3
熱い。
いや、暑い。
まるで熱したフライパンの上にいるような、全身の肌がジリジリと焼かれるように痛い。額、背中、脇……身体の至る所から汗が噴出し、ジトッとした感覚に眉根を寄せる。
額から流れた汗が目の中に入りそうになり、手の甲で拭う。あまりの暑さで体力を奪われ、喉も渇き、意識もどこかはっきりしない。
そんな暑い場所のはずなのに、太陽に照らされているわけではなく、むしろあたり一面真っ暗だ。周囲はなにがあるか確認できないほど暗く、暑いこと以外よく分からない空間の中、歩み続ける。
美里自身、なぜ歩いているのか、助けを求めればいいのではと思う。しかし、不思議と助けを呼ぶ気にならず、なんだか歩き続けなければならないような、そんな気がした。
息を切らせながら、ただひたすらに。
頬から伝ってきた汗を拭った時、数メートル前方にポツンと少し大きい水溜りを発見する。
どうして、周囲を視覚で一切確認することが出来ないのに、水溜りだけ確認出来たのか。今の美里には、そんなこと造作もないことだった。
思わず感嘆を上げ、残りの体力を振り絞り水溜りまで覚束ない足で走った。
前述した疑問や、水溜りが清潔かなどということは、今の美里にはどうでもいいことで、ただただ水が欲しくて走る。水溜りは多少深く、服が汚れることも厭わず水溜りの側に膝を着き、手で水を掬おうとした、その時。
後頭部を掴まれ、そのまま水の中に沈められた。
突然のことで、当然対応できずただただもがく。顔を上げようと宙を掻く手は、なんと無力なのだろうか。自身の吐く息で水中に泡が複数でき、視界を覆う。
苦しい。怖い。誰がこんなことを。
苦しみもがきながら、美里は心当たりを探るが、思いつかない。心当たりがないからこそ、余計に恐怖心が煽られる。
分からない、怖い、助けて、誰か。
誰か--!!
その声は、泡と一緒に溶けるように消えていった。
美里を目覚めさせたのは、耐えられないほどの恐怖だった。
寝起きで意識が混濁し瞼は痙攣しているが、恐怖から思わず掛け布団を襟元まで手繰り寄せる。どくどくと心臓が激しく高鳴り、吐く息は熱くて荒い。なんとか落ち着かせながら、布団の中にいることと、汗のせいか全身が濡れて気持ちが悪いことに気づく。
ゆっくり正常に働きだした頭で想起するのは、さっきまで見ていた夢。嫌にリアルだった。未だに後頭部を掴まれた感覚が残っている。どうしてあんな夢を見たのだろうかと考えた矢先、発熱と倦怠感、喉の渇きを覚えた。
右向きに横にしていた身体を起こそうとするが、背中全体に引きつった痛みが走り、唸り声を上げてゆっくりシーツの上に埋もれる。熱の発生源はどうやら背中かららしい。痛みと共にジクジクとした痛みを感じる。なぜこんなにも背中が痛く、熱が出ているのか、まだ正常に機能していない頭をフル回転させて脳裏に思い浮かんだのは、見惚れるほど綺麗な黒と、少しの赤。目を見開き身体を戦慄かせたとき、ドアが音を立てて開いた。
「目が覚めましたか」
恐る恐る声がする方に視線を向けると、そこには美里に熱と痛みを与えた張本人--木谷正義がいた。
木谷は相変わらず、濃い色のサングラスと本革の黒い手袋を嵌めている。しかし服装は漆黒のスーツではなく、白いワイシャツに濃紺のジャケット、スラックスとラフな格好をしており、手にはコップを載せたお盆を持っていた。木谷の顔を見た途端、美里は恐怖で退こうとするが、身体に痛みが走りうずくまる。眉を顰めて痛みに耐える美里を尻目に、木谷はベッド頭上付近にあるサイドテーブルの上にお盆を乗せた。
「お加減はいかがですか」
全く心配している様子がない、抑揚のない低い声が部屋に反響する。熱や痛みの元凶からかけられた言葉を聞き、腹の底から怒りが込み上がっていく。何か言ってやろうと口を開けたはいいが、サングラス越しに感じた鋭い視線に萎縮し、もごもごと口籠った後、結局閉ざした。本当は色々と言いたいことはあるし、なによりなぜあの様なこと--乗馬用の鞭で叩くなんてことしたのかと問いただしたいが、今は身体が辛くてそれどころではない。吐く息が熱っぽいのがその証拠だ。
