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実験的作品

三島由紀夫が激痛を書いたなら

作者: 日和努流

日本純文学の雄『三島由紀夫』。肉体と精神と血と言葉を愛した文豪。彼は、満年齢と昭和の年数が一致しているという稀な作家で、昭和に欠かせない傑物です。


もしも三島由紀夫が痛みについて書いたならば……と思い、昭和に活躍した作家風に書いてみました。




 街を流れる風に小さな針が混ざるようになり、(あらわ)になる肌が少なくなる新涼のある日の昼下がりに、男は左右に揺れる頭をなんとか据えながら渋々と(かわや)へ立った。土曜の起床は遅く、連日終電で帰宅する毎日の疲れを取り除くには、多少の寝坊ではまるで物足りなく、用を足し終えたならば再び床に戻ろうと密かな決心をしていた。


 (まなこ)は重いのだが、再び微睡みに包まれゆく身なのであえて開く必要はない。隙間から脳に届いてくる風景画のような景色を足取りの道標にして座の前にたどり着いた男は、屹立したままひとつの小さな瀑布を作った。毎回訪れる恍惚がすぐさま男を身震いさせ、しばらく続いた快楽に近いそれは、数秒ではあるが薄く開かれていた男の眼を瞑らせた。そしてかつて飛泉だったその水流は次第に岩清水のように弱く小さくなり、やがて渇れた。


 干魃(かんばつ)の合図、つまり事の終焉を見届けるために再度見開いた男の眼に、つい昨日までとは違う、極彩色のなかの一つだけ浮き出ているような異様な風景画が飛び込んできた。


 それは日毎訪れる儀式であり、それでいて排泄という生物たる現象のさなかにあっては異常と云われる色である事は、まだ夢か(うつつ)か定まらない男の頭脳でもはっきりと認識することができた。


 男は目屎(めやに)で固まった両瞼を力一杯に引き剥がした。何度も瞬目(まばたき)をし、突如現れたその異常な色彩が寝ぼけ眼によるものでないと確認した男は、まるで黒蟻が列を成して足下からいそいそと躰を這い上がるような、おぞましい未知なる感触を覚え、一気に血の気が引く思いになり、驚愕した。


 楕円形の座の内側には、飛泉の名残がいくつもの点を遺しているが、滝壺にはその本流の泉が微かに泡を踊らせている。しかし、それはかつて別府で拝んだ血の池地獄の如く赤く滾らせ、周りに飛ばした名残りも滝壺と同じ色をしていた。


「ひゃっ」


 男はそれが本物の血であることを直感で悟り、声にならない驚嘆をあげた。


 目を凝らせど色は変わらず、ともすればその赤みが時間が経つほどに濃ゆい(あか)に侵されていく気がし、男はすぐに水洗取っ手を手前に引いた。真新しい水が血の池をただの泉に変え、つい先ほど見た悪夢のような光景は、別府で見た景色への憧憬が夢となって現れただけなのだと自分に言い聞かせることにした。いや、そう思わなければ、まだ血圧の上がりきっていない全身にこの紅い血が足りなくなってしまって、そのまま卒倒してしまうのではないか、という恐怖がたちまち心を支配してしまうからであった。


 往路は眼が呆けていたが、復路は直視できない現実を振り払うために脳味噌が快活としてしまい、全ての光景が一つひとつ確かな線と色で(あつら)われた具象画と化していた。それなのに見えざる足枷が自重を幾倍にも膨らませ、一歩の足取りがひどく鈍重な牛歩に変えていた。


 ()う々々の体でようやく寝台に辿り着いた男は倒れるように突っ伏し、心身改めるために恭しく仰臥(ぎょうが)した。


『これは夢だ。(せん)に枕元に仏様が立たれた後にお見せ下さった別府の夢なのだ』


 神仏に対して知悉(ちしつ)していない男はそれでも、滾々(こんこん)と泡を発している血の池地獄を神様の類いが思い出させてくれたのだ、という根拠のない祈願に思い処を寄わすしかなく、強引に眼を閉じるほかなかった。


