6
十一月に入り、肌を撫でる風がより一層冷たくなった。美里は傘を差しながら冷えた指先を摩り、暗い空を見上げる。最近、よく雨が降っているような気がする。
おかげで洗濯物は外に干せないし、部屋干しが続いていて憂鬱だ。しとしととと降る雨を見ながら、ため息を零す。
「なーにため息なんか吐いてんの」
一緒に帰路に着いているゆりに指摘され、美里は眉根を寄せる。
「最近ずっと雨じゃない。お洗濯が乾かなくて憂鬱」
「洗濯物って、あんたは主婦か!」
ゆりに言われ、肩をすくめた。確かに、雨で靴が汚れるだとか外に出るのが億劫だとかそういう理由ではなく、真っ先に洗濯物を気にする女子高生は少ないだろう。
しかし、木谷と暮らしてから家事を小まめにする様になり、自分のことよりも家のことの方を気にするようになった。料理も、積極的に木谷を手伝い、牛歩並みであるが少しずつ出来るようになってきている。
「そういうゆりちゃんは憂鬱じゃないの?」
「あたしはこの雨で髪の毛が広がるのがいや」
明るい色の長い癖っ毛を靡かせ、唇を尖らせる。ゆりのような癖っ毛の子は纏まらず、嫌な雨だろう。対する美里の黒髪はストレートで、そういったことはない。
「あんたはいいよねー、ストレートだから広がるとかなくて」
「そうだね、ゆりちゃん見てると大変だなぁって思う」
「なにそれ、嫌味ぃ?」
「あはは」
朗らかな笑い声が二人から起こり、穏やかな雰囲気が流れる。ひとしきり笑ったあと、ふとゆりが立ち止まった。不思議に思い美里も立ち止まって振り向くと、ゆりは困惑したような、でもどこか真剣な眼差しを美里に向けていた。
「ゆりちゃん?」
問いかけるが、口を開いては閉じてを繰り返すだけ。しばらく様子を見守っていたが、とうとうゆりは言葉にせず、首を横に振った。
「……ううん、なんでもない。気にしないで!」
顔に笑顔を浮かべ、再び歩き出す。
最近、今のようなことがよく続いていた。ゆりはなにかを言おうとするが、結局話すことなくはぐらかされる。なにを話したいのかもちろん気になっているが、無理に聞くこともないとゆりが話すまで待っているのだ。再び話されず終わった言葉を気にしつつも、遠ざかるゆりの背中を急いで追いかける。
雨は、少し強さを増したような気がした。
***
「その野菜は乱切りです」
「ら、乱切り?」
乱切りと言われても、どのような切り方か全く見当つかず、手に持っている人参をひっくり返したり、縦にしたりする。包丁の扱いに慣れていないため、どうしたらいいか分からない。見兼ねた木谷が口を開く。
「回しながら切りなさい」
「え、あ、はい」
「その前にピーラーで皮を剥くんですよ」
「は、はい」
木谷の指示通り皮を剥いていくが、ピーラーを剥く手もなかなかに危なっかしく、遅い。だが、木谷は美里を急かすことなく、隣で見守ってはたまにアドバイスをしたりする。
美里が作っているのは、今まで挑戦してこなかった、煮物の肉じゃが。本日は土曜日で、木谷の仕事がたまたま休みであったため、美里から料理を教えてくれるように頼んだ。木谷に作ってもらい続けるのは申し訳ないし、なにより自分でも作れるようになりたいと思ったからだ。美里は、はじめ貴重な休日を割くのを嫌がられるかと思ったが、木谷は嫌な顔一つ見せず了承して、今に至る。
「剥けました!」
「では、乱切りにしなさい」
木谷から言われ、人参を切ろうとするが、どうしたらいいかわからなくなり戸惑う。とりあえず回せばいいのかと人参を真ん中から切ろうとしたとき、突然影ができた。なんだろうと顔を上げた瞬間、今度は包丁を持つ手に木谷の大きい手が被さるではないか。驚いて手を離しかけたが、力強く握られ逃げ場を失う。
「き、木谷さん……!」
「手を離さない。ちゃんと包丁を握りなさい。乱切りとは、野菜を回して端から切っていくことです」
トントン、と音を立てて野菜を一緒に切っていく。均等に切られていく人参に集中したいが、手袋越しに感じる体温だとか、息遣いだとかを感じて、全く集中できない。こんなに木谷と密着したのは、勉強を教えてもらったとき以来だ。あのときは色々とそれどころではなかったが、今は事情がまるで違う。親切に教えてもらっているのに、美里の心臓は早鐘を打っていた。
「美里さん?」
不意に名前を呼ばれ、肩が大きく跳ねる。
