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Andante  作者: すもも
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 緩やかに吹く風でなびくカーテンの隙間から差し込む橙色の光が、教室の中を照らす。外からは部活動に精を出す学生の声や、ボールがぶつかる音が聞こえ、部活動が盛んだとわかる。

 外部から聞こえる盛んな気配とは真逆に、教室の中の空気はどこか不穏に淀んでいるようだ。

 学生用の机を二台並べた前にもう一台を向かい合わせで置き、その机に座っている初老の男性教諭は、手元にある書類と睨めっこしながら低い声をあげた。

「萩原ぁ、今日は三者面談だよな? 保護者の方は?」

 男性教諭の一言に、向かい合わせにされた右に置かれる机に座る少女は苦笑いを漏らす。

 目を通していた書類からチラリと目線を外し、少女――萩原美里の困ったような表情を見て男性教諭はため息をついた。

「ったく、いくら親御さんがご多忙つったって、三者面談には来てくださるように言ってくれよ。一応ご予定を聞くプリントも配ってんだから」

「すみません、急遽来れなくなってしまって……」

「これじゃ二者面談になっちまうだろう?」

 もう二者面談なってるか。そう言ってカラカラ笑う男性に対して、美里は申し訳なさそうに乾いた笑みを漏らしながら俯く。

 およそ三日ほど前から始まった保護者含めてのこの三者面談は、なんと言っても大切な行事だった。というのも、今の季節はもうすぐ冬に差し掛かろうとしている十月上旬で、彼女は高校二年生。

 この時期の三者面談は、学生の進路を確認、確定するための集まりだ。なので、約一ヶ月前には保護者の都合を聞く提出用のプリントが配布され、不備がないようにと計らっていたのだが……

「弱ったな、今からでもお前の保護者来ないのか?」

「それは、ちょっと……」

 苦笑いをする美里に、男性教諭は何度目かわからないため息をつく。しかし、男性教諭の苦労を考えると同情を禁じ得ない。

 こうして各保護者の予定を調節しているのに、美里が仕事を増やす形にしてしまったのだから。

「仕方ない。とりあえず、お前の保護者は後日お越しくださるようにして、一旦萩原の進路を聞く事にしよう」

 パサリと音を立て机に書類を置いた男性教諭が改めて美里と向き合う。急に変わった空気に美里も慌てて姿勢を正し、男性教諭を真っ直ぐに見つめた。


「萩原。お前、高校卒業したらどうするんだ?」


 男性教諭の一言に、美里は一瞬目を泳がせる。表情の変化に直ぐ気付いた男性教諭であるが、あえて指摘せず美里の返答を待った。

 そうして、ようやく美里が口を開いた。


Andante


 長い長い影が前に伸びる。

 影を踏もうと一歩踏み出すが、影は逃げるように先へ先へ行ってしまい、一向に踏めそうにない。

 踏めない影にため息をこぼしながら、美里は自身の背中を照らす太陽を見ようと振り向くが、あまりの眩しさに目を細め、直ぐに前を向いてしまった。

 重い足取りで歩み出す美里が想起するのは、先ほど担任である男性教諭――青柳桃太郎と会話した内容だ。

 美里が重い口を開いて言ったのは、「お嫁さんになること」だった。

 それを聞いた青柳は、思わず声を上ずらせてしまう。「お前、今時小学生でもそんな事言わねぇぞ?」と半ば、いやかなり呆れた顔で言われ、苦笑いを浮かべるしかできなかった。

 実際、現時点で美里の進路の選択肢はほとんど一つしかない。就職することだ。

 早くに両親を亡くし、今は父の再婚相手である継母と二人暮らしの家庭にはお金が無く、奨学金を考慮しても大学進学は断念せざる得ない状況下。

 元々、勉強があまり得意でない美里にとって大学に進学しても学びたい分野も特になく、そこまでこだわっていないのだが周囲の友人が次々と進学を決める中、一抹の寂しさを感じるのだった。

