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ずっとあの5日間を探していた。

作者: 淡雪 凪葉

 


 たぶん、この日も平凡で何事も無く、何時ものように過ぎ去るはずだったんだ。

 けれどその日、僕たちは偶然か必然か出会ってしまった。

 そしてその五日後、彼女は世界から消失した。




 調理師専門学校を卒業した僕は筒に入れられた卒業証書を片手に、重い足取りで町を彷徨する。

 春風は軽く吹き付け、まるで僕の卒業と有名料理店への就職確定を祝福してくれているかのように暖かい。


 けれど、僕は――まだ忘れることが出来ないでいた。高校二年のたった五日間の出来事を。




 あの日は、蝉が嫌になるほど五月蝿くて、太陽がギラギラと照りつける真夏日だった。

 まだ将来の事も何も決まってなくて、無駄に毎日を過ごしていたただの高校生。そんな僕の前に彼女は現れた。突然に。まさに、晴天の霹靂の様に。今思うと僕は、出会ったこの瞬間から、彼女に惹かれていたのかもしれない。



 よろよろと近づいて来た少女は、透き通る様な声で食料を要求し、


「食べ物を――……」


 気絶した――。


「なっ、えぇ……」


 しょうがないので、気絶した彼女を一先ず家へと運ぶ。

 幸い冷蔵庫には簡単に調理出来る様な食材があったので、彼女用のご飯を作り始めた。


「ん……ここは?」


 気がついた彼女が辺りを見回す。


「僕の家。……君が僕の目の前で倒れたからしょうがなく連れてきたけど、これ食べたら帰ってよ?」


 僕は机の上に1杯のご飯とベーコンエッグを乱雑に置いた。


「良いの?」


 少女は喉を鳴らし、僕が頷いたのを確認すると満面の笑みでその一口目を口へと運んだ。


「……美味しい!」

「そうですか、それは良かった」


 どうしてこんな事になったんだっけ。

 少しだけ自分の行動の浅はかさを後悔する。


「ご馳走様でした!」

「早いな……。はいはい、お粗末様でした」


 それにしても、不思議な雰囲気の女の子だ。

 ガラス玉の様な輝かしい、瞳に長く細い黒髪。比較的小柄な体格。

 窓の外をじっと見つめるその表情は、何故か悲しげで僕の心を掴んだ。


「さっき、あなたは私が倒れてたって言ってたけど私は倒れてたの?」


 思い出したかの様に、彼女は言う。


「覚えてないの? 君はこのマンションの近くで僕の目の前で倒れた。おそらく空腹でね」


 淡々と経緯を語る。

 空腹で倒れるなんて、どれだけ我慢していたんだ、という話だ。

 見たところ、年は僕と近そうだし服装的に考えて金銭的な問題で食事を制限していたわけでは無さそうだ。

 とすると、ダイエットかなにかだろうか。

 しかし、そんなに体型を気にする必要は無さそうなのだが。


 僕が一人で考え込んでいると、少女はやっとの事で口を開く。


「覚えてない、というか……一体私は誰、なのかな」


 控えめにはにかんでいるが、それは決して笑い事では無い、と思う。

 僕みたいに知識の無い人間でも、多少は予想がつく。

 これは、もしかして……所謂、記憶喪失?


「待って、待って、何? 君は自分が誰か分からないっていうの?」


 勢いに任せて僕は問いかける。

 すると、彼女は頼りなく頷いた。


「……そ、そうだ今すぐ警察に――」


 机に置いておいた、スマホに手を伸ばす。

 しかし、彼女がそれを止めた。


「え?」


 何も言わず、俯きただただ首を振っている。

 嫌だ、という事だろうか。

 

