78_善と悪をシンプルに決定するには程遠い。
「自分の意思は存在せず、周囲の環境の結果であるから自分は悪くないとか言ってしまう人はどうしたらいいのでしょうか?」あかねさんが尋ねます。
「それでよろしいのではないですか?」トムさんが軽く返します。
「では許せと、問題にする必要はないと?」あかねさんがさらに踏み込んでみます。
「許せるかどうかもまた情報のやり取りのうちですから、そのあたりはさらにどちらでもいいのではないでしょうかね?」飄々と言ってしまうトムさんでありました。
「自らの意思はなく、外部からの情報によって、反応しただけであるから罪に問われるのはおかしいのではとか、言っちゃう系ね、あるよな、それ」タケルさんが会話に加わりました。
「私は悪くない、社会が悪い、とゆーやつじゃの、元ネタはどこじゃったかの?」テーブルトークRPGの神様も乗っかりました。
「すでに追いきれないくらい古い話題のようですね、だいたい甘えるなとかの反論がセットになってたり、その通りであるという肯定的な意見もチラホラ見られてしまうようですね」トムさんがちょっと検索して会話に花を添えていきます。仏花ですかね。
「罪があるかどうか、つまり、責任の有無とか善悪の判断と、自我がない、自分の意思がないという事実は、別のお話でありますからね。社会的な問題と、物理的な問題という感じでしょうか?」トムさんが解説を試みます。
「自分の意思とかが自分でどうにもならないのなら、そこに罪はないのではありませんか?」あかねさんが言います。
「そのことを万人が認めるかどうかで対応が変わるわけでしょうね。自我があるという幻想を持っておられる方が多いでしょうし、直感的にはあるように見えますし、疑いの余地がないとする人々が大半でありますから」トムさんが言います。
「罪を犯すことがどうやっても避けられないのであるなら、該当する人物は絶望するのではないでしょうか?」あかねさんが、ちょっと悲しげに言います。
「避けられないという情報が入ってきたら、避けられるように反応する可能性もありますね、該当の情報が程よいタイミングで入っってくるかどうかは運しだいでありましょうけど」トムさんが指摘します。
「自我がなく周囲の情報によってそれらしきものがあると錯覚している、という情報そのものを得ることによって、過信しなくなる?ような感じでしょうか?」あかねさんが言います。
「どっちかっつーと、一歩引いて見られるようになる?とかの観察の変化、情報を俯瞰してみることのできる視点が得られる、ていうタイプじゃねーかとは思うぞ」タケルさんが言います。
「そうじゃなあ、こう怒り心頭な状態でも、妙に冷静にそこに至るまでの入力された情報を観察しできて理由付けができるとかかの、そして、静かに冷静に怒りの力を対象へと向けようとするとかかの?」こう、超越した戦闘民族的な心持ちじゃな、と言いそうになって、言わせないですよ、と突っ込まれるテーブルトークRPGの神様でありました。
「神様がそう作ってしまったのであるから、あなたたち人間には罪はありませんよ、という発想でもありますかね?」トムさんが付け加えます。
「時系列に沿って情報を入力処理出力できるような存在を創造したら、このようなフォーマットにならざるをえないという、ぶっちゃけた理由もあるわけだがな」しししと笑うタケルさんです。
「まあ、創造元責任者からして、自意識に見えるものが、重なる情報の残響に過ぎないわけじゃからの」かかかと笑うテーブルトークRPGの神様でありました。
「ええと、つまり犯罪は許されるべきであると?本人にもどうしようもないから」あかねさんが確認します。
「許すとか許さないとかでもないのじゃないかなと、それはつまり、システムの維持をどのようにしているかの方向性によるわけですし、多くの情報が形作る界の性質によるわけだね。その行動とそれに付随する情報がどう他の情報群に働きかけるか、影響するかという話であって、その情報を伝達する、処理する、部分をどのように扱うかは、それもまた多くの情報から自動的に出力される行動なわけでありますね」トムさんが言います。
「よくわかりません」あかねさんが首をかしげています。
「犯された罪は、結果であるから、逆説的に言うなら自身も含めて誰も止めることができなった現象なわけですよ。自我がないとするならそこにその罪を犯したということ自体に対しての責任はなく、罰もないわけです」トムさんが語ります。
「そうなり、ますかね?ということは、やったもの勝ちなのでしょうか?」まさかそんなことはないでしょうね、とあかねさんが会話を継ぎます。