「起き上がれますか」
木谷の問いに、美里はかぶりを振る。さっき起き上がろうしたときも痛かったのだ、到底動けそうにない。美里の返答に木谷は「そうですか」と答えたと思った矢先、被っていた掛け布団を剥いだ。拍子抜けしている美里の上半身に触ったかと思うと、抵抗する暇なく上体を起こされベッドの上に座らされる。その間、もちろん背中に痛みが走り悲痛な叫びを上げるが、木谷はお構いなし。呼吸も乱れフラフラな美里をさりげなく支えながら、木谷は美里にコップを差し出す。
「飲みなさい。一昨日の深夜からなにも口にしていないのですから」
木谷の一言に目を丸くする。
「……どういう、ことですか?」
ようやく発した言葉はカラカラで、呂律が上手く回らず舌足らずになった。
「一昨日の深夜、貴女は私に鞭打ちされましたね。そのまま貴女は打たれた傷から発熱し、寝込んでしまいました。翌日、私は仕事があり一日家を空けていたため、貴女が動いていない限り丸一日以上なにも口にしていないことになります」
それを聞き、美里は唖然とする。本当に丸一日以上眠っていたのか現時点では確かめようもないが、それが真実ならとんでもないことだ。発熱するほどの怪我を負わせておきながら、木谷は床に臥せる美里を一日放置していたのだから。
あまりの粗末な扱いに、視界が霞む。確かに、今の美里の立場は良いものではないが、あまりに理不尽な行いに心が傷付かないはずがない。消化しない悲しみやら悔しさやらが心中でぐるぐると渦巻き、コップを握る手に力が入る。
そこで木谷に水を飲むことを催促され、渋々口を付けた。久々に取り込んだ水分は身体の隅々まで染み渡り、じわりとじわりと浸透していく。ゆっくり時間をかけて飲んでいき、飲み干せたあたりでようやく正常に脳が働き始めたため、まず状況を把握しようと部屋を見回す。
美里がいるのは木谷が折檻した部屋であり、その一室にあるベッドの中にいるようだ。日中にも関わらずカーテンは閉め切られており、濃紺で無地のカーテンの隙間からは光が溢れている。初めて入室したときも感じたが、ここの部屋はかなり広いが、物が極端に足りない。部屋の中央にベッドと、サイドテーブルしかなく、妙な違和感を覚えた。
ふと、そこで美里は自身の身体がどことなく締め付けられていることに気づく。大きい灰色の部屋着の襟を指で伸ばして中を見ると、包帯が巻かれていた。目を見開く。もちろん、自分で巻いた覚えはない。
「包帯……巻いたの……」
か細い美里の問いに、木谷はしれっと答えた。
「包帯を巻いたのは私ですが」
分かっていたとはいえ、顔から火が出るほど羞恥心が美里を襲う。曲がりなりにも、美里は思春期のうら若き年頃の少女である。そんな少女が出会って間もない男に肌を見られ、更には触れられたなどと、目眩がする事態だ。穴があったら入ってしまいたい。
「み、見たんですね。酷いじゃないですか……っ、あ、あんまりです」
動揺のあまり喘ぐように訴える美里に、木谷は淡々と答える。
「では、あのまま放っておいた方が宜しかったのですか? 今もなお怪我によって発熱している中、何も処置していなければ怪我が悪化していたのは明白です。それでも、貴女は自身の羞恥心を優先し、悪化することを甘んじて受けたと?」
木谷の言葉にぐうの音も出ず、押し黙った。今でさえ身体が辛くて仕方ないのに、なにも処置をせず放っておかれていたらと思うと、ぞっとする。だが、今の一言は見たと申告された様なもので、いくら怪我の張本人とはいえ放置せず処置をしてくれた感謝と、それでも見られたというやるせなさで、心の中はぐちゃぐいゃだ。粛然とせずなにか言い返したいのに、上手い返しが思いつかずただ唸るだけ。
