切りすぎるなよ、アルカ」
「分かってますって」
私は先輩に向かって親指を立て、ジャクトを連れて意気揚々と休憩室を出た。
「おれ、殿下にきちんとお目にかかるのは今日が初めてなんですよね。任命のときは緊張して顔も見れなかったです」
「そうだなぁ……。確かに殿下、怖そうに見えることがあるからね」
私が苦笑すると、ジャクトは大きく頷く。
「アルカ先輩も、殿下と初めて会ったときは緊張しましたか?」
訊かれて、私は頬を掻いた。私が殿下に拾われた孤児であることは、知っている人なら当然のように知っている事実だが、知らない人にわざわざ教えるのは何だか躊躇われた。殿下からも積極的に言う必要はないと言われている。
「私は……緊張はしていないけど、畏敬の念、は抱いたかな」
この間、本で覚えたばかりの言葉を使った。ジャクトは「なるほど」と真剣な顔で応じた。
「さ、ここが殿下のお部屋。普段殿下はここでお勉強したり寛いだりされてるんだよ」
「寝室はまた別なんですよね」
「後々ここは殿下が兄君の補佐をする為の執務室になる予定なんだって。殿下の寝室とかは、みんな奥の居住区の方にあるかな。そっちの棟の立ち入りは許可制だから、私も入ったことはないけど」
「なるほど……!」
殿下の部屋の前で、私は鼻高々に語った。ジャクトは目を輝かせて話を聞いてくれるので、何だか私も気分が良い。
「城内警備だとそういう情報は入って来ないものなんだ?」
ジャクトはこれまで城内警備担当の護衛官だったと聞いている。私が首を傾げると、ジャクトは「そうですね」と頷いた。
「王家の周辺に関しては、侍女や清掃なんかの下働きも分けられていますし、護衛官も近衛とその他できっちり分けられていますから」
「へぇ、そうなんだ。私初めから近衛だったから知らなかったなぁ」
私は唇を尖らせて呟く。するとジャクトは目を丸くした。
「先輩、初めから近衛だったんですか?」
「うん。近衛に関する裁量って結構王族本人に委ねられてるところも大きいみたいで、私は殿下の推薦で近衛に入ったよ」
「わー、エリートじゃないですか」
ぱちぱちと拍手をするジャクトに、私は苦々しい表情で首を横に振った。
「いやいや……。全部殿下のご厚情のおかげに他ならないからね。ごほん、……ま、私もね! それに応えようと頑張ってる訳だけど!」
今思えば、近衛に入ったばかりの私なんて、まるで使い物にならなかったはずだ。それでも殿下の一存で無理矢理近衛にねじ込まれたのだから、誰も異を唱えることなんて出来なかったに違いない。うーん、今度先輩方にちゃんとお礼を言いたいなぁ。
私がしみじみと腕組みをしていると、不意に扉が内側から開かれた。殿下がふて腐れたような表情で顔を覗かせる。
「いつ入ってくるかなって、僕、結構前から待ってたんだけど」
「ヒィイイー! 殿下御自ら迎えに出てこられるなんて!」
ジャクトがのけぞって叫んだ。ビビりまくったのか、正面から思い切りタックルされて、私は思わずたたらを踏んだ。ジャクトは勝手に私を壁にして身構えてしまっている。
「……アルカから離れて」
殿下が私の腕を引いた。私が殿下の隣まで移動すると、ジャクトはその場でびしっと綺麗な気をつけをして、殿下を真っ直ぐに見る。殿下は少し首を傾げてジャクトを眺め、数秒後に頷いた。
「新しく近衛に入った、……ジャクト・ウィラスだったっけ?」
「はい!」
ジャクトは満面の笑みで頷いた。殿下は真顔で頷くと、半開きにしていた扉を大きく開けて、私たちを中に迎え入れた。
私は胸を張って入室する。ジャクトは初めて入る室内にきょろきょろしていた。えっへん、私は先輩なので、そのような浮ついた行動は取らずに落ち着いた態度で職務に臨むのである。
「アルカ、何だか今日は楽しそうだね」
