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痛い。
痛いよ。
やめて、お願い。
私がなにをしたっていうの。
やめて、やめて。
助けて、 。
「お入りなさい」
低い声にびくりと身体を跳ね上げさせ、美里は恐る恐る後ろを振り返る。二人立っても余裕がある広々とした玄関のドア付近に立つ男の無言の圧力に怖気付き、美里はローファーを脱いで中に足を踏み入れようとして止まった。
だが、先ほど帰宅中水たまりに入ったことにより靴もろとも靴下すらぐっしょり濡れていることを思い出し、一瞬戸惑ったが木谷が美里を促す。悩んだ末靴下を脱いで廊下に踏み入れた美里の足を、冷たいフローリングが冷やした。
「あの」
美里に続いて中に入ってきた木谷に、美里が話しかけた。
「あ、ありがとうございます。あの時、助けてくださって」
一時間ほど前の事を想起し、美里はほっと息を吐く。あの時、木谷からの申し出がなければ今頃美里はどうなっていたことか、皆目見当もつかない。
* * *
「……だ、誰……ですか……」
ようやく絞りだした声は酷く細く、震えていた。声だけではなく身体も震え、気を抜いたら今にも座り込んでしまいそう。
そんな彼女に対してサングラス越しに冷たい目線を送る男は、一体誰なのだろうか。
継母の知り合いなら継母が側にいるはず。しかし、その継母は側にすらおらず、家に居る気配もない。
「誰ですか、なんて口利いてんじゃねぇよ」
突然、美里の背後で拘束している男が突き飛ばす。足がしっかりしていなかったため、小さい悲鳴を上げて物に叩きつけられた美里はその場に崩れ落ちた。
痛みに顔を歪めながらぶつかった場所に目線をやると、天井まで届くほど積まれているダンボールがいくつも置かれていた。何故こんなに多くのダンボールがあるのだろうかと疑問に思いながら、周囲を見て目を丸くする。
物が無くなっているのだ。
テレビも、机も、電話も、生活用品物から家具まで、全部。
かろうじてソファーだけは男が座っていたためかリビングの中央にあるが、言い換えるとそれだけしかない。あとは、ダンボールの山。
「な、に、これ。どういう、こと……」
声が震えて上手く言葉が発せられない。短時間で手に余るほどの急激な変化を見せつけられたのだ、無理もないことだ。
そんな美里の様子に、美里を突き飛ばした男は気にくわない様子。
「だから、そんな口き――」
男がなにかを言おうとしたが、それは最後まで続かなかった。ソファーに座っていた長身の男が、突き飛ばした男を足払いしたのだ。
「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げて床に転んだ男の頭を、長身の男が思い切り踏む。しかも、踵で。
「誰が勝手に手を出して良いと言いましたか」
長身の男は確実に人間の痛がる場所を熟知しているのか、こめかみを思い切り踏みにじる。相当痛いのだろう、踏まれている男は悲痛な叫びを上げて許しを請う。
「ふぐ、ぁっ、す、すみませ、その、小娘が、生意気、だから」
「まだ従順な方ですよ。貴方は今までなにを見てきたのですか。ただ私の後ろを腰巾着宜しく着いてきていただけなのですか? 屑が」
「や、やめてください!」
今度は踵で何度も踏み付けるのを目の当たりした美里は、自分の立場も忘れて声を振り絞って止めた。途端、今まで苛烈に繰り返されていた蹴りはピタリと止み、長身の男は美里に目線を向ける。
背筋が凍えた。
だって、わからないのだ、男の感情が。
サングラスをかけているからではない。通常、顔が見えなくても息遣いや仕草、雰囲気である程度喜怒哀楽は分かるもの。
だが、彼にはそれらが全く感じられない。先程まで暴力を繰り広げていたのにも関わらず。怒っているのか、苛立っているのかも、全く。
息を詰まらせて後ずさる美里を長身の男はただ見下ろす。しばらくして、長身の男は足をどけて美里はほっと胸をなで下ろす。
「お優しいのですね、貴方は」
酷く抑揚がない低い声に、身震いする。恐る恐る長身の男を見上げると、男は美里を見下ろしていた。
……いや、見下していたといった方が正しいのかもしれない。
「だからこそ、貴方は騙される」