 だからなのか、まだ就職するということが口にできず、あの様な回答を口してしまったのだ。

 ……どちらちしろ、継母が大学進学を許すはずないのだが。

 何度目かわからないため息をつき、歩みを進める。

 しばらく歩いていると、今では珍しく繁盛している商店街に差し掛かった。ここを通り抜けた先にある遊具が一式揃った割と大きい公園の目の前にあるアパートの一室に、美里は住んでいる。

 大きな声で商品を勧めるおじさんの声や、おばさんたちの井戸端会議の声。それらの音は活気があり、美里は好きだ。しかし、今は暗い気持ちのため、あまり良いと思う気分ではない。

 足取りは重いままだが、早く商店街を通り過ぎたくて足早に通り過ぎようとするが。

「あ、くらげちゃん!」

 ぴたりと、足を止める。

 呼ばれた方を向くと、愛想が良い笑顔の初老の男性が美里に向かって手を振っていた。もう片方の手には、サンマを握って。

「お魚屋さんのおじさん」

「よぉ、今帰りかい? 今日は遅いんだな」

 豪快に笑う男性に美里もつられて暗かった顔に笑みを浮かべた。手拭いを頭に巻き、少し肌寒くなったこの季節にでも半袖のお魚屋さんは元気だ、と感心する。

 ちなみに、なぜ美里が彼に「くらげちゃん」と呼ばれているのかと言うと、「なんかぷかぷか浮いてるくらげみたいに可愛い」からだとか。

「はい。学校でやることがあったので」

「そうかそうか。くらげちゃんは高校生だもんな、お疲れ様。ということで、今日の夕飯にサンマはどうだ?」

 ……どうして、そこで「ということで」と繋がるのかが分からない。 

 ズイッと突き出されたサンマに苦笑いを浮かべ、どう回避しようかと脳内会議していると、今度は背後から声が。

「ゴラッ! このくそ魚屋! なーに嬢ちゃんに手ぇ出してんだ!」

 またか。美里はそう思いながらゆっくり振り向き、その顔を見てより困った顔を作る。

「なっ、テメェは肉屋!」

「魚なんか古いだろうよ、嬢ちゃんはサンマなんかよりかこのビタミンBたっぷりの豚肉が似合ってんだ!」

「ちゃっかり押し売りしてんじゃねぇよ! ていうかテメェ、今古いとか言いやがったな?!」

「あー言ったよ言った!」

「馬鹿かテメェは、魚はDHAやらカルシウムやらが豊富でなぁ!!」

 美里、もとい商店街を挟んで口論し始めるこの二人は、言わば商店街ではお馴染みだ。故に皆気にせず通り過ぎる様を見て、小さくため息をつく。

 口論をしているため仲が悪いように見える二人であるが、実は同級生で昔から仲が良いらしい。……だが、こうして頻繁に口論をするなら、わざわざお互い向かいに店を構えなくても、とも思う。

