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Andante  作者: すもも
4/7

 青柳桃太郎が教師になって早二十云年。

 結婚もせず気付けば五十代になっていた。自身の人生をかけたと言っても過言ではない教師生活は案外悪いものではなく、むしろ子どもたちの健やかな成長を見守れることに幸福を覚えた。無論、反抗的な態度をする生徒もいたが、それでも青柳の懸命な指導によって更生に至った子も多数存在するのは確か。

 決して楽ではない仕事だが、元来より子どもが好きなため、辛いとは多少思っても辞めたいとは思わなかった。生徒が困っているなら、なるべく救いの手を伸ばしたいし、力になりたい。

 それはもちろん、萩原美里にも言えたことで。

 美里がなにかに困っているということは、青柳は薄々気付いていた。美里の様子がおかしいと思ったその都度やんわりと聞いてみるが、困った顔ではぐらかされてしまう。いつもどこかガードの緩い彼女だが、こういう時は途端に硬くなる。

 もしも、本当に困り事があるなら美里の力になりたいと思うが、家庭の事情に深入りしてより困らせてしまうのは、本末転倒になってしまう。だから今回の三者面談は家庭の状況をみるいい機会だと思っていたが、保護者の都合がつかず面談ができていない。どうしていいか分からず、青柳は頭を悩ませていた。

 そんな矢先、先日美里が休んだ。中学の頃、父親の葬式で休んで以来一度も休んだことが無かった美里が。

 滅多に休まない生徒から欠席の連絡を受けたことよりも、男性が代理で電話してきたのには驚いた。美里の家族は血の繋がりのない継母のみで、他にいないと聞いていたからだ。電話越しに聞いた声に抑揚がないことに多少気になったが、落ち着いた丁寧な口調から、年齢を重ねた男性だと想定する。

 予想だにしていなかった男性の登場に狼狽えている中、あっという間に週が明けて月曜日に美里が登校してきた。

 無事登校して来てほっと胸を撫で下ろすも、どことなく顔色が悪く表情も暗い。はじめはまだ体調が優れないのかと思ったが、美里の虚ろな目を見て、どうやらそうではないようだと感じ取る。

 休んだ間に何かあった。そう、直感したのだ。

 嫌な予感が心中を渦巻く。どうしても事情を聞かねばならないと判断し、美里を放課後に生活指導室に呼び出した。顔を見せた美里の顔色はやはり優れず、辛いのかをどこか憂いを帯びている。痛々しさに胸を打たれながら、美里を席に着かせて口を開いた。

「病み上がりで悪いな、萩原」

「いえ、大丈夫です」

 一瞬で分かる嘘だが、今はそちらに構っている場合ではない。さて、と本題に入ろうとしたとき、美里は自身のカバンから一枚のプリントと白い封筒を、どこか申し訳なさそうに差し出した。

「先生、これ」

「おお、三者面談の日程表か。ありがとな」

 プリントは再三提出を求めた三者面談の日程表だが、白い封筒は一体なんなのだろうか。ちらりと美里を見てみると、美里も同様にそわそわとして落ち着かないようだ。封筒の中身を見ないのか、という目線を真摯に受け、漠然とした不安を抱きつつも、青柳は封を切った。


 * * *


「初めまして。美里さんの担任ですね」

 まさか。まさか、そんな。

 額につたい落ちる汗は緊張のせいなのか、それとも別のものなのか。


 美里から渡された手紙には、多忙で学校に赴く時間が無く、申し訳ないが三日後の木曜日に自宅まで来てくれ、という内容が書かれていた。基本、三者面談は保護者が決められた時間に直接学校に来訪しなければならない。しかし、これ以上いつ訪れて来るか分からない人を待ち続けるのもどうかと考え、美里の自宅が学校から近いこともあり校長から許可を得て、萩原宅へ訪問することとなった。

 そうして本日、萩原宅に向かおうと学校を出ると、空を見上げると重く暗い雲が立ち込めていた。最近、よく雨が降るような気がする。今にも降り出しそうな空に眉をひそめ、カバンの中に折り畳み傘があるのを確認し、自転車にまたがった。