なにがだからこそ、なのだろうかと訝しげに男を見上げる。そもそもこの人達は誰なのか、一体なぜ美里の自宅に居るのだろうか。
美里の疑問に気付いてか、男は口を開いた。
「申し遅れました。私は[[rb:木谷正義 > きたにまさよし]]。こちらの男は[[rb:愛染正紫 > あいぜんまさし]]。彼の存在にはあまりお気になさらなくて結構です」
木谷と名乗った男は黒い革製の手袋を嵌めた手で懐から名刺を取り出し、美里に渡す。つい礼を述べて受け取り目を通すと、そこには彼の名前と共に金融会社の名前が書いてあった。
心当たりない社名だが、木谷はそこの取締役社長という地位らしい。目を丸くして木谷を見るが、彼曰く「小さい会社なので大したことはない」らしい。
そんなことより、なぜ金融会社の社長がなぜこんなところにいるのか。木谷は首を傾げる美里をよそに今度は近くにあるピカピカに良く磨かれた黒い革製の鞄からなにかを取り出す。
美里の目の前に出されたそれは書類だった。つらつら細かくなにかが書いてある最後に、継母の名前と隣には母印もされている。
「これは?」
木谷と美里の間に距離があり、目を皿のようにして書類を読もうとするも細かすぎてよく読めない。必死に読もうとする美里に、親切心からか木谷が口を開く。
「借用書です」
しゃくようしょ?
舌足らずに男の言葉を繰り返す。借用書の意味を必死に考えるが混乱して戸惑うばかり。そんな美里の頭上から氷のような冷たい声が続く。
「貴方の継母の借金です」
継母という単語を聞いて美里は眉をひそめた。まさか、そういった事に手を出していたなんてという気持ちと、やはりそうだったのかと認めてしまう気持ちとが矛盾しながらも交差する。
だがしかし、継母の借用書をなぜこの男が持っていているのだろうか。緩慢な動きで顔を上げると、サングラス越しに木谷と目があった、気がした。
「ここには、貴方の継母が借金を返済できなければ自身の保身を守る代わりに、貴方と遺産は全て私に渡す、とあります」
――今、この男はなんと言っただろうか。
呆然とする美里に、木谷は続ける。
「要するに、貴方は継母に捨てられたのです」
美里の頭に、木谷の言葉が鈍器となって殴りかかった。
木谷の言葉が信用できず、木谷が持っている借用書を半ばもぎ取るように奪って食い入るように読む。
そこには確かに木谷が言ったような事が書き連ねていた。
脱力した身体を保つ事が出来ず背後のダンボールに寄りかかる。
前から継母とは仲が良くなかった。いや、仲良くなかったの次元を超え、疎まれていたことは明白であった。
だというのに関わらずこの少女は継母と和解する日を信じて、夢見ていたのだ。そう、馬鹿の一つ覚えのように。
継母を信じたいと、全て嘘だと思いたかった。
「可哀想に。心中お察しします」
全く心が籠っていない常套句に思わず木谷を睨みつけるが、直ぐに怖じ気付いて目を反らす。木谷は美里が強く握りすぎて多少シワが寄った借用書を彼女から抜き取り、鞄に仕舞う。
木谷の鞄の中に吸い込まれた書類を見届けた後、美里は脱力しダンボールに寄りかかる。ぼんやりと、なぜ金融会社が人身売買染みた取引などできるのだろうかという疑問が湧いた。
木谷に聞こうとすると、それを察してかすぐに答えが飛んでくる。
「私達がただの金融会社でないことは、すぐにお分りになられると思いますが」
ただの金融会社ではない、ということは……
理解した瞬間、乾いた笑いが漏れる。継母はなんというところから金を借りたのだろうか。
もう、短時間でとんでもない事が起きすぎて美里の頭では処理しきれなくなっていた。
「いてて……それで、正義さん。この娘どうしますか?」
ようやく頭をさすりながら立ち上がった愛染は木谷に指示を仰ぐ。自身のことかと身体を震わせる美里を見ながら木谷は間髪入れずに言った。
「うちの傘下が運営してるガールズバーにでも連れて行きなさい」
ガールズバーとは、二十代半ばくらいの女性がバーのような店内で男性と談話することを目的としたお店だ。俗に言う身体を売れという事ではないのかと内心胸をなで下ろしたが、男はあぁ、と声を上げた。
「あそこですか。確かあそこ裏で女の子ヤク漬けにして回す公開ショーがあるところでしたよね?」
ヤク漬け? 回す?