「それが罪が、どうして罪と呼ばれるのかという部分に注目するなら、話は簡単であって、その世界を維持していくために邪魔になるような行為を行ったという、点で見ると、責任の所在はともかく、改善、排除する方向へ、流れが向くわけでありましょう、そして多くの情報処理を行っている個体、つまり人間のことですね、それが無理なくそのように行動するために、その個体へ責任があるとして罰を与えるという、ごまかしを発動するわけですね」トムさんが答えます。
「ええとつまり、社会全体を維持しやすくするために、それに反する行動をしてしまった個体を排除している、のが善悪の基準ということでしょうか?」あかねさんがまとめます。
「そうでしょうね、でその場合、その罪を犯した存在に責任を取らせるのがスムーズであるから、自我があり、自分で心が制御できるものであるという、共通幻想を作り上げている、と言っても過言ではないわけでして」トムさんがさらに飛び込んできます。
「いやそりゃ過言だろ!そこまで考えないよ、だいたいの人間は!」タケルさんが突っ込みます。
「無意識の技ですね」にこやかに、トムさんです。
「どちらもひどいことを言ってるような気がするのう」呟くテーブルトークRPGの神様です。
「意外ですが、同感するところがあります」あかねさんが心外だという顔で呟きます。
「各種雑多な情報が人間の行動を制御しているわけですから、その流れに沿って善悪が決定させているわけです、善悪もそうですが好悪も環境が決定する要因に過ぎないわけですね。そしてその環境は情報どうしの残響に過ぎないわけでありまして、制御も選択もできないものなわけです」トムさんが言います。
「世の中をより良くしようという、動機で行動している方もおられますが?」あかねさんが尋ねます。
「そのより良くしようと、思ったきっかけとか、し続けようとする熱意とかもまた、自我から出たものではないというか、入力された情報にたいする出力に過ぎないわけですから、情報に反応しているだけでありますので、そこに善悪はありませんね、他の情報と絡み合った時に、肯定的であるような働きかけをする確率が高い世界である、くらいしか言うことができないわけですし」トムさんが答えます。
「まーそうだな。裏切り、暴力、攻撃的、弱者を踏みにじる、傲慢に、残虐に、強欲に、淫らに、とかそれらが全て肯定される世界とかもあるわけであるし。そういう世界では逆に他者を思いやるとか、約束を守るとかの行為こそ罪であり罰をあたえられる対象、除去される個体、と判断されるようになるんじゃねーかな?」タケルさんが楽しそうに言います。
「そういう社会が長く安定して維持されるかどうかは別の問題ですが、発展はしないまでも意外とバランスは取れそうな予想はできますね」トムさんが頷きます。
「そんな地獄なような世界は嫌ですね」あかねさんが言います。
「地獄へようこそ」とでも言っておけばシャレが効いているじゃろ、と言うテーブルトークRPGの神様でございました。
「それでは善意を持って行動することに意味はないのでしょうか?」あかねさんがコーナーへ突っ込んできました。
「その善意そのものを自ら選び取ったものでないと言う前提があるけれども、そうですね、意味はないですけど、それに価値を見出すかどうかは環境次第でありましょうね。どうやっても自らそれを選択できないのであるということは、どのようなものにでも、どのような環境であったとしても、条件さえ合えば捲き起こる性質であるということでもありますから、善性に従いたいと言うのは、したくないけれども、なぜかしてしまうとか、過去の経験から見てもどうしてそのような良き行動をしてしまうのか、わからなくても、とっさにそうしてしまう可能性があるということですから。そこに尊さを見出すように感じる気持ちを止めることは、逆説的にできませんよね?思いとか思考とかは自らの自由にならないからこそ、希少性が増しているわけでありましょう、数少ないからこそ尊いと言う感性ですら、偶然の産物であるわけではございますが、湧き上がる気持ちというのは、だからこそ、止めることができないわけでございましょうね。こころがままならない、というのは、自我というものが無いからこそ、それが幻想であるからこそ、見出される現象でありましょう。理屈では無いのでありますと、それが見えないように見えるからこそ尊いのであると、強く他の情報を処理するところに負荷をかける、特別な情報が生まれるきっかけになる、のではないでしょうかね?」トムさんが今回も長口上となりました。