 そしていざ美里の家に訪ねてみると、これだ。

 青柳は口元が引きつらせながら、何度も自身の目の前にいる人物と部屋の番号を見直す。間違っていないはずなのに、目の前にいるのは黒いスーツに身を包み、濃い色のサングラス、革製の手袋を身につけた長身でがたいの良い壮年の男。明らかに堅気と思えない風格に圧倒され思わず絶句していると、男の背後から見知った顔がひょっこりと現れた。

「先生、お待ちしておりました」

 美里の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろす。美里がいるということは、ここで間違いなさそうだ。平静を装い、改めて目の前の男に向き合って自己紹介をする。

「はじめまして、萩原さんの担任を務めている、青柳桃太郎と申します。本日は三者面談に伺ったのですが……」

 保護者の方ですか、と聞く前に男が答えた。

「現在、私が彼女の保護者の代わりをしております、木谷正義と申します。ここではなんですから、中へお入りください」

 どうぞ、と室内に誘導される。木谷の抑揚のない声と淡白な態度に、肩をすくめた。決して高圧的な態度をされているわけではないが、木谷から醸し出される雰囲気に圧倒されたのだ。青柳はこんな時間にサングラスをかけて顔を晒さないというのはどういうことかと密かに胸中で思うが、もちろん思うだけで口には出さなかった。

 ちなみに、ただいまの時刻は午後二十時になりかけている。


 萩原宅に踏み入れた瞬間、青柳は違和感を覚えた。

 リビングにあるのは机やソファーのみで、その他テレビなどの生活用品がないに等しい。まるで引越しをしてきたばかりか、はたまたしている最中のように物が片付けられている様子に、首を傾げる。不躾とは思いつつ、部屋の中をこっそり見回す青柳の目の前の机にお茶が置かれた。

「散らかっていて申し訳ありません。引越しの準備をしていて……」

 なるほど、やはりそうなのかと納得し、木谷たちに視線を向ける。木谷にお茶を渡すとき、美里の表情がどことなく強張ったことを青柳は見逃さなかった。お茶を配り終え、二人掛けソファーに座る木谷の隣に座ったときの二人の距離感や、どことなく気まずそうな雰囲気から訳ありというのは明白。

 尚更美里が心配になってきた青柳は、一先ず落ち着いて状況把握しようと一言断りお茶を啜りながら思案する。だが、口を開いたのは木谷の方からだった。

「それで、三者面談ですよね。どういったご用件でしょうか」

 一瞬なんのことかと思うが、美里の進路を相談することが当初の目的であったのを思い出した。突拍子のないことばかり起こりすぎて、最重要項目をすっぽり抜けていたことを恥じ、青柳は湯呑みを机に置き姿勢を正した。

「はい。今回は萩原さんの進路について伺いに来たのですが、萩原さんが進路希望にこのようなことを書かれまして」

 青柳がカバンから出したのは、美里の進路希望表。プリントを見た途端、美里は耳まで一気に紅潮させ、そわそわとしながら木谷をちらちらと見る。

 受け取ったプリントに目を通した木谷は、静かに美里に顔を向けた。サングラスで隠れているため目線は分からないが、空気が暗く重くなったのを青柳は感じた。

「進路の希望に、お嫁さんとは……曲がりなりにも高校生が書くことではありませんね」

「そ、そうですね。実は萩原さん、これ以外書かないんですよ。進学か就職かもはっきりしていないし、かといって結婚する相手がいるわけでもないようですし」

「せ、先生……!」

 二人からの攻撃に耐えきれなくなり、口を挟む。慌てる美里に青柳は微笑ましく思った矢先。

「--美里さん」

 低い、地を這うよう声が青柳の耳に届き、血の気が引いていく。寒気すら覚えるそれに恐れ慄きながらも、美里の様子を見てみると、顔を真っ青にして硬直していた。

 本能からか、美里の身に危険を感じ、腰を上げたが木谷に無言で制される。少し迷ったが、渋々腰を下ろしつつ二人の様子を注意深く見つめる。

「美里さん。今私たち二人は貴女について真面目な話をしております。いいから大人しく座って聞いていなさい。分かりましたね?」

 尋ねておきながら有無を言わせぬそれは、もはや脅迫に近い。美里の返事を聞かず青柳に顔を戻したあたり、元から返答を求めていないようだ。美里はそれっきり反論しようとはせず、俯いてしまった。