聞きなれない言葉耳を疑う美里に、男は口を弧にさせる。
「お前みたいな事情がある小娘が親や友達、恋人の借金を返すためだとか騙されて行かされるところだよ。結局返済する前にオカシクなって終わるけども」
くらり。
突然の目眩に頭を抑える。意味がわからない、もうなにも、理解したくない。
美里が可哀想なくらい顔を真っ青にして震えている前で木谷は男の頭を叩いていた。
「全く、余計な事しか言えないのですか、貴方は」
「いてっ、でもやっぱり自分の行く末くらい教えてあげた方がいいと思いまして」
「とんだ茶番ですね」
愛染はなんとも下卑た笑みを浮かべて美里をゴミを見るような目で見やる。いや違う、ゴミではない、「商品」を見る目だ。
後ずさろうとするが背後にあるダンボールのせいで後ろに行けず、かと言って立ち上がって逃げようにも足が震えて言うことを聞かない。今ほど自身の小心者さを恨んだことはなかった。
二人の男から注がれる冷たい目線に耐えきれなくなり、遂に美里は目に涙を溢れさせてしまった。
「……あーぁ、泣いちゃったよ。めんどくさい」
愛染は至極めんどくさそうに眉をひそめ、美里の腕を掴んで立たせようとするが力が抜けているため立てない。舌を打って殴りそうになるが、木谷の目があるためそれは控えた。
「や、だ」
ようやく足を震わせながらも立った美里がはじめの一言は、それだった。
「は?」
「や、や、やだ、いかない、いきたく、ない」
完全に顔色を失い、歯の根が合わない中必死に主張する。行きたくない、そんな恐ろしいところ行きたくないとなんとか腕を振りほどこうとしながら言うが、痺れを切らせた愛染が美里の胸ぐらを掴んだ。
「あのなぁ、そんなことこっちにとってはどうでもいいんだよ。行く行かないじゃなくて、金返せって話」
「だ、って、わたし、知らな……」
「知らないじゃないだろ? 血が繋がっていないとはいえ親類の尻拭いくらいしなよ、美里ちゃん」
軽く突き飛ばすように手を離すが、それだけでよろけてしまう。なにか言い返さなくてはならないことは分かっているが完全に思考が停止してしまい、口から出るのは喘ぎに似た苦しげな嗚咽だった。
顔を下げて肩を震わせる美里が鬱陶しく思いつつ、愛染は美里の腕を掴んで無理矢理引き寄せる。
「それじゃ、この娘連れて行きましょうか。ここにあるのは多少売れて返済に当てられますかね。あ、荷物は後から別の人が持っていくのでいいですよね」
「貴方はいつ人の部下を指示できる立場になったのですか?」
再びどこかを殴られたか蹴られたかしたのだろう、上がる愛染の悲痛な叫びを聞きながら、美里はぼんやりと床を見た。継母からの思わぬ裏切りを未だに信じられず、ただ呆然とするのみ。
本当は逃げ出して助けを呼びたいという気持ちもあるが、もうそんな気力も体力もない。とにかく彼女はもう、疲れてしまった。
すっかり意気消沈してしまった美里を愛染は連れて行こうと、引きずるように腕を引く。ぽたり、ぽたりと美里の頰から伝わった涙がこぼれ落ち床を濡らした。
一体、自分は今後どうなってしまうのだろうか。本当にそのガールズバーに行き、薬漬けにされて身体を開かれてしまうのだろうか。
戦々恐々とした未来を連想し、カタカタと身を震わせリビングから連れて行かれようとした、その時。
「待ちなさい」
木谷に、呼び止められた。
愛染は歩みを止めて振り向くと、木谷はこちらに顔を向けていた。木谷の目線は美里の背に注がれている。
「なんですか、正義さん。そろそろ行かないと」
愛染が着用しているシルバーの高級腕時計の針は午後九時に差し掛かっている。夜も更けているため早く仕事を終わらせたいというのが垣間見えた。
黒髪で隠れた美里の顔を見ながら、木谷はとんでもないことを口にした。
