追跡
むき出しになった街灯の周りを、くるくるとメリーゴーランドのように羽虫が飛びまわっている。黒に染まってしまいそうな空間を、頼りない白い光が照らしていた。街灯を横切るたびに、薄くなった影が足元を追い抜いていった。
冷たいアスファルトの上を三人分の足音が通り過ぎる。
賑やかな敵意に満ちた話し声は閑散とした夜の街によく響いた。
「あんた方向逆でしょ。さっさと帰りなよ、陸人だって迷惑してるよ」
「ヘンな虫がつかないように監視してるんです。誰かさんがいなくなればわたしだってすぐに戻るつもりだけど」
「絶対ウソ! 陸人と二人っきりで帰りたいだけなんでしょ。あわよくばアパートに上がりこもうなんて考えてるくせに」
「よくそんな下品なこと想像できますね。恥ずかしくないんですか」
「あんたのほうが下品でしょ。内心なに企んでるんだか分からないし」
陸人を両側から挟みこむようにして怜奈と景子が言い争いを続けている。どちらもアルバイト時の制服ではなく普段通りの私服を着ているが、陸人だけが伊太利のロゴの入った白いワイシャツをたなびかせていた。
「喧嘩はよくないよ」
二人よりも頭二つ大きい陸人が頭上から声をかける。仕事中とは違って、やわらかな口調だった。
「だってこの女がしつこいんだも―ん。さっさと追い払っちゃってよ」
「そっちこそ黙ったらどうなの? 口を開くとロクなことを喋らないんだから」
「この辺は暗いから、そろそろ二人とも帰った方がいいと思うよ。本当なら送ってあげたいところだけど、どちらを先に見届けるかでまた喧嘩になりそうだし、今夜はあんまり時間がないんだ」
そういって立ち止まると、両脇の女の子たちの肩に手をかけた。
はたから見れば優男が口説いているようにも思える光景だが、陸人はやんわりと力をかけ、二人の身体を後方へと押しやった。
「えー……陸人の家にお邪魔させてくれるんじゃないの?」
「いまは散らかってて女の子を上げられるような状態じゃないんだ。ごめんね」
「じゃ、また今度行かせてもらうからね。そのときまでにちゃんと片付けておいてよ」
「わかったよ」
苦笑しながら陸人は景子をうながした。渋々といった様子で彼女はもといた商店街のほうへと足を進めはじめる。景子の家は、陸人の住んでいるアパートとは完全に逆方面だった。
街灯の明かりはまだちらほらと残っており、特に夜道が危ないという雰囲気ではない。
「ほら、浅尾さんも。帰りは喧嘩したらダメだよ」
「陸人さんが送ってくれればいいのに」
「閉店後の会議がなければもちろんそうしたんだけどね。今日はあんまり時間がないんだ」
「…………」
怜奈は不服そうに景子の後姿に目をやったが、やがて静々と西班牙のある商店街の方面へ帰りはじめた。ふたつの短い影が曲がり角を通過したのを見てから、陸人は駆け足ぎみに自分のアパートへと戻っていった。
はやる陸人の後姿はどこか憂愁を帯びているようにも見えた。
もしも一人きりだったら、その背中に帯びた感情を探ろうと近づいていたかもしれない。もしも一人きりだったなら。
「……で、なんであなたが付いて来てるわけ?」
「そっちこそ家に帰ったら? あんまり遅くなると愛しのお父さんが悲しむんじゃない」
「あのおっさんがわたしのこと心配するはずないでしょ。可愛い娘をこき使うような父親なんだから」
「あっそ。とにかく離れて」
「そっちが太り過ぎなのよ」
「電柱の陰に隠れるのもいい加減限界――って!」
怜奈に押し出されるようにして景子が地面に倒れこむ。その拍子にバランスを崩した怜奈の尻が、思い切りよく景子を下敷きにした。
声にならないうめき声を上げる。
あら失礼、とさほど悪くも思っていなそうな表情をして怜奈が立ちあがる。陸人の姿が消えている。どうやら角を曲がってしまったらしい。慌てて追いかけようとすると、彼女の足首を景子がつかんだ。
「ちょっと待ちなさいよ」
「はやくしないと見失っちゃうでしょ。放してよ」
「人を踏みつぶしておいてゴメンのひとつもないわけ?」
「あんたが支えきれなかったのが悪いんでしょ」
そういうと怜奈はさっさと陸人の通っていた道を追っていく。舌打ちをひとつしてから景子も服の埃を払って怜奈のあとを駆けていった。
夜道で足音をたてないように追跡するのは思っていたよりも簡単だった。
どれだけ静かな道でも、耳を澄ませてみればあちこち雑音が混じっている。車の音やどこからか聞こえる酔っ払いの声、そんなものに混じってしまえば二人分の靴音など消えてしまう。
それよりも気になるのは荒くなる呼吸と心臓の鼓動だった。いつか陸人の耳に届いてしまうのではないかと、不安で心がざわめく。