 口論する二人を尻目に、美里はその場から離れる。いつもは二人の口論が終わるまで待っているのだが、どうしてもそんな気にはなれない。

 地面を見ながら俯き気味に歩いている美里に、様々な顔見知りであるお店の人が話しかけてくる。それらの人々に軽く受け流しながら、歩みを止めない。

 気にかけてくれるのはとても有り難いし、嬉しい。しかし、今の美里には多少鬱陶しく思えるのだ。

 そんな自分自身が、酷く最低に感じた。

 西の空に沈む太陽を背に、足を引きずるように帰路に着いた。



 * * *



 キィ、キィ


 金属が擦れる音が周囲に鳴り響く。

 思い切りブランコを漕ぐと、音が大きく鳴り響いて耳障りだ。ひとしきり漕いで満足した頃、ブランコの直ぐ側にある街灯がついた。

 空を見上げると太陽も沈んで、漆黒の空が広がっている。普段この時間は近くの喫茶店でアルバイトをしており、その時はさほど気にならない時間なのに今は憂鬱でしかない。

 今日はあまり良くない日だったな、と何度目か分からないため息を零す。


 家に帰った美里が玄関で目にしたものは、女物の赤く派手なヒール。一瞬顔を綻ばせるが、すぐ隣の乱雑に脱いである男物の革靴を見て肩を落とした。

 そのまま中に入らず、なるべく音を立てないようにゆっくり扉を閉じて、今に至る。

 もう何年も使っている黒い合成皮革で出来たベルトの腕時計に目をやると、あれから一時間過ぎているようだ。

 あと二時間は待たなければ行けないのかと思うとどうしても気が落ち込むが、暗い気持ちを胡散するために、思い切り足で漕いだ。



 * * *



 美里の母親が亡くなって一年後、父親は再婚した。母親が亡くなって一年してからの再婚に、美里は複雑な気持ちになったが父の幸せを考えて祝福した。

 しかし、それはすぐに辛いものとなる。

 継母は美里に対していい顔をしなかったのだ。やはり前妻の娘となるとあまりいい気はしないのだろうと割り切っていた美里であるが、仲良くなろうと努力をした。

 いずれは仲良くなれると信じていたから。

 だが、そんな小さな願いも、父親の死がきっかけで絶望と変わる。

 父親の死後、継母の美里への風当たりは増す一方で、遂には暴力まで発展した。

 暴力は社会への体裁を気にして身体にのみされ、顔にはされなかったため美里が言わない限り虐待が露見することもない。継母は、美里が言わないことを知って暴力を振るっていた。

 しばらくすると、継母は美里と同じ場所に住むことを嫌い、家を空けることが多くなった。暴力はネグレクトへと移行したのだ。

 幸い、美里が高校生になってからだったので、ささやかながらもアルバイトをして食いぶちを繋いでいた。生活費は父親のわずかながらの遺産でなんとかなっている。

 寂しいと思いながらも、暴力を振るわれないのであればと思っていた矢先に、継母は男を連れてきた。

 家を、ホテル代わりに使い始めたのだ。

 はじめは追い出されたりしたのだが、最近では美里が家に居ても居ないものと扱い、交わり始める。他人の性行為など見たくなくて、継母が男を連れてきたときは逃げるように外に出ていた。

 けれど、一度だけ逃げそびれてしまったことがある。

 慌てた美里は咄嗟に自室の押入れの中に入り、息を潜めていた。すると、事もあろうに、継母は美里の部屋に入ってくるではないか。

 襖を少し開けて見て驚いているのも束の間、継母は部屋で服を脱ぎ、男に媚びを売る。そのまま二人ともベッドへと雪崩れ込み……

 それ以上は、見ていられなかった。

胃からこみ上げる物を耐えながら、耳を塞ぎ目を固く閉じるので精一杯だった。

 二人が家から出てすぐ、美里は押入れから出て何度もトイレで嘔吐し、泣いた。ベッドが汚らしく思い、お金がないのにシーツや枕など一式捨ててしまうほど、美里には耐えられなかった。


 それから、美里は玄関で見知らぬ靴がある時は、アパート前の公園のブランコでいつ出て行くか分からない二人が出るのを待っているのだ。



「萩原」

 次の日、授業も終わりこれから下校しようとした美里は青柳に呼ばれた。言いたいことがわかっている美里は、申し訳なさそうに青柳に告げる。

「ごめんなさい、まだ……」

「そうか……できれば三日以内に提出してくれ。こっちも学内で色々やらなきゃいけなくてな」

 青柳が言っているのは、昨日帰り際美里に渡した保護者に予定を聞くプリントのこと。保護者の話もちゃんと聞かなければいけないため、再提出を求めたのだ。

 自分の将来を考えるとちゃんとしなければいけないことは分かっている。だが、継母のことを考えると、どうしても聞けない。

 思い悩んでいる美里に、背後から声がかかった。

「美里、帰ろ!」

 明るい声に振り向くと、ポニーテールにした長い茶色の髪を揺らしながら笑う親友の百合の姿が。

 驚いている美里にカバンを持たせ、連れ出そうとする美里に青柳が慌てて話しかける。

「こら、まだ話は終わってないぞ!」

「こっちは急いでんのよ! 桃太郎のなが〜い話なんて聞いてたらおばあちゃんになっちゃう!」

 なんとも可愛らしいことを言って美里を連れ出す百合の背後から、青柳の声が響く。美里の手を引いて無邪気に笑いながら廊下を走り抜ける百合が、とても眩しく見えた。

 一気に階段を駆け降り、下駄箱のあたりでようやく止まる。

「はぁ、桃太郎もうっるさいよね」

「でも今回は私が悪いから……」

「もー、そういうのは仕方ないことじゃん!」

 上履きからローファーに履き替えながら言う百合に、美里は肩をすくめる。百合には家庭の事情を断片的に伝えているため、家庭の事で困った事があると百合が助けてくれるのだ。