「気が変わりました。彼女は私が預かります」
木谷の突拍子もない提案に、愛染は度肝を抜いてヘンテコな声を上げる。驚いたのはもちろん美里もそうで、驚愕のあまり涙が引っ込んで床を見ていた顔を上げるほどだった。
愛染は木谷に対して疑問や反対を幾数も投げつけたが、それらを跳ね除け――というより愛染の存在自体を無視して――美里に投げかけた。
「薬漬けにされて不特定多数の男に強姦されたのち孕まされて死んでいくのと、私の元に来て今よりも良い暮らしをするの、どちらがよろしいですか」
突飛もない提案が思考が停止している美里にぶつかる。頭の中が真っ白なのに答えを求められ至極困り果て、しかし上手く考えられない頭で必死に考えた。
愛染が何かを言っているのはわかるがその内容が耳に届かないほど、必死に。
「――私、」
考えた結果、出た答えは。
「私、貴方について行きます。いえ、行きたい、です」
木谷の元へ行くことだった。
* * *
それから、木谷は美里を連れてさっさとその場に愛染を置いて駐車場まで行き、自身の車に誘導する。ワックスがよくかけられている黒塗りの乗用車は、車に疎い美里にも直ぐに高級な物だと悟り萎縮するが、低い声で催促されて恐る恐る助手席に乗り込んだ。
後のことは、よく覚えていなかった。
恐ろしさやら疑問やらが胸の内に渦巻き余裕がなかったからだ。車内で木谷と二、三言葉を交わしたような気がするが、その内容もはっきりと覚えていない。
ずっと膝の上に置いた手を見ていてどこをどう通って木谷の自宅に着いたのかもわからないが、そんなに時間はかからなかったようだ。
そして、いかにも高級だとわかる外観のマンションの正面玄関のオートロックを解除し、上の階までエレベーターで登って、今に至る。
そんなこともあり、美里はお礼が言いたかった。混乱状態だった美里にとって木谷の申し出は、まさに天から手を差し出されたかのような心持ちだ。
玄関に上がった直後述べられた礼に、木谷は一瞬美里を見るがすぐに反らされる。
美里の言葉に返答はなかった。元から口数は多い方ではないのだろうと木谷の様子を見て推測した。
借りてきた猫のようにフローリングの廊下を歩く美里を、木谷は観察するようにじっと見つめる。サングラス越しに目線は未だ氷のように冷たい。
自宅に着いてもなおサングラスを外さないことに違和感を覚え、外さないか聞こうとした時木谷が先に口を開いた。
「全身濡れていましたね。風邪を引かれては困るので、一先ず入浴しなさい。脱いだ制服は私がハンガーにかけますので、脱衣所に置いておきなさい」
後から着替えを持ってくると言われながら、有無を言わせず廊下の途中にある浴室に通される。雨に濡れている制服は満足に拭けておらず、このままでは皺になるだろう。
脱衣所の扉を閉められ、戸惑いつつま濡れた制服を丁寧にたたみ、下着類は隠すように置いてやたらと広く綺麗な浴室へと入った。玄関から脱衣所、浴室しか見ていないがよく掃除が行き届いており、几帳面なことがよく分かる。
浴室に置いてあるアメニティーグッズを拝借して全身を綺麗に洗い、ゆったり寄りかかれる程広い浴槽に浸かった。寒さに凍えた体に熱めのお湯は多少チクチクと肌に刺されるような痛みが生じるが、それもすぐ気にならなくなるぐらい芯からポカポカと温まっていく。
浴槽の中で思い切り伸びをし、静かな空間の中体を預けながら、思い返す。
「……どうして、こんなことになってるんだろう……」
ここ数時間の間に起きた怒涛の如き出来事を思い返す。苛烈な出来事が休む暇もなく押し寄せ脳内での処理が仕切れず、気付けば木谷の家にいた。
……自分は、本当に継母に売られてしまったのだろうか。
未だに信じられない。いくら嫌われていたとはいえ、借金の肩代わりにされるどころか売られてしまうなんて。
