第六十話:フリーター、空を飛ぶ
タナカ商会の倉庫の裏にまわる。
日当たりの悪い倉庫裏は、赤サビまみれのトラックや半壊した物置やらの特大ゴミの集積所。高い塀にも囲まれて、いかにも人が来なさそう。
姐さんヴァスケルは、誰もいないのを確認し、身体をボワっと白光させる。スーツ姿のOL(注意:白シャツのボタンはふたつ外れている)から、黒い翼を持つ堕天使モードへの変化だ。
「人間界の格好は窮屈だねえ。あたいはこっちの方が全然楽チンだよ!」
布地が少ない、胸元が大きく開いた白いドレス姿でヴァスケルが言う。褐色のふたつの山は、いまにも服からこぼれ落ちそうだ。
うーむ、とっても危険。
ヴァスケルが落ち着く姿は、俺にとっては心が乱れてしょうがない格好さ。
「準備はいいかい? あたいにしっかりつかまりな!」
「はい……よろしくお願いします」
背徳的な姿の姐さんヴァスケルに、真正面からおそるおそる抱きつく。
ふおお……柔らかい!
けどダメだ!
こんな快楽を覚えたら人間おかしくなる!
ちょっとだけ理性が働いた俺は、思わず腕の力を緩めてしまう。
「なんだい!? そんなんじゃあ、空から落っこっちまうよ!」
ヴァスケルが自らの腕に力を込める。グイッと押し付けられる豊満な肉体。俺はふたつの山に挟まれた深い渓谷で身動きが取れなくなる。到底、自力では脱出できそうにない。
俺、遭難しちゃったのかな?
ええ、そうなんですよ。
ヴァスケルは俺の脳内ひとり言に反応しない。当たり前だな。はは。
◇◇◇
フィリピンに向かう空の旅は、堕天使モードの龍飛行。
強烈なGを受けて、俺はヴァスケルのグラマラスボディに一層強く密着する。
うひょー! ここは天国ですかー?
肉体に溺れるってこういうことですかー?
いやいや違うよねーと軽い妄想に耽りながら、天高く昇って行く。
俺たちは高度数百メートルどころか、数千メートル上空まで一気に到達する。雲は遥か下方に見える。あまりにも急激に飛び上がったせいで、俺は本当に天国に近づいてしまう。
「ヴァスケル……耳がキーンとしてるし、息苦しいし、身体が凍りそうだよ」
「おや、リューキは人間界の格好のままだったねえ。一旦降りるから着替えな」
「え、着替えるの?」
「はあ!? いまさらなに言ってんだい! ジーナが用意した旅の衣装があるだろ? あれに着替えれば寒さも息苦しさもマシになるさ」
なんと! ジーナが用意してくれた衣装はそんな性能があったのか!
そういえば神器を研究しているエル姫は、ジーナのマントを褒めていたな。
女騎士エリカも、ジーナの衣装に様々な工夫が凝らされていると言っていた。
むむ、これは失態。
俺は早速着替えることにする。
◇◇◇
堕天使モードのヴァスケルが着陸したのは、箱根あたりの山の中。角ばった黒岩がゴツゴツとする岩山の頂上だ。
「リューキ! 早く着替えなよ」
ヴァスケルに急かされながらジーナの衣装に着替える。
ゆったりサイズの茶色のマントで全身を包み、ぷりんぷりんな堕天使モードのヴァスケルに再度しがみつく。
柔らかいとか、いい匂いとか、考えないようにする。
煩悩退散!
心の中で呪文のように唱えると、本当に邪な心が小さくなっていく気がした。
マジか!? これって賢者モード発動か?
もしかしてジーナの衣装を着ると魔法とかスキルとか使えるのかな?
俺は早速マントを【鑑定】してみた。
名前:ジーナがくれたマント
色 :茶色
サイズ:けっこう大きい
値段:プライスレス
性能:エッチな気持ちがおさまる気がする
違う! これは【鑑定】じゃない。単なる感想だ!
防御+10とか、火耐性【小】とか分かるかと期待したのに。
くっ、残念だ。
俺の心の中で繰り広げられる高揚と落胆に関係なく、堕天使モードの龍飛行が再開される。
高度が上がると寒さは増すが、ちょっとヒンヤリする程度におさまる。息苦しさもほとんど感じない。賢者にはなれなかったが、ジーナの衣装が高性能なのは理解した。これはまさしくドラゴン・ライダーの必須アイテムだ。実際にはヴァスケルと抱きあう格好でぶら下がってるだけで、龍に乗っているわけじゃないけどさ。あはは。
ヴァスケルの肩越しに天を仰ぐ。都会では見られない澄んだ青空に幻想的な印象を受ける。真昼の白い月はいつもより近く感じる。
本気でお月様をつかめると考えたわけではないけど、俺は右手を上に向かって突き出してみた。
キィーーーーイィーーーーン!!
