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Andante  作者: すもも
7/7

7【終】

 「ねぇ、萩原さん。最近ゆりと一緒にいないけど、どうしたの?」

 学校の休み時間。次の授業の準備をしていた美里に、クラスメイトである女子生徒たちがやって来て尋ねてきた。ゆりとケンカをして、あれから一週間が経過したが、明らかにゆりと美里は互いに避けていた。

「萩原さんが休んだあたりからだよね。なにかあった?」

「なんでもないよ。ただ、ちょっとケンカしちゃっただけ」

「二人がケンカって珍しいねー。早く仲直りしなよ」

「うん、ありがとう」

 美里から離れていく、クラスメイト達の背中を見ながら、ひっそりため息をつく。二人のケンカを、クラスメイト達にまで心配をかけてしまい、罪悪感を覚える。

 解決したいが、こればかりはどうしようもない。美里自身、まだ気持ちの整理ができておらず、仲直りどころか話しかけることもままならない。

 不意に視線を感じてそちらを見ると、自分の席に座っているゆりと目が合った。なにか話しかけようか躊躇していると、すぐゆりが気まずそうに目を逸らしてしまった。

 やっぱり、上手くいかないな。美里はそう思って、今日一番深いため息をついた。


 * * *


 前回とは比べものにならないくらい、木谷から受けた鞭打ちは酷く苛烈だった。

 何度謝っても木谷の手は止まらない辛い責め苦に、美里はいつの間にか気を失ったようで、次に目が覚めた場所は、病院のベッドの上。病院に運ばれるほどの怪我でもないが、一応大事をとって運ばれたらしい。

 前回のように、叩かれたままでなかったのはよかったが、再び鞭で打たれたこと以上に、精神面の方が辛かった。少しずつ築いてきていた、木谷との信頼関係が崩れてしまったことや、ゆりを泣かせてしまったこと。

 辛い現実が美里の中でぐるぐると渦巻き、じわりと目頭が熱くなる。泣き出してしまいそうだが、木谷の言葉を思い出して、唇を噛み締めて耐えた。

 悲劇のヒロインになりたいわけではない。なのに、結果的になってしまっている自分が、酷く情けない。

 木谷の言う通り、彼から逃げ出そうと思えば安易に逃げ出せたし、身の安全を確保できるだろう。だが、豊かになった生活がまた変貌し、元の苦しく寂しい生活に戻ってしまうかもしれないのが、恐ろしかったのだ。

 元の生活に戻れば、美里はまた独りになってしまう。そうなれば、美里以外いない家に、寂しく苦しい生活をすることになるだろう。

 想像しただけで身震いする。独りは、もう嫌だった。

 孤独は美里には辛すぎて、息もできない。我慢できなくて、とうとう涙が溢れだず。

 もう、全部グチャグチャだ。どうしたらいいかわからない。

 美里は泣きながら、今ここに木谷がいなくてよかったと、上手く働かない頭で考えた。


 元から大事をとっての入院だったため、様子見で一泊したあと、直ぐに退院できた。

 退院の日、木谷が車で迎えに来たが、運転していたのは木谷ではなく、愛染だった。

 なんでも、美里を家に送ったあとすぐ、仕事があるらしい。しかもその仕事はなかなか難しい案件らしく、しばらく家に帰って来られないかもしれない。

 そう、聞いてもいないことをベラベラ喋る愛染に、木谷が一喝する。萎縮した愛染をぼんやりと見ながら、美里はこっそり胸を撫で下した。

 再び鞭で叩かれたことで、せっかくなくなりかけていたのに、美里は木谷にまた恐怖心を抱いていた。木谷の顔を見ると、鞭で叩かれた夜を思い出し、身体が震えてしまう。

 木谷と会話をするどころか、美里は恐ろしさから、彼を避けていた。けれど、美里がこんなに悩んでいる一方で、当の木谷は態度を変えることなく、以前のように美里に接している。