彼女はその残酷な事実を素直に受け入られるほどの心持ちがなかった。だから、あの場でただ呆然としてしまったのかもしれない。しかし、本当に意味が分からないのはその後だ。
なぜ、木谷は美里を買い取ろうと思ったのか。
美里は格別美しいとかスタイルがいいだとか、性格が飛び抜けていいだとかそんな魅力はない。学校の成績が中の下ということ以外は、極めて平均に近い少女である。
美里も自分に自信がない程なのに、なぜ木谷はこうして連れてきたのだろうか。様々な疑問が湧き出てくるが、それは後で聞けばいいかとほどよい心地良さに目を閉じた。
お風呂から上がると制服がなくなっていて、ハンガーにかけられたのだ思った。制服があった場所に明らかに木谷の部屋着だと思われる灰色の大きい衣服が置いてあり、いくら物がないからと言って男物に袖を通すことに抵抗を覚えるも、直ぐに諦めた。
ちなみに、下着は部屋着の下にあって恥ずかしさのあまり穴の中に入りたい気持ちにかられたことは言うまでもない。
リビングに足を運ぶと、ちょうど木谷がコーヒーを淹れていたところだった。こんな夜にコーヒーを淹れるなんて、 と思っている美里に、木谷がコーヒーが入ったカップを渡す。
やはり有無を言わせず渡してくるので渋々と受け取り、リビングの中央にある机を挟んで並ぶソファーの一つに座る。
コーヒーに口を付けてみると、絶妙な苦さと砂糖の甘さで、思わず息をつく。コーヒーに夢中になっていると、向かいに座っている木谷がコーヒーを飲みながら言った。
「美里さん、明日は学校ですか」
木谷の問いにキョトンとした顔を作るも、直ぐに「はい」と即答する。明日は特別な休日もない金曜日で、一般的な学生は登校日だ。
なぜそんな当たり前のことを聞くのだろうと思っている矢先、コーヒーカップをソーサーの上に置きながら木谷は「左様ですか」と答えた。その手には未だ手袋が嵌められていて、サングラス同様なぜ自宅でも嵌めているのかと不思議に思う。
「明日は学校に登校できないと思いなさい」
木谷の一言に、美里はさほど驚かなかった。
というのも、今はこうして比較的友好的――と言っても、木谷の表情が全く読めないため真意はわからないが――だが、あくまで美里は継母から売られた身。どのように扱うも木谷の自由なのだ。
多少のことは覚悟をしているが、予測不可能な未来に怯えているのは事実。一体この先どのようなことになるのだろうかと身構えている美里に、木谷はつらつらと話し出す。
「もうお分りの通り、貴方は私に買われました。今後なにをするにも、私の許可なく行動できません。通学することから遊ぶことまで、全てです」
「……それって……」
「えぇ、ほぼ軟禁状態だと思って頂いて構いません。なにせ貴方は私の所有物となったのですから、貴方が起こした出来事は全て私の責任となります。くれぐれも私の顔に泥を塗るような事をしないように肝に銘じておきなさい」
抑揚のない声色だが、言葉の端々がなんのも刺々しい。萎縮している美里に気付いているのかいないのか不明だが、木谷は一旦コーヒーを口にする。
木谷の口元を見ながら、美里はポツリと呟いた。
「……所有物、ですか」
まるで、美里という一個人を「無機物」だとほざくような。あくまで美里は物であり、人ではないというように。
いくら売られた身とはいえ人権の尊重だとか、平等だとか、男尊女卑の撤廃だとか言う世の中でそこは理解し難い事だった。抗議しようと口を開けようとした矢先、木谷が畳み掛けるように言葉を乗せる。
「貴方には選ぶ権利も、拒否する権利もありません。貴方を保護する立場であった方自らの申し出であり、なおかつ貴方を養う事を放棄したのですから。言い方を変えれば、貴方に唯一あれこれ口を出せる人物が、私に権利を渡したのです。しかも金のために。おかしな場所に売られなかっただけマシだと思いなさい」
