秘密
終業後にまた戻って来るといって忠弘たち西班牙の従業員は自分の店へ帰った。お互いに小さいながらもレストランを経営しているので、営業中の妨害行動は避けたかったのだろう。
だが、それ以上に陸人のことが気になったに違いない。
遥香としても陸人が西班牙と伊太利の両店のアルバイトを掛け持ちしているなど、まったく想像していなかった。
寂れた商店街の端と端くらいの距離しか離れていない店舗である。
別にライバル店ではあるが、業務に支障がなければバイトを両立させても問題はない。陸人も二十才は超えているから、自分の体力がもつ限り働いてもいい。
よほどはやくお金を貯めたかったのだろう。それだけに、なぜ両店を競わせるようなことをしていたのかが疑問だった。
いくらボーナスが出るとはいえ同じようなキャンペーンをすれば対立が起こるのは明らかだ。おまけにその立案者がどちらも陸人であると判明すれば、ただ事では済まないだろうことも十分に分かるはずだった。
「……ねえ」
先ほどの邂逅を気にするそぶりもなく、くるくると働いている陸人に声をかける。相変わらずの整った営業スマイルだ。
「なんでしょうか?」
「あなたが西班牙で働いていたことを責めるつもりはないの。もちろんそれを黙っていたことも。けどね、何のために働いているのかが分からない。お金を稼ぐだけならもっと手っ取り早い方法がいくらでもあるでしょう。ここより時給のいいところだって、探せばすぐに見つかる。それなのに、どうしてわざわざ伊太利と西班牙を選んだのかしら。教えてくれない?」
「僕はたしかにお金のために働いています」陸人はためらいなく断言した。「けど、それだけではありません。――今は仕事中ですから、そのことについて話すのは今度の機会にしましょう。おそらく今夜にでも」
忠弘たちがやってくる時間帯を指して、忠弘は雑踏のなかへ去っていった。
その後姿からは、たんなるアルバイトの青年という雰囲気がまるで感じられない。それ以上のものを――おそらく、彼女が陸人本人から聞かされている経歴よりももっと複雑なものを背負っている気がした。
客足のピークである昼ごろを過ぎると、ようやく殺人的な忙しさもやわらぎ、休憩時間に入った景子が紙パックの野菜ジュースを片手に遥香のとなりへ腰をおろした。
金に染まった髪がちらつく。
これだけ忙しいのに化粧が崩れていないのは流石だと、遥香は思った。
「あー疲れた。店長もぼんやりしてないでちょっとは働いてよ。人出は足りてるけどレジくらいやってもらえたら助かるんだよね」
年齢差を小指ほども気にしていない口調で景子がいった。
「あなたねえ――」
「どうせ陸人のことで悩んでるんでしょ。さっき西班牙の人たちが来てたとこ見ちゃったから。まさかあの店でも働いているなんて思ってなかったけど」
「別にどこで働いていても文句をいえる筋合いはないのよ。ただ、お互いの業務を妨害し合うような形になっているのが不思議なだけ」
「陸人って絶対なにか隠してるよね」
景子は長いまつげを陸人へと向ける。スピードはさほど変わらないように見えるが、よく観察すると他の従業員の倍は働いている。おそろしく要領よく働いているのだろう。すべての業務を頭に入れたうえで行動しなければ、ああはいかない。
その陸人は、影でこっそりと景子と遥香が話題にしていることには気付いていないようだった。
「仕事中はなにを話しかけてもそっけない対応だし、終わったら終わったですぐに帰っちゃうし。世間話は上手なのにちょっと個人的なことを聞こうと思ったらニコニコしながらはぐらかすんだもん。他人には知られたくない事情があるね、マジで」
「自分のことを話したくない理由があるんでしょ、そこまで立ち入るのはかえって無神経なんじゃないかしら」
「そんなわけないじゃん。悩んでることがあるなら相談する、それが友達ってもんでしょ。店長も困ったことがあったら何でも聞いてあげるからね」
友達、という言葉にこめかみを押さえる。遥香は白髪の本数が増えていまいかと、探るように頭皮をなでた。
「向こうはあなたのことを友達だなんて思ってないかもしれないわよ。ついでに私も」
「友達じゃないなら恋人候補でも何でもいいんだけどさ。もしかしたら前科持ちなのかなーとも考えたけど陸人はそんなことする人には見えないし。店長ならなにか知ってるでしょ。教えてよ」
「本人が教えたくないことを話すわけにはいかないでしょ。あなただって、高校の学生証は見られたくなかったんじゃない?」
写真を撮るときだけは黒髪に戻すのが普通だ。
アルバイトの面接時にだって景子はキャラを偽っていた。騙されたのは悔しいが、見抜けなかったことは仕方ない。
「あたしは別に。どんな自分でも自信を持ってるから?」
黒い肌に映えるように白い歯を見せる。
「あ、若さってうらやましいと思いました?」
「そんなわけないでしょ。ほら、休憩時間はもうお終い。さっさと仕事に戻って」
「はーい」
素直に席を立つ。
いつもこのくらい物分かりがよければいいのに、と遥香は思わずにいられなかった。