「じゃあ、責めて病院に――病院も嫌だって?」


 じゃあどうすれば良いんだ。

 思い悩んでいると、思いついた様に彼女が顔を上げた。


「も、もしかしたら、一時的に忘れてるだけなのかもしれないし……もう少ししたら思い出すかもしれないから、その、気にしないで」

「っはぁ、分かった」


 そんなに不安そうな顔をされたら、従うしか無いじゃないか。

 けれど、気にしないで、と言われた所でもう僕は知ってしまった。がしがしと頭を掻き、しょうがない、と息を付く。


「僕は水影大地」


 僕は彼女に手を差しのべる。この瞬間、しばらく彼女と一緒にいる事を覚悟した。


「え?」

「だから、しばらく僕の家にいれば? (あいつ)はたまにしか帰らないし」

「……いいの? ありがとう、大地!」


 彼女はほんのりと頬を染め、口元を綻ばせる。

 なんだよ、その笑顔。さっきまでは不安そうな顔してたのに。


「あ、そうだ。名前、何て呼べば良い?」


 記憶が無いんじゃ、当然名前も憶えてないだろうし。


「そっかぁ、そうだよね。うぅん……名前かぁ。――空とか?」

「空?」

「うん。だって、ほら……何だか心が安らぐの」


 彼女は窓を指差し、その向こうの空を見る。確かに今日の空は雲一つ無い晴天だ。


「でも、君が”空”で僕が”大地”って、何か」


 言いかけて止める。


「あ! 本当だ、凄いね! 神様に導かれたみたい、運命だよ」


 うぐっ。思わず、喉から奇妙な音が鳴る。僕は『運命』という言葉があまり好きじゃない。だから、わざと言いかけて止めたのに、彼女、空と来たら……。



 『運命』。たまに芸能人の電撃婚か何かのニュースで「私たち、結ばれる運命だったんです!」とか何とか言っているのを聞いた事があるが、未来は変えられない、ずっと前から決まってる、っていうのを良いものだとは思えない。

 運命を信じてないわけじゃない。でも、信じたくはない。僕の矛盾だ。




 ※




 二日目の昼。僕達は近くのショッピングセンターへ買い物に来ていた。


「大地ぃ……あづい」


 暑さに顔をしかめながら、空はだらっと腕を垂らす。確かに、どろどろと溶けてしまいそうな熱気だ。まだ昼前だというのに。


「僕も暑くて死にそうなんだ、我慢してよ」


 ショッピングセンターへ来ていたはずの僕達が何故、こんな太陽の下に晒される事になっているのかと言うと、原因はもちろん隣の彼女にある。


「大体、君がアイス食べたいなんて言わなきゃ……」


 ショッピングセンターの目の前にある行列の出来てるアイスクリーム屋。一目見て、空は「食べたい!」と欲望を口にする。僕も食べてみたかった事は食べてみたかった。それに、いくら並んでるとは言え、僕らの体はショッピングセンター内のクーラーで冷えきっていたし最初は余裕だと思ったんだ。


「だって……食べたかったんだもんー……」


 と言い訳すらする体力の無い空の横で僕は自分の愚かさに短く息を吐いた。


「空ってアイス好きだったの?」

「んー、どうだろ……。でも、美味しそうだったし……大地と一緒に食べたら、楽しいかなって」            

「こっ恥ずかしい事を、よくさらっと言えるね」


 言われたこっちの方が恥ずかしくなってしまい、指で頬を掻く。                                  

「そーかな? でも、本当の事だよ」

「ほら、また」


「いらっしゃいませ! お次の方、ご注文どうぞ?」


 僕らの談話は注文の順番が回ってきた事で幕を閉じた。

 それにしても、何味にしようか。流石は行列が出来ていただけある。味の種類が豊富だ。                         

「じゃあ、僕は抹茶で」

「はい。コーンとカップがございますが、どちらになさいますか?」

「コーンで」


 僕に続いて空も注文をする。


「ストロベリーチーズ! コーン!」


 先刻までの元気の無さが嘘の様に、空は笑顔で叫ぶ。


「はい、かしこまりました。少々お待ちください」                     

 でも、ストロベリーチーズとは挑戦者だ。僕はバニラ、チョコ、抹茶、ストロベリーぐらいのレギュラーな味しか食べた事が無かった。だから、今回も安全策をとって抹茶だ。折角、これだけ種類があるのだから、試してみても良かったのかもしれないが、これだけ大変な思いをして並んだのに、味を失敗したら心へのダメージが大きい。