 眼を閉じたはいいものの、かつての感動の景色はどこか宇宙の彼方へ飛び去ってしまい、鮮やかな秋日に護られている熊野那智大社に見た瀑景が徐々に瞼の裏に甦り、やがて猛るように赤色を実らせた紅葉(もみじ)の梢が景色全体を覆いはじめ、終には紅蓮に燃え上がった滝壺に水音が吼えていた。


 男は閉じた瞼が痛く思った。自分でも(かまびす)しい雑多な繁華街をうろうろするように眼球運動を盛んにさせている事は解るのだが、美麗な別府の海岸線と荘厳な那智の大瀑布が交互に瞼の裏に映し出され、そのどちらも朱墨に一面が塗られているため、すっかり脳味噌への伝播が殷賑(いんしん)としているのだった。


 その後数度と腹臥(ふくが)と仰臥を繰り返しても一向に瞼の痛みと眼圧が消え去らないので、起きてみることにした。男は開き直る事しかできず、時々刻々と這い上がってくる黒蟻の群れが既に全身で遊び回っている恐怖を迎え撃つ心積もりを胆に据えた。


 手始めは詮索することであった。当然、赤く泡立った座の泉の様子を思い起こすことから始まり、それは、あの驚嘆すべき液体が己の内から堰を切り出でた濁流であると認めることであり、神仏からの給りものである憧憬を甦らせてくれる夢との、決別せざるを得ない一歩でもあった。


 膝を揃えてみようともしたが、舶来の寝台の上ではまだくらくらする頭と、すっかり固まってしまった寝起きの躰の収まりが悪く思え、虎斑(とらふ)楢木(ならのき)材の椅子が、同じ模様をした宅を挟んで対に見つめている洋風の居間に立った。


 寝室と続いている居間は十二尺四方、つまり二(けん)四方程度なのだから、畳で測るならば八畳ほどはあり、男鰥夫(やもめ)だが蛆は沸いていなかった。男が見つめる先の炊事場も居間に倣っているのか、清白(せいはく)な食器は、大きさや形、高さなど揃えて片されており、そのどれもが大根(すずしろ)の白さを無機質な光沢に加えてあらゆる光を放っているかのようだった。それは男にとってさきほどまでの懊惱(おうのう)をかき消すには不十分で、むしろより一層、赤く煮えた血潮が活動写真のように動きまわる様子を思い出させるのだった。


 椅子に腰をおろすことなく、その清廉な物言わぬ陶器に只々凝注している男は、ふいに背中側の右下を金槌で撲打されたような痛みに襲われた。


「ひゃっ」


 男は跳びあがっていた。怛刹那(たんせつな)(一秒強)の後、二度目となる鈍痛が背なの下部を鳴らした。


「ひゃっ」


 今度は仮漆(わにす)に光った床に倒れ込んでしまった。かつて知った事のない、えも言われぬ大太鼓の鳴りは、その音の速さの如く臓腑に波を作った。


 次に来るは、同じく怛刹那だったのだが、知覚を()ってしまったせいなのか、より一層強い波紋が臓腑を隅々まで振るわせ、全身にそれが漂うまでは些かの時間も掛からなかった。


「ひゃっ」


 痛みは回を重ねるほど激しさを積み上げ、脈動と周期を同していることを男は知るのだが、知ったところで痛みが帳を下ろして引き下がるわけでもなく、床に倒れ、起きようとすると跳びはね、椅子に腰を下ろそうとする矢先に次の鈍痛が襲い、そのまま椅子に覆い被さり、また床に倒れては仰臥と腹臥を繰り返していた。かつて志摩半島で愛でた活きのよい蛸の地獄焼きを男は思い出したのだが、檜台に座した巨大な和太鼓の律によってすぐさまそれは日本海へ消えていった。


「ひゃっ」


 何度(うな)ったのか分からなかった。「七転八倒だ。しかし、それでは形容しきれまい。ひゃっひゃっと言って七回八回と転げ回って跳び跳ねて終いならよいが、脈打つのが終らぬ限り、この痛みとは別れられそうもないのだ。九吐十願(きゅうととうがん)とでも付け加えようか。吐き気もするが、既に神仏に頼らざるを得ないのだ。貴様がどこの誰であるかは知らないが、せめてその原因を思い出させることを赦してはもらえないだろうか」と心の中で捲し立てるように発し、その願いが届くかどうか(たの)む更なる祝詞(のりと)は、次の「ひゃっ」によって無惨にも(かすみ)に消えゆくのだった。