 そんな木谷に、悩んでいるのは自分だけなのかという苛立ちと、木谷にとっては気にするほどのことではないのかという不安で、心がモヤモヤする。

 一人であの広い家にいることになるが、こんな状態なら、しばらく木谷と離れていた方がいいと美里は思った。


 * * *


 愛染が言った通り、木谷はとても忙しいらしく、美里が退院して一週間が過ぎても帰宅していない。

 木谷の顔を見ずに済んでいいが、どこか寂しく思っている自分もいて、その矛盾に複雑な気持ちを抱く。今日もまた、木谷は帰宅して来なくて、美里が夕食を作っていた。

 木谷から日々料理を教わっているため、包丁の扱いなど多少よくなったが、それでもまだ手つきはたどたどしく、危なっかしい。

「……こういうとき、木谷さんが側にいてアドバイスくれるんだよね」

 なぜか料理を作っているときは、木谷が親切に教えてくれたことをよく思い出す。包丁の持ち方や食材の切り方を、一つ一つ丁寧に教えてくれていたことを想起していると、ふと別のことが思い浮かんだ。

 あの日、美里の手に覆いかぶさった、木谷の大きな手。

 手袋越しに感じた熱を思いだして、顔に熱が集まっていく。料理中になにを考えているのかと、自分に言い聞かせて止まっていた手を動かす。

 料理中以外でも、木谷と顔を合わせなくなってから、美里はよく彼のことを考えるようになっていた。

 どうしてかは、美里にもわからない。しかし、きっと鞭で叩かれた日に八つ当たりしてしまった罪悪感だろうと思った。

 あの日した美里の吐露は、完全に八つ当たりだ。今まで蓄積されてきた鬱憤が、ゆりとのケンカで拍車をかけ、さらに元凶である木谷と顔を合わせたことで、当たってしまった。

「でも、あの言葉は酷いよ……」

 ――可哀想な自分に、酔いしれているのですね――

 思い出しただけで胸が痛くなるほど、酷い言葉。可哀想な自分に酔いしれてなんてないはずなのに、否定らしい否定ができなかった。

 美里はただ、今後どうしたらいいかわからないだけ。

 本当は木谷の側から離れた方がいいと、頭では理解している。だが、今の豊かな暮らしや孤独を考えると、躊躇する。決断せず全て曖昧なまま、不満を言って泣くから、結果的に悲劇のヒロインになってしまった。

 木谷の言葉は酷烈だが、的を射ていた。

「はぁ……」

 考えないようにすればするほど、木谷のことを考えてしまう。別のことを考えようとすると、今度は脳裏にゆりの泣き顔が思い浮かぶ。

 泣かせてしまったのは、純粋に申し訳ないと思っている。だが、無理やり聞き出そうとしたゆりに対して、美里はまだ怒っていた。

 意固地になっているとわかっている。でも、こちらからは謝りたくないという気持ちが強い。木谷とゆり。二人と仲直りしたいと思うのに、最善な方法が思いつかず、困惑するだけ。

 どうしようもない状況に頭を抱えながら、木谷から教わったばかりの肉じゃが作りに勤しんだ。


 * * *


 最後にカウベルの音を聞いたのは、どのくらい前だろうか。日曜の昼過ぎだというのに、この喫茶店は相変わらず閑古鳥が鳴いていた。

 忙しすぎるのも困るが、暇すぎるのもなんだかんだで手持ち無沙汰になり、困る。皿洗いや伝票整理など、美里が出来る業務は全て終わってしまった。あとはもう、普段掃除しないところを掃除するくらいしかないが、それも直ぐに終わってしまうだろう。

