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また、この夢。
暗すぎてなにも見えない暑い空間を、美里はただ一人歩いていく。直ぐにこれは夢だと分かってしまうほど、この夢を見ていた。一番最初に見た夢ほどの暑さではないが、全身の毛穴から汗が噴き出し、美里を疲弊させる。この後は、小さな湖を見つけ、喉を潤そうとしたときに頭を押し付けられ、溺れそうなところで起きる。溺れそうになるのは嫌だけど、そういう流れなのだから、我慢するしかない。
いつものように、後少しで倒れそうとなったとき、湖を見つけた。行きたくない。しかし、目覚めるためには行くしかない。額から滴る汗も拭わず、駆け出そうとしたとき。
「……っ」
背後から誰かに、腕を取られた。弱った身体がよろけると、その身体ごと抱きすくめられる。一体、何なのだろうか。早くしなければ、夢から覚めない。小さい抵抗を示すが、美里がもがけばもがくほど拘束する力は強まる。
「--」
背後の人物が何か言ったような気がするが、あまりに小さな声で聞こえない。聞き返そうとすると、いい香りが鼻腔をくすぐった。どこかで嗅いだことがあるのに、思い出せない。想起している内に、だんだんと美里の意識は浮上していった。
「美里さん」
名前を呼ばれて我に返り、顔を上げた。
厚くて小難しそうな本を持った木谷が、サングラス越しに美里を見つめている。どうやら、いつの間にかぼんやりとしていたようだ。
土曜の昼下がり。美里はたまたま仕事が休みである木谷に、リビングで勉強を教わっていた。今教わっているのは、美里が一番不得意としている数学。意外ながらも、木谷の教え方はとても良く、丁寧で分かりやすい。解き方を教わって一人で問題に取り掛かり、なんとか一問解けそうなところで、気が付けばシャーペンを持つ手が止まっていた。
「いかがなさいましたか。分からなくなりました?」
「い、いえ。違います。なんでもありません」
「そうですか。なにかあればすぐに言いなさい」
そう言って、木谷は本に視線を戻す。美里も、解きかけの問題を解こうと問題に向き合うが、別のことが思考を占領して集中出来ない。せっかく、多忙である木谷が貴重な休みを割いてまで教えてくれているのに、と罪悪感でいっぱいになる。
今、美里の思考を占めているのは目の前の難問ではなく、最近見る夢のことや、バイト先のこと、そして、ゆりのことだった。
* * *
青柳との三者面談から、約二週間。
秋もいよいよ深まり、校舎に植わっているいちょうが見頃を迎え、色鮮やかに彩っている。野外では生徒が部活動に勤しんでおり、それを美里は教室の窓からぼんやりと眺めていた。
三者面談からこれといって日常に変化はなく、比較的穏やかな時間が流れている。青柳は未だ美里のことを気にかけているようだが、三者面談のときのように深く聞いてこない。心配してくれる青柳に心の中で謝罪しつつも、自身の家庭の事情に巻き込まずに済むことに胸をなで下ろす。救済を求める気持ちはもちろんあるが、迷惑をかけてしまうという気持ちの方が強かった。しかし、それよりもこれ以上今の生活を壊したくないという気持ちの方が、大きい。
校庭の隅に植わっている、紅葉の赤よりも鮮やかな夕焼けを見ながら、ひっそりとため息を吐く。結局、自分が今後どうしたいのか分からず悩んでいると。
「みーさと、帰ろ!」
「わっ!」
突如、背中を強めに叩かれるという不意打ちを食らう。大きく噎せる美里の背中を笑いながら摩るのは、叩いた張本である友人のゆりだ。
「げほ……ひ、酷いよ、ゆりちゃん」
「ごめんごめん、強めに叩きすぎたね!というかお待たせ、帰ろう」
とっくに下校時刻は過ぎているのに美里が教室に残っている理由は、ゆりを待っていたからだ。ゆりは要領はいいが、時折だらしない一面があった。書類の提出が悪いのがその一つ。先週から催促している提出物に関して青柳が痺れを切らし、説教も兼ねてゆりは呼び出されたのだ。叱られたであろうに、ゆりがケロッとしているところを見ると、恐らく例の如く青柳はゆりに上手くかわされてしまったのだろう。青柳はどこかゆりに敵わないところがある。
美里は青柳に少し同情の念を抱きつつ、ゆりに続いて学生カバンを持って教室を後にしようとすると、機械質な音が鳴り響いた。
「あんたのじゃない?」