陸人のアパートは意外と遠く、それもかなりの速足で帰宅して行くので、普段から運動不足の怜奈にとってはかなりきつい道のりだった。
ここ最近は忙しくなったが、いつもはぼんやりと店内を眺めていることの多い仕事である。そんなふうな労働に退屈さを感じていたのも事実だった。だからこそ、西班牙に新しい風を吹き込んでくれた陸人のことが気になっていた。
「ねえ、あんたはなんで陸人のことを追いかけてるわけ? 好きなの?」
後ろから追いついてきた景子が、舌打ち混じりに訊ねる。
空気に湿気の匂いが混じっている。どうやら雨が降り始めそうだった。
「べつに。ちょっと気になってるだけ」
「ふーん。素直じゃないんだ。あたしは好きだよ、陸人のこと」
あっけからんといってのける。あまりに堂々としていて、怜奈の方が逆に気恥かしさを感じるほどだった。
「顔が恰好いいだけじゃないよね。堂々としてるし、いろんなこと知ってるし、優しいし。バイトなのに仕事ができるって素敵だと思う」
ややどたばたしながら追いかけていると、ようやく陸人の後姿を捕捉できるまでに近づくことができた。もう追跡をはじめてから十五分以上は経過している。彼の住んでいるアパートは意外と遠くにあるらしかった。
時計の針が進んでいくにつれて、怜奈が周囲をうかがう回数が増えていった。夜の道は、街の中心部から離れていくに従ってどんどん暗くなる。
どこからかお化けでも出てきそうな、陰鬱とした雰囲気。どこかで道路を工事する音が鳴り響いていた。
「――そろそろ帰ったらどうよ」
しびれを切らしたように景子がうながす。
「こうなったら意地でもついていくから。絶対に抜け駆けなんてさせないし」
つんけんとした口調で怜奈が応じた。が、その瞬間、なにかが彼女の肩を叩いた。反射的に身をすくませる。悲鳴を上げなかったのは我ながら上出来だったと、振り返りながら瞬間的に考えていた。
尻もちをつく、と同時に背後にいる人物が視界に入った。
「なにやってるんですか、こんなところで」
呑気な声で質問を投げかけたのは怜奈と同じ西班牙でアルバイトをしている料理人である海斗だった。彫りの深い顔立ちの上に浅黒い肌をしているので、暗闇のなかからぬっと現れ出るとことさら不気味に見えた。
どうやら私用で通りかかっただけらしく、いつものコック姿ではない服装に違和感を覚えてしまう。海斗と店外で出会ったのは初めてかもしれなかった。
「――しっ!」
人差し指を唇の前にかざして、不思議そうな顔をしている海斗を黙らせる。玲奈はささやくような声で状況を説明した。
短い要約を聞き終えた海斗は、顔を陰らせた。
「つまりストーカじゃないっすか」
「この女を監視してるだけだよ。なんかヘンなことをしでかしそうでしょ。陸人さんの身になにかあってからじゃ遅いから」
「なにかって、なんですか」
「それは……不埒なことよ」
玲奈はあいまいにはぐらかして、少しだけ頬を赤くした。ほとんど真っ暗闇に近い夜の中で、海斗がその小さな変化に気づくことはできなかった。
どこかでカラスの鳴いている声がする。
夕暮れはとうに過ぎ去ったが、この近くに巣があるのかもしれない。そんなことを考えていると鳥の鳴き声に混じってドアが乱暴に閉められる音がした。
あまり上質な扉ではないらしく錆び付いた響きが混じっている。
つと、玲奈が気配のした方角へ顔を向ける。
「どうしたんすか?」
「ねえ、陸人さんの家ってこの近くなの?」
「さあ……見かけたことないっすけどね」
「ふーん」
植木の多い古びた一軒家を囲んでいるアスファルト塀の先から首を出してみる。ちょうど左手すぐのところに、こちらも年季の入った木造のアパートが鎮座していた。誰かが階段を下っているらしい。小気味のよいリズミカルな足音を立てているその人は、陸人に間違いなかった。
「こんなところに住んでたんだ」
玲奈の背後から覗き込んだ景子がさほど面白くもなさそうに感想を漏らした。
「あたしだったら三ヶ月も耐えられないな。ゴキブリとかウジャウジャいそうだし」
その言葉を聞いて海斗が顔をしかめた。ゴキブリは厨房の大敵だ。
「ま、その分、家賃は安そうだけど」
「前にうわさで耳にしたことがあります。このアパートには一部屋だけいわくつきの所があって、いつも幽霊のすすり泣きが聞こえてくるらしく、格安の家賃で貸し出してるんだとか」
「……どうりでバイト先からずいぶん遠いところに家があると思った。陸人って見た目によらずケチケチしてるよね。なんていうか、お金にがめつい感じ」
景子の言葉に、玲奈が何度かうなずいた。