「は、はい!」
「聞いていましたか? あとはご自分でやってみなさい」
そう言って、木谷が美里から離れていった。離れた手をどこか残念に思いつつ、残りの人参を拙い動きで切っていく。
以前はあんなに木谷が怖くて仕方なかったのに、瞳の件から居ないと逆に寂しく思うようになった。別段彼と仲良くなったわけでもないが、あれから会話が増え、なにより鞭で叩かれていない。
それに、気のせいかもしれないが、木谷が美里に優しくしている気がする。その証拠に、嫌がる素振りを見せずこうして料理を教えてくれている。他にも、美里が寂しがっているのを知ってか知らずが、帰宅する時間が早い日や、会話は特にないが、二人一緒にいる時間が増えた。改めて考えると、木谷には予想以上によくされている。
隣に戻った木谷を盗み見ると、視線がかちりと合った。サングラス越しであるが、目が合っていると思うと、美里の頰がカッと熱くなる。慌てて視線を逸らし、誤魔化すために手を動かした。
よく染みているのに、煮崩れしていないじゃがいもを口に運び、幸せそうに顔を崩す。出来上がった肉じゃがは木谷の助けもあり、とても美味しくできた。木谷が何も言ってこないことに不安を覚えるが、肉じゃがに手を伸ばすのが止まらないのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら、木谷の口に合ったようだ。
その他にも、おかずは肉じゃがだけではなく木谷が作った味噌汁や副菜が並び、食卓は華やかに彩られている。豪華な食事に舌鼓を打っていると、木谷が口を開いた。
「最近学校の方はいかがですか」
「そうですね……あれからは青柳先生になにも聞かれませんし、勉強を木谷さんが教えてくれるおかげで、授業も追いつけるようになってきました」
木谷との関係が少し縮まり、衣食住が安定したことで、美里は少しずつ明るくなっていった。
お金に困ることがなくなった上に、木谷に勉強を教わってから成績も上がってきていて、なに不自由してない。美里が元気になっていく様子に、心配していた青柳も訝しながらも、様子を見ていく姿勢に変えたようで言ってこなくなった。
ある意味、木谷に買われて良かったのかもしれないと思うほど、継母といた頃よりも暮らしはとても良くなっている。だが、全てがそんなに上手くいくはずもなく。
美里は、先ほど見たゆりの態度を思い出し、木谷に言おうか考えあぐねる。あくまで友人間の話だし、木谷に余計な心配をかけるのも忍びない。
「なにかあるなら、逐一報告しなさい」
心を見透かしたように言われ、まだ迷いながらも口を開いた。
「実は、友達の女の子が最近よそよそしくて……」
「喧嘩でもしたのですか」
「いえ。そんなことは……よそよそしくなったのは、木谷さんとのことがあってからなんです。こう、なにか言おうとしているんですけど、言えない、みたいな……」
なんなんですかね、と言いながら、木谷が作った副菜の人参としめじの甘辛煮に箸を付け、あまりの美味しさにうっとりする。木谷は物事をなんでもこなすし、それら全て完璧なのだから開いた口が塞がらない。
「色々相談に乗ってもらったり、優しくしてくれたり……本当にいい子なんです。でも、いきなりそんなよそよそしくなったりして、寂しいなぁって」
ぽつりと呟いて、ため息を一つこぼす。あんなに心配してくれる友人はほぼいないし、ゆりとは友人でいたい。木谷からの返答がなく、沈黙が流れてはっとする。こんな私事を話されても、きっと木谷は困るだけだろう。木谷を見るが、別段変わった様子はなく淡々と箸動かしている。胸を撫で下ろし、美里も続いて箸を付け出したとき、木谷が食べ終えた。
「ご馳走様でした。肉じゃが、よくできていましたよ」
「ありがとうございます! 木谷さんが教えてくださったおかげです」
「そうですか。では、次は一人で作ってみなさい」
「そ、それはちょっと……」
ちょっと自信がない、と苦笑いを漏らす美里を尻目に、なにやら木谷が用意をし始める。どこかに出かけるのかと、食事をしながらしばらく様子を見ていると、木谷が口を開いた。
「この後一緒に出掛けますよ」
「え? この後ですか?」
「はい。ですから早く食べ終えなさい」
