願望
「――ふーん、またこんなことをやるわけね」
いつもより三割は伸ばしたまつ毛と南国の蝶のようなブルーのアイシャドーが、西班牙のチラシを眺めている。ランチタイムとディナーの間、伊太利は店を閉じる。最近ではその必要もなくなりかけているがその時間帯には客が来ない。
店の中ではチリトリとほうきのぶつかる音が定期的に聞こえてくる。
景子以外にも新人のバイトを雇ったはいいが、まだ仕事に不慣れらしく動きがぎこちない。
「いまどきの大学生は掃除もロクにできないわけね」
「家事をすることも減りましたからね」
陸人が新人の様子を横目で追いながら相槌を打つ。
つい先週まで彼の仕事だった作業は、本来五分程度で終わるところを二倍以上の時間がかかっている。あちこち同じ所を行ったり来たりしながら汗を浮かべ床に落ちたゴミを集めている。
「長い目で見てあげてください。誰にだって最初はあるものです。最近はその年齢がちょっと遅くなっただけですよ」
「そうかしら。どんどん情けなくなっていく気がするんだけど」
「それは店長が」といいかけて慌てて口をつぐむ。年を取ったからだとは口が裂けてもいえない。「様々なことを経験して、どんどん完成された人間に近づいてるからですよ」
「それどころか、未だに新しい古傷に悩まされてるわよ」
軽い溜息をつきながらふたたびチラシに目を落とす。
「これは今回もあなたが提案したわけ?」
「いえ、あちらの店長さんが勝手に」
「そう。あの男が調子に乗って何度もセールスを行おうって魂胆なわけね」
「それはそれでいいと思いますけどね。確かに集客効果は表れていますし」
「そうねえ」遥香は手に持っていたチラシをくしゃくしゃに丸めると陸人へ向かって投げてよこした。あわてて両手でキャッチする。伊太利の店長である遥香はマスカラに彩られたまぶたをゆっくりと動かしながらいった。「それと同じ日に同じことをやるわよ。いまさらパクリもなにもあったもんじゃないわ。正々堂々決着をつけてやる」
「どうしたんですか、急に」
「実は今日雑誌の記者から取材の申し込みがあったの」
こともなげにいってのける。陸とは合点したように微笑んだ。
「どうりで気合の入ったメイクだと思いました」
「写真撮影もあるらしいわ。この店のことを取り上げてもらえたら、どれだけキャンペーンを行なっても余りあるほどの宣伝効果がある。そうすればバイトの何人や、ひょっとしたら支店も出せるかもしれない。あなたの給料だって上げられるのよ、好きなだけ」
「お金をもらえるのはありがたいのですが」と陸人はいった。「僕は契約が切れたらまたどこか別のところへ移るつもりです。どれだけ引き止められようとも、それは変わりません」
「なんでそんなに頑ななのよ。なにか理由があるなら話してくれればいいじゃない。お金ならいくらでも払うといっているのに」
「旅にでるんです」
「どこに?」
「それはまだ決めてません。気の向くままに」
「……年長者のアドバイスとしては、そろそろ定職を持って、堅実に生きたほうがいいんじゃないかしら。あなたはいつまでも若いつもりでいるかもしれないけど年齢を重ねるほど時間はあっという間に過ぎていくものよ。二十代も後半にさしかかれば五年や十年なんてほんの一瞬。気づいたら体のあちこちに不調が出るような歳になってる。そうなってから仕事を探すのは楽じゃないわよ、たとえどんなに優秀な人材だったとしてもね」
「それは百も承知です」
「口でいうのは簡単だけどね」
遥香はしばらく陸人の整った顔立ちを見つめていた。
人当たりの良さそうな表情をしていながら、どこまでも底が見えない。いったいどんな人生を送ってきたのだろうか。
新人バイトの掃除が終わったらしく次の指示を仰ぎにくる。遥香に代わって陸人がてきぱきとやるべきことを教えると、のんびりとした動作で仕事に戻っていった。
「もうすこし人数を増やしてもいいと思いますね。はやいうちに戦力になってもらわないと」
「あなたが残ればいいだけの話よ」
という言葉はたしかに彼の耳に届いたのだろうが、曖昧に微笑み返すばかりで、なんの反応も示しはしなかった。
「もしもし」
遥香から電話が来たのは深夜のことだった。忠弘が渋い顔をしながら携帯電話を耳に当てると、いつになく真剣な口調の声が聞こえた。
「どうした」
「あんたのとこのチラシを見たわ。また性懲りもなく同じことをやるつもりらしいわね」
「なにをどれだけやろうとこちらの自由だろう。そんな嫌味をいいたいだけなら切るぞ、俺だって暇じゃないんだ」
「こっちだって退屈しのぎに電話してるわけじゃないわよ。ねえ、陸人のことをどう思う?」
「……とても優秀な男だ。ぜひともずっと雇い続けていたい。彼になら次の店長を譲ってもいいくらいだ」
