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「あなたには、次の神託の儀を執り行って貰おうと思います」
「え!? 私神殿の人じゃないんですけど……」
直属ではない上司に呼ばれて告げられた言葉に、私は目を剥いた。上司はあからさまに苦々しげな表情で眉間を揉む。
「……前回の神託の際、神殿側の不正があったという報道は?」
「聞き及んでおります……けど」
「そういうことです。こちらとしても不正は防ぎたいですし、神殿側も不正を疑われるのは嫌だ、ですからこちらからも人員を出すということで」
私は表情で混乱を分かりやすく表明しながら言いつのった。
「それにしたって、どうして私なんですか」
「神殿の馬鹿げた風習です。儀式を執り行うのはうら若き清らかな乙女であれと」
「うわっ……気持ち悪……。今時まだそんなこと言ってるんですか」
顔をしかめた私に、上司もなおさら一層渋い表情になる。……しかし、まあ、自分に白羽の矢が立った理由はなんとなく分かった。
「私なら殿下の不利になるようなことはしないだろうという信頼ですか?」
「まあ、そうですね。できるだけ殿下の近くから人員を出したかったですし、何か企む能力はなさそうですし、あなたならいざというとき脅されても、殴り倒して拒否しそうですし」
「私のイメージの改善を要求します」
「それなら普段の行いに気をつけることですね」
あっさりと返されて、私は押し黙った。
「と、言う訳で、私が殿下に関する神託の儀を担当することになったんですけど」
「うん、もう聞いてる。というか僕が推薦したんだけどね」
一応報告しておこうかと思ったら、まさかの元凶が本人だったというパターンである。まじかぁ、と思わず呟いた。
「神託って、一体何をするんですか?」
「神の意志を受けることだよ」
「そうじゃなくってですね」
優雅にお茶を楽しまれながら、殿下は悠然と目を細めた。その指先で軽く机の天板を叩きながら、ゆったりとした口調で告げる。
「僕の側につく人間――託宣人を、神が指名するんだ。それは例えば適切な助言者であったり、固まってしまった価値観を揺るがすような人であったり、――あるいは、伴侶であったり」
「そ、それって双方に拒否権はないんですか」
「基本的には。神託で選ばれた人間同士が上手くいかなかった例はないしね」
へえ、と私は頷いた。神ってのはすごい存在なんだな、といった念である。そこまで考えて、私は「ん?」と首を傾げた。
「でも、殿下の兄君は、その、神託で選ばれた少女とは、あまり……」
「そのうちお互いに丸くなると思うよ。兄上も前はちょっと平民蔑視が酷い傾向にあったけど、最近は視野が広がったみたいだ」
殿下は事も無げにさらりと告げる。なるほど、と私は第一王子の顔を思い浮かべた。確かに言われてみれば、この頃態度が柔らかくなってきたとの噂を聞いたことがあった。
「へえ……神託ってすごいんですね」
「そうだね」
おいで、と手で合図され、本当は扉の脇で控えていなければならない私は、いそいそと殿下の机に近寄った。
「今日のお菓子が美味しかったから、分けてあげる」
「良いんですか?」
手を出して焼き菓子を受け取りながら、私は声を潜める。殿下は笑顔で頷き、片目をつぶった。
「隊長には秘密でね」
「はい!」
ありがたく頂戴したお菓子を食べながら、私は殿下を見やる。
「神託、楽しみですね」
「……ん? ああ、うん、そうだね」
私がにこにこと殿下に話しかけると、殿下は頬杖をついたまま微妙な反応をした。首を傾げた私に、殿下はすぐに笑顔を向けた。
「神託で選ばれた人と共に、大人になる。そうして初めて、僕たちは一人前と認められるんだ」
「王家ってのも大変ですねぇ」
しみじみと呟きながら、私は立ち上がる。そそくさと扉の脇に戻ると、私は姿勢を正して腰の剣に手を添えた。その様子を見て、殿下は柔らかく微笑んだ。
「いつもありがとう、アルカ」
「いえ。私は殿下の護衛ですから!」
私は口角を上げて微笑むと、殿下に向かって片目を閉じた。
「あ、ところでアルカ、口の脇に」