複雑な心情のまま、顔を上げる。視線の先にいる木谷は、無表情のまま黙ってサングラス越しに美里を見つめているようだ。木谷がなにを考えているのか全く分からない。それが余計に木谷への恐怖心を増長させる要因になっていた。木谷に対して畏怖する気持ちは大いにあるし、遠さが借りたい気持ちはある。しかし、畏怖しているよりも彼に聞かねばならないことは山ほどあった。
学校のこと、家のこと、そして、美里の継母のこと--それらはみな、今の美里にとっては苦痛を伴うとしても、全て知らなくてはならない、現実。唇が震え、木谷の顔がまともに見られない。震える手を片方の手で押さえ込み、なけなしの勇気を振り絞って口を開けようとした、その時。
ぐぅーっ。
美里の腹の虫が、盛大に鳴き喚いた。
二人の間に、なんとも言えない空気が流れる。--なんで、よりにも寄ってこんなタイミングで……ぷるぷると震え徐々に赤面していく美里に、木谷は一言述べた。
「食事にしますか」
* * *
まだ熱が高く足元がおぼつかないため、木谷に支えられながら寝室からリビングに向かう。ひんやりした廊下の感触を踏みしめながら、密かにキョロキョロと周りを見回す。広く少し長めの廊下を真っ直ぐ進んだ先にある、一部擦りガラスで飾られたドアを開くと、先日訪れた広いリビングが美里を迎えた。リビングに入ってすぐには清潔感がある対面キッチンがあり、この家は広く大きく作られているのだという感想を美里は抱いた。
木谷がダイニングテーブルに美里を誘導し着席させた瞬間、ドッと疲れと怠慢感が押し寄せた。まだ体調が万全でないことを身をもって感じ、椅子の背もたれに痛む背中を避けて凭れかかる。
木谷は一度キッチンに赴き、コップとミネラルウォーターが入ったペットボトルを美里の前に差し出し飲むように告げた後、再びキッチンに戻った。小さく礼を述べ、木谷から渡されたミネラルウォーターをコップに注いで口を付けながら、改めてリビングを見回す。初めて入室したとき、気が動転してよく見ていなかったからだ。
無駄だと思えるほど広いリビングには、美里が座っているダイニングテーブルとローテーブルとがあり、ローテーブルの近くには家庭用にしても大きいテレビがある。室内は黒と白を基調としており、濃紺のカーテンは寝室と同じで、その他の物はサイドテーブルがあるくらい。
物が極端に少なく、生活感がまるでない。本当にここに住んでいるのかと疑問を抱く。この部屋で一体どのような生活を営んでいるのだろうか。ぼんやりそう思ったとき、鼻腔に優しく食欲を刺激する匂いが届いた。
顔を上げて匂いがしてくる方向を探してみると、その匂いはキッチンから漂ってきているようだ。嗅いだことある匂いに、それはなんだっただろうかと考えていると、木谷が両手に木で出来た器とスプーンを持ってリビングに戻ってきた。片方を美里の前に置いた後、木谷は美里の前の席に座る。
「……ポトフ?」
ほくほくと湯気を発する器の中身は、キャベツやニンジンやじゃがいも、ブロッコリーやウィンナーなどの食材がゴロゴロ入った、具だくさんのポトフ。食欲を優しく刺激していた匂いのは、コンソメとこのたくさんの野菜だった。具材は一口サイズより少し小さめに切られており、より食べやすくなっている。突然のポトフに呆気に取られていると、木谷が美里に食事するように勧める。
「空腹でしょう。別におかしな物ははいっていませんから、とりあえず今は食べなさい」
「え? これ、木谷さんが作ったんですか?」
「ええ、そうですが」
目を丸くし驚愕する美里に、木谷はさも当然というように返答した。木谷のこの身なりを見るに、料理など意外にもほどがある。いつまでも呆気に取られているわけにもいかないので、スプーンを手に取り、まずスープを掬って口に運ぶ。
途端、美里の胃が歓喜に震え上がった。
