嘘吐いたら針千本
娘とのふたりだけの時間。
夕食を済ませてからは、先輩にあたる部下たちや同等であるはずの無能な目上から移された疲労の残像が身体の中心で渦巻くような所感こそあれ、間違いなく一日で最も幸せな時間だった。
だが、とにかく今は肩の娘の重さが心地よかった。心の重さと吊り合って消耗が心の力として腹の底に溜まっていく感触が有る。五歳になる娘の麗奈が小さく暖かな腕を私の首に巻いていてくれているから。
「ねえ、お父さん、明日はお休みなんだよね!」
「そうだよ。明日は……一緒に遊ぼう」
麗奈に合わせて元気な声を出している内、本当に活気が充ちる。
去年、妻が……麗奈の母は居なくなった。
凡庸で率直で残酷な言葉を選ぶなら死。だが私はこの言葉を避けていた。妻は……美奈がなぜ死んだのか、私は未だに理解できていない。あまりにも現実離れ過ぎた現実に。
その日、仕事に私を送り出して家を守ると別れた。いってらっしゃいといってきます。別れと呼ぶにはあまりにも簡潔な別れが彼女との最後の記憶。帰ったとき美奈は死んでいた。その死体は……あまりにも“飲み込めない”状況だったのだ。
妻の身体は悪夢と比べても現実感の伴わない残虐極まりない状態で残されていた。ただ私にとって苦痛に直結する絶望。
到底霊長類が生存しているとは思えない凄惨な状態であり、発見した私は無駄と知りながらも自分自身を美奈が絶命していない可能性があると信じていると誤魔化すために警察と共に救急車を呼んだ。救命処置どころか脈すら確認しなかったというのに。
待っている間、私の行った唯一の統合性のある建設的行動は、もう一人の最愛である麗奈の安否を確認したことではあったが、寝室を覗き込んで天使のような寝顔から麗奈が天国に居ないことを確認してからはただただ鼓動が一回ごとに私を苦しめた。
やって来た警官たちや救急隊員たちも、“飲み込めない”様子だった。それはそうだろう、この状況を飲み込める人間が居るはずがない。こんな状態で人間が死ぬわけがない。私も妻でなければ、妻でさえなければ、ただの悪趣味なオカルトでグロテスクなマネキンだと一笑に尽きただろう。
警官たちが状況について麗奈に事情を聞きたいと云ったのを私は正気を失ったように……本当に失っていたのだと思うが、私が止めた。
あの状況を麗奈に訊くなんて麗奈の心に傷を残すのかと、私は馬か犬でなければ恥知らずでしかないほどに吠えて泣き喚いていていた。今にして思えば、私は娘が傷付き、後にその傷を感じる度にこの脳髄から魂にまで叩き付けるような苦痛を味わうことを恐れていたのだ。
刑事を怒鳴りつけた後、どうなったのかはよく覚えていない。
妻の特徴的すぎる死因と死亡推定時刻、そして会社から戻ってくるまでの諸々の防犯カメラは、この最悪の殺人事件を防ぎもしなかったことに対する言い訳のように、私が獰猛な殺人鬼ではなく、愛する妻を無残に殺された哀れで惨め極まる男であることを証明してみせた。
数週間後、客観的事実から様々な事実が起きたことを推察できるメモや調書は手渡されたが、私はそれらに目を通すことが出来なかった。嘔気を伴い、観なければならないという強迫が妻の死と“死体の有様”をフラッシュバックさせ、明瞭に私を苛み続けた。
娘のために生きるのだと自らを偽り、私は調書に目を通すことなく、溜まり切った有給を少しばかり超過した頃、会社に復帰させていた。
そして、故意的に激務をこなすことで疲れを悲しみへの麻酔にし、娘のためにと働き続け、止まらない日々の中で薄れない傷を眺めているのだ。
「お父さん、明日は何して遊んでくれるの?」
「麗奈は何がしたい?」
「私が訊いたのっ!」
