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エピローグ

生まれも育ちも同じ街だった。

 地元の小学校に通い、同じような面子でそのまま中学校に進学した。学校と友だちは楽しいものだった。しかし、家庭の状況は芳しくなかった。

 父は昔から浮気性のある人で数年ごとに違う女性と密会していた。陸人がそのことを知ったのは母と父が定期的に大喧嘩をするからであった。ストレスのせいなのか元来そういう性格なのか、母親はヒステリーを起こすことが多かった。家の器物の大半が投げつけられてしまうため、家のなかはいつもシンプルな安物の家具しかおいてなかった。

 喧嘩の予兆を感じとると陸人はいつも家を飛び出して、友達の元を訪ねたり、公園で時間を潰したりした。

 家に帰るのは深夜を過ぎた頃か、さもなくば外で寝泊まりすることにしていた。友達の家に一晩泊めてもらうのは事情を詮索されそうで嫌だった。

 そうしているうちに、ホームレスのおじさんたちと仲良くなった。

 彼らは日銭を稼いでは酒に費やしているような生活を送っていたが、決して人格的に悪い人ばかりではなかった。その中の一人に、昔、海外で働いていたという男がいた。

 男の話は面白かった。

 どこまでも自由な世界が広がっている気がした。

 陸人の知らない、親もいない、自分一人で生きていくことのできる国のことを聞いていると、なんだか無性に楽しかった。

 日本にいることが馬鹿らしくなった。

 中学も終わりに近づいた時、バイトをはじめた。海外へ行くのに金が必要だと思っていた。

「外へ行ってどうするつもりだ?」

 男に聞かれた。

 答えはなかった。どうにでもなる気がしていた。

 とにかく外国へ行けばなんとかなると信じていた。

「あっちで暮らすのは楽じゃないぞ」

 何度も警告された。思えば若気のいたりだったのだろう。

 パスポートを申請するのは簡単だった。少し金はかかったけれど、どうにかなる範囲だった。

 そこでビザというものがあるのを知った。外国に居続けるためにはそれが必要だ。

 どうすれば日本を抜け出せるか考えた。親元を離れたいというだけではない。とにかく外へ行きたかった。

 成人を待てば、少なくとも自分の意志でどうにでもなることだろう。だが、陸人にそのつもりはなかった。海外旅行を装って逃亡しよう、そう考えた。

 行き先は中国にしようと決意した。

 あそこなら人が多い。多少増えたところで変わりやしない。それに漢字も読めるし、と安易に想像していた。

 観光旅行を装って、現地で失踪すればいい。きっとバレやしない。

 親の名義を使って飛行機を手配した。夏休みのことだった。ホームレスの男にそのことを話すと、彼はなにも言わなかった。去り際に一言だけ「頑張れよ」と声をかけただけだった。

 初めての海外旅行をする前に親の金をくすねた。

 現金がどこに入っているのかは分かっていたから、取り出すのは簡単だった。復讐も兼ねてありったけの金を引き出すと、そのまま空港へ向かった。

 両親はどう感じたのだろうか、とふと思った。

 寂しがるかもしれない。心配するかもしれない。けれど、戻ったところで同じ日常が繰り返されるのは明らかだった。人間、根本から変わるものじゃない。

 空港に行く前に現金を外貨へ両替した。

 大金だったので、疑われないよう何箇所に分けて円を元に変えた。

 行き先も決めていた。首都、北京。そこから電車で郊外へ行く。見つかるはずがないと確信していた。



「馬鹿な若者ですよね」

 陸人は自嘲気味にいった。

「世の中そんな甘いモノじゃないのに」



 海外旅行は初めてだった。

 まっさらなパスポートにスタンプが押されるのを見て、心を踊らせたりした。現金はバッグに小分けにして、大金を持っていると思われないようにした。

 心臓がはちきれるのではないかと思うほど緊張しながら空港を出ると異国の空気が満ちていた。

 日本とは匂いが違う。

 あらゆる生活臭の混じった匂いだった。

 そこまで来て、ようやく恐怖を感じた。怖かった。とにかく日本に帰りたくなった。

 だが、体は勝手に動いていた。駅へ向かうバスに乗り込むと涙さえ出てきた。

 とにかく遠くへ。そうしなければ囚われてしまう。

 悪いことをしているわけでもないのに途方も無い罪悪感を覚えた。駅に到着するとどこへ向かうのか見当もつかない電車に乗った。切符はよくわからないが一番高いものを買った。

 現地でいざこざに巻き込まれるのだけはゴメンだった。

 そのまま何時間揺られたか覚えていない。世界地図は持っていたが、どこか地方の都市へ来てしまったらしく自分の現在位置がどこだか不明だった。

 まずは宿を探した。

 ホテルがあればいいのだが、そんな高尚なものはなかった。

 事前に用意していた観光用の会話帳のお陰で、中国語を話すことなく民宿のような古びた宿を紹介してもらえた。泊まりたい旨を告げると、ぶっきらぼうな声で何かをまくし立てられた。