「お給料だって一人だけ上げてもらってるし、なにかのために貯めてるんじゃない?」
「まさか結婚費用とか?」
「それはないと思う……けど」
そういわれると自信がなくなってくる。陸人の正確な年齢は知らないが、おそらく二十代の半ばだろう。結婚のための準備をしていたとしてもまったく不思議ではない。
考えてみれば彼に恋人がいるかどうか確かめていなかった。
彼女がいるのに付きまとわれては大いに迷惑だろう。そう思うと、こうして陸人の後を付けてきたのが本当に正しかったのか不安になってくる。
夜の冷たく染まった風が肩口をすり抜けていく。半そでのシャツには、少し肌寒かった。
「……わたし帰ることにする。もう陸人さんもどこかへ出かけていっちゃったし」
「急にどうしたのよ、なんか気持ち悪い」
「べつに。こんなことしてストーカーみたい。あー馬鹿らしい」
「あっそ、ならあたしは陸人が帰ってくるまでここで待っていようかな。彼氏の帰りを待つけなげな彼女みたいじゃない」
挑発するような景子の言葉を無視して、玲奈は陸人の出てきたオンボロ木造アパートに背を向けた。街灯の弱々しい光が薄い影を作り出している。
「送っていきますよ、店まで」
と、海斗が声をかける。
玲奈はぼんやりとしていて返事をしなかったが、西班牙の小柄なシェフはそっと車道側に移動して、夜道の先導をはじめた。
歩き出す前にちらりと景子の様子を確認する。
もう携帯電話の画面を開いていた。機械的な白い光に、厚塗りの化粧が映し出されている。その姿はどこかはかなげに見えた。
「悪いんだけどさ」小声で海斗にささやく。「送ってもらったあとにまだあの女がいるようだったら、さっさと帰るように説得してもらえないかな。あのままじゃ陸人さんの邪魔になる」
「陸人さん――ですか」
玲奈よりも小柄な海斗と並んで歩いていると、まるで男女が逆転したような錯覚に陥る。
隣を行く坊主頭がちらちら視界に入りこんできては玲奈の思考を妨害した。いまは陸人のことばかりが浮かんでくる。
住んでいるところが判明したというのに、また新たな疑問が生まれてしまった。どうしてあんな基本的なことに気づけなかったのだろう。
引っ越してきたばかりだというから油断していたのかもしれない。今の時代、遠距離恋愛なんて珍しくともなんともないのに。
「陸人さんって、何者なんでしょうね」
海斗がぽつりと独り言のようにたずねた。辺りはひどく静かだった。人工的な光に誘われて、ひらひらと酔っ払ったように飛んでいる蛾の羽音が聞こえてきそうなくらいに。
「不思議な人だと思う。有能なのに驕ってないし、それなのにお金に関してはがめついし。たぶんわたしたちの知らない秘密があるんだと思う、それがいいことかどうかは分からないけど」
「だから尾行してきたんですか。すこしでも陸人さんのことが知りたかったから」
海斗の口調はいつにも増してぶっきらぼうで、どこか怒っているような響きだった。玲奈はいままでたどってきた道のりを振り返りながら、
「それもあるかな。でもね、正直なところ自分自身でもよく分かってないの。あの女の妨害をしたかっただけなのか、陸人さんの素性を暴きたかったのか――どうなんだろうね?」
「そんなこといわれても、俺にはどうしようもありません。どちらにせよ、玲奈さん次第だし」
「海斗くんは陸人さんのことどう思ってるの?」
玲奈が顔を覗き込みながら尋ねた。
視線をそらすように横を向きながら海斗は、
「すごい人だとは思ってます」
と答えた。
「それだけ?」
「それで十分じゃないですか」
「もっと他にないの?」
「玲奈さんのほうこそ陸人さんのことどう思ってるんですか」
いくらか語調を荒くしながら海斗が吐き捨てるようにいったが、すぐに、
「べつにいわなくていいです」
と付け加える。
明かりがないのではっきりと表情を読み取ることはできなかったが、どうやら海斗が不機嫌らしいことは感じられた。
やはり店まで送っていくことが億劫なのだろうか。
私用でふらりと外へ出て、仕事仲間をバイト先まで送り届けなければ行けないなんてとんだ災難だろう。ましてや夜だ。早く帰って寝るなりなんなり、好きなことをしたいに違いない。
「ごめんね、わたしもうひとりで帰れるからさ、ここまででいいよ」
「はい?」
「送ってくれてありがとう。また明日ね」
「ちょっと待ってくださいよ。俺なにか玲奈さんの気に障るようなことしましたか」
「そういうわけじゃないの」と玲奈は弁解した。「海斗くんが迷惑だったかなと思っただけ。明日もバイトあるでしょ、ほら、もう遅いし帰って準備したほうがいいんじゃないかなーって」