ゆりに指摘され、慌ててカバンの中にある買ったばかりの携帯を取り出す。覚束ない手つきで画面を操作し、確認した内容は『本日は帰りが遅くなります』という木谷からのメールだった。
「メール?」
「うん、すぐ返信するから待ってて」
「はいはい」
返信の文面を打つが、未だ操作に慣れておらず悪戦苦闘する。慎重にタップしていく美里を、ゆりは初々しそうに見つめていた。悪戦苦闘した末、『分かりました』と簡潔に送信する。無事送信できたことを確認し、ゆりに謝り改めて帰路に着く。校舎から出て、二人を真っ赤に染め上げる夕日に向かって歩いていると、ゆりが口を開いた。
「それにしても、あんたがスマホ買ったって言った時はびっくりしたよ。しかも最新。慣れた?」
「ううん、携帯自体使うの初めてだし、まだまだ慣れないよ」
ふーん、っとゆりが返して、会話は途切れた。二人はしばらく並んで歩いていたが、歩幅が違うせいかゆりの方が少しだけ前に出る。美里は少し前を歩くゆりの背中を、どこか遠い目で見つめた。
美里はゆりに、今まで何があったか全く話していない。
木谷に鞭で叩かれて発熱し、休んだときも理由を聞かれた。今まで病気一つせず通学していた人が急に休んだら、もちろん心配するだろ。プラス、美里は複雑な家庭を持っているため家で何かあったと思ったらしく、熱を理由に休んだと言ってもゆりは中々引かない。そんなゆりに、美里は困惑しながら「何でもない」で通し、結局有耶無耶のまま終わらせた。その時見せた、ゆりの納得いっていない顔が、美里の中で妙に印象に残っている。
ゆりに全てを打ち明けて、楽になりたい気持ちはある。だが、青柳同様ゆりを巻き込んでしまう訳にはいかないし、なにより、話したことで引かれたくない。友人があまり多くない美里は、ほぼ唯一の友人と言っても過言ではないゆりを失いたくなかった。
それが心苦しく思うとともに、つらく感じた。
「それじゃ、私はここで」
木谷との共同生活を始めてから電車に乗るようになり、帰宅ルートが少し変わったことでゆりと別れる時間も早くなった。ゆりに別れを告げて背を向ける。
「美里」
名前を呼ばれ、振り向いた。丁度ゆりの顔が逆光で、よく見えない。あまりの眩しさに目を細めた。
「あのさ、なにかあったら言って。必ず相談乗るから」
「ゆりちゃん……」
「あんた、そういうの抱え込むから。力になれたり、言って楽になるならそうした方がいい。無理しないで」
えへへ、と声が聞こえるあたり、ゆりは笑っているのだろう。近頃更に元気がなくなった美里に対する、ゆりなりの誠心誠意込めた気遣い。そんなゆりの気遣いの言葉に美里は返答できず、また笑って誤魔化す。ギュッと胸が締め付けられる感覚を覚えつつ、心の中で何度も「ごめんね」と呟いた。
* * *
つい先日交わしたゆりとの会話を想起し、ため息をつく。
ゆりはとても友人思いの優しい子で、面倒見もいい。だからか、美里のことを気にして、事あるごとにそこはかとなく事情を聞いてくる。その度に誤魔化し続け、ゆりの悲しそうな顔を見ては美里自身歯痒い思いをしていた。
一方、アルバイトの方は、木谷とのことがあってから急遽何日か休んだ。次にアルバイト先に出勤したのはそれから約五日後で、マスターからとても心配された。それもそうだろう。美里ではなく、突然知らない男からアルバイトを休むという旨の電話を突然受けたのだから。事情を聞かれたが答えられず困ってしまうと、察したマスターが美里の気持ちを汲み、それ以上は聞かなかった。
初め、木谷からアルバイトを辞めるように言いつけられた。曲がりなりにも裏社会の組織で、上の方の地位にいる木谷の私物であるため、ある一定の危険が常に孕んでいる。どこで何が起こるか分からない中、危険因子をあらかじめ作らない様、辞めるように言ったのだ。だが、美里は木谷の半命令を頑なに拒否し、なんとか出勤日数を減らすことで同意を受け、辞めずに済んだ。
無理を言っているのは重々承知だが、今までの生活を全て変えたくはなかった。いや、変わってしまうことが怖いのだ。今までの日常を全て壊したくなかった。
夢も、最近はあんな調子でよく同じ夢を見る。しかし、今日の終わり方はちょっと違った。いつもは溺れて起きるのに、今日は誰かに止められて、目が覚めた。たまたま違う結末だったのかもしれないが、妙に気になっている。結末もそうだが、最後に嗅いだ香り。どこかで嗅いだことがあるのだが、思い出せずもやもやしている。