 なにを話したいのか理解できないのでお金を差し出す。

 宿の主人は札を一枚ふんだくると、部屋に案内してくれた。鍵はかからないらしい。古びてカビ臭い部屋だった。

 ここに日本人はいないか、というような意味の漢字をメモ帳に書いて見せた。首を横に振って、何事かいった。食事は出ないようなので外へ散歩に出かけることにした。

 もう夕暮れだった。

 あたりには街灯はあったものの、日本のように明るいわけではなかった。

 飯は屋台で食べた。暗くなる前に戻ろうと思ったが、道がわからなくなった。泣きそうになりながらどうにかたどり着くと、部屋の中に虫がたくさん飛んでいた。

 おまけにひどい腹痛がしてきた。

 おそらく屋台の夕飯にあたったのだろう。衛生的な環境ではなかった。

 自然と涙がこぼれてきた。しかし不思議と戻る気は起きなかった。



「ひどいのはこの後でした。僕は数日間部屋でじっとしていました。どうすればいいのか分からなかった。三日目になってようやく歩き回ろうと思い、日没になるまでその町を観察していました。帰ると、カバンに入れたはずの現金がなくなっていました。パスポートもない。盗まれたのだと悟った僕は宿の主人に詰め寄ることもなく、黙って出て行きました。持っていたのはわずかな現金だけ。死を覚悟した」



 なけなしの小銭で電車に乗って、さらに遠くへ行った。

 行くあてはなかった。夕方になって肌寒い空気に包まれながら、駅の構内にうずくまっていたところを一人の老人が通りかかり、声をかけてくれた。

「おまえ、日本人か」

 そうだと頷いた。

 ひどく訛りのある日本語だった。老人は事情を聞くと、自分の家に連れて行ってくれた。家と呼ぶにはあまりにも粗末な建物だった。あちこち雨漏りがしていて隙間風が絶えなかった。

 老人は陸人を日本大使館に送ろうとしてくれた。

 それがもっとも賢明な判断だっただろう。だが、陸人はその申し出を拒否した。日本人に出会えた安心感があったのかもしれない。不思議と祖国に帰りたい気持ちは失せていた。

「……そうか、なら勝手にしろ」

 老人はそういって陸人を住まわせてくれた。

 終始気難しそうな表情をしていたが、彼は話し好きだった。なぜ陸人が日本人だと思ったのか尋ねると、服装が日本人らしかったからだと答えた。

 戦争のこと、故郷のこと、死んだ妻のこと。話題の種は尽きなかった。けれど陸人のことを深く詮索しようとはしなかった。

 翌朝、老人は陸人を連れて商売をはじめた。

 鼻につく匂いの香料を使った団子とまんじゅうを売って生活していた。汚水の油をこしとっては使う光景に衝撃を受けた。こんなものを食べては腹をくだすはずだ。それを平気な顔で買っていく地元の住民たちにも驚きを隠せなかった。

 どうしてこんなことをするのか。

 陸人は訊いた。とても誠実な商売ではないように思えた。

「生きていくためだ」

 と老人は答えた。

 一日が経ち、一週間がたった頃、陸人はあることに気づいた。

 老人の収入では二人が生活しているだけの金を稼ぐことはできない。貯金などほとんどないなかで、彼は陸人の持っているわずかばかりの現金に手を付けようとはしなかった。

 陸人が帰りたくなった時に必要なお金だからと、いくら受け取って欲しいと頼んでも首を縦に振らなかった。

 必要にかられて陸人は自分で働くことにした。町中を歩きまわってゴミを集め、綺麗にできるものは綺麗にして、鉄くずなどは二束三文の値で引き取ってもらった。一日中歩きまわっても一食分の日銭が稼げるか怪しいくらいだった。ときには殴り合いになることもあった。元からあった縄張りの隙間を練るようにして探すゴミは、どれもこれも異臭がしていた。

 それからさらに一週間が経ったある日、老人が一冊の本を持ってきた。日本語で書かれている。見ると、ビジネス書だった。知り合いの日本人に譲ってもらったものらしい。まだ新品で表紙も汚れていない。

「こいつで勉強しな」

 あとで分かったことだが、この本は知り合いから買ったものだった。

 陸人は我を忘れてその本を読んだ。稼ぐこと。それだけが生きがいになりかけていた。

 お昼は歩きながら、夜はかすかな光を頼りに文字を追った。分からない言葉があると必死に理解しようとした。自分なりに内容を噛み砕いて消化するのに時間は要したが、それをするのに十分な暇があった。