殿下が何か言いかけたところで、ノックと共に扉が開いた。私が振り返ると、今しがた入ってきた隊長と目が合った。私は軽く一礼し、居住まいを正す。
「あ、隊長、もう交代のじか――」
「アルカ・ティリ。勤務中に何か食べたな」
「ヒッ……!」
何もしていないのにいきなり怒られた。しかも図星である。正直言って訳が分からない。恐れおののく私の視界の隅で、殿下がとんとんと自分の口角を指先で指す。はっと口元を拭うと、見覚えのあるココアパウダーが手についた。
やっちまったの極みである。
隊長は腰に手を当て、殿下を振り返った。
「殿下、あまりこいつを甘やかさないでやって下さい」
「別に甘やかしているつもりなんてないよ。そうだ、隊長にも一つあげようか」
隊長は硬い動きで首を横に振る。殿下は分かっていたと言わんばかりにため息をついた。
「私は結構です。殿下ご自身で楽しまれて下さい。――ティリ、あと一度このような怠慢が見られたら罰則だと言ってあったはずだな」
「はい……」
私は俯いてしょぼくれた。確かに、隊長からは勤務態度について散々言われていたのである。
「殿下がお優しいから……つい、気を抜いてしまって」
「分かっているならいい」
隊長は腕を組んだ。「罰則は追って伝える。休憩に入れ」と言われて、私はすごすごと扉に手をかけた。
「――ね、隊長」
私が部屋を出る直前、殿下の声がした。
「あんまり酷い罰則にはしないであげてよ」
それに対して隊長がどう応えたのかは分からなかった。けれど扉が閉まる直前、殿下と目が合った、ような気がした。
***
うへぇ、と私は自分の体を見下ろして漏らした。
「これ、本当に正装なんですか?」
「そうですよ。神殿の由緒正しい正装です」
「へえ……何というか……悪趣味な……」
思わずそう呟いてから、私ははっと口を塞ぐ。軽率に喋るなと隊長にあれほど言われていたのに、すっかり忘れていた。恐る恐る着付けを手伝ってくれた神殿の女性を見やると、彼女は苦笑していた。
「派手ですよね」
「私、もっと……神殿って清貧な感じなのかと……」
「こういう儀式のときは、権威を示したいんでしょう」
ふんだんに宝石の縫い込まれた上掛けを肩に羽織らされながら、私は愛用の剣を見やった。
「やはり、帯剣は認められませんか?」
「ごめんなさい」
申し訳なさそうに彼女は眦を下げる。「儀式の間は危険がないよう、神殿の兵も目を光らせておりますから」と言われて、私はぎこちなく笑みを浮かべた。
「そろそろ会場に移動した方が良さそうですね」
言われて、私は机を手すりに立ち上がった。
「何だか緊張しますね」
「大丈夫ですよ。誰も取って食いやしませんから」
くす、と女性は笑って、私の衣装を少し整える。それが終わると、私は拳を握って気合いを入れた。
「殿下に素敵な神託が下りますように」
「ええ、本当に」
祈りを捧げておくと、私は勢いよく廊下へ出た。
そう、今日こそがまさに、殿下の側へ侍る託宣人が示される儀式の日である。まだ本番まで時間はあるものの、私は過ぎたる重荷に腹の底がきりきりと痛んでいた。
未だ誰もいない聖堂に入ると、奥の祭壇の側に司祭が立っている。近寄ると、祭壇の上にきらめく金色の輪があるのが見えた。
「本日儀式の手伝いを務めさせて頂きます、殿下の近衛のアルカ・ティリと申します」
「ご協力に感謝します。今後、神託において不正が一切行われないよう、私どもも対策を考えているところです。その節は本当に……」
「あ、いえ、」
沈痛な表情を作る司祭に、私は首を横に振る。
「え、ええと、この輪っかが、神託によって選ばれた人の指に現れるというものですか?」
話題を逸らすべく、私は祭壇の上で小さめのクッションに乗せられている輪を指した。司祭は頷き、「専門の職人にのみ作れるものなのです」とどこか誇らしげに応える。
「でも……」
私は首を傾げた。
「これ、大きくないですか? まるで腕輪みたいです」
「そうですね。どのような人が託宣人になるか分からない以上、いつもあえてこのように大きく作るのです。再び現れるときは、いつも選ばれた人の指の大きさに合っているのですよ」
「へえ……不思議ですねぇ」
私はもっともらしい顔をして頷き、姿勢を正す。誰かの足音が聞こえたからである。