「……人、来ないなぁ……」

「そうですね、暇ですねぇ」

 ポツリと呟いた言葉を返され、慌てて口を手で塞ぐ。カウンターの向こうで、マスターが目尻に皺を濃くして微笑んだ。

 ジャズか流れる店内があまりにも穏やか過ぎて、すっかりマスターの存在を忘れていた。いくら事実とは言え、失礼な発言だったと反省する。

「ご、ごめんなさい。つい……」

「いえいえ、本当のことですし、今日は特に暇ですからね。まぁ、どことなく雨も降りそうでし、仕方ありません」

 窓越しに空を見ると、今にも雨が降り出しそうな重たい空が目に映る。いまも店内が閑散としているのに、雨が降ってしまえば、さらに客足は遠のくだろう。

 暇だと嫌なことしか考えないから、身体を動かしていたいのに、それが出来なくて憂鬱だ。現に、今も木谷に言われたことが頭の中をいっぱいにしている。

 結局、美里はどこにも助けを求めていない。木谷が帰って来ていないから、美里はほとんど自由の身なのに、逃げ出そうとしない。いや、逃げようとも思わなかった。

 ――結局、貴女はどうしたいのですか?―ー

「……わからないよ。そんなの」

 窓枠に身体を預け、空を見上げる。自分だってどうしたいのかわからないのに、木谷がわかるはずがない。

 助けてほしい。でも木谷と仲直りしたい。顔を見たくない。でも会って話したい。

 グルグルと矛盾が渦巻いては、混乱するだけ。いっそのこと、美里の代わりに誰か答えを出して欲しい。

「萩原さん」

 不意にマスターに呼ばれ、手招きされた。不思議に思いつつ近寄ると、カウンター席に座るように言われ、困惑する。いつお客さんが来るかわからないし、業務中に座るなんて、サボっているように思えるから。

「マスター、あの……」

「人も居ませんし。たまにはゆっくりしましょう」

「でも、まだ休憩時間では……」

「じゃあ、僕もちょっとお休みしちゃおうかな。今日はちょっといいコーヒー豆使おう」

 豆をローストし始めるマスターに、美里は驚きつつも大人しく従った。マスターも休憩すれば、美里も心置きなく休むことができる。マスターの優しい気遣いに、美里は心の中で感謝した。

 挽いたばかりの芳ばしいコーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。目を閉じて香りを楽しんでいると、マスターがコーヒーと一緒に、フルーツタルトも持ってきた。

 目の前に置かれたフルーツタルトに、パッと顔を明るくさせる。マスター特製のフルーツタルトは、フルーツをふんだんに使っていて、甘すぎず、どこのお店よりも美味しい。

「うん、やっぱり美味しい」

 タルトを口に運んで自画自賛するマスターに、思わずクスリと笑う。マスターに続いて美里もタルトに口をつけると、相変わらずの美味しさに頬を緩ませた。幸せそうにタルトを食べ続ける美里を見て、マスターは満足気にコーヒーに口をつける。

 穏やかな時間が過ぎていく。こんなにゆっくりしたのは、いつぶりだろうか。

「少しは休めましたか?」

「え?」

「萩原さん、最近お疲れ気味でしたから」

 そう言ってにっこり笑うマスターとは対照的に、美里は眉尻を下げた。心遣いがじんわりと身に染みて、胸元から温かい物が込み上げてくる。

「わ、私……」

 全部話して楽になりたい。でも、話せるはずがない。

 言葉を詰まらせる美里に、マスターはただ微笑むだけ。

「萩原さんは頑張り屋さんですけど、その分我慢してしまうから。我慢しすぎてしまうと、見たいものが見えなくなってしまいますよ」

「見たい、もの……」

「迷惑をかけるとか考えず、たまには、我慢するのをやめて自分に素直になりましょう」

 美里は気がつけば、ずっと我慢していた。

 それは迷惑をかけたくなかったのもあるし、なにより嫌われたくなかったからだ。いっぱいいっぱいになっていたのに、辛い気持ちを隠していた。それが、さらに周囲の人を心配させていると気づかないで、悲しませて。悪循環になり、結果的になりたくもない悲劇のヒロインになっていたのだ。

「マスター……私……」

「おや、ちょうど我慢しない人たちが来ましたね」

「え?」

 首を傾げると、今まで沈黙をしていたカウベルが、音を鳴らせた。

「――あ! くらげちゃんだ!」

「おお、久々に見たな。元気にしてたか?」

 入店してきたのは、前住んでいたアパートの近くにある商店街のおじさん達だった。魚屋と肉屋のおじさんが、揃いも揃ってやって来て驚きながらも、接客しようと慌てて席を立つ。