第一に感じたことは、「とにかく優しい」だった。無駄な物は一切含まれていない、コンソメと野菜本来の味が引き出されているスープは、まるで極限まで弱っている美里を内側から慰めているよう。甘い野菜の風味を堪能しつつ、野菜にも手を付ける。ジャガイモはスプーンでほろっと簡単に割れるほど煮込んであるのに、原型を留めていることに驚く。ホクホクとした柔らかいそれも、胃が大歓声を上げるほど味がよく染みていた。芯まで入っているのにとても柔らかく煮込まれたキャベツも、噛めば噛むほどブイヨンが染み出てきて、舌鼓を打つ。他の具材も言わずもがな。
よく味が染みていて、食べやすく、何と言っても胃に優しい。美味しい。とにかく美味しいという安直な感想しか出ない。自然にほっと息をつき、無心になってポトフを半ばかき込むように口にする。
ポトフに夢中になっていたため、美里は木谷が見つめていることに気づかないまま、一杯目を完食した。
「あ……」
つい残念そうな嘆きを上げしょぼくれる美里に、木谷が無言で二杯目を用意する。意地汚いと反省して赤面した後、礼を述べて二杯目もペロリと完食した。
美里が二杯目を完食した頃には、木谷も食事を終えていた。
「ご馳走様でした。すごく美味しかったです」
「それはよかった。それほど食欲があるのなら、安心しました」
木谷の一言にぽっと頬を赤らめる。空腹と美味しさでガッついてしまった自覚があるから、余計に。小さくなった美里に目もくれず、食器を片付け始めた木谷に慌てて立ち上がろうとするが、制され渋々座り直す。しばらく待っていると、今度はコーヒーカップを二つ持って戻り、香ばしい匂いを堪能しながら一息付くと、木谷は口を開いた。
「--さて、美里さん。貴女は私に聞きたいことがおありなのでは?」
木谷の方から切り出されたことに驚きながら、美里は手に持っていたコーヒーカップを机に置き、木谷を見つめる。相変わらずサングラス越しの目線に慣れないし、彼が何を考えているか分からない。恐れを抱きつつも、こうして木谷から話題を持ち出したのだ、美里は思い切って口を開いた。
「あ、あの、学校はどうなったのですか? あとアルバイト……勝手にお休みしちゃったから、きっとマスターが心配してる……」
まず気になったのは、学校とアルバイトだった。あの夜から今日まで眠っており、さらに携帯を所持していない美里は、欠席の連絡など入れていない。これまで欠席したことがなかったため、心配されていないかと不安になったのだ。
「学校もアルバイト先も、貴女の生徒手帳等を拝借して連絡先を調べた上で私が欠席する旨の連絡を入れておきました。無断で欠席をして後ほど面倒なことになっても困るので。貴女の自宅にある固定電話から掛けましたが、後ほど自身で弁解しておきなさい」
「なんで固定電話を?」
「番号が掛けた先のナンバーディスプレイに表示されるでしょう。非通知では怪しいですし、貴女の自宅の固定電話から掛けることが最善だと考えました」
木谷の言葉に納得し、無断で欠席したことになっていないことが分かり胸を撫で下ろす。欠席をあまりしない美里が無断欠席をしてしまうと周囲が怪しむ可能性が高いので、連絡を入れたのだろう。美里宅の固定電話の話が出たところで、ふと美里はダンボールでまとめられていた自宅の荷物を思い出す。あれらの荷物は一体どうしてまとめられていたのか。いや、荷物よりも長年暮らしてきた自宅は、どうなったのだろうか。湧き上がる一抹の不安を抱きつつ、問いを投げかけた。
「……あの、固定電話から掛けたって言いましたが、私の家とか、どうなったんでしょうか……」
恐る恐る尋ねると、木谷は美里が予想だにしていないことを口にした。
「ご自宅にあった物は売却や破棄をし、部屋は解約しました。貴方の私物も、学校の物など一部を除いて残しておりません」
「な……!」
思わず声を上げて立ち上がるが、立ち眩みを起こしふらふらと椅子にへたり込む。働かない頭をフル回転させ、木谷の言葉を反芻する。
売却した? 破棄した? 解約した?