そんなことを言われても、と思いながらも、美里はご飯を食べるスピードを速める。まだゆっくり美味しく食べたいという気持ちがあるが、恨み言を言っても仕方ない。それに、買い物以来二人で出かけることなんてなかったから、どこに行くのだろう、と少しだけ胸を躍らせた。
「どこに向かっているんですか?」
車を発進させて、数時間が経った。すぐ目的地に着くだろうと思っていたが、高速に乗った辺りでようやく遠出していることに気付く。夜も更けてきているときに、一体どこに行くつもりなのだろうか。運転の邪魔をすると思ってずっと黙っていたが、痺れを切らせて聞いてみた。
「海です」
「海?」
意外な回答に、思わず耳を疑う。まさか、冬が近く寒い中海水浴をするつもりなのか。それとも、いよいよ美里に飽きてしまい、海の底に沈めるつもりなのだろうか。美里は錘が付けられ、無表情の木谷を見上げながら沈んでいく自身の姿を想像し、みるみるうちに顔色を無くしていった。
「貴女が想像したようなことは一切ありませんよ」
すかさず木谷からのフォローが入り、ほっとしたと同時に、顔に出ていたかと頬を赤らめる。では、夜の海でなにをするつもりなのだろう。問おうとしたとき、丁度車が一般道に降りた。
波の音が、聞こえる。
***
夜の海は初めてで、物珍しさのあまり思わず車が止まって直ぐに車外へ飛び出す。砂浜に足を取られながらも駆け寄った海は、圧巻だった。押しては引いていく波や、海から吹く潮風を浴びながら、深呼吸をする。ひんやりとした空気が肺いっぱいに広がって、なんだかスッキリした気持ちになっていく。
「夜の海、初めてです。すごくいいですね!」
遅れてやってきた木谷に対して興奮気味に言う。着ているものが黒いせいで、闇と同化している木谷を見て美里はくすりと笑った。
「なにを笑っているのですか」
「なんでもありません」
適当に誤魔化し、少し波打ち際に近寄っては靴が濡れる前に引くということを遊びをしていると、木谷が口を開いた。
「--先ほどの話ですが」
「え?」
「貴女の友人の話です。よそよそしくなったと言っていた」
美里は、もう終わってしまった話だと思っていたが、続いてたらしい。ゆりのことは気がかりだが、木谷が困ると思ってそれ以上話さないつもりでもいたから、驚いた。
「貴女が今後その方とどうしたいかにもよりますが、気になるのであれば、貴女から聞いた方が早いです。相手が話すか分かりませんがね」
しばらく、沈黙が流れる。二人の耳に届くのは、波の音のみ。その沈黙を破ったのは、美里のクスクス笑う声だった。
「……また、なにを笑っているのですか」
不服そうな言葉だが、嫌がってはいない、そんな声色。感情を表に出さない分、言葉に少し変化が生じるようで、そこから木谷の感情が少しわかるようになってきた。
「ふふ。だって、木谷さんが同じことを言うから」
「同じこと?」
「なんでもありません」
木谷との関係に悩んでいるとき、ゆりにもほとんど同じことを言われたことを思い出す。悩むくらいなら、聞いた方が早きし、相手が話さなければそれでいい。木谷にも似たことを言われ、ついおかしくなって笑ってしまった。クスクス笑い続ける美里を、木谷は見つめる。時折眩しそうに目を細めるが、サングラスをかけているから、美里が気づくことはない。
「今日は、よく笑いますね」
不意に木谷に問われ、美里は一瞬キョトンとした顔をする。確かに、以前はこんなに笑えていなかったかもしれない。この間、三者面談のとき青柳にまで指摘されたことを思い出した。あんなに笑っていないと言われていたのに、今はこうして笑顔が自然と出ている。
「だって、なんだかおかしくって。それに、すごく楽しいですし」
親切にしてくれて、アドバイスまでしてくれる木谷といる今のこの時間が、楽しい。純粋にそう思った。木谷は畏怖する存在でしかなかったのに、一体どうしたというのだろうか、自分でも分からない。
ふと、海に目線を向ける。もしかしたら、海に来たのも美里を気分転換させるためかもしれない。普段から気遣いをよくしてくれる木谷だ、恐らくそうなのだろう。木谷の優しさが胸にじんわりと染み渡るとともに、心臓が早鐘を打った。
「そ、それにしても、夜の海って新鮮ですけど、どこか怖いですね。真っ暗で」
早い鼓動を誤魔化すため、別の話題を振る。海は空の色を映していると言うので、空が真っ黒だから海の色も当然黒い。不安になるくらい暗い色に、美里は身震いする。