 異様な二人の関係を垣間見て、青柳は目を見張った。

 二人の間になにがあったか分からないが、なぜこんなにも険悪なムードなのだろうか。未だに顔を青くして震える美里を見て、青柳は自信を奮い立たせて原因を聞こうと口を開く。

「--あの、」

「ところで、美里さんの学業の成績はどのような塩梅なのでしょうか」

 ……青柳の勇気も虚しく、木谷によって話題を振られてしまった。これは余計な詮索をされぬようにと、意図的に話題を振ったのだろうと青柳は推測する。伊達に長年教師をしていない青柳もそれくらいは察し、木谷正義という男を侮れないと警戒心を強くする。

「そうですね、それはこちらになります」

 再びカバンから出したのは、一学期の成績表とついこの間行われた中間テストの結果。それらを木谷は受け取って目を通すと、嘆息をついた。

 美里の成績は一番良くて中の下あたり。特に数学と英語はいつも赤点ギリギリであるし、他の科目もあまり良くない。元から勉強は不得意であり、日々生活費を稼ぐためアルバイトに勤しんでいたため、勉強にまで手が伸びなかったのだ。

「あまり成績がよろしくありませんね」

 プリントをペラリと捲りながら美里に問う。美里は首を竦めながら、なにも答えられず俯いたまま。先ほどのやり取りですっかり萎縮してしまったのだろうと、なにも返答しない美里に同情し、青柳は今度こそなにか言ってやろうとしたとき。

「致し方ありませんね。私が勉強を教えましょう」

 っと、まったく思いがけない言葉が。

「--は?」

 面食らって間抜けな声を発する青柳であるが、それは美里も同じのようで。さっきまで俯いていた顔は上げられ、目を丸くして木谷を注視していた。二人の反応を気にとめず、木谷は涼しい顔でプリントを丁寧に整えてから机に置く。

「次のテストまでには間に合わないと思いますが、今後は成績が落ちないように私が勉強を教えます」

「いや、あのそれはそれでよろしいのですが、木谷さんもお忙しいのでは……」

「確かに、多忙であることは確かです。しかし、勉強は必ずしも一対一でやらねばならないということでもありませんし、本人も四六時中私が側にいては集中できないでしょう。分からないところだけ私が教えに入り、指導します」

 木谷の言葉はもっともで、青柳からぐうの音もでない。木谷から「よろしいですね?」と問われた美里は呆気にとられつつ頷くも、恐る恐る口を開く。

「でも……木谷さん、勉強得意なんですか?」

「ええ。むしろ得意分野です。少なくとも高校までの問題は安易に解くことが出来ますよ。特に数学は」

 そこまでキッパリ言われてしまうと、何か意見を述べられる隙もない。肩を落とすも、気を取り直して顔を上げた。

「……さて、勉学などの話は以上です。次は、本題です」

 姿勢を正し、目の前にいる二人を見据える。青柳から漂う、ただならぬ空気を察して姿勢を正す美里とは反対に、木谷はゆったりとソファーに背中を預けたまま。

 --この野郎、こっちが雰囲気変えても尚踏ん反り返りやがって--

 木谷にその気があるのかないのか不明だが、ソファーに身を預けているということは、必然的に見下ろす態勢になるということ。まるで見下されている気がして、それが青柳の疳の虫に触った。