悩みの種は尽きることなく、ずっと苦悩していた。これから先どうしたらいいのか、全く分からない。この間までは、今のままなら生活はできると思っていたが、次はいつかは木谷に飽きられて捨てられてしまうかもしれないと思い始めた。未だ半信半疑だが、木谷は美里を気まぐれで買ったと言っていた。本当に気まぐれで買ったのなら飽きて捨てる可能性も、もちろんある。そんなときのために金銭を稼いだりしたいが、木谷の所有物であるから自由に行動することもできない。
ちらりと木谷を盗み見る。美里の向かい側に座って読書をしている木谷は、相変わらずサングラスや手袋が付けたまま。
木谷と生活して数週間経過したが、彼が美里の前でサングラスや手袋を外したことはない。なぜ付けたままなのか気になってはいるが、尋ねることなんてできず、ただ悶々とするだけ。こうして勉強を教えてくれる意外な優しさを持ち合わせながら、サングラスや手袋で壁を作られる。その壁が、美里はどこか嫌だった。
「また、手が止まっていますよ」
再び木谷に指摘され、身体をビクつかせる。二度目になる指摘に、怒っていないかと恐る恐る顔を上げるが、どうやら怒ってはいなさそうだった。
「集中できませんか」
「え、えっと……」
確かに集中出来ていないのだが、素直に言えず口籠る。戸惑う美里を見て、木谷は読んでいた本に栞を挟み、席を立つ。
「少し、休憩しましょう」
「あ……」
台所に向かった木谷の背中を見送り、美里はこっそりため息をつく。壁に掛けてある時計に目をやると、勉強を始めて三十分も経っていなかった。そんな短時間も集中できず休憩など、己を情けなく思う。しばらくして、木谷がマグカップを二つ持って戻ってきた。コトリと置かれたマグカップからは甘く香ばしい香りが漂い、鼻腔を擽る。マグカップの中は、ミルクたっぷりのカフェオレが入っていた。
「カフェオレだ」
「少し甘めに作りました。それを飲んで落ち着いたら、勉強を再開しなさい」
コーヒーの入ったマグカップを手に木谷は席に戻り、読書を再開した。お礼を述べ、カフェオレに口をつける。コーヒーの香ばしさとミルクと砂糖の優しい甘さが口いっぱいに広がり、張り詰めていた心が徐々に和らいでいった。木谷の優しい心遣いに、胸元が温まっていく。
木谷が何を考えているか、今後自身がどうなるか、一切分からない。しかし、これ以上余計なことを考えるのは止めて、今は目の前の課題に集中しようと決めた。そうでもないと、また泥沼に嵌ったかのように、永遠と悩み続けるだろうから。
シャーペンを手にし、勉強を再開する。カフェオレで落ち着いたのか、先ほど滞っていた問題がスラスラと解けていった。苦手意識が高く、逃げ腰だった数学が解けていくのは、なんとも気持ちがいい。これも教え方が上手い木谷と、落ち着かせてくれたカフェオレのおかげだと心の中で感謝した。しかし、次の問題である応用問題で手が止まる。基礎問題はなんとか解けたのだが、応用問題はやはり簡単にはいかない。
「滞りましたか」
すぐ横から木谷に話しかけられ、顔を上げずに頷く。問題に集中しすぎて、木谷が移動していたことに気がつかなかった。
「はい。応用問題なんですが……」
「この問題はその公式ではなく、こちらの公式を当てはめます」
美里からシャーペンを受けたり、サラサラとノートに書き込んでいく。懇切丁寧に言葉と文字で解説してくれたおかげで、分からない箇所が明確化され、あんなに頭を抱えていた問題があっさり解かれた。ただ少し見ただけでどの様に解くか理解した木谷に感激し、美里は目を輝かせ、顔を上げる。
「凄い! 木谷さん、本当に数学が得意なんですね、ありがとうござい--」
--急に顔を上げたのがまずかった。
教えるため、ノートに文字を書いていたのだから、自然とお互い近くなるのは当然だろう。木谷に礼を言おうと顔を上げると、木谷の整った顔が直ぐ隣にあったのだ。まるで、恋人同士が見つめ合うような近さ。
カッと顔に熱が集まり、動揺のあまり遠ざかろうと思わず手が上がった。
「あ……!」
上がった手は運悪く、木谷のサングラスのツルに当たって吹き飛び、カシャン、と音を立ててサングラスが机の上に落ちる。咄嗟とはいえ、手が当たったことに慌てて謝罪しようと、顔を上げた。
「ご、ごめんなさい! 手が--」
