発覚
うららかな春の日差しが、シャッターの閉まった商店街に降り注いでいる。どこからか飛んできた桜の花びらが風に乗って舞うなかに、ひっそりとした商店街の雰囲気とはまるで関係なしの行列が出来上がっていた。
西班牙が陸人の提案で行った前回のキャンペーンよりもさらに長蛇の列である。
まだ開店前だというのに何重にも連なった人の波を見て、店長の忠弘は胸に熱いものが込み上げて来るのを感じていた。
「店をはじめて二十数年……ついにここまで来た。ときには赤字続きで店をたたもうかと思ったこともあった。客のいない嵐の晩には何度も挫けそうになった。それでもこうやって継続してきたからこそ、今の西班牙があるんだ――」
「バカ店長! 呑気に外なんか見てないではやく手伝ってよ!」
娘の怜奈の怒号が突き刺さる。
忠弘は眉間にしわを寄せた。せっかくいい雰囲気に浸っていたのに。どうしてこうも空気の読めない子に育ってしまったのだろう、店にばかり精を出していたせいで教育にまで手が及ばなかったせいか……。
「ボケッとしてるなら床の掃除やっておいてね。開店まであと十分もないのに準備が終わってないんだから。そのくせ人出は足りてないし――」
延々と愚痴が続きそうだったので忠弘は適当に返事をして、無造作に転がっていた掃除機のホースを手に取った。
店長はゆっくりと椅子に座りながら従業員の仕事ぶりを監視するものだと信じていたが、前回のキャンペーン同様、人員を増やしていないので、四人で切り盛りして行くしかない。
将来的には各地に支店を出して、本社でのんびりと売り上げを確認するだけの仕事に就きたいものだ。
こうして店長自ら働くのも、そのための布石なのだと自分に言い聞かせる。
「そこまだゴミ残ってるよ! こんな簡単な仕事もできないんじゃ戦力外だけど、今日ばっかりは仕方なくお父さんにも手伝ってもらうんだから気合い入れてよ!」
怜奈の言葉が耳に痛い。
外からは、普段耳にすることのない量の話声が聞こえてくる。エプロン姿の陸人にはキッチンで仕込みをしてもらっているところで、海斗と共に食材を切るリズミカルな音を奏でている。
レストランの仕事というものは、客が入りはじめたときこそホールの方が忙しいが、ひと山越えるとにわかにキッチンが慌ただしくなってくる。
料理人が海斗ひとりではとても捌ききれないので、陸人にも手伝ってもらうことにした。
「スペイン料理ならひと通りは作れますから」
といって、昨日仕事が終わったあとにレシピと睨めっこしていたのだが、すでに海斗と同じくらいには働けるようになっている。
いったいどんな人生を送ってきたのだろうかという疑問が忠弘の脳裏をめぐっていく。
だが、そんなことを考えているうちに、開店時間にセットしておいたアラームがけたたましく定刻を告げた。
「オープンします!」
まだ掃除機をしまい終わっていない。
忠弘があわててコンセントを引き抜くと同時に、雪崩をうって客が流れ込んできた。
たった四人で対応しようとしたのは失敗だったかもしれないな、と今更になって後悔が募りはじめる。浮かない表情をした忠弘をよそに客席は次々と埋め尽くされていった。
ライバル店である伊太利が、西班牙とまったく同じキャンペーンを展開してきたときははらわたが煮えくりかえって仕方なかった。よほど怒鳴りこんでやろうかと思ったほどだ。
恥も外聞もあったものじゃない。
プライドを捨てて丸パクリしたのだから、文句の一つや二つで済む問題ではないはずだ。店主の北川遥香に電話をかけて抗議してやろうかとも考えた。
だが、伊太利がまったく同じキャンペーンを行った次の日、陸人が良い提案をした。
「もしもこの前の伊太利を超えるような目玉企画を成功させることができれば、あちらへ流れかけた客をすべて取り込むことができます。人間の心理はお得な方へと傾いていくものですから、料理の味を知らない状態ならば安いお店を選ぶことでしょう。ここは思い切って先行投資をすべきです。赤字覚悟で割引キャンペーンを行えば――これはかなり覚悟のいることですけど――将来的な黒字を確保することができます。しかも伊太利の機先を制することができれば、今度こそ真似をして来ることはないでしょう」
出血大サービスをしろ、ということである。
売れれば売れるほど赤字がかさんでいくなんて、身の毛もよだつ恐ろしい話だ。だが、一時のリスクを恐れていては前に進むことはできない。
全国各地に支店を出し、オーナーとしてゆっくりウイスキーでも飲みながら幸せな暮らしを送る……という壮大な夢への足がかりにするのだ。
「ちょっと、料理まだなの?」
「はい。ただ今お持ちいたします――」
「お会計お願い」
「はいはい。少々お待ち下さい――」
「オレンジジュースとコーラ、あ、やっぱりジンジャーエールで」
「――かしこまりました」
忠弘の脳内はすぐに仕事のことでいっぱいになった。小瓶に滝の水を注ぎこんだみたいにオーバーワークだ。
だんだんと四肢が重たくなってくる。
赤字覚悟だと脅されて人員を増やさなかったのがいけなかった。ときおり怜奈が怨みがましい視線を突き刺してくるのが、心に痛い。
そのなかで陸人だけがただ一人異次元の働きぶりを見せつけていた。
キッチン、ホールの両方の仕事をこなしながら笑顔を絶やすことなくテキパキと仕事を片付けていく。動きのスピードこそ怜奈と変わらないが、空手の型のように一切の無駄がない手つきをしている。