 なんとしても言い負かしてやる。心にそう決めて、青柳は口を開いた。


* * *


 いつ降り出してもおかしくなかった雨が、ついにしとしとと降りだしてきた。

 走行する車窓に水滴が付着するのを見ながら、美里は先ほど別れた青柳を心配した。雨に濡れて風邪を引かなければいいけど、と思いながらこっそりため息を吐く。

「ん? どうしたの、悩み事?」

 途端、車の運転手から話しかけられ、思わず体を強張らせた。あからさまな態度に運転手は苦笑いを浮かべる。

「そう怯えないでよぉ、俺そんなに怖くないから。ねぇ? 正義さん」

 チラリとルームミラー越しに同意を求める運転手--愛染正紫を、木谷は窓の外に視線を向けたまま一言。

「いいから、貴方は運転だけしていなさい」

 淡白な返答に、愛染は首をすくめる。二人の様子を見て、初めて会ったときから美里は二人の関係を不思議に思っていたが、単純かつ普通ではないことはわかった。車内には沈黙が立ち込め、空気は重い。ぼんやりと三者面談のことを思い出しながら、ドアに体を預け再びこっそり車窓を見る。

 雨は、さっきよりも強さを増していた。


 * * *


 三者面談が行われたのは、つい一時間前のこと。

 青柳は当初目的であった美里の家庭問題を話すため、木谷と対峙した。いや、対峙した、と言っては語弊が生じるだろう。

 一方的に青柳が戦いを挑み、勝手に敗北したのだ。

「近頃、萩原さんに元気がありません。先日も欠席しましたし、なにかあったのでしょうか?」

 青柳ははぐらかすことなく、家庭環境についてほぼ率直に聞いた。遠回しに聞くことももちろん出来るが、美里の安否を優先するあまり直接聞いた方が良いと判断してのことだ。

 ここではぐらかされて、美里の身になにか起こったら--考えだだけで、青柳の背筋が冷える。それくらい、青柳にとって生徒は大切な存在だ。

 緊張気味の青柳に対して、木谷はなんら表情を変えず、

「ええ、些かいざこざが起こりまして」と答えた。

 本日、何回驚いただろうか。あまりに素直な返答に、開いた口が塞がらない。普通なにかあれば誤魔化すものではないのかと狼狽する青柳に、木谷は続ける。

「美里さんの身内ではない私がここにいることからご察しの通りでしょうが、諸々の事情がありまして。主に経済的な理由で美里さんの保護者が養えなくなり、知り合いという立場ではありますが、現時点で私が保護しております」

 証拠と言わんばかりに、どこから出したのか一枚の紙を青柳に差し出す。美里は、木谷が美里と出会った時に見せた借用書ではないかと一瞬焦るが、青柳の様子を見る限り違うようだ。

「……これは……保護者を代理するという書類のコピーですか。文面では彼女が成人するまで、と書かれておりますが」

 どうやら、渡された書類の文面には美里が成人するまでは木谷の保護下にいる、という内容が書かれているらしい。目を皿のようにして書類を読む青柳に、木谷は平然と返答する。

「はい。文面通り、成人までは私が保護者の代わりを承りますが、それ以降は彼女の自由です」

 青柳はにわかに納得いっていない顔を覗かせるも、書類を木谷に返す。美里がこっそり盗み見てみると、書類には長く細かいつらつらと続いた文面と、最後にはご丁寧にサインと母印もされていた。一体いつこんな書類を用意したのかと、半ば感心する。

 書類を見せられてもなお、納得していない様子の青柳は食ってかかった。

「しかし、血縁でもない方が……」

「私と彼女の母親は古い知り合いでして。さして深い付き合いではありませんでしたが、困っているようなので手助けしたまでです。人を手助けすることに理由もないでしょう」

 美里は手助け、という言葉に引っかかりを覚えるが、今ここで自分が発言しても会話に水を差すだけだ。むしろ、余計に厄介な事態を起こしかねない。

 反論してこないが、青柳からはなおも追及を止める気配は感じない。明らかに格上だとわかっている相手に対し、どう反論するか練っているようだ。

「え、ええ、それはいいことですね……ですが、連日萩原さんの元気がないのはどういったことでしょうか。いえ、連日というより、彼女は一年生の当初からそうでした。それはどう--」