そんな、勝手に、どうして?
胸の内にふつふつと湧き上がる激しい憤りに耐え切れず、声を上げた。
「なんで、そんな、勝手……! ひどい! 物を勝手に捨てたり売ったり、しかも家を無くすなんて! 私の帰る場所を勝手に無くして! それに、あそこは思い出がたくさんある場所なんです! お父さんとお母さ--」
母の名前を出しかけたとき、美里の言葉はぱたりと止まった。
父との思い出はいくらでも思い出せる。レコードのことや、忙しいのに遊園地に連れて行ってくれたこと、高校受験のとき進路で少し揉めたこと……だが、母との思い出だけは、これっぽっちも思い出せない。
母は美里が小学校六年の時、病院で亡くなったと聞いた。聞いたというのは、美里は母を亡くしたショックで、当時の記憶をあまり覚えていないからだ。いくらショックだったとは言え、必死に頭の中を掻き回してもなに一つ思い出せることがないのは、おかしいのではないか。思い出せない以前に、今まで父との思い出に浸っていたことはあっても、母との思い出は思い出そうともしなかったことに気付く。
そう、それはまるで、故意に思い出さなかったような--
「--貴女は身内の借金により私に売られた身です。文句など言える立場ではないでしょう」
突然黙り込み狼狽していた美里に、木谷が話しかけたことで我に返った。木谷は美里をただ見据えている。
「それに、貴女の継母からはとっくに了承を得ています。諦めなさい」
「それでも--」
「--ご自身の立場を理解されていないのですか?」
抑揚がない、聞いた者が血まで凍りそう冷たい声。美里の背筋にゾクリと冷たいものが這い、顔が強張った。
「戸籍以外の契約の上で、正式ではないですが貴女は私に買われた身。さらに言えば、貴女は一度売られる予定だったのがこうして保護されました。むしろ感謝されるべきだと思いますがね」
ぐうの音も出ず、押し黙る。美里には木谷の言葉に言い返す度胸も立場もないが、何か言いたげに口を金魚の方に開閉しては、結局大人しく閉ざす。俯いてこっそり嘆息を吐いたとき、木谷の言葉に疑問を抱いた。
「あの、正式じゃないってどういうことですか?」
「言葉の通りです。あの書類は国による正式書類ではありません。正式な人身売買の契約書など、あるわけないでしょう」
深く考えてみれば、この国が人身売買を了承しているわけないとようやく気が付き、安直に契約書の文面を鵜呑みにした自身を恥じる。木谷が用意した書類が正式なものでないのなら、美里はここに居る意味もないはず。ましてや、この不当な取引の痕跡が文面上であるならば、それを証拠に警察に駆け込んで保護してもらえるだろう。そうすれば、この男から逃げることができる。
微かに差し込んできた望みに胸を高鳴らせた美里を見て、木谷は口を開いた。
「--美里さん。貴女今、逃げられると思いましたね」
ドキリとし、顔を上げる。なぜわかったのだろうかと動揺する美里に、木谷はさも当然という口調で続けた。
「貴女と同じような境遇の債務者を星の数だけ見てきましたから。大概同じようなことを考えるので、貴女がどのようなことをお考えになられたか、想像するのは容易いです。さて、そこでお聞きしますが、なぜこのような不当な取引は無くならないのでしょうか」
「それは……」
唐突に問われ当惑する。近年、そのような不当な取引に対する取り締まりは厳しくなっている筈なのに、なぜ無くならないのだろうか。世の中にはちゃんとした金融会社があるのにも関わらず、所謂債務者と呼ばれる彼らは、どうして木谷たちのような者たちから借り入れるのか。
「我々のようなところに金を借りるような人たちが、完全に潔白な人物ばかりだと思いますか? 他金融を踏み倒しギャンブル中毒になった人、麻薬に手を染めている人。そんな方々が、計らず自身も逮捕されるかもしれない中、警察に駆け込めるとお思いで?」