「ああ、そうだね……うーん、麗奈のしたいことで良いよ」
「お父さん、それ、ずるっこ!」
麗奈のよく通る笑い声だけが本当の意味で私の心に届く気がしていた。一緒に笑う時だけ、傷は癒えた。
美奈がなぜ死んだのか、誰が殺したのか、どうして殺されなければならなかったのか、知ったところでどうなるものではなかった。
今はただ美奈が残してくれた麗奈を立派に育てる。それだけは昔から変わらない絶対の目標のように思えた。
「……なら、明日は隣町の東公園にピクニックに行こうか」
「ひがしこうえん?」
「うん、お母さんと……お父さんが、よく行っていたところなんだよ」
本当は三人で行きたかったけれど、と心の中で足した自分がひどく未練たらしく侘しかったが、顔だけは笑えたように思う。
妻が死ぬ少し前に買った流行りの最新型アンドロイドは、既に型落ちのスマートフォンとなり、過去にしがみ付く私が持つにはちょうど良くなっている。過去の人間である私は中古のCPUに明日の天気を訪ねた。未来は都合良くオレンジ色の太陽マーク。過去に優しい降水確率十五パーセント。ああ、大丈夫そうだな。
「やった! お父さんと久しぶりの、お、で、か、け! やったー! 絶対? 絶対?」
「ああ、天気も良さそうだし、一緒に行こう」
「絶対の絶対!?」
「絶対の、絶対」
なら、と麗奈は白くて柔らかな手を向けて来た。
そろそろ爪も切ってやらなきゃな、と思いながら立った小指。
「約束! 指切り! ウソ吐いたら、ダメなんだからね!」
――思えば、麗奈に自分から遊ぶと云ったのは始めてだったように思う。
いつも麗奈のことは美奈任せ。美奈の居る内は遊ぼうと声を掛けてやることすら、自己満足のためだった。
最近になって、本当に麗奈のことを想っている。麗奈を幸せにすることが、それこそが自分のためであると頭ではなく胸の奥で理解できていた。
私も麗奈と同じく指を出し……ああ、なんだ、私は。自分の爪はしっかり切っている。今度からは自分の爪を切るとき、麗奈の爪も思い出すようにしよう。
とにかく、私は小指を差し出し、麗奈と指を組んだ。
『ゆーびきりげんまん、うそついたら針千本、のーます、ゆびきったっ!』
爪を切ってから麗奈を風呂に入れ、そのまま寝付かせた。
切ってから爪が切りにくいときは風呂に入ってからだと柔らかくなるから切りやすくなる、という誰かのアドバイスを思い出したが、そんなことは関係なく麗奈の爪は柔らかかった。
シングルペアレントというレッテルは苦労だけでも美談だけではないわけで。
ただ煩わしさもまた、過ぎ去れば愛おしさに変わるということくらいは私も理解できてきている。
疲れはある。明日も色々とあるだろう。子供は常に想像の外にいる生物だ。
明日に備える意味も含め、幼稚園からの溜まり溜まった連絡帳を確認すべく、デスクトップパソコンを立ち上げた。
紙媒体より往復させる手間が掛からないのは良いが、疲れ目には少々苦しい。
【麗奈ちゃんは今日も元気にお友達と遊びました(かくれんぼが得意!)。年下の子や年上の子とも社交的です】
【自分の言葉に責任を持っているしっかりとしていました! 友だちのTちゃんとMちゃんが指切りで、二週間くらい寝なくても大丈夫とモメそうなとき、“できないことは約束しちゃダメ”と優しく言っていて、真面目で誠実な子だと思いました】
【好き嫌いしちゃダメだと友達のMちゃんが言うと、好きなことは良いことだと言っていて、言葉の意味を考えて、しっかりとしていました】
【遠足では他の子がドングリを拾っている中、麗奈ちゃんは栗のイガに興味が有る様子。イガの中に入っている栗でモンブランが出来ている、と友達のTちゃんと話していました】
