予感
大好評御礼! 半額キャンペーン復活!
そんな仰々しいチラシが配られたのは前回のキャンペーンからわずか一週間後のことだった。次の開催は翌々日の土曜日とあって、前回をはるかに超える大混雑が予想された。
さらに値段が半額になるだけでなく、一品無料のサービスまでつけるというのだから身を切るようなサービスだ。実際、そこまで行くと利益がほとんど無いどころかわずかに赤字となる。
それでもなお今後の営業を考えれば一回や二回の損失は必要だと店長の忠弘は息巻いている。
宣伝効果があったのか、平日の客足も例年よりは何割か増加していて、店はすこしずつ活気付きはじめていた。
それだけに仕事も比べ物にならないくらい忙しくなったが陸人だけは何事もないかのように涼しい顔で業務をこなしている。柔和な表情を崩さずに、無駄のない動きで店内を行ったり来たりする様子からは隠し事がある気配など感じさせない。
いくらか黒ずんだ床を叩く革靴の音を聞きながら、玲奈はぼんやりと横目で陸人の姿を追っていた。
「そろそろ新しいバイトを雇わなくちゃいけないな。ホールに一人、キッチンに二人ってとこか」
店長の忠弘が、自らも料理を運びながら玲奈に耳打ちする。
たしかに人出は足りていない。
陸人がいるからなんとか成り立っているような状況だ。
バイトの何人かを増やしても黒字になることは間違いないし、長期的に考えても新人を雇うのは重要なことだった。
「それぞれ二人ずつの間違いじゃないの?」
玲奈がつっけんどんにいい返す。
「どうせ陸人さんはいなくなっちゃうんでしょ。だったら最初から頭数に入れない方がいい」
「馬鹿をいうんじゃない。陸人くんがいるからこそ経営が上向きになってきたんだ。単に一人のバイト以上の価値がある。ボーナスを支給してもいいくらいの貢献度だ」
「だったらわたしにもちょうだいよ」
「お前はただのアルバイトだろう、なにか店にとってプラスαになるような成果を出さなくちゃダメだ」
「ふーん。だったらどこかでいい男を捕まえてさっさと嫁いじゃおうかな。どうせいつまでもここに留まっているわけにもいかないし」
「アテもないくせに、よくいう」
「その気になれば出会いの一つや二つ、すぐモノに出来るわよ」玲奈はクスクスと笑って「そうなったらホールスタッフの総入れ替えだね。お父さんもこの機にやめちゃえば?」
「この店を手放すくらいなら、人生終わらせたほうがずっとマシだ」
機嫌を損ねたように唇をとがらせると、店の裏手へ回ってしまう。
玲奈は内心、やってしまったなと後悔していた。忠弘にとっては自分の店を持つことが人生のなかで大きな価値を占める。それだけに、安易に「やめちゃえば?」などと口にすべきではなかった。
「あーあ……」
ひとりため息をつく。また意地悪なことをいって、八つ当たりしてしまった。
忙しさからくるストレスのせいだろうか。
玲奈の隣を陸人がいつもと変わらぬ笑顔で通りすぎていく。本当の原因は、違うところにあるような気がした。
昼の繁忙期が過ぎて四時くらいになると、潮が引いたみたいに人影はなくなる。本当に人気のある店ならばこんな時間帯でもある程度混雑しているのだろうが、西班牙ではそうもいかない。
こんな時はたいてい一人だけを残して椅子に座っている。
その役割は陸人と玲奈が交代して担当するのだが、今日はふたりともがレジの横に置かれた椅子に腰掛けていた。
客がやってくればすぐに気付ける位置だ。ときおり入り口に注意を払いながら、コップに付着した水滴の流れ落ちる様子を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
「お客さんのいない店って、奇妙なものですよね」
陸人がおもむろに会話を切り出した。
あれだけ働いたというのに髪型一つ乱れていない。だが、目の下に広がっているくまからは、彼が疲れているのだろうことがうかがえた。
「本来人がいなきゃいけない場所に誰もいない。まだ日の昇っていない早朝に道路が空っぽになるのと同じ雰囲気です」
「……どうしてそんなこというのかな?」
「ふと、そう思ったんです」
「陸人さんがいなくなったらこの店はもっと寂しくなっちゃうんだよ。店員と、それからお客さんがいて、お店っていうのは成り立っていくんだから」
「店というものは常に変わり続けていきます」
陸人は一口水を含んでから、静かに口を開いた。
「店舗はそこにあるかもしれない。けど、そこで働く店員も、やってくるお客さんも、日々変わり続けていきます。全く同じように進んでいく日なんて一度もない。料理の味だって毎日全く同じわけじゃない。それを寂しいと思うのは自然なことかもしれないけど、変化を怖がっていては一歩も前に進んでいけませんから――僕は、そうやって生きてきましたし」
「陸人さんはいつもそうやっていたの?」
「ええ」
「だったら、どうしてわたし達に秘密にするのよ。仕事だけはテキパキこなしてるくせに肝心の自分のことはちっとも教えてくれない。どっから来て、何のために働いて、なぜ西班牙なんていう寂れた個人経営のレストランを選んだのか、そんなことさえわたしは知らない」
「だって、寂しくなるでしょう?」
口の端だけをかすかに歪めて笑う。
「親しくなった人とは別れづらくなる。寂しいというのは悲しい感情です。僕は周りの人達に笑っていてほしい。だからなるべく尾を引き過ぎないように深い付き合いは避けるようにしているんです」
「そんなのって、陸人さんの自己満足じゃない」
「はい」
「誰かを知ってしまった寂しさよりも、なにも分かり合えないまま離れてしまうほうがずっと辛いと思う。陸人さんと過ごした時間も、あなたのことを理解できなければすぐに色褪せちゃう。人ってそういうものじゃない?」
「僕は今まで出会った人のこと、みんなよく覚えていますよ」
彼はそういうと、記憶をたぐるように天井を見上げた。
「良い人も悪い人もたくさんいました。僕を好きになってくれる人もいれば、嫌われることもありました。でも、誰一人として恨んだりはしていません。僕の大切な思い出ですから……だから、最後に泣くような顔は見たくないんです」
「そんなにたくさんの人と会ってきたんだね」
やっぱりまだまだ知らない事だらけだと、玲奈は呟いた。
「そのうちに話すこともあるかもしれません。僕の気まぐれでしかないですけれど」
「どうしたら教えてくれるの」
「本当に大切に想う相手になら」
「ふーん」不満気に唇をとがらせる。そして閑散とした空間に目をやりながら続けた。「ねえ、さっき早朝の道路みたいっていったよね。見たことあるんだ」
「僕は早起きですから」
笑って誤魔化してはいるが自分の目元に彼女の視線が注がれているのを察知して、とっさにそっぽを向いた。その時、ちょうど見計らったように老夫婦がゆっくりと入り口に近づいているのが目に入った。
あわてて立ち上がる陸人の肩を軽く叩いて、
「あんまり無理し過ぎないほうがいいよ」
と忠告する。
返事は、戻って来なかった。
厨房の裏で休んでいる海斗を呼びに行く。また忙しい夜が始まろうとしていた。