「お待たせいたしました」


 店員の声で我に返る。差し出されたアイスクリームを僕らは受け取り、そのまま店の横に移動した。


「いーただぁきまーす!」           


 全く、美味しそうに食べる。


「んぅん〜! 冷たくて美味しい!!」

「冒険者様の味は当たりか」

「冒険者?」

「ああ、ごめん、こっちの話」                       

 さて、僕も溶ける前にアイスを食べよう。そのままかぶりつく。


「流石は王道! 並んだかいのある美味しさかな」

「ねぇねぇ、せっかくだから一口交換しようよ!」

「えぇぇ! そ、そういうのはカップルとかがやるものであって……」

「えー、そんな事無いと思うけどなぁ」


 空はきっと分かっていないのだ。一口交換がどんな結果を招くのか。そう、間接――、いやいや考えるのは止めよう。空はそんな深いことを考えてなくて、単に抹茶味を食べてみたいだけなんだ。僕がこんなんじゃ、純粋に一口交換したい空に失礼だ。


 僕は恐る恐る、アイスを差し出した。そして、空のアイスを受け取り一口だけ口へ運ぶ。


「あ、美味しい」

「ん〜! 抹茶も美味しいね。というか、あれだよね、間接キス」


 「えへぇ」と緩みきった表情に僕は開いた口が塞がらなかった。豆鉄砲でも食らった気分だ。

 ……分かってたんじゃん。


「君ってやつは。このっ」


 中指と親指で輪を作り、彼女の額へ向けて弾いてやった。


「いだっ! う〜、仕返しだぁ!」   


 直後、僕の額にも軽く痛みが走った。額を抑える僕を見て彼女はアイス片手にいたずらに笑う。理由もなく鼓動が早くなる。今思うと僕はこの時には既に彼女に恋に落ちていたのかもしれない。


 そもそも、ショッピングセンターには、彼女の生活用品と昼食、夕食の買出しに来ていた。

 まだ、彼女の生活用品の買出ししか済ませていないのは、いささか問題だ。アイスを食べ終わった僕は、空を急かし、ショッピングセンターへと戻った。


「お昼は何にするの?」

「今日も暑いからなぁ……素麺の冷しゃぶしゃぶ乗せ、とかどう?」

「美味しそう!」               

「じゃあ、夜は……魚にしようか」

「うふふ、ご飯、ご飯っ、ご飯ー!」


 両手を後ろで組み、上機嫌に鼻唄を歌う。


「楽しそうだね」

「うん! 私、昨日からずぅーっと、楽しい」

「そうですか、それは良かった」


 実際、僕も楽しかった。田舎の両親。年に数回しか帰らない姉。望んで来た都会だったけど、それでもいつも身近に感じていた誰かの声を聞かなくなって、寂しさに慣れてしまうと、楽しさ何かは遠く離れて行く。でも、僕はそれに久々に出会った気がした。



 買い出しを済ませ、僕らは家へ帰宅した。昼食は素麺の冷しゃぶしゃぶ乗せだ。

 僕は買ってきた材料で手際良く、調理していく。空はそれを瞳を輝かせ、真剣に見つめていた。


「料理が出来てくのって、何か凄いねぇ」

「うん。僕も小さい頃は母親の側で料理が出来てくのをよく見てたよ」


 そういえば、昼の三分クックもよく見てたっけ。当時を思い出し、可笑しさに笑みをこぼす。


「空、グラスに麦茶注いで、机に置いておいてくれる? 二つね」

「はぁい」            


 もう少しで完成だ。盛り付けた素麺の上にしゃぶしゃぶを乗せ、ぽん酢を二周。


「よし……出来た」


 料理の乗った皿を両手に、机へ足を向けると既に箸も置かれていて、空は今か今かとご丁寧に正座までして待っている。

                      