親の見ていないところで子は育つのだろう、と諺ではなく実感だった。
多分、私の知らない麗奈の一面を幼稚園の先生たちや、友達のTちゃんやMちゃんは見ているのだろう。
明日はケーキ屋にも依ろう。この連絡帳で、ではなく、麗奈の口からモンブランの話を聞きたい。
勘違いしている大人も多いが、降水確率十五パーセントだろうと降水確率九十パーセントだろうと、それは降水量を指し示すバロメータではない。
降水確率九十パーセントで降る小雨も有れば、十五パーセントで振る土砂降りも有る。そして本日は後者だった。子供を連れての外出は憚る程度の大雨、ピクニック日和どころか日和ですらない。
私は卵をフライパンに割り入れながら、空白になった脳内の予定帳に書き入れることを探していた。
カップケーキくらいなら作れる材料は有るが、それだけでは退屈かもしれない。ゲームやオモチャは有るが、美奈のことを思い出すようなことは麗奈も辛いかもしれない。
美奈とやって居なさそうな遊びをいくつか考えていたとき、ちょうど麗奈が起きて来た。
「おはよー。お父さーん! ピクニック! オレンジのレインコート着て行けば良い?」
ああ、と思った。
ヤバイ。一番ヤバイ。雨でも行く気でいる。説得に苦心するパターンだった。
もし言い方を間違え、それで機嫌を損ねてしまえば、今日は一日中、苛立っているだろう。たまの休日にたったひとりの家族にサービスしようとして、険悪なままでは仏壇の美奈にも苦笑いで手を合わせることになる。
……私の社会経験という名目の辞典に記された多数の言い訳が頭の中を錯綜しかけたが、ここは昨晩の連絡帳と親としての直感に一点突破を決めた。
ウソや誤魔化しはせず、素直に話すことにした。
「ごめんな、麗奈。雨が振っちゃったから……今日は家の中でノンビリしよう」
凍り付いた。パチバチと目玉焼きが妙にうるさかった。
つう、と麗奈の目尻から一筋の涙が零れ、私の手にはじわりと汗が浮かぶ。
「できないこと! 云ったらダメなんだよ! って、私、思ったから、マサミちゃんやツナちゃんとも約束しなかったのに! お父さん! メなの!」
「ゴメン。雨の中だから麗奈がカゼひいたりしたらお父さんイヤなんだ。謝るしかできないけど、今日は家の中で遊ぼう」
「約束破ったら針千本、呑まなきゃいけないんだよ! お母さんみたいに!」
ゴメンと反射的に謝ろうとしたとした神経は語末にざわめいた。
問う言葉がなく視線で促す……つもりだったが、麗奈は大きな目に薄っすら涙を浮かべ、私の様子なんて見ていなかった。
麗奈の腕から何かが落ち、フローリングに立った。
いささか太く黒いが、それは紛れも無く“針”だった。
「千本集めたの! 使いたくなかったの! でもダメなの! お父さん! 約束して破ったら、針千本なの!」
ジャラジャラと服から零れ落ちていく。針金のようなもの、本物の縫い針、安全ピンなど様々な“針”だが、多くは黒い……栗のイガだ。乾いたもの。
私は、そこで思い出さざるを得なかった。妻の“決して飲み込めない”惨状を。
穴だらけの頬からは唾液交じりの血がへばり、気道を突き破り血を浴びて光っていた剣山のような状態。正中線を下るように突き出た何本かのそれは、妻が“飲んだ”ことを指し示すように胃袋の位置からも飛び出していた。
妻が死んだ理由、妻を殺した犯人、それを私は、ああ、なんということだろう。私は全てを理解せざるを得なかったのだ。
ただひとつ、妻が娘とのどんな約束を破ったのか、たったそれだけの疑問を抱いて、私の身体は一本の針のように硬直していた。
雨は、また強くなったようだった。
近々、『父と娘』『針千本呑ます』での別テーマも書きます。