「で、でも、母は少なくともそんなことは……」
「--なぜ、調べてもいないのにそう思うのですか?」
木谷の言葉に、目の前が暗転した。崩れそうになる身体をなんとか保ったのは良いが、腹の底から吐き気が込み上げる。木谷の言葉を脳内で何度も反芻しても、理解することができない。
「な、に……?」
「よくお考えなさい。貴女の継母は、そんなに誠実な人でしたか?」
「え……」
「少なくとも、私は不誠実で、連れている男性に言いなりになっていて金銭にだらしがない方だという印象を受けました。そして、この借金は貴女の継母とお連れの男性のものだと聞いております。金額にして、おおよそ一千万。貴女が懸命に例のバーで身体を売っても容易に返せる金額ではない。それほどの金額を、美里さん、貴女一人に背負わせたのです」
込み上げて来るのは吐き気のみならず、涙もそうで。気が付けば、木谷の話をしゃくりあげながら聞いていた。
もう我慢ならなかった。どんなに不誠実でも、嫌われていても、心の底では信じたい気持ちの方が大きかったから。頬に伝う涙を必死に拭うが、涙は止まるどころかひっきりなしに流れる。自分でも馬鹿だと思う。なんで、そうまでして信じたかったのか分からない。売られて悲しいというより、裏切られたという気持ちが大きかった。
部屋には美里の嗚咽と、時計の秒針が進む音が反響する。
カチ、コチ。
カチ、コチ。
泣き止む様子が見られない美里に、木谷は口を開いた。
「美里さん。顔を洗いなさい」
「ぅ……っ、ぐすっ」
「そして身体が平気なのであれば、入浴しなさい」
「……え?」
面食らい、顔を上げる。目の前にある顔は、相変わらず無表情。その無表情の顔のまま、頭を抱えるようなことを口にした。
「出掛けますよ」
* * *
「あ、あの」
「なんですか」
「えっと、なんですか……? これ……」
戸惑う美里の手元にあるのは、つい先日発売されてばかりのスマートフォン。
前回よりも一回り小さくなったが、そのかわり性能が良くなったと一部メディアが報じていたのは記憶に新しい。今話題のスマートフォンのピンクを、美里は手にしていた。
木谷が突拍子もなく外出すると宣言したのは、約二時間前。背中の傷は未だに痛むが、入浴ができる程には熱が下がっていたため、慌てて入浴したり傷の手当など身支度を整えていると、だいぶ日が高くなっていた。ちなみに、着替えは美里が伏せっているうちに数着持ち出していたらしく、そのうちの一着に袖を通した。支度が済むとすぐに部屋を出て車に乗り、移動先は告げられないまま発進する。美里は移動中、車の外の景色を眺めながら、先ほどの木谷とのやり取りを思い出す。
改めて突きつけられた事実を信じたくなくて、でも心はショックを受けていて。本当は、ずっと前からこれから先好かれることはないと分かっていたのに、ただただ理解したくなくて目を背け続けていた。
まるで駄々をこねる子どもだ。私のことを好きになってと泣き喚く、子ども。
もう美里は木谷に買われた身であり、これ以上継母のことを考えても仕方ない。そう自身に言い聞かせ深呼吸をして心を落ち着かせていると、木谷の車がとある建物の内の駐車場に入った。
「え? ここ……」
驚いて木谷と前を交互に見る美里を気にせず、車は駐車する。
「車から出なさい」
「あ、あの……?」
「行きますよ」
催促され、車外に出る。状況を把握できず困惑している美里を置いてさっさと先に行く木谷に、美里は慌てて追いかける。
訪れたのは、都内最大の店舗数を誇るショッピングモール。日用品やブランド品、はたまた飲食店やスーパーなどなんでも揃っており、その種類の豊富さから美里が以前から一度訪れてみたいと常々思っていた場所だ。物珍しいのと、来てみたかった場所に訪れた喜びで周囲をキョロキョロと見回していると、木谷が店舗に入ったので急いで入った。
そして、美里は気がつけばスマートフォンを手にしていたのだ。