おかしな場所ということは、あの時愛染から問われなくても当初から例のガールズバーに売られることになっていたのか。ぐうの音も出ず口籠もりながら、ゾッと身体を凍らせる。
木谷の意見は最もだった。本来美里を養う責任がある継母はそれを放棄し、木谷に渡したことで未成年の美里は木谷の意見を聞かざる得ない。
それが例え法外であっても、今の美里には警察に駆け込むことはおろか、第三者に助けを求めることもできない。もし助けを求めたりしたら……あり得ない例え話を考えて再び身を震わせた。
だが、やはり疑問を抱いていることがある。なぜ美里は木谷によって引き取られたのか。
どう考えても木谷に利点などなく、むしろ負担が増えたに過ぎない。その理由を木谷に聞こうにも美里は小心者すぎたが、手を震わせながら無い勇気を振り絞って口を開いた。
「では、なぜ、私を引き取ったのですか」
若干声が震えてしまい木谷にちゃんと伝わったか分からないが、木谷がカップをソーサーに戻し顔を上げたあたり、聞こえたのだろう。サングラス越しに、木谷は美里を見つめる。
「貴方ほど、察しの悪い女性も珍しいですね」
彼は開口直後に嫌味を言う性格なのだろうか。多少ムッとしながらなんのことかと問うと、サングラスのブリッジを押し上げながら、耳を疑うことを彼は口にした。
「私に身体を暴かれるためですよ。美里さん」
「や、やだ、やだ、やめて、お願い、します。やめて」
歯の根が合わずガチガチと鳴る。頭が真っ白になりながら本能から逃げようと、掴まれている手をなんとか振り払おうとするが力で勝てるわけがない。
美里を一切見ずつかつかと真っ直ぐ進む正義の背中が、無性に恐ろしかった。一瞬、同じような背中を以前にも見たことがある気がしたが、全く思い出せない。
無駄な抵抗をしているうちにどこかの部屋に続くドアを開く。見たくない光景が、美里の目に飛び込んだ。
「ベッドの上に乗りなさい」
明るさを調整出来る蛍光灯を周囲が微かに見渡せるくらいまで暗くしながら、木谷が言う。連れてこられてのは、広い部屋の中央にポツンと寂しく寝具が置かれた、寝室だった、
手を離されたためこのまま走って逃げられるかもしれないが、逃げて後々もっと恐ろしいことになると思い、大人しく従う。漆黒のシングルサイズのベッドの上で思わず正座をした。
背後からは布が擦れる音が聞こえ、見えないことが余計恐怖を情緒するが、振り返ってなにをしているか見られるはずがない。
怖い。
なにをされるかわからないと思いたいが、わかってしまう自分が憎い。売られる時と似た恐怖に、美里は顔色を失っていた。
――初めてはせめて、好きな人が良かったな――これから起こりうるであろう未来を考え、強く目を閉じた。
「下着以外の服を脱ぎなさい」
背後からはなにかが擦れる音だとかが聞こえるが、そんなことより脱ぐという言葉に声を呑む。どうしようかと思案する美里の背後から催促され、仕方なしに大きくダボタボな部屋着に手をかけた。
腹まで捲ることが出来たが、それ以上脱ぐことはどうしてもできない。目に涙を浮かべ困っていると、背後から深いため息が聞こえた。
「貴方はいつまで私を待たせる気ですか」
仕方ないではないかと声を大にして言いたいけれど、口を開いて出たのは吐息だけ。唇を強く噛み締めて俯く美里の背後から、黒くなめらかな革で出来た手袋が出てきた。
驚いて顔を上げると、案外整った顔をしている木谷の顔が近くにあるではないか。男物の香水と混じった木谷自身の匂いが合わさり、なぜだかくらりと眩暈がした。
あまりにも近いからか、微かにサングラス越しの瞳が見えた。その目は冷たく厳しい目線であるが、どこか違和感を覚える。