殿下がほんの少し頬を緩めてそう話しかけてくれるので、私は堪えきれない笑いを一応抑えながら、大きく頷いて腰に手を当てた。
「ふふ……。私、とうとう先輩なんですよ……!」
「そっか。アルカが嬉しそうなら僕も嬉しいよ」
殿下が嬉しいなら私も嬉しいのである。殿下がにこりと微笑んでくれるので、私も思わず破顔してしまった。
警備は、特にこれといってすることはない。いや、もちろん常に周囲の気配に気を配り、警戒するのも大事だが、それでも一応ここは城内である。それほどの危険がある訳でもない。
ふぁ、とジャクトが欠伸を漏らした。それを咎めようと口を開いた私も、つい釣られて欠伸をしてしまう。殿下が忍び笑いをしているのが見えた。それに気がついて、私は慌てて口を閉じる。
うーん、何だか上手くきまらないなぁ、と私は少し唇を尖らせたまま頬を掻いた。たまには私だって殿下に格好いいところを見せたいのに。
「そういえばアルカ、もうすぐ春の定例会なんだけど」
殿下はふと顔を上げた。
「アルカは、予定は空いている? 参加は別に強制ではないけど、ぜひ出て欲しいな」
「えっと、来週末でしたっけ」
「うん」
私は少し思案してから頷いた。「はい、多分空いてます」と答えると、殿下は笑顔のまま首を傾けた。
「参加したい?」
「進んで参加したい訳ではないですけど……。でも、出た方が良いですよね」
私は僅かなため息交じりに呟く。殿下は苦笑しながら「まあね」と肩を竦めた。
数秒間黙って考えてから、「……うん、」と私は唇を引き結ぶ。
「私、殿下のお側にいたいですから、参加します」
やはりここは殿下の託宣人としても、今年から先輩となって一皮むけたアルカ・ティリの姿を見せつけておくべきだろう。私が強い決意と共に頷くと、殿下は一瞬目を見開く。それから殿下は目を細めて微笑んだ。
「……僕も、アルカがいてくれれば嬉しいよ」
「えへへ、光栄です」
私は思わずだらしなくにやけながら相好を崩す。殿下はペンを置くと、上に向かって伸びをした。
「そろそろ休憩にしようかな」
「そうですね」
殿下が力を抜いたのを皮切りに、私もふっと肩を落とした。
交代の時間になり、殿下の部屋を出た直後、ジャクトがやたらと輝いた目でこちらを見ていることに気がついた。
「……何?」
「アルカ先輩、殿下と仲がよろしいんですね! 流石です」
言われて、咄嗟に私は厳しい顔を作った。
「べべ別に、そんなことないよ。私は殿下の託宣人だからね、ちゃんとお話するくらい出来るだけだし……ふふふ……仲が……ふふ」
「素直に喜んでくださいよ……」
私は緩みまくる頬を押さえながら胸を張った。自分でも殿下と仲が悪いなどとは思っていないが、そう言われると何だか妙に照れてしまう。
「おれも最初は、託宣人が剣を持つなんてと思ってましたけど……。近衛って思ったよりほのぼのしてるんですね」
そう言われて、若干首を傾げながらも、私は「まあ、結構そうかもしれないね」と頷いた。
「今は城の中だし……。殿下の行幸についていくときとか、何かの式典のときとかはもっと張り詰めてるよ」
「なるほど! そういえば数年前にも異端者の襲撃で大変だったって聞きました!」
ジャクトが納得したように拳を握る。私はもっともらしい表情で重々しく首を上下させた。
***
春の定例会。天気も良く、どこか華やいだ空気の昼下がりだった。私は会場の一番奥の円卓で、涼しげな顔をしていた。
託宣人になってから、もうすぐ二年が経つ。もう私も慣れたもので、ちょっとした食事会なら余裕綽々である。というのは嘘である。
「イヒー! 緊張しますね……」
「そうだね。ちなみに序盤の奇声に関しては突っ込まない方がいい?」
「それでお願いします」