「あ、萩原さんは座っていて。お二人とも、いつものでいいんですよね?」

「あぁ、ブレンドね!」

「でも……」

「久しぶりに会ったんですから、お話していてください」

 顔立ちがいいおかげで、茶目っ気たっぷりのウィンクが様になっている。呆気に取られている美里を、来店してきた二人が畳みかけるように話しかけてきた。

「それにしても、最近全く見かけなかったからおじさん達心配してたんだぞ」

「魚屋のおっさんがしつこくしたからか~、なんて話題で持ちきりだったしな」

「いや、お前のせいだろ肉屋。お前の押し売りが原因だって、豆腐屋のオヤジが言ってたぞ」

「なんだと?! あのクソオヤジ!」

 静かだった空間に、明るい声が響き渡る。いささか喫茶店という場所には適さないが、今はこの賑やかさがよく合っていた。

「とにかく、元気そうでよかった。みんな心配していたんだ」

「みんな?」

「あぁ、商店街のみんなだよ。美里ちゃん最近顔見せなかったから、なんかあったんじゃないかって心配してたんだ」

 肉屋はそう言って、安心したように目を細める。安心したのは魚屋も同じようで、美里は目を丸くした。

 彼女の知らないところで、心配している人達がいる。こんなにも周りから気遣われていたなんて、思いもよらなかった。目の奥が熱くなっていく。

「心配させて、ごめんなさい。でも、ありがとうございます。本当に、嬉しいです」

 みんなの気持ちに応えたい。我慢するのはもうやめて、自分の気持ちに素直になって相手とちゃんと向き合おうと、そう思った。

 二人が嬉しそうに笑うのを見て、素直になってよかったと思う。和やかな雰囲気になっていくのを見て、マスターも表情を綻ばせた。


「それでは、お先に失礼します」

 だいぶ陽が傾いた頃、美里の勤務が終了した。店に来たときよりも明るくなった美里の表情を見て、マスターは微笑む。

「はい、お疲れ様。賄いどうぞ」

「いつもすみません」

「いえいえ。気をつけてお帰り」

 久しぶりに頂いた、マスター特製の具だくさんミックスサンドを手に、店を後にする。

 結局、あの二人を相手してほとんど業務をせず終わってしまったが、たまにはこんな日もいいかもしれない、と笑顔になる。近頃はずっと悩んでばかりで、心に余裕がなかったから、落ち着く時間になってよかった。

 今日は久々にいいことがあって、かなり気分がいい。鼻歌混じりに道を歩いていると、たまには寄り道しようかと、思いついた。普段は木谷のせいで寄り道できなかったが、注意する本人がいないのならば問題ないだろう。

 どこへ行こうかと歩いているうちに、いつの間にかゆりとケンカしてしまった、小さな公園の前にいた。来るつもりはなかったのに、無意識で足が向いてしまったようだ。

 寄って行こうかと思ったが、脳裏に過ぎったのは、ゆりの泣き顔。

 あの朗らかで気の強いゆりが泣いてしまったほど、自分の一言に相当傷付けてしまったと、胸がきつく締め付けられる。バツが悪くなり、今日はもう帰ろうと、踵を返したとき。

「美里?」

 慣れ親しんだ声に呼び止められ、足を止めた。今、一番会いたくて、会いたくなかった子。

 どうしてここにいるのかと聞きたいが、いったいどんな顔をすればいいかわからず、振り向けない。そんな美里の態度が気に触ったのか、ゆりは声を尖らせる。

「あんた、どうしてここにいんのよ」

 まるで責めているような言葉に、流石の美里もムッとする。

「そういうゆりちゃんこそ、どうしてここに?」

「あたしはたまたま……ていうか、あんたはこっちの道通るの学校の時くらいじゃん」

 会話はそこで途切れ、沈黙が流れた。どうしてこうも、双方ケンカ腰になってしまうのか。さっきまでいい気分でいたのに、美里はひっそりとため息をつく。

 聞こえないようにしたはずのため息は、しっかりゆりの耳に届いてしまった。

「何ため息ついてんのよ。したいのはあたしの方だって」

「なんでそんなこと言うの? まるで私が悪いみたいじゃない」

「別に、そんなこと言ってないじゃん。被害妄想酷すぎ」

「いくらなんでもそれは言い過ぎだよ」

 本当は、こうしてゆりとケンカしたいわけじゃない。ついさっきまで、相手と向き合うために素直になろうと決意したのに。頭ではわかっていても、実際会ってみると、出てくる言葉は刺々しいものばかり。