「すみません、司祭様……ちょっとよろしいですか」
聖堂の入り口から顔を出した若い神官が、小さな声で司祭を呼んだ。司祭は頷き、一歩踏み出す。その間際私を振り返り、「少し待っていて下さい」と苦笑しつつ告げた。私も軽い会釈で応じ、司祭は慌ただしい足取りで聖堂を出て行った。まあ大きな催し事だし、トラブルの一つや二つ、あって当然だろう。
時間を持て余し、私は緩く巻かれた毛先を指先で弾いた。やたらに静謐な聖堂の空気に、息が詰まりそうだった。
「これが……神託の指輪かぁ」
祭壇に寄りかかり、私は金色に輝く輪っかを見下ろした。
「神託を受けた王族と託宣人が何だかんだ結婚する事例が相次いで、実質的な婚約者の選別だ、なんて言われた時期もあったっけ」
静かなのが妙に気詰まりで、私はわざわざ囁くように声を出す。
「殿下も緊張される訳だよね……」と私は、金色の輪を指先でつつきながら呟いた。否応なしに自分の人生に沿う人間が指名されるってのも、なんだかちょっと不思議な話だ。
ふと、魔が差した。私は聖堂を見渡し、入り口を見やり、誰もいないのを確認すると、そっと指輪をつまみ上げる。
「あんまり重くないんだなぁ……」
ほとんど腕輪のような大きさのそれを手の上に乗せて、私はしみじみと頷いた。
そこで、更に魔が差した。差しまくりである。もはやほぼ全身が魔なのではないかという気がしてきた。
「解雇される可能性もなく、ずっと殿下のお側にいられるなんて、うらやましい……いいなぁ」
するりと手を輪に通す。腕輪みたいな大きさだと思ったが、腕輪にしても少し大きい。手首で緩く引っかかる指輪を見下ろしながら、私は唇を尖らせた。
「私もそのうち、殿下のお側を離れるのかな」
突如として、聖堂に良く通る声が響いた。
「近衛を辞める予定でもあるの?」
絶叫するのを、すんでの所で押しとどめた。いや、多分「ぎ」くらいは漏れた。体で隠れるのを良いことに、私は素早く指輪を手から抜き取り、クッションの上に戻す。手袋をしているから指紋も残らないはずだ。それから、聖堂の入り口に向き直る。
「でで殿下……」
「どうしたの、アルカ。何かやましいことでもあった?」
「いえそんなことは、」
完全に腰が引けてしまいながら、私は胸に手を当てて正式の礼をした。殿下は聖堂の中央にある通路を堂々と通ってくると、私の隣に立って祭壇の上を見る。
「……これが僕の神託に使われるものか」
「あ、はは……そ、そうですね……」
なるほど、と顎に手を当てる殿下からうっすら目を逸らしながら、私は冷や汗が背中を流れ落ちるのを感じていた。
多分、神聖なものだ。多分私がおいそれと触って良いものではなかった。いや、マズい。バレたらマズい。大変マズい。
「アルカ、何をそんなに青ざめているの?」
「あ、いえ、その……何でもないです、あはは……」
私が乾いた笑いでごまかそうとした矢先、「お待たせしました」と司祭の声がした。
「おや、殿下」
司祭は眉を上げて呟くと、近づいてきて恭しく頭を下げる。それを当然のように受け入れて、殿下は祭壇にちらと目を向けた。
「不備はないか」
「はい。先程伝達が行き違って混乱が生じておりましたが、解決しました」
「そうか、それなら良かった」
殿下はにこりと微笑むと、数秒私を眺める。後ろ暗いことがある私は思わず目を逸らした。それを見た殿下は珍しく鼻を鳴らすと、ふいと顔を背けてしまう。見たことのない反応だ。私は思わず殿下に向き直って、何とか弁明しようと手を伸ばしかけた。
「で、殿下……」
「じゃあ、僕は支度に戻ろう。今回はくれぐれも不正などないように、よろしく頼む」
「はい、お任せ下さい」
「あわわ……」
軽やかな足取りで歩き去ってしまった殿下を見送りながら、私は今度こそ本格的に青ざめた。
「わ、私、殿下に嫌われてしまいましたかね……」
司祭に話しかけると、司祭は明らかに『知らんがな』みたいな顔をしながら、「きっとそのようなことはありませんよ」と言ってくれた。
***
聖堂には多くの参列者が満ち、私は祭壇の脇でガチガチに緊張していた。最前列に座っている殿下は、気を取り直したようにこちらに向かって時々微笑んでくれるが、何となく後ろめたくてそちらを見ることができない。