「貴女の携帯です。今後連絡はそちらに致しますので、肌身離さず持っていなさい」
「私の……?」
「流石に私がピンクなど持っていたらおかしいでしょう」
確かに、木谷のような中年の男性--しかも相当厳つい--がなんでもない顔でピンク色のスマートフォンなど弄っていたら、違和感しかないだろう。しかも、今回のシリーズは前回よりもサイズが一回り小さいので、手が大きい木谷が持ったら不恰好に見える。木谷がスマートフォンを持っている姿を想像して、美里は耐えきれず吹き出した。
「……なにがおかしいのですか」
木谷の声色から不機嫌にさせたかと肝を冷やして恐る恐る表情を伺うも、どうやら怒らせてはいないようだ。だからと言って機嫌が良いわけでも無さそうだが。ほっと胸を撫で下ろしながら、そんな木谷の様子を見て、美里は考えた。
人間だから感情がないというわけではないはずなのに、木谷は表情も口調も、ずっと一本調子のまま。感情を表現するのが苦手なのだろうか、と思ったところで、席を外していた携帯ショップの店員が戻ってきた。
諸々の契約や設定をし終え、真新しいスマートフォンを手に店から出る。てっきりこのまま帰るのかと思えば、木谷は携帯ショップの近くにある若い女性向けのファッションショップを見て言った。
「これから洋服やその他必要な物を買います。そうですね、およそ十万ほどで買い揃えましょうか」
「私、そんな大金持って--」
「なにをおっしゃっているのですか。私が出すに決まっているでしょう」
「え?!」
予想だにしていなかった一言に思考が停止した。木谷の考えることがなに一つ分からず、発言一つ一つ度肝を抜かれ大変心臓に悪い。素知らぬ顔で歩き出した木谷の後をおろおろしつつ小走りで追いかける。
「木谷さんこそなに言ってるんです! い、いりません!」
「貴女の私物はほとんど破棄して残っていないのですよ」
「それなら自分で買います!」
「貴女は今現金を十分にお持ちですか? 持っていないでしょう。ほら、早く行きますよ。早く行かないと私が全て選びますよ。洋服から下着まで」
木谷の言うとおり、一応財布は持って来ているが肝心の中身は数千円と、洋服を買うには少なすぎる。なにより、下着まで選ばれてはたまったものでは無い。どぎまぎしながら、半ば渋々木谷の後に着いて行った。
* * *
まさに目が回るような一日だった。
いや、実際目がぐるぐると回っている。大抵ショッピングは女性が男性を振り回し、クタクタにさせるとのが一般的であるが、今回は全くもって真逆。木谷が店舗に入り、それを美里が追いかけて商品を選び購入していく、というスタンスだ。
足が棒になるほど買い歩き、ひと段落してモール内の飲食店で夕食を済ませた頃には、だいぶ夜も更けていた。未だかつて買ったことのない大量の荷物を車に押し込み、ようやく助手席に腰を落ち着かせた時、今まで張り詰めていた緊張と疲れがドッと押し寄せ、背もたれに沈む。また熱が上がってきたのだろう。怠慢感と熱さで意識が朦朧とする。
「熱が上がってきましたか」
いつの間に発進していたのだろうか。顔を上げると、視界には赤色の信号機が目に写った。
「はい……多分」
「今日はだいぶ無理をさせましたからね。休んでいなさい」
いつも通り抑揚のない声だが、優しく聞こえるのは熱のせいだろうか。美里は驚いて木谷を見るが、木谷は正面を見ていて視線が合わない。木谷の精悍な横顔を見ながら、働かない頭で今日はなぜこんなに優しいのかと考える。
一昨日美里に酷いことをした罪滅ぼしかと思ったが、すぐに違うと否定する。あくまで美里は木谷に--正式ではないとはいえ--買われた身であって配慮する必要もないだろうし、なによりそこまでの価値が自分にあるとは到底思えない。
熱で頭がぼーっとしているせいか、気付けば思ったことがそのまま言葉になって出ていた。
「木谷さんって、何者なんですか」