「言い過ぎじゃない。美里はいつもそうだ、心配する人の気持ちなんて考えてない」

「そういうゆりちゃんだって、自分の言ってること、矛盾してるよ。人には言いたくないことだってあるのに、なんで強要するの? 少しは私の気持ち考えてよ!」

「なに……!」

 ――違う。こんなこと言いたいんじゃない。本当は、あのときはごめんねって、ゆりちゃんが心配してくれて、本当は嬉しかったって、言わなきゃいけないのに――

 目を固く閉じて、何度も心の中で軟弱な自分を鼓舞する。今言わなければ、きっと後悔する。意を決し、美里はゆりに向き合うために、勢いよく振り向いた。

「ゆりちゃ――」

「みさ――」

 ゴツンッ

 閑静な住宅街に、一週間前とは変わって鈍い音が響き渡る。

 美里が熟考している間に、ゆりが美里に接近していたようで、思い切りおでこをぶつけてしまった。すごい勢いでぶつけたため、強い痛みに唸り声を上げて、二人ともその場にうずくまる。

「~~~~いったぁ」

「だ、大丈夫? ゆりちゃん……」

「美里こそ……あ~頭割れるかと思った……」

 おでこをさする二人の視線が、カチリと合った。顔を見た途端、お互いに吹きだす。

 あんなに険悪な雰囲気だったのに、おでこをぶつけるなんて、なんて間抜けなのだろうかと、おかしくなったのだ。

 ひとしきりに笑って落ち着いたあと、先に口を切ったのはゆりだった。

「……ごめんね」

 謝られるとは思ってもよらず、突然の謝罪に目を丸くする。むしろ、謝るのは泣かせてしまった美里の方だ。先に謝られてしまい戸惑う美里に、ゆりは続ける。

「あたし、友達だからっていうのを理由にして甘えて。美里だったら話してくれるだろって、無理やり聞き出そうとしてた。美里の気持ち、全く考えてなかったんだ」

「わ、私も、私も悪かったから。ゆりちゃんがこんなにも心配してくれてるって、知ってたのに、気づかないフリしてた。自分のことしか、考えてなかったの」

 ボロボロと溢れだす涙を拭わず、ゆりに必死に伝える。美里に感化されたのか、ゆりの目にも、痛みとは違う涙が浮かぶ。

 自分のことしか考えられなかったあまり、必要以上に心配させ、結果的にゆりを泣かせてしまった。ゆりは、いつもこんなに心配してくれていたのに。罪悪感で押しつぶされそうだ。

「謝るのは私の方だよ。あのときはごめんね。心配してくれて、本当は嬉しかったよ」

「美里……!」

 とうとうゆりの目から涙が溢れ、抱きしめられた。突然のことで仰け反るが、なんとか耐えてゆりの背に手を回す。

 住宅街のど真ん中で、二人は人目を憚らず、ワンワンと大きな声を出して泣いた。ゆりも美里も、互いに互いを心配しすぎてしまっただけなのだ。その行き過ぎた心配が、首を絞めてしまった。

 だが、それも今日で終わり。

 ようやく涙も落ち着いて顔を上げると、目の前にある互いの酷い顔を見て、再び笑いあった。


「そんで、なんでこんなとこにいたの?」

 マスターからもらったサンドウィッチを片手に、二人は公園のベンチに座って寛いでいた。美味しそうにサンドウィッチを頬張るゆりを見て、美里も口を付ける。シャキシャキのレタスや、瑞々しいトマトがなんとも言えず、頬が落ちてしまいそう。

「バイト帰りだったの。たまには寄り道しようかなって思ったら、通りかかって。ゆりちゃんは?」

「あたしも、散歩してたらたまたま通っただけ。でもあんた、あんまり寄り道できないんじゃなかったの?」

 すごい偶然に、運命すら感じる。いや、きっと運命だろう。ゆりも美里と仲直りしたいと、同じ気持ちだったから。

「今日はいいの。それに、今はゆりちゃんといたいし」

 少し強気で答えると、ゆりはそれ以上聞いてくることなく、サンドウィッチを口にする。あとで木谷に寄り道したことがバレたら怖いと思うが、今は木谷よりも友人だ。

「まぁ、あたしは嬉しいからいいけど……でも、なんかに反抗してるとかだったら、素直になった方がいいと思うよ」

「……そうね、素直になったから、こうしてゆりちゃんと仲直り出来たしね」

 気持ちに素直になったことで、ゆりと仲直り出来た。いつまでも木谷を避けていないで、素直に向き合って話さなければ、始まるものも始まらない。だが、当の本人が不在ならばどうしようもなかった。