陛下と王妃殿下、更には殿下の兄君も揃った恐るべき最前列である。今の私は儀式を執り行う側であり、御前でこうして堂々と立っていることは咎められないが、正直軽く礼くらいはさせてほしい。
隣で何やら司祭が輪を掲げて説明しているが、頭に入ってこない。多分練習のときと同じことを言っているのだと思う。表情こそ涼やかに保っているものの、私の内心は荒れ狂っていた。私の他にも儀式を執り行う人は数人いるが、全員神殿の人で、慣れた様子で作業をしている。
一人が優雅な手つきで蝋燭に火を灯し、それを私に手渡した。何だこれ、と思いながら受け取ると、練習の通りに胸の前で掲げる。本当に何だこれ。確か説明があった気がするけれど、咄嗟に思い出せない。
「この輪は、これより神託により選ばれた者の元へ転移します。非常に繊細な神力によるものですので、皆様静粛にお願い致します」
司祭が輪を傍らの女性に手渡しながら言う。数人の手を渡って、私の側まで届けられた。それからしばらく司祭が何やら語っていたが、その話が終わると、輪を手にした隣の神官の少女が頷く。合図を受けた私は蝋燭を高く掲げた。揺らめく炎の前に、少女が指輪を差し出す。私は大きく息を吸う。
「――殿下の行く先に幸あらんことを……!」
台本の通りだが、それはもう心を込めて言った。気合いを入れすぎて若干叫んでしまったが、笑う人はいなかった。誰もが息を飲んだからだ。
ふっと、音もなく指輪はかき消えた。私も目を見開いたまま、呆気に取られてぽかんとした。
さっきまで、目の前にあった輪が、一瞬のうちに忽然と消えたのだ。視界の隅の殿下も僅かに唇を開いている。
…………ん?
私はふと、左腕に違和感を覚えて体を硬くした。何か、手首に冷たいものが触れた感触がしたのだ。え? 何? しかし今は袖をめくって確認できる状況ではない。
まあ、まさか毒虫が服の中に入ってきたなんてことがある訳もないし、と私は表向き神妙な顔で、燭台を胸の高さに戻す。司祭が何やら宣言し、拍手が起こる。私は硬い動きでぎこちなく一礼すると、他の神官について聖堂を辞した。
着替えをした部屋に戻って、誰も部屋にいないのを確認すると、私は恐る恐る左の袖を持ち上げた。燦然と輝く金色の輪が嵌まっていた。……私は袖を戻した。
「ティリ様、お着替えの手伝いに参りました」
ノックの音と共に届いた言葉に、私は愛想の良い声で「一人で脱げそうです、ありがとうございます」と返した。
「そうですか? ……分かりました」
「はい。傷つけないように慎重にしますね」
にっこにこの声で言うと、私は足音が遠のくまで凍り付いていた。
もしかしたら、さっきのは何かの見間違いだったかもしれない。
もう一度、袖を少しずつまくってみる。左手首に嵌まっていたのは、綺麗な腕輪だった。やけに見覚えのある、複雑な意匠が施された、素敵な、金色の……。
「ひ、ひぃいいいいいいいっ!?」
私は顔面を引きつらせて、尻餅をつく。
……こっこれ、神託の指輪では!? 何故に私の『手首』に!?
「絶対、何かのミスだ……」
血の気が引く音が耳の奥で聞こえる。口元を押さえて、私は額に汗を滲ませた。
「儀式のとき、何か不手際があったのかな……」と、そこまで呟いて、私は鋭く息を飲む。試しに腕に嵌めて遊んでいたことを思い出す。それとほぼ同時に、司祭が言っていた『非常に繊細な神力』という言葉が蘇った。
「確定じゃん……私のせいじゃん……」
本来『指輪』であるはずのものが、私の手首にある。これはどう考えても、神託が正しい形で為されたとは思えなかった。しかも、その原因に思い当たる節がある。
「い、今のうちに司祭にこれを渡せば、儀式のやり直し……取れない!?」
指をかけて腕輪を外そうとするが、張り付きでもしたようにぴくりともしない。別に痛い訳ではないのだ。ただ、全く動かない。私は「どうしよう」と再度呟いた。
これがバレたら、解雇は分からないが、殿下の近衛から外されることは免れないだろう。それは嫌だった。
「ま、まあもしかして、実はちゃんと神託もできていて、正しい託宣人が出てくるかもしれないし」
手首を握り込みながら、私は言い聞かせるように呟いた。多分大丈夫だ。……多分。うん。