「蛍雪だな」

 と老人は笑っていった。



「まずは事業を大きくすることから始めました。二つだけの商品を、僕が手伝うことで倍にした。それから大量に作ることで原価を安く抑えた。売りさばくために、あちこち回った。固定客しかいませんでしたからね。どうにかして新規の顧客を増やさなくてはならなかった」



 老人の身には辛いことだったろう。

 だが、文句ひとつ垂れずに陸人のわがままに付き合ってくれた。事業は面白いようにうまく運んだ。従業員を雇えるようになるまで数ヶ月がかかったが、それ以降は加速度的に大きくなった。

 店を立ち上げようと陸人は提案した。

 老人は黙って首肯した。

 会話はたどたどしかったが、徐々に老人を通さなくてもコミュニケーションを取れるようになってきた。町から電車で一駅離れたところに日本人街があると紹介された。行ってみるとたしかに日本人ばかりだった。

「いざとなったらそこへ行け」

 老人はいった。

「俺の知り合いがなんとかしてくれる。弟みたいなもんだ」

 その言葉が実現されるのはわずか二ヶ月後のことだった。



「彼は死にました。僕は言いつけ通り、彼の知人を頼って生活を始めました。その人も僕を家族同様に扱ってくれた。僕はその時持っていた金をすべて使って、彼の墓を建てました。そんなこと望んでいなかったかもしれないけど。火葬もしてもらった。遺骨は一握りだけ――いつか彼の故郷に返してあげたいと思って」



 本は擦り切れるくらいに読んだ。

 金も貯まった。

 日本に帰りたいと思う気持ちが強くなった。



「どうしても戻りたくなった。金があるとはいえ所詮はあちらの小金持ち程度、バブルの波に乗ったわけではありません。それに僕は不法に滞在しているだけの人間です。あまり有名になっても困る。けれど日本へいかなければならない。パスポートを偽造するのには大金がかかりました。でも、おかげでここにまた戻ってくることができた。最初に彼の故郷に行って、ようやくお別れを告げることができた。日本は物価が高いですからね、あっという間にお金がなくなってしまいました。ちょっとばかり両親の様子でも見てやるかと来てみたはいいものの、ふたりとも亡くなっていました。僕に関しては失踪届が出されたままです。心労なんかもあったのでしょうか。でも不思議と後悔はしていないんです。ああそうか、くらいの感想でした」



 不法入国だからあまり長くとどまることはできない。

 アルバイトの面接は検査が甘い個人の商店をねらった。けれど、いかにも流行っていない街の様子がたまらなく嫌だった。どうしてこんなに落ちぶれてしまったのか。なんとかして建てなおしてあげたいと思った。

 両親は嫌いだったが、この街そのものは確かに故郷だったから。



「稼ぐだけ稼ぎ、そうしたら帰るつもりです。僕はこの国に長くはいられない。その前にどうにか商店街だけでも――僕の働いている店だけでも――復活させたいと思った。ビジネス書は基本だったけれど、僕には実戦経験がある。誰にも負けないくらいの経験が」

 だから自信はあった。

 そう語った。



 誰もなにもいうことができなかった。陸人の壮絶な人生に対してかける言葉が見つからなかった。

「…………」

「今の僕は嘘にまみれた人間です。そんな人を引き止めても仕方がないでしょう」

「――話してくれてありがとう」

 玲奈が涙声になりながらいった。

 忠弘は机の上に広げていた一切の書類を片付けると、

「ビールはあとどれだけ残ってる?」

 と遥香に尋ねた。

「一人暮らしの女をなめないでよね。一晩飲み明かすくらいの酒は備蓄してあるわよ」

 ニヤリと笑って冷蔵庫から缶ビールのケースを取り出してくる。さらにはウイスキー、梅酒、ワイン、なんでも揃っていた。

 それを片っ端から開けていく。炭酸の小気味よい音がした。

「今夜は飲み明かしましょう!」

「なにに乾杯する?」

「陸人とその未来に!」

 四つのグラスが交わされた。



 翌朝、すでに陸人の姿は消えていた。

 最初に目覚めたのは玲奈だった。いつまで飲んでいたか記憶が無い。テーブルに置かれた酒はほとんど空になっている。ひどく頭痛がした。それにアルコール臭い。

 二階から誰かが降りてくる音がした。

「……うわ」

 景子が顔をしかめる。

 誰だってそんな反応を示すだろう。

 床の上にはビールの缶が所狭しと転がっており、テーブルには大の大人が二人して泥酔している。

「陸人は?」

「帰ったよ」

「そっか」

 静かな朝だった。

 二日酔いをごまかすために外へ出てみる。いつもは降りているはずの商店のシャッターが開いている。もう朝も遅いらしい。

「――ま、いっか」

 空が青かった。

これにて完結です。

お付き合いいただきありがとうございました。

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