 しかし、いざ木谷を前にしたとき、ちゃんと話し合えるかどうかが心配だ。

 あの夜、鞭で叩かれたことが心中をかすめ、身体が震える。それに、美里は自分自身どうしたいのか、まだ答えが出ていない。

 そんな中、話し合ってもいいものか逡巡していると、ポツリと雨が落ちてきた。

「やば、とうとう降り出してきちゃった。あたし傘持ってない。美里は?」

「私は持ってるよ」

「そっか、じゃああたし先に帰るね」

 雨が酷くならないうちに帰ろうと、急いで支度を整える。公園の出入口付近で別れたとき、ゆりが美里を呼び止めた。振り向くと、ゆりは晴れやかな笑顔で言った。

「また明日!」

 また、明日。また明日、ゆりと以前のように仲良く話すことが出来る。

 その事実が嬉しくて、自然と美里の顔にも笑顔が咲いた。

「うん、また明日ね!」

 ゆりの背中が見えなくなるまで、美里は手を振り続けた。ゆりを見送り、自分も帰宅しようと踵を返す。

 思った以上に時間が経っていたのか、周りの街灯がちらほら点灯し始める。小雨ではあるが、雨も降っているし早く帰らなくてはと、角を曲がると。

「……愛染さん?」

 見覚えのある人物が、黒塗りの車に寄りかかって煙草を吸っていた。名前を呼ばれた愛染は、マズイという表情を隠すことなく、取り繕うようにへらと笑った。


 車に打ち付ける雨は強さを増し、会話のない車内を煩くする。場の空気が重く、なにか話題を提供しようかと愛染を盗み見るが、結局開きかけた口を閉じて俯いた。

 たまたま、路上駐車していた愛染と会い、彼から自宅に送ると提案され、美里は動揺した。未だに初見での暴力を忘れていないし、木谷と一緒でないのに優しくされるのは、なにかあるのではと勘ぐってしまう。やんわり断るが、半ば強引に車内に誘導されてしまい、訝しながらも渋々乗車した。

 たった数分前のことを思い出して、既にやはり断ればよかったと後悔している。別に無理に場を和やかにしたいわけではないが、あまりにも気まず過ぎて肩身が狭い。

「それにしても、最近雨が続くねー」

 先に口を開いたのは、やはり愛染の方だった。元からお喋りであるがゆえに、沈黙が耐えられなかったのだろう。

「そうですね、ずっと降ってて困ります」

「台風も来ていないのに、面倒くさいよねー、この雨」

「はい」

 会話はそこで止まってしまい、再び車内に静寂が訪れる。手持ち無沙汰になり窓越しに車外を見ていると、ふと疑問を抱いた。

「あの、愛染さん。木谷さんと一緒じゃないんですか?」

 愛染は、木谷といつも一緒にいるイメージだったため、こうして一人でいることが不思議だった。美里の質問に、愛染はあぁ、と声を上げる。

「そうそう、美里ちゃんは知らないんだよね。俺、実はヤクザじゃないから、送迎くらいしかやることないんだわ。基本正義さんに呼ばれなきゃなんもできないから、暇なの」

 突然の告白にびっくりした。まさか、愛染は木谷と同じ職業ではないとは。

 では、なぜ同じ職業でもないのに、付き人のように一緒にいるのか。それ以前に、送迎くらいが仕事なら、初めて会ったときに、なぜ美里の家の中にいたのか。

「初めて会った日、私の家にいたのは……?」

「あれはね、暇だったからなんとなくついて行っただけ。きっと役に立てます! って言ったのに、そのときの正義さん、すっげー嫌そうな顔しててさー。酷いよね? 俺にはいっつも塩対応なんだよな、あの人。まぁ、普通について行ったけど」

「なんとなく……でも、愛染さんはなんで木谷さんと一緒にいるんですか?」

「あの人側にいると、金が舞い込んでくるからさ。始めは俺が正義さんを取り入れようとしたんだけど、いや、これがもう正義さんが頭良すぎて。ボッコボコにされちゃったよ。死ぬとか薬以外ならなんでもしますから許してください~って言ったら、『貴方のような方に出来ることなど、たかが知れています』って言われてさ。それでも頼み込んだら、送迎することで許してもらえたんだ」