私は表情だけは真面目に取り繕いながら、そわそわと爪先で地面を叩いた。殿下の託宣人たる私の席は王家の皆様方とすぐ近くの席である。辛うじて両陛下とはテーブルが違うが、すぐ側、会話が聞こえるくらい近くにいる。人の視線が集まるところだというのもあるし、近くにおわす面々の存在感だけでもお腹が痛くなってしまう。
「もうちょっとしたらごはん取りに行っても良いですか?」
「僕たちの分は一応、一通り運ばれてくるはずだけど」
「うぐ……。気に入ったものがあったら追加で取りに行きたいんですよ」
殿下はちらと私を見た。それから小さくため息をついて、肩を竦める。
「……僕は、アルカに側にいて欲しいんだけどな」
「お側におります……」
所詮、私は殿下の微笑みには勝てないのだ。
私が、運ばれて来た料理を食べてほくほくしている内に、何やら雲行きが怪しくなったらしい。これまでの話を聞いていなかったから分からないが、どうやらめちゃくちゃ揉めている。
殿下の兄君と、その託宣人のメリザ様が、目の前で激しく言い争いをしているのだ。私は口を挟めないまま、おろおろと二人を交互に見た。
「は? 何で私が、自分に来た良さそうな縁談を検討するのが悪い訳? 意味が分からないわ。あなたには関係のないことでしょう」
「そんな風に、どこの馬の骨とも知れない男とホイホイ会うのが、俺の託宣人として相応しい態度かと言っているんだ」
「別に良いんじゃない? どうせそのうちあなたが大人になったら、この指輪も外れるんでしょ? そしたら縁も切れるし、私が何をしようが私の勝手だと思うんだけど」
「なっ……」
ついに言葉を失ったまま硬直してしまった兄君に、私は「あわわ」と狼狽える。
メリザ様はすっと目を眇め、私を振り返った。思わず喉の奥で「ヒッ」と声が漏れる。
「アルカさんもそう思うわよね?」
「んんん……」
私はメリザ様の視線から逃げるように顔を逸らし、殿下を見た。殿下は私の視線を受け止めて、少し苦笑する。
「これは兄上とメリザさんの問題だからね」
「そ、そうです! 私が口出しすることじゃないですよね!」
私は顔の向きを戻すと、大きく頷いて力説した。メリザ様は「ふーん」と頬杖をつく。眉を上げてちらと殿下を見てから、再び私に視線を向けた。
「アルカさんのところにも、縁談というか、釣書がいっぱい来てるでしょ?」
当然のことのようにそう言われて、私は思わず「えっと……?」と首を傾げた。記憶を浚ってみるが、驚くほど何の話をしているのか分からない。
「一つも思い当たる節がないです……。私なんかにそんなお話、来る訳ありませんし」
ないない、と手を振りながら私が答えると、メリザ様は眉を上げる。
「嘘でしょ」
「ほんとですよ。私、そんな価値もありませんし」
メリザ様はしばらく何やら考えるような表情をしていたが、ゆっくりと殿下の方に目線を滑らせる。
「……いつか嫌われても知らないわよ」
「何のお話だか分かりませんね」
殿下は微笑みを崩さないまま、メリザ様に向かって首を傾げた。
「選択肢を与えないっていうのは、この上なく最低で最悪なことだと思うわよ。人を踏みにじってるわ。馬鹿にしてる」
「……その選択肢を知らなければ、何の問題もないのでは?」
「っそれが最低だって言ってんのよ。あなたが彼女を人として扱いたいんだったら、そういう恣意的な小細工はやめなさいよ。そうやって与える情報を選抜して思い通りにさせようって言うんなら、そんなの愛玩動物と大差ないわ。正面切って行けって言ってるの」
殿下は少し黙り込んだ。どこか痛いところを突かれたような顔だった。眉を顰めて、やや不満げに唇を引き結んでいる。
「……参考にさせて頂きます」
「くれぐれもやり方は間違えないようにした方が良いと思うわよ」
メリザ様は鼻を鳴らして、水の入ったグラスを手に取った。
全6話です。よろしくお願いします。