「そんなにお腹空いた?」

「お腹も空いたけど、それ以上に美味しそうでぇ、ぐへへ」


 空は料理が机に置かれた瞬間に「いただきます」と声をあげそれを食べ始めた。

 僕のこんな料理で、ここまで喜んで食べてもらえるなら、作った甲斐があると言うものだ。


「ふぅう、夏だねぇ」

「冷房の効いた部屋で、言われてもね」

「このキンキンに冷えた感じが夏なんだよ」


 昼食を終え、食後の休憩をゆっくりと過ごす。


「大地はさぁ、将来の夢とか無いの?」

「無いよ。……ていうか、只今絶賛、将来について悩み中」


 自分が何をしたいのか、分からないわけじゃない。いくつか興味の矛先はある。でも、僕は考えすぎて迷走して、結局ここに戻ってきてしまう。

 現実――、いつもまとわりつくこの壁を壊せるのは世界にたった数人しかいないだろう。


「だったら! 大地にはコックさんをオススメするよ」

「料理人って事?」

「うん。こんなに美味しいご飯が作れるんだもん。沢山の人に食べてもらえたら、最高に幸せじゃない?」

「うんー、考えてみるよ」


 曖昧な返事を返す。料理人と言っても狭き門だ。簡単に決められる話じゃない。

 でもそうか、僕の料理は希望があるのか。


 そして一日考えて、次の日の夜、僕はやっと覚悟を決めた。


「空、僕……目指してみようと思う。料理人!」


 夜ご飯の夏カレーを食べている空に告げる。彼女は驚いた顔をしてから、ぱぁ、と瞳を輝かせた。


「えぇ!! 嘘うそ、本当? 応援する! ご飯食べたら千羽鶴作る!!」

「千羽鶴て……」

「大地がコックさんになれますように、って!」

「あれって、スポーツの試合とか平和祈願だった気がするけど、まぁ、良いか。空、千羽鶴楽しみにしてるよ」

「うん!」



 風呂から上がると、どうも空の様子がおかしかった。小さな折り紙が散らばっていて、鶴はまだ一つも出来ていない。

 どこか遠くを見ながら、ぽつりと呟く。


「そっか……」


 その言葉が何を意味しているのか、その時の僕はまるで分かっていなかったのだ。




 ※




 四日目。

 僕はやっと、空が何者なのかを知った。太陽が沈み始めた夕方の事だった。


 ――空は、人では無かった。


「私……幽霊なんだ」


 空の体が半透明になっているのを、僕が気づいてしまったのがいけなかったのだろうか。彼女はあの時と同じように、消して笑い事じゃない事なのに、えへへ、と儚げに微笑んだ。


「昨日の夜ね、いきなり体が透明になりつつあるのに、気がついて……そっか、私は人じゃ無かったんだ、って」

「嘘だよね?」


 だって、信じられなかったんだ。幽霊――?

 そんなのは空想の世界だけのものだ。これが現実なわけない。夢だ。夢以外、ありえない。


「大地には、私はどう見える?」


 透き通る様な声で聞かれ、顔が強ばる。その瞬間悟ったんだ。彼女はいたずらめいた冗談を言ってるわけでも、悪趣味な嘘をついてるわけでもないと。


「……っ、幽霊とか、そうじゃないよ。空は空だよ」


 現実。

 いつもいつも、これだけは僕を追い詰める。

 空が幽霊だった。それは予想以上に残酷な現実。


「良いんだよ、大地。……無理しないで」

「ちがっ――、……。ごめん、僕、少し出てくるよ」


 空にあんな顔をさせてしまった。

 無性に心がざわついて、いらいらして、自分で自分の感情をコントロールする事が出来なかった。


「こんなの、僕は知らない……」


 じっとしていられなかった。ただただ、がむしゃらに黄昏時の街を疾走する。


 その間、空と出会ってからの色々な事が、頭の中を巡った。

 足を止める。

 ――空はあの日から、思いっきり笑って、食べて、寝て、僕に怒られてへこんだり、たまにいたずらしてきたり……これを誰が否定出来る?