「連日彼女の表情が暗かったのは、おそらく母親と離れて寂しかったのでしょう。母親の知人とはいえ、私のようなほぼ初対面の相手と共に暮らしているのです、気疲れだってします。それと、一年生の頃からとおっしゃいましたが、貴学に入学する前に、彼女は父親を亡くされています。彼女が落ち込んでいると気になられた時期と似ていますし、それは父親の死が要因ではないしょうか」

 そうですね、と唐突に話題が振られ、美里は反射的に頷く。美里の父は、美里が中学を卒業する間際に高い建物から飛び降りて、亡くなった。

 自殺だった。

 自殺する予兆も見せず死んでいったことに呆然とし、しばらくはその死を悼むことも、受け入れることもままらなかった。そのくらい、朝出かけて行った父親は普段通り夜には帰ってくる、という顔をしていたから。

 自殺の原因は一切不明で、遺書もないことから始めは事件の方でも捜査されたが、結局は自殺で処理された。美里同様、周囲の人間も首を傾げるほどに、理由は最後まで分からないまま。

 父親の事故後の顔は、美里の目で確認していない。あまりにも悲惨であったことと、継母は錯乱し、美里も茫然自失していたことから、遺体の確認は刑事たちが行った。美里や継母以外、他に親類はいなかったため、確認できる人がいなかった。

 なんでも、美里の両親は周囲から結婚に反対され、駆け落ちをしたそうだ。だから頼れる親類はおらず、葬儀も参列者は少なく、慎ましく終わった。継母方の参列者も少なかったように思えるが、継母の人となりを聞けば納得いく。

 ちなみに、葬儀費用は父親の貯蓄や、自身にかけていた生命保険で賄われた。その残りのほとんどは継母に使われてしまい、美里の手元にない。だが、今まで生活してこられたのは、父親が美里個人にのみ使えるようにと手配した口座があったことと、美里の細やかなアルバイト生活からだ。

 まだ二年も経たない生々しい過去を想起し、美里は目頭が熱くなり、思わず口元を手で押さえる。厳しくも優しくて、大好きだった父親。

 唯一残っていた肉親の死を思い出して打ち震える彼女に、青柳は情けなく目を白黒させた。

「え?! い、いや、萩原! その、悪かったよ、悲しいこと思い出させて、だからその、泣くな、な?」

 年甲斐もなくあたふたする様子は、情けないの一言に尽きる。なんとか美里に泣きやんでもらおうと慌てる青柳に対し、木谷はスーツの内ポケットから質の良い黒いハンカチを出し、美里に手渡した。

 木谷からハンカチを受け取り、礼を述べたあと目元を拭いながら美里は青柳に無礼を詫びる。

「ごめん、なさい。いきなり……」

「い、いや。俺が悪かったんだ、すまん。萩原」

「いいんです、気にしないで」

 室内に反響する美里の鼻をすする音を聞きながら、青柳の思考は完全に停止していた。生徒を不本意ながら傷付け、泣かせてしまった--とはいえ、この話題を出したのは木谷ではあるが--ことに対する罪悪感でいっぱいいっぱいになっている。