キチンと謝らなくてはいけないことを、頭では理解している。だが、謝罪の言葉が止まってしまうほど、美里は目の前の木谷から目を離せなかった。
「き、たに……さん……」
--初めて見た木谷の右目は、濁っていた。
白く濁ったその瞳を見て、美里は言葉を失う。まさか、今の衝撃で、とも思ったが、それほど強く当たったわけでもないからあり得ない。それなら、今までサングラスをかけていた理由は--
目に見えて動揺している美里を横目に、木谷は何事もなかったかのようにサングラスをかけ直す。そのまま美里に向き直り、相変わらず抑揚のない口調で言った。
「不愉快な物を見せてしまい申し訳ありませんでした。本日はこれで終わりにしましょう」
固まる美里を置いて、木谷はリビングをあとにした。まるで、目のことを追及されるのを避けるように。木谷が出て行ったドアを見ながら、美里はちゃんと謝れなかったな、とぼんやり考えた。
* * *
「数学の小テスト、あんた満点だったね。凄いじゃん!」
うんうん、と感心して頷くゆりの隣を歩く美里の手には、花丸が大きく書かれた小テスト。
まるで自分のことのように喜ぶゆりの顔を見て、美里も釣られて微笑んだ。二日前に実施された数学の小テストは、木谷の教え方が良かったのか満点を取ることができた。基礎と応用が混ざった小テストを見たとき、以前の美里なら匙を投げていただろうが、臆せずスラスラと解くことができた。初めて見た大きい花丸が嬉しくて、頬が緩む。
「いったいどんな勉強したんですか~? このぉ~」
「ちょ、ちょっとゆりちゃん」
にやけている頬を突かれ、身を捩る。嬉しくて堪らないが、勉強方法は教えられず、苦笑いが漏れた。小テストをクリアファイルの中に仕舞い、帰路に着く。たわいもない会話をしつつ、目が痛くなるくらい真っ赤な夕日に向かって歩いていると、ふとゆりが立ち止まった。
「ゆりちゃん?」
「ねぇ、美里。ちょっと駄弁らない?」
そう言ってゆりが指差した方を見やると、滑り台と鉄棒とベンチくらいしかない、小さな公園がポツンとあった。帰り道が変わってからずっと通ってきた道だが、公園があったことに気づかなかった。そのくらい、人気がない静かで小さな公園。ゆりの提案に頷きかけるが、トラブルを回避するという理由から、木谷に寄り道はしない様言われていることを思い出し、返事に困る。
「えっと……」
「別にいいじゃん、ちょっとくらい。ほら、おいで」
「あ、ちょっと……!」
言い淀む美里の手を引き、公園へ駆けていく。困惑する美里をベンチに座らされると、その隣にゆりも座った。
「たまにはこうやって話すのもいいね」
はい、とゆりから手渡されたのは、一口サイズのチョコ。いつの間に用意したのかと目を丸くする美里に、ゆりは半ば押し付けるように渡してくるので、戸惑いながら受け取った。
なんだが、今日のゆりはどこか変だ。美里の意見を聞く前に公園に連れて行ったり、強引にチョコを渡してきたり。ゆりに視線を向けると、パチリと目が合ったが直ぐに逸らされる。先ほどからそわそわして落ち着きがない。ゆりの挙動不審な態度を不思議に思いつつ様子を見ていると、ゆりは意を決したのか、一度大きく頷いて口を開いた。
「ねえ、美里。最近のあんた様子おかしいけど、なにかあったの?」
ああ、そういうことか、と美里は思った。ゆりは美里に詳しく聞こうと、機会を伺うためつい強引になっていたのだ。そこまでさせてしまうほどに、心配をかけていたのかと思うと、胸に疼痛が走る。
「ありがとう。でも、なんにもないよ」
だからと言って、事情を話すことはやはり出来ない。
巻き込みたくないし、迷惑をかけたくないから。こうして話す機会を作ってくれたのに、応えられないのはなんとももどかしい。段々ゆりの顔が悲しそうに曇るのを見て、心苦しくなって俯く。そのとき、なぜか思い出したのは、木谷のあの瞳。
木谷の瞳を見て以来、二人の仲はよりギクシャクしてしまい、少しあった会話もほぼなくなってしまった。木谷と特別仲良くなりたいというわけでは無いが、喉に魚の小骨が刺さったときのように、あの瞳が非常に気になっている。チラリとゆりを見ると、不服そうな表情を浮かべて俯いている。全てを話すことは出来ないが、今悩んでいる木谷との関係についてなら、少し相談できるかもしれない。迷いながらも、恐る恐る口を開く。
「……あのね、ゆりちゃん。ちょっと相談したいことがあるの」