 人じゃないのかもしれない。幽霊だって、なんだって、彼女は今、生きている。


「そうか、そうだよな……。ばっかだなぁ、僕は」


 君が例え何者でも、僕と空の過ごした時間は変わらない。

 それなのに、みっともなく動揺して。本当、馬鹿だ、僕は。


 自嘲的な笑みをこぼし、踵を返す。

 空の元へ帰ろう。



「……大地、っ……おかえりなさい」


 僕は今度こそ間違えない。


「ただいま、空」



 ※



 折る。開く。そしてまた、折る。


「結構溜まってきたね、鶴」

「でしょ、でしょ。私は頑張っちゃうんだから!」


 体は半透明のままだったけれど、物には触れられるらしい。僕の知らない間に鶴は沢山出来上がっていて、カラフルな優しさを作り上げていた。


 台所に立ちながら、再び空のいる居間に視線を戻すと天気予報が耳に飛び込んできた。



『今日も引き続き真夏日となるでしょう。午後は突然の雷雨にご注意ください。では、週間天気を――』


 外を見ると、天気予報の通り暑さの厳しそうな天気だった。晴れ渡る空に、窓越しにも聞こえてくる蝉の鳴き声。


「暑そう……」


 というのも、昼食の味付けに使おうと思っていた醤油が切れていたのに気づいたのだ。

 近くのスーパーで、買ってこないことには、完成しない。


「空、ちょっと醤油買ってくるから待ってて!」

「うん、いってらっしゃあい」


 外に出ると案の定、生暖かい熱風が体を包んだ。冷えていた体も歩いているうちに直ぐに火照ってきてしまう。

 でもスーパーは、すぐそこだ。中はきっと、クーラーがキンキンに効いているだろうし、入った瞬間の何とも言えない爽快感を思い浮かべると自然と足が軽い。


 着いた。スーパーだ。


「いらっしゃいませ」


 どこからか店員の声。それと共に、涼やかな空気が火照っていた体を冷やしていく。


「涼しー」


 思わず、口を衝く。


「醤油……醤油は、と」


 目的のものは醤油だけだったのだが、後から色々と買い足すのを思い出し、結局、牛乳やらパンやら買ってしまった。


「ついでだったし、結果オーライ……かな」


 しかし、外に出ると晴天の空だったそらは雲がかり雨を降らしていた。

 午後の突然の雷雨に注意という天気予報を思い出す。


「うわぁ、雨か。空、待ってるよな」


 走って帰っても良いのだが、買い物袋両手に雨の中を走って帰るのは少々気が重い。

 だからといって、止むのを待つのも馬鹿馬鹿しい。


「傘、買おうかな」


 きっと、空の事だから、空腹で待ちくたびれているに違いない。早く帰って、昼食を完成させよう。


 スーパーの日用品コーナーで、傘を買い僕はやっとの事で家へ帰った。

 

「いっきに激しくなったな、雨」


 だから流石に最後の方は走った。

 玄関の扉に手をかけようとすると、空に稲妻が浮かび、時間差で雷鳴。

 雷雨だ。


 急に寒気がし、鳥肌が立つ。


「さむっ。早く入ろう」


「ただいま」


 扉を開け、いつもなら直ぐに飛び込む空の姿が無い。トイレでも行っているのだろうか。

 居間には作りかけの千羽鶴が散らばっていた。


「あ、空がトイレ行ってる間に、野菜炒めの味付けしないと」


 僕は居間に背を向け、袋から買ってきた醤油を取り出すと、調理を再開した。


 盛り付けまで終わった所で、やっと疑問を持った。

 ――いくらなんでも、もう出てきてもおかしくないような?


「空?」


 トイレに向かい声を掛ける。

 返事は無い。


「え?」


 トイレのドアの鍵が掛かっていなかった。

 空はいつも掛けていたはずだ。

 勢いよく、ドアを開ける。


「いない……」


 もう一度、居間を覗く。寝室、洗面所、風呂場、全て見た。けれど空の姿はどこにも無い。


「どうして……靴はあるんだ」


 もし、靴が無かったなら外に出た可能性も考えられたのに。


 外では、より激しく雷が鳴り響いていた。


 ――空がいなくなった?


