プロローグ
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パエリアの匂いと喧騒とで店内は埋め尽くされていた。
ここ数年にはありえないほどの客足は途切れることなく、ボートの底に穴を開けたみたいになだれ込んでくる。用意されたテーブルはどれも満席で、空いたそばから次の客が座り、料理を注文する。
厨房からはひっきりなしに料理が運ばれて行き、帰りは食べ終わった皿を山のように抱えて戻ってくる。それらを水の溜まったシンクに放り込んで今度はレジに向かう。
考えている暇はない。とにかく目の前の仕事を片付けなければ、すべてが止まってしまうのだ。
「パエリア2とトルティ5,それからマリネ7! 超特急でお願い!」
「やれるものならやってる!」
厨房とカウンターの間をほとんど殴り合いに近い怒号が飛び交っていくが、その声さえも食器が触れ合う音や騒々しい話し声によってかき消されそうになる。
何カ月か前までは稼ぎ時の昼間でさえここまで忙しくなることはなかった。
大きな住宅街が近所にできたわけでもなければ、近くで大掛かりなイベントが開催されているわけでもない。これはひとえに、アルバイトの男が成し遂げた偉業だった。
「パエリアできたぞ! 早く持っていけ!」
「分かってるよ!」
火傷しそうなくらい熱い鉄板のふちを布越しにつかんで客のところまで運ぶ。急がねばならない。が、転びでもしたら大惨事だ。テーブルからはみ出している鞄や脚を避けながら通るときは、いつもより神経をすり減らされる。
「……はあ」
スペイン料理店「西班牙」で働く浅尾怜奈はあまりの忙しさに思わずため息をついた。
この店にはもう長いこといるが、ネコでもなんでもいいから手を借りたくなるほど繁盛しているのは今がはじめてだ。
そのくせに従業員は現在、怜奈を含めてたったの四人しかいない。
普段はそれで間に合っていたのだ。万年赤字をギリギリで下回るくらいの業績だった店としては嬉しい悲鳴なのだが、怜奈は声の出し過ぎで痛みはじめた喉を押さえながら、店長である父の浅尾忠弘を呪っていた。
「――こんなことになるならケチってないでもっとバイトの人数を増やせばいいのに……。今日の分の給料は三倍くらい貰ってやるんだから……」
小声で悪態をつきながら、ちらりと、もうひとりの従業員である青年に目を向ける。
この目が回りそうな忙しさをもたらした張本人でありながら、彼にはまったく怒りを覚えない。悪いのはスケジュール管理のなっていない父であって、決して彼――渡辺陸人ではないのだ。
「怜奈さん、5番卓へ注文お願いします」
さっそうとローファーのかかとを鳴らしながら陸人がカウンターの方へ戻ってくる。
両手には曲芸レベルの皿の山。いったいどうやってバランスを取っているのだろう。
怜奈が不思議そうに見つめていると、陸人がにこりとほほ笑んだ。
慌てて客席に注文を取りに行く。ぼーっとしている時間は一秒だってないのだ。
客。客。客。
たった一人の人間が起こせる業とは思えない。
料理を運び、水を注ぎ、注文を受け、新しい客を案内し、会計を済ませる。その繰り返しを気が遠くなるほど続ける。
時計の針は昼寝でもしているかのように歩みが遅い。
「あー、つっかれた!」
客からは見えないようになっているカウンター横の小さなスペースで、怜奈がコップに入った水を一息に飲み干した。壁にかけられた小さな鏡で顔を確認すると、酷い有様になっていた。
目は虚ろで、口元は愛想笑いを張り付けていたせいか引きつっており、化粧も崩れている。
こんな表情で人前に出ていたのかと思うと恥ずかしくなってくる。だが、今はメイクを整え直す気力も残ってはいなかった。
「中年を過ぎた婆さんみたいな調子だな」
客足がまばらになってきたということもあってゆとりのできた忠弘が声をかける。
こちらもかなり疲れたような声音だった。
「こんな馬鹿みたいに混んでいたら、くたびれるに決まってるでしょ。お客なんて言葉、聞くだけでもうんざり」
「商売繁盛、万々歳だ。これは約束通り陸人くんの給料を上げてやらなきゃな」
「そんな約束いつしてたの? 陸人さんが入ってきたの二ヶ月前なのにもう昇給なんて」
「契約のときに、彼のおかげで業績が上がったら給料を増やすという約束をしていたんだ。結果からいえば倍くらいは支払わなきゃならないだろうな。いや、この調子が続くようならもっと増やしてもいい」