出会った当初渡された名刺に書かれていた金融業という職業は、恐らく偽りだろう。一般的な金融会社なら、こんな目に余るような借金の取り立て方なんて絶対しないだろうし、人身売買なんて以ての外。答えはほぼわかっているが、はっきりさせたくて口から出ていた。信号が青になって、車を発進させながら木谷は答えた。
「金融会社の代表取締役です」
「そうではなくて……」
「表向きは。真相は、裏で様々なことをしている暴力団に属しています」
わかっていたとはいえ、改めて耳にすると背筋を凍らせ、熱とは別にくらりと目眩がした。これから先、自身はどうなってしまうのだろうかという不安が、再び呼び起こされる。
「--後部座席にある、水色の小さな紙袋を取りなさい」
一瞬、なにを言われたか分からなかったが、木谷の指示通りに慌てて後部座席に置いてある紙袋を取る。紙袋には美里の世代で人気のファッションブランド名が記しているが、今日買い物した中で美里はこのブランド店を訪れていない。首を傾げながら木谷に手渡すも、「貴女の物なので開けなさい」と言われた。ますます不思議に思い開封すると、そこには黒をベースとした、白い小さなリボンが中央についている長財布が入っていた。
「これ……」
「貴女の財布が相当くたびれていましたから」
確かに、美里の財布は小学校高学年の時から一度も買い替えていないため、デザインも古く幼稚で、なによりボロボロ。買い換えようにも少ないお金をそちらに回すのに躊躇し、結局長い間ボロボロのまま使っていたのだ。財布のあまりの可愛さに手に取り、質感や具合を確かめるようにして、手をせわしなく動かす。いつの間に買ったのか尋ねると、「貴女が買い物に夢中になっている時、直ぐ隣に隣接していたので」と回答を得た。
「……どうして」
気付けば、口に出していた。
「どうして、ここまでするんですか。私、木谷さんに買われたんですよね? そんな私に、ここまで……私、自分に利用価値があるとは、到底思えません。なんで、私を買ったんですか?」
木谷の考えていることが全く理解できない。大金をポンポン出して美里に物を与えるのも、美里を買った理由も。そもそも美里を買ったこと自体がマイナスなはずであり、少しでもお金を取り戻すためにはそれこそよろしくないことをさせようとするのではないのか。
だのに、したことと言えば鞭で叩いたくらい。そして今日は罪滅ぼしとでも言うように散々物を買い与えた。
酷い人かと思えば、優しくされて、でも言動は厳しくて。頭がぐちゃぐちゃする。
眉をひそめて困惑する美里に、木谷はただ、
「気まぐれです」
と答えた。
「こうして貴女を買ったのも、物を与えるのも、全て気まぐれです。美里さん」
本当にそうだろうか、と美里は思ったが、熱と怠さが勝り聞き直す気力が彼女にはない。
「物を貰って嬉しくありませんでした?」
「……嬉しかった、です」
「では、年相応に喜びなさい。笑って礼を述べなさい。それが一番、貴女にできる最低限の義務です」
高圧的な物言いなのに、もっともだと思ってしまうし、恐ろしく感じないのはなぜだろうか。まごつきつつも、へにゃりと情けなく口角を上げる。
その笑顔は、情けなくて破顔とまではいかず物足りないものであったが、久々に見せた美里の笑顔だった。
「ありがとう、ございます」
「よろしい。他になにか必要なものがあれば言いなさい」
まだなにか買うのかと苦笑いする。流石にまだ思いつかないと首を横に振った時、「そう言えば」と木谷が続けた。
「午前中はごたついていたので説明しきれていませんでしたが、私の家の一室に貴女の部屋を設けました。そこに一部の物と、学校の物を置いておきました」
学校。
その単語を聞き、ぼーっとしていた頭が一気に覚醒して小さな悲鳴を上げる。自身が大変な目に遭っていたから、すっかり忘れていた。
担任から再三せっつかれていた、三者面談のことを。