 流石愛染。まるで立て板に水の如く、ペラペラと話してくれるおかげで、美里の疑問は一気に晴れた。中には聞いてもいない情報も混じっているが、それもご愛嬌だ。

 例え知らなかったとはいえ、あの木谷を取り入れようとした愛染は、なんて無謀な行為をしたのかと苦笑い浮かべる。

「それにしても、まさか送迎の他に美里ちゃんのことも加わるとは思わなかったけどね」

「――それって、どういうことですか?」

 この愛染のしまった、という顔を見るのは、本日二回目だ。口を滑らせてしまったという表情に、美里は目を見張る。

「今の一言は、もしかしてさっきあそこにいたことと、関係ありますか?」

「い、いやぁ、えっとねぇ……」

「愛染さん」

 はぐらかせおうとする愛染に、追求していく。いったい木谷は愛染に、美里に関してなんと指示しているのだろうか。

 一向に引かない美里に、これ以上はごまかせないと諦める。深いため息を一つついたあと、愛染は気の進まない様子で口を開いた。


 はやる気持ちが抑えきれず、木谷の部屋がある階に着いたときには、ほとんど走っていた。愛染から、木谷は既に帰宅しているはずと聞いている。

 急いでいるのは、寄り道をして叱られるのを恐れているわけではない。どうしても、木谷に会って話したいことがあるからだ。

 いよいよ家の前について、鍵穴に鍵を差し込もうとするが、手が震えて上手く入らない。未だに、面と向かって木谷と話すのは恐ろしい。

 ――大丈夫。きっとちゃんと向き合える――

 自分自身を鼓舞して深呼吸をしたあと、ようやく鍵を回して中に入った。

「お帰りなさい。随分遅かったですね」

 リビングに足を踏み入れると、帰宅したばかりなのか、ジャケットは脱いでいるがまだスーツ姿の木谷がいた。挨拶と一緒の刺々しい言葉に、身体が意図せず萎縮する。

「す、すみません……あの、木谷さんはいつ頃帰ってきたんですか?」

「つい先程です。連絡もせず申し訳ありません」

 そう謝る木谷は、どこか気怠そうで疲れているように見える。一週間前、愛染が車内で今回は難しい案件だと言っていたのを思い出す。美里に連絡するまで気が回らないほど、大変だったようだ。

 普段は平然を保っている木谷が、美里が見てすぐわかるほど疲れているのだ、今日は話すのをやめた方がいいかもしれない。どうしようか考えつつ、木谷の様子を見つめる。

 木谷は緩慢な動きでネクタイを外し、ワイシャツのボタン上二つを外す。少し怠そうな動きが妙に色っぽくて、ぼーっと見入ってしまう。

「それはそうと、帰って来てよろしかったのですか?」

 木谷の一言に、美里はキョトンとした。美里の帰る場所はここしかないのに、どうしてそんなこと聞くのだろうか。

「私がいない間に、なぜ逃げなかったのです」

 木谷に言われて、ようやく理解する。彼は自分が不在の間に、美里は逃げたものだと思っていたらしい。咎めるように責められて、美里は口ごもる。

「それは……」

「てっきり、貴女はここから出て行ったと思っていました。まだ悲劇のヒロインを演じていたいのですか?」

 木谷から放たれる酷い言葉が、美里の心に突き刺さる。木谷の一言はいつも辛辣なものばかりだ。けれど、その酷い言葉の数々は厳しさだけでないと、気付いたのはいつからだったか。

「違います。私は、悲劇のヒロインになりたいわけじゃありません」

「では、なぜまだここにいるのですか」

 以前は、全く抑揚がなく怖いと感じていた声色に、今では感情がこもっていると感じている。それは、注意深く聞かなければわからないほど、微弱なもの。今だって、抑揚がない声色に、苛立ちが混ざっているとわかった。