 状況に上手く頭がついていかず、僕は無気力に居間に腰を下ろす。

 すると、折り掛けの千羽鶴に何か文字が書いてあるのが目に付いた。

 急いで、それを広げる。




〘大地、大好きだよ〙




「空……君ってやつは、本当……」


 それをぎゅっと握りしめ、俯く。目頭が熱を持つ。


「……も、しかして、他のやつにも……!」


 僕は糸に通された千羽鶴を最初から一枚一枚開いていった。すると、途中から、やっぱり空の言葉が綴られていた。



〘大地がコックさんになろうかな? って言った時はびっくりしたよ〙



〘でも、嬉しいな。良かったね、夢だよ! 凄いよ〙



〘頑張ってね! 大地〙



〘絶対、絶対、コックさんになってね!〙



〘大変な事もあるかもしれないけど、諦めないで〙



〘でも、他にやりたい事が見つかったら、そのやりたい事を夢にしてね〙



〘私に遠慮して、無理しちゃ駄目だよ!〙



〘それにしても、大地のご飯食べれる人は幸せだなぁ〙



〘少しの時間だったけど私に沢山、ご飯作ってくれてありがとうね〙



〘私は大地の作るご飯が大好きだよ〙



〘沢山、わがまま言ってごめんね〙



〘全部、全部、楽しかったよ!〙



〘あれ? 何か、お別れみたいになってるね〙



〘でも、ごめんね。私はもうすぐ消えちゃうみたいだから〙



〘一人にして、ごめんね〙



〘人間じゃなくてごめんね〙



〘いっぱいごめんね〙



〘私、大地の事が好きでした、凄く好きでした。本当に凄く凄く好きでした〙



〘また会えるかな? それとももう会えないのかな〙



〘嫌だよ、大地。助けて、助けてよ  お願いだから、〙



〘嘘、だよ。何でもない。だから、一つだけお願い〙



〘私の事、忘れないで〙



〘記憶から消さないで〙



〘私も忘れない。きっと覚えてる。だから、覚えておいて〙



〘それだけだよ〙



〘ばいばい、あり――〙



 そこから先は涙で滲んで読めなかった。それは僕の涙かもしれなかったし、空の涙かもしれなかった。もうこの時の僕はそんな事を考えてる余裕なんかなくて、ただただ嗚咽した。そして、しばらくすると絶えられなくなってそれは叫びに変わっていた。


「あぁ……あぁあ……あぁああああぁぁぁあっ! ぁあ、あああぁあぁ!」


 全てはあの日、空に出会ってしまった事、それが間違いだったんだ。出会わなければ良かった。そうすれば、心をえぐられるほど辛くもならなかったのに。


「空……空ぁ、空……! ああああああぁぁ……あぁあぁ!」


 好きにならなければ良かった。そうすれば簡単に忘れられたのに。

 もう会えないなんて、僕だけが一人で彼女を覚えているなんて、空にまだ言いたいことが沢山あったのに。

 空の消えた部屋で僕はそれをゆっくりと口にしていく。もう届かないことは分かってる。だけど、伝えたかった想いがあった。伝えるんだ。例え届かなくても、伝えるんだ――。


「空。……空、僕に……夢をくれて、ありがとう」



「君との5日間は……賑やかで、楽しくて、あっという間だった」



「僕の料理をいつも、美味しそうに……食べてくれたよね」



「なんで……最後ぐらい、一緒にいたかった」



「僕もさ、うん、空の事……好きだったと思うよ」



「ははっ……僕達両思い」



「っ、……、やっぱり無理だ、空……。僕は君と生きたかった!! ……っ、…………もっと一緒に……――」


 まだたったの5日間だ。5日間しか、一緒にいられなかった。君が何者でも、僕は……!


 そこからはただただ溢れ出る涙を止められなかった。




 ――こうして空は世界から消失したのだ。






 そして、今でも僕は君を忘れられないでいた。


 ずっと、あるはずの無い君の面影を探していた。ずっと、あの5日間を――探していた。

 何をしてても、何処にいても僕は君の事を考えていた。


 会いたくて愛しい想いだけが、何重にも重なっていた。


 どこかで僕は思っていたのかもしれない。

 空はあの時のようにまた、突然僕の前に現れてくれるって。この世界に彼女はもう、いないのに。



 人々が行き交う道で、立ち止まる。今日は清々しいくらいの晴天だ――、


 え……?