なにか言おうとすると、美里が握っていた手の上に木谷自身の手を乗せ一気にめくり上げた。悲鳴を上げるのも束の間、あっと言う間に上着が脱がされピンク色のブラジャーが露わになる。
カッと顔に熱が集まるのがわかる。抵抗しようと手を動かそうとすれば両手を木谷に片手でまとめられた。まるで、美里の行動などお見通しというかのようだ。
「や、やだぁ! 自分で、自分でやるからぁ!」
羞恥心に耐えきれず大粒の涙を流し嫌々と首を振る美里なんぞお構いなしに、ズボンに木谷の手が伸ばされる。ゴム式のため下ろされただけでブラジャーと同じ色のショーツが露出し、嗚咽が漏れた。
服を脱がしている間、木谷は終始無言だった。泣きながらも木谷の機嫌を損ねていないかとビクビクと顔色を伺うも、怒ってはいなさそうだ。
ただ、面白くもなさそうな顔をしているが。
下着のみになった美里の白く瑞々しい若い肌を、手袋越しになぞる。不意に脇腹を指先で触れられ、急なことに驚いて声が出た。
鼻をグスグス鳴らしながら必死に身を丸めて身体を隠そうとする美里に、木谷は一つ、息を吐く。
それは呆れだとかイラつきだとかというより、感に堪えないから息をついた、という表現が近かった。
美里の肩を掴み、姿勢を正せると涙でぐしゃぐしゃな顔が出て、美里は惨めな気持ちになる。
「このまま動かないでくださいね」
今まで感じていた氷のように冷たい声ではなく、どこか低く色気のある囁きに思わず身構える。まだ涙は止まらないが、それ以上に胸が締め付けられるような感覚に戸惑う。
肌に粟が生じているほど恐怖に慄いているのにと、自身を叱咤した。そうこうしているうちに肌に何かが這うのを感じ、驚きのあまり悲鳴を上げ飛び退く。
「動かないでください」
直ぐ近くで耳に響く叱責に身体を凍らせる。元の位置に戻り身を震わせている美里の肌を再び何かが這う。ビクビクと身体を跳ねさせながら恐る恐る這っている物を見て、色を失った。
美里が固まっている間シュルシュルと音を立てて身体中を這い回り、あっという間に腕を後に回され拘束する。
美里の身体を這っていたそれは、縄だった。
「な、なに、なにこれ」
上半身に回された縄。多少身体は動けるのでそんなガチガチに縛られているわけでもないようだが、動くとそれが擦れてピリッとした痛みが走った。
緩めに縛られているとはいえ腕や息が苦しいことに変わりなく、呼吸が乱れる。短い呼吸を繰り返しながら自身の身体を見下ろすと些か寂しい胸元が強調されており、さっと頰に紅葉を散らす。
なぜ、このような状態になっているのだろうと思っていると、木谷に背後から顎を掴まれ顔を上げられた。
「――やはり、美しい」
ほぅ、っと息を吐く。先ほどの嘆息と酷く似ていた。
「貴方は初めてですからね。肌を必要以上に痛めてしまってはまともこもありませんので、縄は柔らかい素材の物にしました」
縄の上から指でなぞる姿に、美里はよる混乱する。まさか縛られるとは思わず戸惑っている美里をよそに、木谷はなにかを取り出したようだ。
「また縄かな」と呼吸が苦しい中ぼんやり考えていると、背中にひんやりとした物を当てられる。ピタ、ピタとなにやら確認するように何度か押し当てられた。
なにを当てているのかと考えていると木谷が美里から身を離した、瞬間。
ヒュンッ、と風を切る音と同時に、バチンッ、と高い音が、部屋に鳴り響いた。
途端に、上がるのは絹を裂くような甲高い悲鳴。
あまりに急なことで混乱する美里は、背後にいるであろう木谷に振り返る。木谷の手にあるのは、黒くて細い――
「……な、に、それ……」
蚊の鳴くような声を出した瞬間、再びバチンッと高い音が響き、悲鳴が上がる。二回続けて打たれた背中は、ヒリヒリどころかジクジクと熱を持ち痛みを発する。
バチンッ!