「--事情は分かりましたね。他にご質問は?」

 自体がこうなってしまっては、青柳はもう何も言えなくなってしまい、完敗の白旗を上げるしかなかった。


「あの、先生。今日はありがとうございました」

 玄関で靴を履いている青柳の背後から、美里が話しかける。振り向くと、そこには目元を赤くしながら、申し訳なさそうに眉を下げる美里の姿が目に映った。

 先ほどの木谷とのやり取りを気にしているのだろう、青柳は苦笑いを浮かべながら、はつらつとした声を上げる。

「おう、気にするな。それよりか、今日は本当にすまなかった」

「いえ、私の方こそ、驚かせてごめんなさい」

 未だに鼻をすする美里を見て、青柳は胸を痛めた。

「いいって、俺が悪いんだし。それより、今後何かあったら先生に相談しなさい。去年から萩原の担任勤めているんだし、力になれることは協力するぞ」

 そう言って朗らかに笑う青柳に、美里は目を伏せながらつられて笑う。それを見て、青柳は眉根を寄せた。

「萩原、それ。そろそろやめろよ」

「え?」

 突然言われた言葉に、目を見開く。それとはなんだと尋ねる前に、青柳は続ける。

「愛想笑いというか、人が笑うのにつられて笑うの。俺、お前の純粋な笑顔見たことないぞ」

 眼から鱗だった。美里自身、普通に笑っていると思っていたから。呆気に取られている美里に、青柳はもう一度笑いながら言う。

「萩原。人生な、楽しいときだけ笑うより、はじめからニコニコ笑ってたときの方がいいことが山ほどあるんだぞ。暗い顔しているより、笑顔の人の方が近寄りやすいだろ? だから、ほら。笑え」

 --そう言って笑う担任の姿に、美里は改めて青柳の評判の良さを確認する。青柳はその名前からからかわれやすい存在なのだが、生徒からの評判は良い。美里自身、青柳には親しみを感じている。

 それは彼の気さくさと、今日の三者面談のように、生徒に親身になって関わる人柄が起因しているようだ。彼になら、相談してもいいかもしれないと少し思ったが。

「……はい、青柳先生。ありがとうございます」

 それでも。

 それでも、青柳に美里の悩みを打ち明けることはできない。例え青柳が優しく面倒見がいいとはいえ、美里の問題に巻き込むことはできなかった。

 青柳の忠告に頷き、最後はぎこちなくも笑顔で見送りながら、しばらくその場で立ち尽くした。


 * * *


 三者面談が終わり、明日には完全に荷物を持ち出され、引き払われるらしい元自宅に後ろ髪を引かれながら、木谷に着いていく。

 木谷が美里の元自宅を三者面談の場所に選んだのは、木谷が学校に赴くことも、木谷宅に招くことも当然できるはずもないということから。そのため、木谷は前回美里に部屋を解約したと説明したが、まだ手続きが終わっていなかったためその部屋を使用した。ちなみに、手続きを行う予定であったのは藍染であったらしい。その際、より訝しまれないように家具などは置いたままにしておいたのだ。

 学校が終わり、美里が数日ぶりに帰宅した家に感慨深く感じていると、すぐに木谷があとからやってきてことで現実に引き戻された。

「あ、二人ともお帰りなさい」

 木谷に着いて行った先は、コインパーキング。

 その一角で煙草を吸いながら二人を待っていたのは、あの日美里を張り倒した、藍染正紫だった。愛染はにこやかに挨拶をしながら、短くなった煙草を地面に落とし、踏みつけて火を消す。

「--っ」

 藍染の顔を見た途端、美里の表情が強張る。それもそうだろう、理不尽な暴力を振るわれた相手が目の前にいるのだから。

 思わず木谷の背後に隠れる美里に、木谷は美里の背を軽くぽんぽんと叩いた。

「送迎ご苦労様です。しかし、煙草を地面に捨てるのはいかがなものかと思いますよ」

 木谷がやんわりと窘めると、藍染は慌てて一言謝罪を述べ、今し方捨てたばかりの煙草を所持していた携帯灰皿へと入れる。持っているなら元からそちらに入れるべきではないか、と美里は思ったが、相手が相手なので黙っておいた。

「いやー、正義さんの為ならお迎えなんてなんのそのですよ。他にもなんだってします!」

「……ほお、それは言葉通りに受け取っていいのですね?」

「えっ。い、いやぁ、冗談ですよー、言葉の綾ですよー……あはは……」

 二人の軽口を聞きつつ、木谷は美里を黒塗りの日本車の後部座席に乗るように促す。先日乗った木谷の車とは車種が違うようだから、愛染の車だろう。不安を抱き美里はチラッと木谷を盗み見るが、木谷が反対側の扉から乗るのを見て、渋々美里も乗る。