「なんだろう、吸い込まれていきそうな……」
一歩、一歩。
なんとなく海に向かって歩み出す。別に特別な意図はないが、足が向いたのだ。怖いのに、近寄ってしまう。海に近づく度、胸がざわつく。なにか思い出しそうな、そうでないような。それがいいことか、悪いことか分からないけれど。ふらふらとしている美里の足を止めたのは、腕を掴んだ木谷だった。
「木谷さん?」
顔を上げる。木谷はなにも言わず、美里の腕を掴んだまま美里を見下ろしていた。もう一度木谷を呼ぶと、木谷はぽつりと、何かを呟いた。しかし、その声は酷く脆弱で、美里の耳に届く前に波の音で消えてしまった。
「ごめんなさい、今なんて……」
「なんでもありません。もう夜も遅いです。帰りましょうか」
時刻は午後二十三時過ぎを指していた。今から帰ったら、確実に深夜になっているだろう。美里の腕を離し、車に向かっていく木谷の背を美里は慌ててついて行った。
帰りの車内は酷く静かで、沈黙が流れた。特に話すことがなかったのもあるが、なんとなく気まずかったからだ。あまりにも静かで、木谷がちらりと美里を見ると、案の定美里は寝息を立てていた。先ほどまでは、うつらうつらと船を漕ぎながらも頑張って起きていたのに、限界に達したのだろう。美里が寝ているのを見て、木谷はぽつりと呟く。
「世の中、知らなくていいこともあるんですよ」
どこか覇気のない声で吐き出された言葉は、眠っている美里の耳に入ることなく、消えていく。再び訪れた静寂に、木谷は音量を極めて小さくしてCDをかけた。車内に流れるのは、クラッシック。ピアノを主にした曲に耳を傾けつつも、ため息をついた。
「やはり、聴くのであればレコードがいいですね」
夜中の車内に切ないピアノの音を鳴り響かせながら、車は高速を駆け抜けていった。
***
また、どんよりとした重たく黒い雲が空を覆う。いつ降り出してもおかしくない空に、美里もゆりもため息を吐く。今朝出かけるときは晴天で、二人とも傘を持ってきていないため帰宅途中に降られたら大変だ。ちょくちょく雑談を交えつつ、帰路を急ぐ。
「雨に降られなければいいけど」
「あたしはまだいいけど、美里は電車だもんね。折りたたみ傘も忘れるなんて最悪……」
湿気が気になるのか、ゆりは眉をひそめ、手で髪の毛を押さえる。癖っ毛は大変だ、とゆりを見ていると、ゆりと目があった。
ゆりはまたなにか言おうと、口を開いては閉じてを繰り返すが、結局は何事もなかったように視線を反らす。もう、幾度行われたか分からない仕草に、美里もどうしていいか困る。そんなに深刻な話ならば、酷く困惑するだろう。恐怖すら感じていると、ふと先日木谷が海で言ったことを思い出した。
会ったことがない筈のゆりと、よく似たアドバイス。
「--ゆりちゃん、」
悩むくらいなら、いっそのこと直接聞こう。美里は歩みを止めて、ゆりに呼びかけた。
「最近、ずっとなにか言いかけてるけど、どうしたの?」
美里の問いに、ゆりは目を泳がせる。とても困惑しか表情を見せるゆりに、聞いてよかったのか一瞬迷った。しかし、今この機会を逃したら、恐らくお互いにモヤモヤしたままだろう。
大丈夫。きっと木谷のときのように、上手くいくはず。
美里は、そう信じて言葉を続けた。
「ゆりちゃん、ずっと気になってるんでしょう? 話してみて」
優しい声色で発せられた言葉を、ゆりは嚙みしめるように目を閉じる。戸惑っているのか、俯いたり口を何度も開閉させたのち、意を決し顔を上げた。
「……この間、」
そして--
「この間、一緒にいたおじさん、誰?」
--美里は直ぐに、聞いたことを後悔した。
「……え?」
ゆりの問いに、美里の顔の色は見る見るうちに失っていく。
--木谷さんといたところを見られていた? この間っていつ? どこで?--
頭の中で様々な思考がぐるぐると渦巻き、目の前が真っ暗になった。
「ねぇ、誰なの?」
「し、親戚のおじさんだよ。たまたま近くを通ったからって……」
「嘘。あんた親族いないって前言ってたじゃん」
適当に嘘をついて誤魔化そうするが、直ぐに見破られ、余計にゆりの猜疑心を深まらせてしまう。焦りから脳が正常に働かず、上手い言葉が出てこない。墓穴を掘っていく美里に、ゆりは痺れを切らせた。