デッカイ物体が真上をすれ違う。危ないじゃないか! いやいや、すっかり忘れていましたよ。人間界の空には龍はいないけど飛行機は飛んでいましたね。
「はん!? 人間界には生意気な鳥がいるもんだねえ。あたいにビビらずに向かってくるなんてさ! リューキ、あの白い鳥にドラゴン・ブレスをお見舞いしていいかい?」
「いや、見逃してやれ。ヴァスケルの方が強いのは、俺がよーく分かってるから」
「あんたがそう言うなら、やめとくよ」
堕天使モードのヴァスケルは素直に言うことを聞いてくれた。気に入らないからってポンポン飛行機を落とされてはかなわない。一度、よーく言って聞かせないとね。
見ると、眼下に広がるのは陸地から海に変わっていた。俺は思わず「キレイだなあ!」と、子どものように素朴な感想を述べてしまう。見渡す限りの大海原。海上にポツンポツンと散らばる細長い棒は漁船やタンカーか。海の男たちよ、今日もお仕事ご苦労様です。
「まったく、リューキは呑気だねえ。あたいはあんたのために、風の結界まで張って頑張ってるのにさ!」
「ん? 風の結界ってなんだ?」
「あん!? なんて言えばいいのかねえ。あたいの身体の周りに空気の膜を作って強風を防いで……あー、説明がメンドくさいねえ! つまり、こういうことさ!」
ヴァスケルが手を離す。唐突にはじまる領主モードの俺飛行。そう。俺はひとりで大空を舞っていた。
鳥だ! 飛行機だ! いや、俺だ!
違う。そういう話じゃない。
俺は単に落ちているだけだ。
俺の背中に翼は生えてない。
翼がないと飛ぶことはできない。
ねえ、ヴァスケルさん。知っていますよね?
俺には翼はないんですよ!!
「あばばばばばばぁああーーー!?」
自分の叫び声が風に持っていかれて聞こえない。
風圧で目も開けられない。
なるほど……風の結界っていうのはそういう意味か!
ヴァスケルの言わんとしたことをなんとなく理解した俺だったが、残された時間は少なかった……
こうして俺は太平洋の藻屑と消えてしまったとさ。
~おしまい~
ではない!!
自由落下はバッドエンドを迎えることはなかった。
もちろん、落下する俺を受け止めてくれたのはヴァスケルだ。
「ヴァ、ヴァ、ヴァスケル……俺……死ぬかと……」
ヴァスケルにお姫様抱っこされた俺は涙目になる。鼻水くらい垂らしていたかもしれない。けど、情けないとか格好悪いとか考える余裕はなかった。本能的に感じ取った死の恐怖。俺は無我夢中でヴァスケルの身体にしがみついてしまった。
「リューキ、ごめんよ! こんなに怖がるとは思わなかったんだよー!」
歯の根が合わない。
震えが止まらない。
錯乱状態の俺は、つい口走ってしまう。
「もう、二度と俺を離さないで!!」
いやいや、どこの乙女のセリフだよ!
滑稽な口説き文句のような言葉に、ヴァスケルは顔を赤らめてしまう。
ヴァスケルは両手を頬にあてて、モジモジしながら俺を見つめる。
そう。彼女が手を離したせいで、俺はふたたび自由落下をはじめてしまう。
「ヴァスケーーールゥーーー!!」
俺は叫ぶ。
助けを求める声は風に流されてしまい、自分でもよく聞こえない。
うむ、風の結界ってのが凄いのは、よーく分かった。
いや、確認したくてしたわけじゃないけどさ。
でもまあ、さすがヴァスケルは古龍の末裔だね。
なんでもできる。スバラしいよ。とりあえずもう一回俺を助けてくれるかな?
ヴァスケルが慌てて飛んでくる。
あっさりと俺に追いつき、にこやかな顔で俺をお姫様抱っこしてくれる。
うむ。お姫様抱っこなら、俺が龍に乗ってるって言えなくもないな。
けど、これでドラゴン・ライダーを名乗るのは格好悪いとちょっとだけ思った。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
先日、インフルエンザの予防接種なるものを受けました。
ディフェンスは大事ですからね。
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