 二人が乗ったことを確認した藍染は、車を発進させた。車内に流れるのは、沈黙。

 到底話なんて出来そうにもない重い空気に、肩身が狭く感じる。気を紛らわせようと美里は窓の外の景色を眺めようとするが、濃い色のスモークが張られており、あまりよく見えなかった。


 そうして、美里に話しかけた愛染が木谷に諌められて以来、車内に沈黙が居座る。車に叩きつける雨音を聞きながら、ぼうっとさっきの三者面談のことを思い出していると、再び愛染が口を開いた。

「それにしても、お疲れ様でした、正義さん。大変でしたね、三者面談なんて」

 このままずっと沈黙が漂うと思っていた車内に、藍染の明るい声が反響する。話しかけられた木谷をチラリと見るが、木谷は腕を組みスモークガラス越しに外を眺めていた。

「美里ちゃんもお疲れ様。いくら学校の行事とはいえ、面倒くさかったでしょう?」

 木谷の返答を聞く前に話題を振られ、美里は狼狽する。初対面の時と打って変わって態度が違うこともそうだが、あまりにも気さく過ぎることから、別人かと錯覚するほど。

 そんな美里の困惑も素知らぬ様子で、藍染は続ける。

「三者面談なんて面倒臭い以外ないからねー、なにより学校での態度とか、親に話すことが無駄だよね。外でなにしてるかまでは分かんないんだし。そもそも--」

「--無駄なお喋りをしている暇があるなら、運転に集中しなさい」

 木谷に注意された途端、藍染は口を一文字に結ぶ。さっきまで車内に響いていた藍染の愉快な声はなくなり、より重い沈黙が立ち込めた。

 美里の位置から見える藍染に視線を向けると、その横顔は青くなって強張っていた。藍染にとっても、木谷は畏怖の対象なのだろう。

 藍染の怖がる様子を見て、ふと思い出す。その気がなかったとはいえ、自身の進路の話題をしていた木谷と青柳の間に、美里が割って入って困らせたことを。

 もう終わったことだが、きちんと謝罪していないと気付く。別に謝ることでもないが、相手は木谷だ。恐怖心から、事を曖昧のまま終わらせるより謝ってしまおうと考えた。

 さっきと打って変わって静まり返った車内で話すのは躊躇するが、美里は勇気を振り絞って口を開いた。

「あの、木谷さん。進路のとき、すみませんでした」

 木谷の顔を見られず、膝下に置いた手元を見ながら言う。謝罪している相手の顔を見ないのは悪いことだと分かっているが、勇気が湧かず顔を上げることができない。

 万が一にも木谷のご機嫌を損ねてしまっていたら。縛られた挙句、またあの鞭で全身を叩かれるのかもしれない。今度は皮膚が抉れて血が出ても、泣いて拒んでも許してもらえないかもしれない。おぞましい想像に、背筋が震える。再び車内に流れる沈黙。木谷から返事がないことに、おそるおそる顔を上げ--

「----」

 木谷と、目が合った。

 いや、木谷は濃い色のサングラスをかけているし、それは気のせいかもしれない。だが、美里にはサングラス越しに注がれる視線が、優しい気がした。だって、車内に差し込む僅かな街の明かりに照らされる顔が、酷く穏やかに見えたから。

 雨音が聞こえる中の、永遠とも思える、濃密な時間。

 たった数秒の出来事のはずなのに、美里にはそう感じるほど、優しい時間だった。

 しかし、それも木谷が視線を反らしたことで、終わりを迎える。

「さして気にしていません。貴女も、お気になさらず」

 先ほどの濃密な時間は無かったとでも言うように、いつもの木谷の抑揚のない声が美里の鼓膜に響く。それを凄く残念だと思ったことに、美里自身とても驚いた。

 自身の心境の変化に戸惑っているからこそ、木谷の呟きがよく聞こえなかった。

「むしろ、感情を露わにしていただいた方が好ましい」

「--え?」

 反射的に聞き返すが、木谷からの返答はないまま。これ以上追求してはいけない気がして、美里も口を閉じる。

 車が木谷の家に着く頃には、雨は小降りになっていた。

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