 僕は動きを止めた。一人の女の人が横を通り過ぎようとしている。

 心臓は、その一瞬を堺に加速する。

 息が苦しい。

 双眸は見開かれ、その女性の姿を大きく映し出す。


 ――そんなはずない。だって知ってるじゃないか。彼女はどうしたって、どこにもいない。

 しかし、雰囲気が面影が……どうしても空と重なる。


 僕は彼女の腕を引いた。


「え……?」


 驚いた様に彼女が振り返る。

 あの時から少しだけ大人びた印象はあるものの――、彼女の容姿は空そのものだった。


「……会いたかった」


 彼女は空だ。僕が見間違えるはずがない。

 絶対、空だ。

 僕は自分を止めることが出来ず、そのまま彼女を抱き寄せた。


「……あの、あなたは……誰なんですか?」


 その言葉に恐る恐る彼女を離す。

 けれど、彼女はどうしてか泣いていた。

 

「あれ、私……どうして泣いて?」


 彼女自身も涙の理由を知らないみたいだった。

 

 けれど、さっきの質問。

『あなたは誰なんですか?』


 彼女は僕を知らない。

 ということは、人違いだったのだろうか……。

 

 だいたい、幽霊だった彼女が今、ここにいる事自体おかしいじゃないか。


 僕は改めて空には二度と会えないんだ、という事を実感しその悲しさにしゃがみこんだ。

 両腕の中に顔を埋め、あの日から口にしていなかった名前を口にした。



「空――」



 次の瞬間、かくん、と彼女の方も膝を付いた。顔を上げると、彼女は表情を固めたまま、また涙を流していた。


「空……? ――……」

「あの、大丈夫ですか?」


 頭を抑え、明らかに様子がおかしい彼女の肩に触れる。

 すると、ゆっくりと言葉が紡がれた。


「ずっと――」


「その、名前を、探してたの……。そっかぁ……うっ、ここにずっとあったのかぁ」


 嬉しそうに、だけど悲しそうに、彼女は涙を零しながら震える唇を綻ばせた。


「あなたを見て切なくなったのは、悲しくなったのは、とてつもなく愛しくなったのは……大地、君だったからだよ? ずっと、名前を呼びたかった……! 会いたかった! ……っ、ただいま、大地!」

「……空なのか?」

「っうん」


 涙ながらに頷いた。

 驚きと嬉しさに、僕の目にも涙が浮かぶ。



「大地は運命はまだ嫌い? でも、ふふっ……やっぱり私達は運命だ。だって――また会えた」

「確かに僕達は運命かもね」


 何だか、それも悪くない。


「でも、君は幽霊だったんだよね? それにさっきも思い出したって……?」


「あのね、私は入院してたんだ。だから、幽霊だったわけじゃないみたい。5日間、意識不明だったって聞いたから、大地と過ごした時間とも一致する。多分、幽体離脱だよ!」

 

 幽体離脱て……。

 これまた非現実的な。

 でも、確かに彼女はあの5日間僕と一緒にいた。それが答えだろう。


「うん、良かったよ。空がこの世界にいてくれて」

「目覚めた私は大地の事は全部忘れてた。大地の事はね、退院してからいつも夢を見てたの。名前も顔も分からない誰かとの思い出の夢」


 空は、涙を拭いながら、満面の笑みを見せた。


「ずっと、ずっとね、私はあの5日間を探していたんだよ。忘れないって言ったのに、忘れちゃってごめんね。でも、やっと……思い出した!」


 ようやく全てがつながった。僕らが出会った理由。別れた理由。そして、また出会った理由。


 空が世界から消えたあの日、僕は彼女との出会いを、彼女への気持ちを後悔した。

 けれど、意味はあった。



 出会えて良かった。

 好きになれて良かった。

 忘れずにいて良かった。


 本当に良かった。


 今、この瞬間が全てだ。


「空、行こう!」

「へ? どこに?」

「買出し! 今出来る、最高の料理を君に食べて欲しい」


 彼女の表情がぱぁっと、明るくなったのが分かった。


「大地! 野菜炒め!」


 驚いた。そんなので良いのだろうか。


「最後、食べられなかったんだもん。だから、リクエスト! 大地、野菜炒めだよ」

「……。はい、お任せを」

 



 僕達は歩きだした。

 向かうべき場所はある。隣には空がいる。




 なぜなら、これは

 君と僕の未来のプロローグなのだから。

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