 堪らず寝台にも戻るのだが、沈静は待てどもこなかった。結局はまた跳び跳ねて倒れてを繰り返す他ないが、混濁とした意識とは逆に、腰を襲う激痛はいよいよその加減を覚えず、無慈悲な鞭打ちのような拷問をひたすら続けていて、男の額には粘り気のある脂汗が(つら)なり、ひとつの小川を作るに至っていた。


 それと同時に、絶え間なく打ち寄せる土用波を幾つか凌ぐ間に、湧き迫り来る胃酸の放出にも終始せねばならなかった。


 のたうち回るだけで粗方の体力を消耗してしまった男は、もう一滴たりとも残っていない胃酸の嘔吐との戦いをしながら、無慈悲ながら秩序のある規則正しい鈍痛に悶え苦しみ続けた。既に神仏に祈る以外は思考が止んでおり、紅蓮の滝壺や、別府の血の池地獄などは一切脳裡に取って返ってはこなかった。


 男は死を感じた。臓腑に小人が入り込み、中から(ばち)を振り回しているかのような鈍痛も、喉を引き裂き食道を焼き尽くす胃酸の放出も、律動に共鳴して銅鑼を鳴らしている頭痛も、全て死に向かっている証拠なのだ、と悲観ではなく、腹を括った諦観に近かった。


「貴様に教えてもらわんでも、死んだらこの苦しみから逃れられるのであろう。もう理由などいい。貴様が俺を殺そうとしていることはうっすらと分かった。神仏など存在しないのだな。いや、敬虔でないといけないのか。そうだろ。この苦しみは下手糞な麻酔で知覚が多少残ったまま、歯肉に横向きに埋まった親不知を強引に抜いたあの痛みとは比べものにならない激痛だというのに、御仏は何もしてくれないじゃないか」


 男は「ひゃっ」を噛み殺し、なおも恨みを爆裂させた。


「しかしこのまま貴様の言う通りにはさせん。こちらには人間としての矜りがある。もしも先ほどの紅く燃え上がった液体が貴様の奸計(かんけい)ならば、別府や那智で愛でた壮麗な景色を汚した貴様に一矢を引く」


 男はやおら突っ伏した床から躰を持ち上げると、(ねや)に戻るなりひとつの機械を手にし、口を眉月に変えながら歯を溢した。


「……もう痛みで、意識が途切れる。……しかし……貴様には負けん」


 定まらない視線に最後の意識を集中させ、屁の突っ張りを手元の機械に恃んだ。


「……救急車を……お願い……します」








 男の目の前には、自宅で見た大根(すずしろ)よりもはるかに純白に身を纏われた婦人が椅子に腰掛け、白と黒で描かれた写真のような大判用紙を眺めているが、それに写っているものが男の腰部を透かしたものであることは、男が一番よく解っていた。


「尿路結石ですね」


「ひゃっ」


 了





尿路結石が引き起こす痛み、それは『疝痛(せんつう)』と呼ばれ、医学的にも人体に引き起こされる痛みのトップクラスに位置付けされます。


本当に七転八倒します。痛い痛い


横文字を入れないようにしましたが、昭和っぽい雰囲気、出てましたかね……

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[良い点] ひゃっ [一言] たこすさんの割烹から流れてまいりました いたおもしろい(失礼 随分前の事でしょうが、お大事にー
[良い点] これぞ文学。 いえ、とても文を書くことを楽しんでおられる様が見受けられますので、文楽とでも申しましょうか。 浅学なミツイには深い所までは読み解くこと叶いませんが、ただただ文学の香り溢れる…
[良い点] 予想を上回る三島由紀夫感。そこはかとなくこみ上げてくる可笑しさ。他の文豪でも書けるのでしょうか? あまりの文章の美しさに期待してしまいます。 [一言] 主人公が「ひゃっ」と叫ぶ度に妙な可笑…
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