 いささか後ろ髪を引かれる気持ちであるが、百合に手を引かれ校舎から出て行く。

「でもさー、なんか実感湧かないよね。ついこの間入学したと思ったら、もう来年には受験生だよ?」

 炎のように真っ赤な夕日に照らされながらため息混じりに吐かれた一言に、美里はようやく笑みを浮かべる。

「そうだね。百合ちゃんはやっぱりダンサーになるの?」

 百合はダンスが好きで、よく振り付けを覚えては美里の前で披露してくれる。踊っている時の百合は、まるで風に吹かれて散った花びらのように、なんとも楽しそうにくるくると回っていて美里は好きだ。

 美里の問いに、百合は残念そうに首を横に振る。

「ううん、それはないかな。ダンスで食べていこうとも思わないし。やっぱり進学かなー、勉強嫌いだけど、大学行ってればやりたいこと決まるかもだし」

 思わず、立ち止まる。

 自身の進路をなんともないように言う百合は、美里より前に進んでしまう。

「? どうしたの、美里」

 美里の異変に気付き振り向いた百合の顔は、逆光によってよく見えない。

 眩しくて目を細めるが、どうしても、見えないのだ。

「なんでもないよ。行こう」

 すぐに笑みを浮かべ歩み出す美里。百合と並んで歩くが、百合の方が何歩も、何百歩も先を歩いているような、そんな気持ちになった。


 * * *


 アンティークの物で囲まれたこの喫茶店は、いつも暇だ。

 住宅街の一角にあり少し隠れた場所にあるためか人があまり来ない。さらに言うと、今日に至っては雨が降っているため、店内は客がおらずガランとしている。

 机を拭いたり、伝票を整理したり、もうやることはやり尽くしてしまった美里は、もう一時間は窓に打ち付ける雨を眺めていた。

 百合と別れた美里は、直ぐにアルバイトに向かった。アルバイトが始まる前は夕焼けが見えるほど晴れていたのに、乙女心となんとやらだ。

「雨酷いですね」

 困った様に窓の外を見るのは、この店の主人。白髪の混じった黒髪をゆるく分けている整った顔をした初老の男性だ。

 美里は彼をマスターと呼んでいる。

「そうですね。それに雨、止みそうにないですね」

 雨は嫌いではない。雨が屋根や草木を叩いて奏でる音、土の湿った匂い、それらが好きだから。

 しかしお仕事となるとそれはまた別の話で、お客さんがいないとあまりにも暇だしお店の売上にも影響がでる。

 チラリと壁に立てかけてある大きな鳩時計を見やると、午後八時をちょうど過ぎた頃だった。

「うーん、このままいてもお客さんきっと来ないから、先に上がってください」

 はい、と手渡されたのはサンドウィッチとスープ、それに紅茶だ。マスターも百合同様、美里の家庭の事情を断片的に知っているため、こうして賄いをあげたりと気にかけている。