「っぁ!」
バチンッ!
「や、やめ、」
バチンッ!
「ふぐっ!」
続けて、三回も打たれた。
意味がわからない暴力に、なす術がない。耐えきれなくなり前のめりに倒れ、身体を横にする。背中が痛くて痛くて堪らなくて、もう何が何だか分からない。
みっともなく泣きそうになった時、今度は背中ではなく太ももに打たれた。陸に打ち上げられた魚のように身体を跳ねさせ、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら助けを請う。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お願いします、やめてくださ――」
美里はなにも悪くないのに、謝罪を口にしそれが言い終える前にまた太ももを打たれた。ひしゃげた声を上げて泣き叫ぶ美里に、木谷は目を細めて見下ろす。
木谷が手に持っているのは普通の物より生易しく思えるほど硬く、痛い――乗馬用の鞭だった。
通常、そういった趣味の人々が使うのはキチンとしたそういう用途として開発された鞭のみで、乗馬用の鞭を用いることはまずない。なぜなら乗馬用の鞭を人間に使用するには手加減が難しく、なおかつ最悪の場合皮膚がズル剥けてしまう可能性もあるからだ。
木谷は乗馬用の鞭を用いて美里の身体に鞭を打っているが、その肢体には赤く痛々しいミミズ腫れが這っているだけで皮膚は剥けていない。かと言って打たれた箇所は想像を絶するほど痛いことは確かで、なぜ打たれているか皆目見当もつかない美里にとってはパニックになる要因でしかなかった。
打つのをやめたのにも関わらず何度もなんども謝罪の言葉を口にする美里に、木谷は鞭を片方の手で軽く叩きながら見下ろす。鞭をベッドの上に置き、美里の身体を起こした。
ひっと怯え震える美里を背に手を回し赤く腫れた跡を手袋越しに爪を立てると、悲痛な声が上がる。
「ようやく分かりましたか?」
顔がぐしゃぐしゃなことなどお構いなしに、木谷は美里の顎を掴む。可哀想なくらい身体を震わせる美里には、木谷がなにを言っているかなに一つ理解できなかった。
「私の性欲の捌け口にされるとでも思いましたか? それは飛んだ間違いですね。貴方は、私の所有物になったのです。物になにをしようとも、誰もなにも言わないでしょう?」
ギリギリと跡に爪を立てられて、痛みで小さく唸る。痛いという言葉が、なぜか出なかった。
「私の趣味は些か歪んでいましてね。女性を縛って、鞭で打つ。縛った跡も鞭の跡も、綺麗に残ることがとてつもなく好ましい。その過程ももちろんよろしいですが」
ゆっくり、美里をベッドの上に横たわらせられる。シーツの白に広がる黒髪はなんとも官能的で美しいのだが、木谷にとってはそんなものより美里の苦痛に歪んだ絶望的な顔が、とてつもなく美しく思えた。
「さぁ、美里さん。貴方は一体、どこに跡を残せばより美しくなるでしょうか」
相変わらず抑揚もない声。しかし、どこか楽しそうに聞こえるのは幻聴だと思いたかった。
とにかく何かに縋りたくて口にした名前は、一体誰だったか。美里には、もうなにも分からなかった。
****************
※混乱されている方も多いと思いますが、愛染正紫さんはクラクラさん > http://www.pixiv.net/member.php?id=2599091のオリジナルキャラクターです。
本作品であのような扱いになっておりますが、ご本人には正式にご許可を得ております。詳しいキャラクター設定等はクラクラさんのこちらの作品 > http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=53489426にございますので、是非ご拝読くださいませ。