「へ? ……うん、うん! いいよ、聞くよ! なんでも話して!」
一瞬、ゆりは口をポカンと開けて静止するが、すぐに顔を綻ばせ前のめりになった。頼られたのが嬉しいのだろう、あまりのゆりの気迫に驚く。ゆりの積極的な態度に圧されながらも、言葉を慎重に選びながら口を切った。
「……実はね、最近知り合った人がいてね。不可抗力だけど、その人の秘密に触れてしまったみたいなの。それから関係がギクシャクして、まともに話せなくて困ってるんだ。どうしたらいいかな?」
詳しくは話さず、断片的に。少ない情報しか提供できないが、これが精一杯だった。ゆりはその少ない情報を聞き、眉間に皺を寄せて小さく唸りながら頭を悩ませる。
「うーん、なるほど、それは困ったね。その人には謝ったんだよね?」
「えっと、謝ったような、そうでないような……気が動転してて……」
「じゃあ、まずはキチンと謝ること。その人も、ちゃんと謝罪してもらった方が嬉しいと思うよ。あとさ、美里。その人の秘密、気になってない?」
ぎくり、と肩が跳ねる。確かに、あの瞳を見てから何があったのか気になって仕方ない。いや、むしろ初めて出会ったときから、サングラスや手袋については気になっていたはいたが。
「……うん、まぁ……」
「それならさ、いっそのこと思い切って聞いちゃったら?」
「え?!」
突然の提案に、思わず声が上がる。驚く美里に、ゆりは続けた。
「本当に触れて欲しくない話題ならそのまま話さないだろうし、話したなら話したで、お互いにすっきりするんじゃない?」
確かに、そういう考えもある。だが、恐らく瞳の話題は美里が思っている以上に、重い話題かもしれない。今までサングラスをかけていたのだから、ほぼ確実にそうだろう。それに、木谷を傷付けてしまうかもしれない。考えあぐねている美里に、ゆりは痺れを切らす。
「だからさ、一回聞いてみようよ。聞けなかったら聞けなかったでいいじゃん」
「でも……」
「それに、絶対に聞き出そうって訳でもないんだし。その人と関わっていくなら、話せることと話せないことは、はっきりさせとかなきゃいけないんじゃないかな」
そう言い、パキンと小気味良く音を立ててゆりはチョコを食べる。つられて美里もチョコを食べながら、ゆりの意見も一理あると考えた。美里が木谷に飽きられない限り、共同生活は続いていく。なのに、関係がギクシャクしたままでは生活に支障をきたすだろうし、なによりずっとこのままなのは嫌だと、なんとなくそう思った。
「……うん、そうだね。ちょっと、聞いてみようかな」
「そうしな。きっと大丈夫だよ」
なんの根拠もない言葉なのに、安心するのはどうしてだろうか。ゆりに相談して良かったと、ほっと息を吐いた。
「今日みたいに何かあったら相談してよね。友達なんだから」
ゆりの言葉に、顔を上げる。微笑むゆりに、美里は返答することが出来ず、苦笑いを零した。気が付けば夕日は沈みかけていて、空は夕焼けから群青色に移りかけている。ゆりと二人で変わっていく空を見ながら、制服のポケットや中に入っているスマートフォンが震えているのを、美里はあえて気づかないフリをした。
とっくに夕日が沈みきった頃、美里は帰宅した。玄関のドアを開けたとき、目に映ったのは高級ブランド物の木谷の靴。半ばビクビクしながらリビングに入ると、木谷が読書をしながらローテーブルに座っていた。
「こんな時間まで連絡も入れず、何をしていたのですか」
ちらりと見た時計の針は、午後の七時過ぎを指していた。アルバイトの時以外、こんな時刻まで外出したことはないが、怒られる程の時刻でもない。まだ早い時間なのに、なぜ怒られなければならないのかと不服に思う。木谷からの連絡を折り返さなかったのは、ゆりと一緒にいたことと、木谷への細やかな反抗心からだった。
「……ごめんなさい」
しかし、連絡しなかったことに対しては、純粋に悪かったと思い謝る。小心者の美里には、最後まで反抗することは出来なかった。
美里から謝罪を聞き、木谷はそれ以上追求せず、夕食の支度をしに台所を向かう。基本、食事の支度は木谷が行っている。美里も作ろうと思えば作れるのだが、今まで料理をしてこなかったのが仇となり、人に出せる程の腕前はない。食事はずっと一人寂しくしていて、一人分の料理を作る気力が湧かず、あり合わせの物で済ませていたせいだ。そんな美里の事情を知ってか知らずか、木谷は美里に家事を強要しない。それでも、流石になにもしないと言うことはなく、料理以外の家事は美里もしているが。料理は木谷が仕事で帰宅しない日は、あらかじめ食事の用意してくれている。相当マメな性格なのか、それとも美里にはなにも期待していないと言っているのか。木谷の考えは分からないが、そうだとしたら腑甲斐なく思う。美里は台所に向かう木谷の背中を見ながら、はた気付いた。