「……さっき、愛染さんから聞きました」

 送り届けてもらっている最中、愛染が口を滑らせた出来事を思い出す。しまった、と顔を歪める彼を追及し、渋々口を開かせた。

 ――実は、俺が美里ちゃんを見張っていたから、自由に外に出られてるんだ――

「あの男、話したのですか」

 今にも舌打ちをしかねないほど、木谷は不機嫌になる。恐らく、見張っているなんて誰でもいい気はしないから、美里の耳に入れないよう口止めをしていたのだろう。

 木谷から怒気が滲みているのを感じて、ひっそりと愛染に同情の念を抱いた。

「愛染さんから聞いたときは、信用されていないからかなって思いました。でも、違ったんですね」

 ――あの人、何も言わないけどさ、すっごい美里ちゃんのこと心配してるんだよ。だから口煩くなったり、俺に見張らせたりしてさ。てか、暴力団関係者の連れがのんきに外歩くなんて、危険すぎるから。普段は人に無関心なのに、美里ちゃんに対しては、ここまでしてるんだよ――

「私のことを、守るためだったんですね」

 言葉の続きを思い出す。木谷並みの地位になると、本人のみならず、彼の身内や友人、恋人見境なく襲われる可能性がある。もちろん、木谷の所有物である美里も狙われる対象であり、危険因子をあらかじめ作らないため、アルバイトの辞職を強いられそうになったのは記憶に新しい。

 だが、それを美里が頑なに断ったため、本当は外出自体が危険なのに、美里の意思を尊重し、条件付きだが外出することが出来ている。

 普通、借金のカタに引き取った小娘にここまでするだろうか。いや、それ以前に料理や勉強を教えたり、落ち込んだ美里を海に連れていって慰めたりなど、絶対しないだろう。

 美里の知らないところで、たくさんの人に気にかけてもらえて、心配されて、守られている。今日一日で痛いほどそれを感じて、優しさがじんわりと胸に広がった。

「確かに、私は木谷さんにたくさん酷いことをされて、傷付きました。まだ木谷さんのことは怖いですし、逃げ出したくないと言ったら、嘘になります。でも――」

 今後、また木谷に鞭で叩かれて、冷たい言葉を浴びせられるかもしれない。でも、美里は不器用な木谷の優しさや配慮も、知ってしまった。

 木谷のワイシャツの裾を摑み、サングラス越しの目を見る。目が合っているのがわかり緊張するが、自分の気持ちに素直になると決めたのだ。

 意を決し、言葉を続ける。

「――今は、木谷さんの側にいたいんです」

 言った瞬間、美里の頬はみるみるうちに紅潮していく。自分がとんでもないことを言ったということは、ちゃんと自覚があった。

 でも、これが美里の気持ち。今は生活が壊れるとか、独りになるとかよりも、ただただ木谷の側にいたいと、そう思った。

 木谷の視線を感じ、耐えきれなくなって下を向く。やけに時計の針の音が大きく聞こえて、沈黙が耳に痛い。

「美里さん、貴女という人は……」

 呆れたようなため息が、頭上から降ってくる。……呆れられて、拒否されてしまったのだろうか。

 不安に苛まれていると、木谷の手が赤くなった頬に添えられた。驚いて顔を上げると、なにやら柔らかい物が、掠めるよう額に当たった。

「私の側にいると、貴女自身が決めたことです。私はこれ以上なにも言いません。ですが、決めた以上は、覚悟していなさい。さて、それでは食事にしましょうか」

 早々にキッチンに向かって行く、木谷の背中を見つめながら、美里は額に手をやる。停止した脳をフル回転させ、たった今されたことを想起した。

 額に触れた柔らかい感触は、一瞬ではあったが、確かに木谷の唇だった。

「……あ、え……えっ?!」

 あまりにもナチュラルなキスに、反応が遅れてしまった。額ではあるが、木谷にキスをされたという事実に、美里は軽くパニックを起こす。

 どうして、額にキスをされたのだろうか。すごく自然だったが、美里を混乱させるのには十分だった。美里の身体は、まるで火が点いたかのように全身熱が灯る。

「うるさいですよ、遊んでいないで早く手伝ってください」

 大混乱する美里を一喝する木谷は、平然と食材を切っている。自分だけが動揺していて不満に思うが、美里は返事をしてキッチンに向かった。

「はい、今行きます」

 木谷の側にいれば、もっとたくさん辛くて大変なことが起こるかもしれない。それでも、今後も美里から木谷の元を離れることはないだろう。

 もうすでに、美里の居場所はここになりなりかけているのだから。


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