「女の子の一人も送り届けられないなんて男の風上にも置けませんよ」海斗がむすっとしていった。
「でも、悪いよ。それに海斗くん年下でしょ?」
「年齢が下だろうがなんだろうが、これくらいのことは男の義務ですから」
いきなり手を握られたので玲奈ははからずも心臓が跳ね上がりそうだっった。彼氏の何人かはいたことがあるが、こうして不意に、それもバイトの同僚にぐいと引き寄せられると玲奈の瞳孔が大きく開かれた。
海斗は進行方向に顔をそむけているので表情はわからない。
手を後ろにしたまま玲奈を引っ張っていこうとするので、声が上ずりそうになりながらも尋ねる。
「ちょ、ちょっと、突然どうしたの?」
「玲奈さんがごたごたとウルサイからです」
「わたしはただ――」
「いったいなんだっていうんですか、さっきから!」
海斗はぴたりと足を止め、苛立たしげに叫んだ。怒っている理由が玲奈にはわからなかった。それでも、彼女を見上げる視線にはたしかに非難の色が込められていた。
怒鳴った声が反響しそうなくらいの沈黙が落ちてくる。
二人がほとんど睨み合っているような状態が何秒か続いて、再び海斗が口を開いた。
「玲奈さんは俺をおちょくってるんですか?」
「ねえ、どうして怒ってるの? わたしが悪いことをしたなら謝るよ。ごめん」
「そんなことを聞きたいわけじゃないんです。謝ってほしいわけでもない。ただ普通にいてくれればいいだけなのに、わざわざ癇に障るようなことばっかりいうから……」
「そんなこと――」
特に海斗を刺激するようなことを口にしたつもりはなかったのだが。たしかに送ってもらおうとしたのを断ったりと自分勝手な行動はとったかもしれない。それでも、普段のぶっきらぼうな海斗が声を荒らげるほどカチンとくるものだったろうか。
「ねえ――」
と声をかけようとすると、海斗は何も言わずに再び強引に玲奈の手を引っ張っていった。
力強いを超えて、少し痛いくらいの勢いで夜道を進んでいく。何度か転びそうになりながらもスピードを緩めることはない。やがて商店街のぼんやりとした街灯が見えてきた時には、すっかり息が上がっていた。
伊太利の軒先を通り過ぎる。すでにシャッターが降りて店内の電気も消えていた。父の忠弘はすでに帰宅したのだろうか。
忠弘と遥香の間に、たんなるライバル店の店主同士という異常に深い因縁があるのはうっすらと感づいていた。それがなんだか分からないがあまり好感の持てるものでないことは間違いない。なるべくならその二人を近づけたくはなかった。
沈黙しきった商店街を半分ほど行ったところで、海斗が不意に足を止めた。
西班牙までにはまだ距離がある。しかし、彼は玲奈を握っていた手を放した。気づかなかったが、肌の表面がしっとりと湿り気を帯びている。
「ここで十分ですよね。気をつけて帰ってください」
「ありがとう……」
きっと忠弘に見つからないような距離でやめたに違いない。
娘の帰りが遅いのを心配して、店のドアの前で腕組みをしながら待ち構えている光景は容易に想像できた。
一介の従業員が娘に手を出していると勘違いされれば即刻クビにされかねない。
古くなって切れかかった街灯がチカチカと点滅していた。海斗の彫りの深い顔に、影がちらつく。
「それじゃまた明日」
「うん。ここまで送ってくれてありがと」
「もうあんな変なことはしないでください」
「変なことって?」
「陸人さんをストーカーするような行為です」
「ああ、そういえば」
なんだか気が動転してすっかり忘れていた。
「もうやらないよ、あんなこと。景子に負けたくなくて意地を張ってただけだし。陸人さんの住んでいるところを知って何になるっていうか――きっとわからないことがたくさん出てくると思う。わたしたちに隠してることをのぞき見たっていいことないよ」
「俺も陸人さんには裏があると思います」
ぼそりと感情をこめない口調でいう。
そしてそのまま足音を立てないで立ち去ってしまった。陸人の家と同じ方角へ帰っていく彼の姿を見送りながら、玲奈はふと考えていた。
陸人のことは好きかもしれない。
だが、一体どこに惹かれているのだろうか。
店の中でエプロンを着ている陸人と、夜のアパートからいそいそと出かけていく陸人と、裏表がありすぎた。普段は他人から隠している秘密の部分を垣間見てしまったことでかえって疑う気持ちが強くなっていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ささやかな好意がオセロのようにひっくり返って別のものに変わってしまった気がして、すこし、悲しかった。