サングラスについて謝るなら今がチャンスではないかと。
「あ、あの、木谷さん。私もお手伝いします」
どうしようか考えるより先に、言葉が出ていた。木谷は動きを止め、美里をじっと見る。
「よろしいですよ。まず手洗いうがいをして、ついでに着替えてきなさい」
ひとまず、木谷から許可が下り胸を撫で下ろす。さっさと言われたことを済ませ台所に戻ると、木谷が包丁を持ってキャベツを切っているところだった。
キャベツを切る手には黒い手袋、更にその上に透明な手袋を履いている。そこまでするのかと思いながら、どうしたらいいか立ち往生していると、木谷は美里に鍋の様子を見るように指示をした。指示通り鍋に近寄ると、スパイスが良く効いた香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。鍋の中身は、カレー。胃を刺激する美味しそうな匂いに、頬が綻ぶ。お玉で軽く鍋をかき回しながら、木谷を盗み見る。切ったキャベツを器に盛り付けている様子を見ながら、いつ話を切り出そうかタイミングを見るが、イマイチ分からない。考えあぐねている美里よりか先に、木谷が口を開いた。
「なにか私に聞きたいことがあるのでしょう?」
「え」
「貴女は大変分かりやすいですからね。帰宅した時から言いたいがあると気づいていました」
木谷の指摘に、そんなに顔に出ていただろうかと目を丸くする。戸惑う美里に構わず、木谷は次の野菜をトントンと切り始めた。どうしようかと迷った末、意を決して唇を震わせながら口を開いた。
「……あの、この間は、すみませんでした」
「この間?」
「はい、サ、サングラスのこと……」
「あぁ、特に気にしておりません。サングラスに傷もありませんでしたし。ですが--」
野菜を切り終え、美里を見る。
「私より貴女が気にしている様ですね」
瞳が揺らぐ。サングラス越しでも、視線が合っていることがわかった。ここで素直に「はい」と答えていいものかと困るが、不意にゆりとの会話を思い出す。今聞かねば、きっと気まずいままだ。美里は言葉の代わりに、こくりと頷いた。美里の反応を見て、木谷は続ける。
「私の右目は弱視です」
そう言うと共に、サングラスを外す。美里の目に映るのは、濁った木谷の右目。
「弱視……」
「えぇ、右目はよく見えません。見た目が悪いため、度付きのサングラスをかけています。気を遣わせて申し訳ありませんでした」
突然の謝罪に耳を疑う。まさか謝られるとは思っていなかったし、なにより美里手が引っ掛けしまったのが発端だから、木谷が謝ることはなに一つない。それに、木谷にとっては見られたくない物を見られたから、あまり気分は良くないはずなのに、木谷は美里には謝った。
「なんで、木谷さんが謝るんですか?」
いつもの美里なら、返答に困りー言い淀んで会話を終わらせていただろう。しかし、何故謝られるのか疑問を抱き、気が付けば考えるより先に言葉にしていた。
「サングラスに手を引っ掛けてしまった私が悪いのに。木谷さんは悪くありません。なのに、なんで?」
木谷の濁った右目が、美里を直視する。初めて右目を見たときは驚いたが、今は逆に見つめてしまう。改めてまじまじと見た木谷の顔立ちは、端正に整っていて、思わず見惚れてしまったのもあるが。木谷の表情はサングラスを外してもなお読めず、相変わらずなにを考えているか分からない。二人しばらく見つめ合いっていたが、先に目を逸らしたのは木谷の方だった。
「……聞いたところで、面白いことはありませんよ」
一瞬、木谷が何を言っているか分からなかったが、直ぐ右目について話そうとしていると分かった。美里は真剣な表情を浮かべ、きちんと木谷に向き合う。
「嫌でなければ、聞きたいです」
なぜこんなにも気になるのか、美里自身分からない。しかし、今聞いておかないと、後悔するような気がした。美里の一言に木谷は短く息を吐く。どのくらい時間が経過しただろうか。吐き出すように、木谷はとつとつと語り出した。