「ええと?」ちょっと目を回しているあかねさんです。
「あー、純真さの濃度とか、そんなのだっけ?」タケルさんが側面から言葉を継ぎます。
「捨ててこそ浮かぶ瀬もある、じゃったかの?ちょっと違う気もするが?」テーブルトークRPGの神様はフォローに失敗しました。
「自分自身というものは、無いものであって、情報の入力処理出力をしている行為そのものが自我に見えているだけであると、認識することで、人間は一段上のステージに立てるのです。というと、途端に胡散臭くなるわけでありますけど」トムさんが、詐欺師のような口調で語ります。
「本当に騙されそうですね」あかねさんが言います。
「次のステージって、なんなんだろーな」笑うタケルさんです。
「1−2くらいじゃろ?」土管に潜るんじゃないかの、とぼけるテーブルトークRPGの神様でございました。
「自分で決定するのも、周囲の状況に流されるのも、まあ、本質的にはさほど違いはないわけですね、入力に対する処理方法の違いというか、その処理方法の違いとかも入力された情報に依存してくわけですから、そういう現象であるということであり、それ以上でも以下でもないわけです。結果として全体に益をもたらしてくれるなら、社会という単位で考えると本当にどちらでもいいわけでありますし、第一、それを自分で制御することもできないわけでありますから、ただ、制御できないことを情報として知った個体であるなら、暴走をしにくく、冷静に情報の影響を見ることができるように、処理できるようになるのでは?といううっすらとした期待がそこはかとなく漂うわけでありましょうかね?」トムさんがあやふやに語ります。
「断言しないんですね」あかねさんが不思議そうに指摘します。
「してもいいですけどね、神様に近い存在ですし。でもぼやかして発言するのが、様式美?らしいですよ」肩をすくめるトムさんです。
「結果主義ってやつだな」タケルさんが得意そうに言います。
「終わりよければすべてよしというやつじゃの、まあ、どこが終わりだか定かではないが」テーブルトークRPGの神様がおっしゃっていますよ。
「どうせ自由にならない気持ちであるから、いろいろ諦める方が善いを言うことでしょうか?」あかねさんが、悩んだように言います。
「そういう気持ちもまた出てくるのは止まりませんですし、自由になるものではないですからね、まあ、好きにすればよろしかろうか、というよりは、好きにしかできないとも言えますね。好悪という意味ではなくて、なるようにしかならないという、諦めの気持ちでありますけど。我慢しないことを諦めるとかも言えるかもしれませんね。言葉遊びに過ぎないかもしれませんが、知ってしまったら後には戻れないわけですし、その後の行動に影響が出るのは当たり前でしょう。悩んで選択しているように見えていますが、それも含めて、すべて自分の意思は反映されていないわけですし、どこにも主体はなく外的要因しかないわけです。それが人間の業であると捉えるか、救いと捉えるかも文化の差であるのでしょうね。自我が無いと認めないとする気持ちも、また湧き上がることを止められないわけです。ですから、いっさいがっさい含めて、好きにするしか無いわけですよね」トムさんが語ります。
「無責任じゃ無いでしょうか、やっぱりそれは?」あかねさんが言います。
「行動に対しては無理にでも責任を取らされる、システムができているんですから、気にしても仕方ありませんよ。何度も言いますけれども、システムを維持するためのギミックでしか無いわけでありますよ、罪、罰、責任、自我などすべて、ごまかしに過ぎませんね。別にないがしろにしろというわけではありませんし、システムを維持するという行為そのものは、あってしかるべき存在でありますよ、いいや、その是非を問うというよりも、この形態、つまり、情報の処理をする個体が集団で存在している世界の設定であるならば、必然となるフォーマットであるわけでありますから、否定するも何もありませんね」長いですよ、セリフが、トムさん。
「結局どうすればいいんでしょうか?」混沌としてきた議論を決着すべく、あかねさんが問いかけます。
「最初から言っているじゃありませんか。好きにすればよろしいのですよ」トムさんが言えば。
「ま、なるようにしかならねー、ということだな」と、つづけてタケルさんが言います。
「そもそも何の話をしていたのじゃっけかの?」原点はどこか、と質問を投げかける、テーブルトークRPGの神様でございました。