「でも、実際のところ、もうすぐ私たちの元を去ってしまう。それをさせない手立てはある?」
「ないとはいい切れないが厳しいだろうな。お金を求めているのに、給料じゃ引き止められない。どうすればいいかさっぱりだ」
「このまま黙って諦めるつもり?」
「そういうつもりではないけれど……」
「私ね、陸人を引き止めるためには二人が別々に頼み込んでもダメだと思うの。そんなんじゃ誠意は伝わらない。泣いても土下座しても説得するくらいの意気込みが、あんたにはある?」
「……あるさ」
「そう。だったら聞いて。二人が頼み込んでしまうから陸人の心がどっちつかずになってしまうのなら、片方は手を引いて、一人だけが交渉に臨むべきよね。その権利を譲るつもりはないでしょうけど」
「当たり前だ。こちらだって陸人くんに居残ってもらえるならこれほど嬉しいことはない」
「私とあんた、どちらが彼を引き止めるのによりふさわしいか考えてみたの。どちらが彼をよりうまく活かすことが出来るのか。どちらが彼のオーナーとして適しているのか。――うちの店も、あんたのとこと同じ日に同じキャンペーンをする。その売上で勝負をするの、悪くない考えでしょ」
「おい、なにを勝手に決めているんだ。第一それだってうちのパクリで」
「もう決めたことだから。問題はその日の陸人をどうするかね。きっかり営業時間を半分に割って、前半と後半で働くところを変えさせようと思うの。それだけはあなたに選ばせてあげる。どっちがいい?」
「――くそ。後半をとる!」
「客単価が高いのは夜ですものね。それでうまく行けばいいけど」
遥香はくすくすと口元を覆いながら笑った。もちろんその光景は忠弘には見えていなかったが、彼女がなにをしているか安易に想像できた。緊張しているときにはそうするのが昔からの癖なのだ。
「そうそう。私ね、今日雑誌の取材を受けたの」
「そうかい」
「地元の小さなやつだけどね。あんたの店の話題は小指ほども出なかったわ」
「ああそうかい」
「それだけじゃない。私の写真撮影までしていったのよ」
「だから自分のほうが上だといいたいわけか。ご立派なことだな」
じゃあ、といって一方的に電話をきろうとした間際に、遥香の声が聞こえてきた。
「勝負は絶対よ。約束守ってもらうから」
「わかってるさ」
「あんたはいつも嘘つきなんだから」
今度は遥香のほうが電話を切ったらしい。忠弘は画面に残った着信履歴を見つめながら、二十年以上も昔のことを思い出していた。
一度は婚約までした間柄だ。
一時の気の迷いではなかった。彼女には悪いことをしたと思うが、自分の夢を譲ることができなかった。
付き合い始めたのは大学生の頃だった。まだ青春真っ盛りという年齢で、ふたりとも将来について真剣には考えていなかった。なんとなく交際が続いて大学を卒業するとき、結婚しようという流れになったのは自然なことだったのかもしれない。
忠弘は遥香に婚約の意思を伝え、彼女もそれを受け入れた。
しかし、いざ就職の話になると、どうにも意見が合致しなかった。彼女は安定したところに就職して欲しいといったが、忠弘は自分の店を持つといって譲らなかった。
小さい頃からの漠然とした夢が、その頃になると堅固で、頑なな決意に変わっていた。
意固地になり喧嘩が増えた。そのうち忠弘は自分が疲れきっていることに気づいた。同時に遥香に対してなんの情熱も持っていなかったことを認識した。
「別れよう」
と切り出したのは彼の方だった。返事は無言だった。だからまだ完全に別れたことになってはいないのかもしれない。彼女はどこかへ引越し、連絡が取れなくなった。
一人で店を興し、細々とレストランの経営をはじめた。その頃は景気もよく、商店街の活気も手伝って、店は徐々に繁盛していった。今の赤字でも食いつないでいられるのはあの頃の貯金をすり減らしているからだ。
玲奈の母親となる女性に出会ったのはそれから三年後のことで、今度は結婚まですいすいと進んだ。
なにより忠弘の生き方に共感してくれていた。それだけで十分だった。
娘が生まれ、店も繁盛し、幸せの頂点に浸っているとき、急に遥香が戻ってきた。
突然の出来事だった。商店街の反対側に店を立ち上げると、さも当然のように営業を開始した。彼女との過去は嫁に話していない。無用な心配をかけるつもりはなかった。
遥香がなんのために戻ってきたのかは分からない。きっと復讐のためだろうと思う。
「……はあ」
いまだに独身でいるのも、こうやってやたらと突っかかってくるのも、すべて忠弘に対するあてつけだろう。
女の執念に溜息をつきながら、忠弘は自分の家族が待つリビングへ足を進めた。娘の玲奈はすでに自分の部屋にこもっている。
陸人の端正な顔立ちを思い返す。
悪意は、どこに潜んでいるかわからないものだ。たとえ自分が望んでいなくとも。