「私の弱視は、事故からなりました」
それは、まだ彼が小学校低学年だった頃の話。
彼は一般家庭よりか些か裕福で、勉強はすこぶる出来る、少しだけ感情が乏しい子だった。彼の両親は、木谷が反発しないのをいいことに、まるで所有物のように扱った。勉強を強要し、果ては博士か大臣かと望んでは、自分たちの老後の生活を木谷に過剰な期待をしていた。そのために、躾という名の暴力をしたり、貴方のためと言いながら、木谷の尊厳の自由を奪う。発言権などなく、ただ両親の言うことを聞いていく。幼いうちから自由を剥奪されていた木谷は、ただ両親の期待に応えるだけの人形になっていた。
そんなある日、木谷の同級生が半ば無理やり遊びに誘った。同級生はクラスでも人気者の優しい子で、前から木谷がクラスで浮いていることを気にかけていたのだ。はじめ、今日は塾があるからと断ったが、しつこく誘っては引かない彼に、最後は諦めて了承した。
塾をサボったことに後ろ髪を引かれながら遊んだ場所は、遊具が豊富な公園。鉄棒やすべり台など、数多くの遊具で遊んだ。同級生と初めてまともした遊びはとても楽しく、感情が乏しい彼が破顔したほどに。
しかし、そんな楽しく遊んでいる最中、悲劇は起こった。
木谷が同級生とブランコに乗っていると、同級生が一番高い位置まで漕いでそ飛び降りる、という遊びしたのだ。相当高い位置のため、飛び降りるのには勇気がいるし、なにより危険性が強い。同級生は木谷も同じことをしろと誘ったが、木谷は嫌がった。そんな木谷に同級生が「意気地なし」と煽り、笑う。同級生の煽りに腹が立った木谷は、真似て同じことをやった。
いや、やってしまった。
高い位置まで漕ぎ、飛び降りたところまでは良かった。だが、バランスを崩して、ブランコの周辺に設置してある鉄の柵に、背中から落ちてしまったのだ。
そこから木谷に記憶は飛び、次に見た光景は、真っ白な天井。落ちたとき背中を強打し、背骨が折れてしまったのだ。弊害を伴ったのは背骨だけではなく、目が覚めた時から、右目がどうもよく見えない。背骨を折ったとき、なんらかの弾みで頚椎も痛めてしまったようで、弱視を引き起こしたようだ。
「弱視はそこからです」
手に持っていたマグカップを口にし、木谷は一息つく。淡々と右目について語られるが、美里の頭の中は処理が追いついていなかった。とりあえず言えることは、弱視になったとはいえ、木谷が無事でいてくれたこと。
「そうだったんですか……木谷さんが無事で、良かったです」
「ありがとうございます」
「それで、あの、同級生の子は、大丈夫なんですか? 煽っちゃったって……」
木谷を無理やり誘った挙句、煽ったことで怪我をさせてしまった同級生が気になった。直接的な原因ではないとはいえ、同級生も気にしていただろう。
「彼は引っ越しましたよ。私の両親から多額の慰謝料を支払わされて」
傷付いた我が子を見たとき、木谷の両親は嘆いたり心配するよりも先に、鬼の様な顔をして激怒した。「塾にも行かず、勉強も出来ない子となぜ遊んだのか」と。
そのとき、父親は動けない木谷の前髪を掴んで怒鳴り、周囲の看護師に止められたことを、よく覚えている。木谷は、我が子よりも自分たちの老後の方が大切なのだと、改めて思い知らされたのと同時に、果てしない失望を抱いた。
そして、怒りの矛先は、直ぐに木谷から同級生へと向かった。木谷一人が起こした怪我だが、嫌がる木谷を無理やり遊びに誘った挙句、煽ったことで怪我をさせたとして、同級生の両親に多額の慰謝料を請求したのだ。だが、慰謝料だけでは両親の腹の虫は止まらなかった。木谷の両親は、自身たちが持ちうる金の力と権力を振りかざし、同級生一家に執拗な嫌がらせをしたのだ。一体どの様な嫌がらせをしたか定かではないが、同級生は引っ越しをせざる得ないほどに、精神的に追い詰められた。
「引っ越しする間際、彼は私の右目を見ながら言いました」
--お前は悪くない。だけど、お前の濁った右目を見なくて済むと思ったら、安心する。--っと。
「それから、私は弱視専用のサングラスをかけるようになりました」
……なにを声かけていいか、言葉が思い浮かばない。聞いたのは美里の方なのに、どうしたらいいか分からず、途方に暮れる。ただ、一つ分かったことは、木谷は自分の濁った目を見せてしまったことに対して、謝罪したのだ。同級生の言葉を、意識して。