「ねぇ、誰なの、あの人。どうしてちゃんと答えられないの?」
「そ、それは……」
「最近おかしい思ったんだ。あんた、前はお昼ご飯抜いてたのに栄養バランス完璧なお弁当持ってくるし、勉強はできるようになるし、携帯とか、突然物が増えたし」
吃る美里に、ゆりは距離をどんどん詰め寄る。美里の弁当も、いつもではないにしても木谷が用意していた。弁当以外でも変化は大きく、美里の暮らしが豊かになったことは、誰の目から見ても分かる。あんなに苦しそうだった生活が変わっていく美里を、ゆりは心配しつつもなにかあったと訝しんでいた。
「突然暮らしが良くなったなんて、変だよ。それこそなにかしない限り、そんな簡単に良くならない」
「ゆりちゃん……」
「一体なにがあったの? 私にも言えない……?」
ゆりは真剣な表情で美里の両肩を掴み聞いた。美里のためを思って聞いたのは、ゆりの表情を見ればわかる。しかし、木谷との関係は、決して他の人に話す訳にはいけない。それこそ、今の暮らしが崩壊してしまうかもしれないし、大切な友人を巻き込みたくないから。
「……ごめん」
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、謝るしかできない。ゆりから目を反らし、俯く。そんな煮え切らない態度の美里に、ゆりの我慢はピークに達した。
「なんで何も話してくれないの? 友達なのに!」
友達なのに。
友達、なのに。
「--友達だったら、助けてくれたの?」
気が付けば、言葉に出ていた。
「友達だったら、事情を話せば助けてくれたの? でも、なんで今なの? 私の暮らしが、良くなったときに。なんで辛いときに、それを言わなかったの?」
言葉は堰を切ったように、次から次へと止まらない。それは、ゆりの驚いた顔を見てもそうで。
「もしそれがお金とか、家庭の事情とかでも、ゆりちゃんは助けてくれるの? それはきっと話しても解決しないし、可哀想って思われて終わるのは、嫌だよ。だったら、放っておいてくれて方が--」
パンッ
閑静な住宅街に、乾いた音が鳴り響く。一瞬、美里は何をされたか分からなかったが、左頬に感じるジンジンとした痛みと、ゆりの怒った顔を見て、叩かれたことに気付いた。少しの間、二人に重たい沈黙が流れるが、それは百合がその場から駆けていったことで、終わりを告げる。最後に見たゆりの顔は、泣いていた。
「……泣かせちゃった……なぁ……」
ぽつりと呟いた言葉は、ついに降ってきた雨によって掻き消される。雨は強くなる一方で、その場に佇む美里に容赦なく打ち付けた。
***
「お帰りなさい」
美里が木谷の家に帰ってくると、既に木谷が帰宅していた。ふと、今日は早めに帰宅すると今朝言われたことを思い出す。全身ずぶ濡れの美里を見て、木谷はタオルを用意した。
「傘を持って行かなかったのですか?」
「……はい」
「近くの店で買えばよかったものを。早く風呂に入りなさい。風邪を引きますよ」
風呂を沸かしに行く、木谷の背中を見送りながら、カバンや制服を緩慢な動きで拭いていく。早く一人になりたくて仕方ない。特に、今は木谷の顔を見たくなかった。
「風呂が沸くまで、先に着替えてきなさい。そこまで濡れてしまっては、明日までに乾かないと思いますが、制服も良く拭くのですよ。」
美里は無言で俯きながら、的確な指示をする木谷の横を通る。とにかく木谷の顔を見たくない。だが、通り過ぎようとした美里を、木谷が腕を掴んで阻んだ。
「何かあったのですか」
あからさまに落ち込んだ態度を出されては、誰だって気になるだろう。尋ねてきた木谷も、純粋に心配して聞いてきたのかもしれない。しかし、落ち込む要因を作った当の本人から尋ねられ、美里の腹の底から、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。
「なんでも、ありません」
感情を隠せず、当たるように返答する。力任せに腕を掴む手を振り払おうとするが、ガッチリと掴まれて取れない。全部思い通りにいかない。イライラする。
「しかし--」
それでもなお追求してこようとする木谷に、ぎりぎりまで我慢してきたものがぷちりと音を立てて切れた。
「もう、放っておいてください!」
無理矢理木谷の手を払いのける。