陸人の通ったあとには一枚の皿も残されてはおらず、絶妙なバランスを取りながら山のような使用済みの食器を運び上げる。
「もはや達人技だな――」
思わずうっとりと美技を眺めていると、後ろを通りかかった怜奈に足を踏まれた。
「ぼけっとしないでよ」
「…………」
実の父親に対する態度だろうか。
忠弘は輝かしい未来を思い浮かべ、必死に心を乱さないよう試みた。が、客に向けた笑顔はかすかに引きつっていた。
悩みや愚痴を並べる暇もなく時間ばかりが異様な濃密さでゆっくりと足を進める。
途切れることのない行列のなかに、ひと組の外国人のカップルがいるのを認めた。わざわざこんなときに来なくてもいいのに。
忠弘も怜奈も外国語はおろか、英語ですら喋れない。
外人の客が来るときはいつも大騒ぎで、しどろもどろ対応をするのが常だった。
「いらっしゃいませ!」
疲れ果てた笑顔で、その外人ふたりを招き入れる。
金髪の髭を生やした長身の男と、真っ黒に日焼けした南米系の女性だ。本場のスペインのレストランにいそうな出で立ちだが、あいにく日本の小さなレストランでは注目を集めるほど浮いていた。
「ジス イズ メニュー」
片言の英語で話しかける。
が、どうやら向こうに英語で対応する意思はないらしく、なにやら聞き慣れない言葉でまくし立てられてしまった。
表面上ではニコニコと取り繕っておきながら、内心で怒りが込み上げてくる。
こっちがつたない英語をしゃべってるのに、まったく合わせる気がないなんて、これだから外人は空気が読めないんだ――。
そのとき背後から足音もなく、陸人がぬっと首を出した。
「店長、僕が代わりますよ」
そうだ。
陸人なら大丈夫だろう。
忠弘は溜飲を下げると、新しく入ったばかりのアルバイトにあとを譲った。その日の売り上げはほんのわずかに赤字だった。
「はっはっは、大盛況、大盛況。面白いように売れるわね。こちとら笑いが止まらないってもんよ」
伊太利のさほど広くない店内で、北川遥香がひっそりと笑みを浮かべていた。
店内に充満する客のすべてにサービスが行き届いている。この日のために臨時の従業員を雇ったのが成功だった。
多少コストはかさむが、第一印象を下げるよりはずっとましだ。
もとより赤字覚悟のキャンペーなのだから多少支出が増えるくらいは問題ない。
「一日全品半額の上にジュース飲み放題。おまけにデザート一品サービスなんだから、これ以上の贅沢はないって感じよね」
この一計を案じたのは陸人であった。
遥香が西班牙の繁盛ぶりに歯ぎしりしているところへ、陸人がさらりと提案したのだ。これなら西班牙のキャンペーンともかぶらない。遥香は小躍りして準備に取り掛かった。前回の失敗を活かして、臨時のパートも雇い入れた。
その結果がこれである。
席という席には客がすわり、今日のために用意した特別なテーブルまでもが埋まっている。
店内にまで及んだ行列は閑散とした商店街を横切って、はるか西班牙の店先にまで続いていた。
きっと今ごろ忠弘は地団太を踏んで悔しがっているころだろう。彼の悔しがっている表情を想像するだけで自然と口元が緩んだ。
「急に思いついたみたいなセールをするなんて、あいつらしくもないことをするから失敗するのよ。従業員が足りてなくて評判もイマイチみたいだったし、うちの店のほうが上手くやってるわ」
周囲に人がいなければ心おきなく高笑いをしているところだ。
それをかろうじで押さえつけていられるのは、日頃から鍛えてきた自制心のたまものだろう。
「調子いいですね」
手の空いた陸人が横へ来て、ひっそりと耳打ちする。
「このままいけば西班牙の売り上げを超えることも難しくないでしょう」
「そりゃそうよ。基本的なスペックでは伊太利のほうがすべてにおいて勝ってるんだから。とくに従業員に関しては、あなたがいてくれる限り負けることはあり得ないわ」
「ありがとうございます」
慇懃に頭を下げる。
その態度は、客へ向けるものと何ら変わりがない。
「約束通りボーナスは支払うわ。バイトにしておくのがもったいないくらい。せっかくだから正社員として雇われてみない? 給料ははずむわよ」
「いついなくなるとも分かりませんから。僕はアテにしないでください」
「――あなたもそろそろ定職に就いた方がいいんじゃないの。好き勝手な生き方をしていられる年齢でもなくなってきたでしょ」
「……それは僕の決めることですから」
いい終わらないうちに、伊太利の店先がにわかに騒々しくなった。人が話している声ではない。誰かが悪意を持ってどなり散らしているようだった。
「なにかしら?」
「誰でしょうかね」
「ちょっと見て来てくれない――」
遥香の眼前に立ちはだかったのは、エプロンのあちこちをトマトケチャップで汚した忠弘と、従業員である怜奈と海斗だった。
「……これはどういうことだか説明してもらおうか」
忠弘が怒りを鎮めるために深呼吸をしてから、ゆっくりと言い放った。
「どういうこともなにも、文句を付けられる筋合いはないわよ。これはオリジナルのキャンペーンで――」
「そういうことじゃない」忠弘は、遥香の隣に立っている男の顔をまじまじと見つめた。「おれが訊きたいのは、どうして陸人くんがこの店にいるのかってことだ」
ふたつのアルバイトを掛け持ちしている青年は、無表情に忠弘の瞳を見つめ返していた。人々の話し声で埋め尽くされた店内の一角に、暗い沈黙が舞いおりた。