「話は以上です。貴女が気にすることはありません」
木谷は外していたサングラスをかけ直し、料理を再開する。美里はなにか声をかけたいが、なんと言っていいか分からず口を開けては閉じてを繰り返す。
「貴女には、不愉快な物を見せてしまいましたね」
いつものように抑揚のない声のはずなのに、どこか酷く悲しんでいるような声。木谷の一言に、美里は一瞬声を呑むが、すぐ間髪容れずに返答した。
「そんなことありません!」
不愉快とか、そんなこと言ってほしくない。確かに右目は濁り、弱視になってしまったが、結果的に木谷が無事ならそれでいいと思った。こちらに顔を向けた木谷に、美里は畳み掛けるように続ける。
「た、確かに驚きはしましたけど、不愉快とか、そんなこと思いませんでした。なにより木谷さんはカッコいいから気にならな……あっ」
……顔に熱が集まるのが分かる。勢いあまって、普段思っていたことを口に出してしまった。だが、直ぐに真剣な話をしていたのに、失礼なことを言ってしまったのではないかと今度は青くなる。
「……カレー、温まりきってますよ」
「え? ……あっ!」
木谷に指摘され鍋を見ると、マグマのようにボコボコと音を立てて温まりきっているではないか。小さな悲鳴を上げ、火を止めたり、焦げていないか半泣きで確認したりして慌ただしくする美里を、木谷は目を細めて見つめ続けた。
話はそのまま終わり、食事の時間になった。食事中特に会話らしい会話は無かったが、以前のような気まずい雰囲気はいつの間にか無くなっており、どことなく穏やかささえ感じる食卓。木谷について、まだまだ理解できないことは多い。しかし、今日は少しだけ、木谷のことがわかったような、そんな気がした。
「ん~、このカレー美味しいです!」
「それは良かった。スパイスからこだわった甲斐がありました」
「え、これスパイスから作ったんですか?」
「はい。なにか問題でも?」
……いや、まだまだ木谷は分からないことがたくさんある。美里は大変美味なカレーを頬張りながら、そう思った。
* * *
「そっか! 解決したんだね、良かったじゃん!」
ポツポツと傘に落ちる雨の音を聞きながら、美里とゆりは帰路に着く。木谷との一件があった次の日、解決したことを伝えると、ゆりは自身の髪の色によく似た明るい色の傘をくるくる回しながら、手放しで喜んでくれた。
「うん、ありがとう。これもゆりちゃんのおかげだよ」
「それは違うなぁ~、私はただアドバイスしただけだもん。美里が実行したから結果が出た。それだけ」
茶色のローファーが水溜りを蹴る。実際、ゆりがアドバイスしてくれたことで聞く勇気が湧き、木谷と以前のように、いや、以前よりも話せるようになった。ゆりには感謝しても仕切れないほどだ。
「それにしても、最近雨よく降るね」
曇天の空を見上げ言うゆりに頷く。確かに、梅雨でもないのによく雨が降っていた。なんだか雨が続いて嫌だなと思ったとき、スマホが振動する。ゆりに断ってスマホを開くと、差出人は木谷からだった。多少モタつきながらも直ぐに返信をし、ゆりの方を向く。
「ごめん、ゆりちゃん。私先に帰るね」
「え? なんで?」
「知り合いが近くにいるんだって。じゃあ、またね」
ゆりが別れを告げるのを背中で聞きながら、急いで木谷から指定された場所へ向かう。ゆりと別れてしばらく歩いた先にある駐車場に、木谷の車が停めてあった。一度助手席をノックし、鍵を開けてもらって車内に乗り込む。
「ありがとうございます、木谷さん」
「いえ、たまたま見かけただけですので」
たまたま仕事で学校近くまで来ていた木谷は、帰りがけに美里を発見し、ついでに拾おうと思ったらしい。雨が降っている中、偶然とはいえ迎えが来てくれるのは嬉しいことだ。以前の美里なら、申し訳なく思うのと、あまり関わり合いたくないのとで断っていただろう。木谷も、美里を見かけてもそのまま放っておいた無視かもしれない。これも昨日のことがあったからかもしれないと、改めて木谷とアドバイスをくれたゆりに、美里は感謝した。
「では、帰りますよ」
ギアを操作し、車を発進させる木谷の横顔を、美里はじっと見る。やっぱり、木谷さんってカッコいいなぁ、なんて、ぼんやり思った。
「……なに、あれ……」
そんな二人が乗る車を見ているのは、彼女の髪と同じような、明るい傘。その傘に打ち付ける雨は、強さを増していた。