「毎回すみません、ありがとうございます」

 栄養バランスを考えてくれているそれは野菜や肉、魚が豊富で、美里はとても豪勢な賄いに毎回舌鼓を打っている。

 マスターの気遣いに申し訳なく思いつつも、気遣いを汲んで有り難くいただく。

「いえ、私が好きでしていることなのですから。あ、傘は持ってきていますか?」

「はい。折りたたみ傘を。それではお先に失礼します」

 一度スタッフルームに戻り、制服に着替え直してからマスターに軽く挨拶を済ませその場を後にする。外に出ると、雨足は先程よりも強まっていた。

 憂鬱な気分になりながらも、あまり濡れないうちに帰ろうと美里は帰路に着いた。



 雨は勢いが増す一方でローファーも靴下もびしょ濡れになってしまい、ぐちょぐちょだ。制服も濡れて、早く乾かさないとシワができてしまう。

 今日は早く帰ってお風呂に入って寝てしまおうと、歩く速度を上げる。もうローファーも靴下も濡れてしまったから、多少水溜りの中に入っても開き直る。

 ようやく住んでいるアパートに着いて自宅がある三階まで登りきった時、違和感を覚えた。

 複数の水に濡れた足跡が自宅の前で止まっていたのだ。四階へと通じる階段を見やっても足跡は続いていない。

 嫌な予感が、美里の心の中で渦巻いた。

 また継母が誰か連れて来ているのかと。

 だが、今日は雨という最悪の状況下でいつものように公園のブランコで待つことはできない。この際どこかのファミレスで時間を潰そうかとも考えたが、この雨でローファーはぐちょぐちょだし、制服も濡れている。

 まだ家の中に誰か入っているとは言い切れないし、少し顔を覗いて、継母の靴を確認したら引き返そう。

 そう思い、音を立てないようにドアを慎重に、少し開けた。

「……?」

 生前、美里の父親はレコードでクラッシックを聴くのを好んでいたことがある。CDでいいのでは、と尋ねると、「美里は分かってないな、レコードの方がオツだろ?」と聞き返され、全く分からなかったこと覚えている。

 レコードは父の没後、針を落としていないし、手入れもしていない。そんなレコードの音が、美里の鼓膜を震わせた。

 音楽機器がレコード以外ないため、ほぼ確実にレコードから奏でられているのだろう。それにしても、この曲の名前はなんだっただろうか。

 なぜレコードが鳴っているのかよりも、曲名が気になってドアを開けて中に入った。

「あ、帰ってきた」

 低い声が聞こえたと思った瞬間、全身に強い衝撃を感じると同時に、床が視界いっぱいに広がる。

 自分は床に倒され背中に腕を回され押さえつけられているのだと、回らない頭で必死に考えてわかった。わかってしまうと、目の前が真っ暗になり恐怖心が脳を支配する。

 美里の背後にいる人物は、一体どこに身を潜めていたのか、むしろなぜ自宅に無断で侵入しているのだろうか。

 聞きたいことは山ほどあるのに、怖くて歯がカチカチと鳴るだけだった。

「正義さーん、例の女子高生帰ってきましたよー」

 今度は無理矢理立ち上がらされ、リビングへと連れて行かれる。恐る恐る背後の人物の顔を見るため振り向こうとするが、頭を殴られた。

 殴られた頭がジンジンとした痛みを発し、余計恐怖が膨らむ。あまりの恐怖で足が震えてその場に座り込みそうになるが、背後の人物が舌打ちをして軽く足を蹴る。

「甘えてんじゃねぇよ。さっさと歩け」

 地を這うような声で脅され、美里は何度も頷きながら足に力を入れて座り込まないように踏ん張る。震える足で一歩一歩進みながら、ふとマスターからもらった賄いはどこに行ったのかと思った。

 完全に現実逃避だ。

 既に開けられているリビングの扉をくぐると、立ち止まる。クラッシックの音楽が直ぐ側から聞こえ、美里はゆっくり下を向いていた顔を上げた。

「正義さん、ほらこの小娘ですよ。あの女の義理の娘の」


 ――最初の印象は、「夜」だった。


 礼服を思わせる真っ黒なスーツの胸元には血のように紅いハンカチと、ネクタイ。

 黒い髪を後ろに撫でているが、多少額に落ちていた。瞳は色が濃いサングラスをかけていることで、感情を読むことができない。

 座っていたその男は、一切無駄な動きを見せることなく、すっと立ち上がった。初老らしい男性は美里の頭一個分以上は背が高く、なんともがっしりとした逞しい体躯をしている。

 そこで、なぜか思い出した。

「お待ちしておりました。萩原美里さん」


 このクラッシックの曲名、エリック・サティのジュ トゥ ヴだ。


 そんなどうでもいいことを、美里はぼんやりと思った。


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