「そもそも、貴方が母に変なことを持ちかけたせいでこんなことになったんだ! 確かに貴方と暮らして私の生活は豊かになったけど、それでも私に自由はないし、痛い思いもした! 私は、いつまで貴方の一言に怯える生活をしなければいけないんですか? いつまで叩かれる恐怖を味わなければいけないんですか? 生活も、自由も、なにもかも全部貴方が奪っていったのに、それなのに、今度は唯一の友達も、いなくなって……もう、もうやだ……なにもかも……っ、木谷さんになんか、買われなければ良かった……!!」
一気に言葉をまくし立て、肩で息をする。最後の方は嗚咽交じりになり、あえぐように言葉を吐き出していた。もう、美里は限界だったのだ。継母からは見捨てられ、木谷からは理由が分からない折檻を受け。それだけでも辛いのに、大切な友人を傷付け、泣かせてしまった。ゆりの泣き顔が脳裏に浮かび、胸を傷める。
これも全部、木谷のせいだ。
そう、思っていたのに。
「--言いたいことは、それで終わりですか」
携帯を買いに行ったとき以来、久々に聞く地を這うような低い声。目を見開き顔を上げると、目の前には木谷が見下ろしていた。それはまるで、咎めるかのように。
「貴女はいつでも、私から逃げられる機会があった。貴女の意思を尊重して、外出の制限をしていませんでしたから。警察、学校、アルバイト先、そして、友人。それらを頼れば良かったものの、貴女はそれをしなかった」
木谷から発せられる言葉が、まるで鋭いナイフのように、美里を突き刺していく。確かに、いくら恐喝されていようが、警察に駆け込めば保護されて、全て解決した。なのに、美里はそうしなかった。
「私が貴女の継母に変なことを持ちかけた? 違いますね。あちらが私から借り入れ、返済できなかったときの条件として貴女を提示しました。自由がない? 一部制限しておりますが、それでも貴女は自由に行動できていますよね。学校にも、アルバイトにも、遊びにも行けています。なにもかも私が奪った? そうですね、物品は奪いました。ですが、その他に貴女から奪った覚えはありません。少なくとも、貴女がご友人を失ったことに、私は関与しておりません」
一つ一つ丁寧な返答に、美里は胸元を強く押さえながら、とめどなくボロボロと涙を流す。なにか言い返そうとするが、言葉が出ず、ただ喘ぐだけ。
「貴女は口だけで行動に移さない上、そうやってすぐ涙を流す。結局、貴女は自身をどうしたいのですか? どうなりたいのですか?」
「わ、たし、は……」
「貴方は、私と生活して豊かになったと満足していながら、暮らさなければ良かったと言った。とんでもない矛盾ですね。継母に捨てられ、ヤクザに買われ、叩かれ……そんな可哀想な自分に、酔いしれているのですね」
違うと否定したいのに、口を開くと嗚咽しか出ない。言葉にできない代わりに首を横に振るが、木谷は容赦なかった。
「悲劇のヒロインになれて、満足ですか? そうでしょうね、今までがそうだったのですから。では、そんなにお望みなら、より可哀想にしてあげましょう」
そう言って、憔悴しきっている美里の腕を掴み、ズンズンと足を進める。ふらつきながら連れて行かれた先は、木谷に叩かれた部屋。
一気に血の気が去っていった。
「や、やだ、やだぁ……っ!」
涙とともに鼻水まで出てしまっているが、構っていられず泣きながら必死に振り払おうとする。だが、力が入らない手では先程のように上手くいくはずがなく、びしょ濡れの身体をベッドに放り込まれた。シーツの上で力なくのたうち回る美里を、木谷はただただ見降ろす。いや、見下すと言った方が、適当だろう。
「なぜ嫌がっているのですか。貴女が望んだことですよ」
「ち、ちがう、ちがう……っ!」
「--あぁ、わかりました。より自身を可哀想に演出したいのですね。では、そうやって泣いていなさい」
雨を吸って、すっかり重たくなった制服が剥ぎ取られていく。抵抗するも、力が入らない手では通用するはずもない。
せっかく、暮らしに慣れてきたと思ったのに。
せっかく、木谷と分かり合えてきたのに。
それを崩したのは、他でもなく美里自身。
「さぁ、始めましょうか。美里さん」
木谷の手にある乗馬用の鞭を目にし、ガタガタ震えながらも、諦めて目を固く閉じた。
全部、自分のせいだと言い聞かせて。