「わたしはどうなの? いつもの三倍くらいは働いたと思うんだけど」
「その基準だと、陸人君には十倍の時給を払うことになるな」
「ケチ。今日は超過業務だからね。ボーナスきっちり貰うから」
「そんな小さいことにこだわっているから、いつまでたっても彼氏ができないんだろう。いい加減孫の顔のひとつも拝みたいもんだ」
「うるさいハゲ親父」
そういい捨てるとふたたび客席の方へと戻る。後ろから「新しいコンタクトレンズが必要だな!」と叫ぶ音が聞こえてきたのを無視して、表情を引き締めた。
レストラン西班牙はそう大きな店舗ではない。ふだんは四人の従業員で十分に客をさばけるくらいの広さで、客席からはキッチンの様子が見えるようになっている。料理を作っているところを披露したいというのがオーナーである忠弘の意向だった。
キッチンの横には客席の視線を遮るための壁があり、その奥の狭い空間が基本的に陸人や玲奈の休憩場所となっている。
「陸人さんお水、飲む?」
怜奈が後ろからそっと声をかけると、陸人は整った顔立ちをくずした。
「ありがとう。仕事が終わったら飲ませてもらいます」
陸人は仕事中、必ず丁寧な言葉遣いをする。
就業時間が終わると友人と話すような口調になるから、アルバイトであれ手を抜かないという姿勢の表れなのだろう。怜奈は陸人の横に立つと、三十分前とはかなり様相の違うがらりとした店内を見渡した。
テーブルは汚れの痕跡さえ残されておらず、椅子も美しく並べられている。
あれだけ忙しかったのだから、多少は乱れていてもおかしくないのに、陸人はぬかりなく仕事をこなしていた。
「タイムサービスが終わると一気に減っちゃったね」
「この時間帯に来なければ損ですからね。本当ならば一気に集中するよりも、一日中絶え間なく来てもらう方が売り上げも高くなるのですが――このシフトじゃ少々無理がありますから」
「本当だよね。お父さんたらドケチなんだから」
「まあまあ、僕が提案したことでもありますし」
「お父さんと変な約束したって聞いたよ。自分はちゃっかりお給料上げてもらうなんて――」
陸人の視線が、不意に店の入り口に向けられた。
見ると、二人の女性が立っている。きつそうな化粧をした四十過ぎの二人組だ。赤とオレンジの洋服が、周囲と存在を隔てるように際立っていた。
「いらっしゃいませ」
陸人が素早く応対に向かう。
怜奈は視界の端でその様子をうかがいながら、お冷を出すために棚からコップをおろした。
ああいう客はあまりいい印象がない。料理以外の注文は多いし、喋り声は他人の倍は大きい。いつだか服が汚れたとクレームを付けられたことがある。自分で料理をこぼしておいて、ソースが悪いというのだから滅茶苦茶だった。
結局、押しに負けてクリーニング代を支払うことになってしまったのだが。
その上代金まで無料にされた。もう二度とあんな客はごめんだ。
だが嫌な予感ほど良くあたる。料理を食べ終わった後も小一時間は喋ってから、彼女たちはレジに向かった。
「え! このランチ半額じゃなかったの!」
非難がましい口調が聞こえてくる。
ほら始まった、と怜奈は思った。
今日の混雑はランチ半額という破格のキャンペーンから起こったものだった。
あまりに閑散とした店の状況を憂いた陸人の提案で、なにか目玉となる企画をしようという話になった。安価なファミリーレストランとは違って個人経営のレストランは固定客を確保しなければやっていけない。
そのためにも、今まで来店したことのない人々を呼び寄せられる、インパクトのあるキャンペーンが必要不可欠だった。
そこで店長である忠弘といっしょに市場へ赴き、あえてメニューを限定することによって同じものを大量に安価で入荷するというやや強引な手法に出たのだ。
おかげでオープン以来の大反響となったのである。
これは忠弘も予想していなかったほどの規模で、利益も通常と比べ物にならないくらい大きい。だが真の狙いはそこではなく、レストラン西班牙の味を知ってもらうことだった。
普段から来てくれる客を増やすためにはリピーターを獲得する必要がある。そのリピーターをつくりだすためには知名度を上げ、店に足を運んでもらわなければならない。
どこで学んできたのか、経営学に精通しているとしか思えない。二十四歳だと名乗っていたがとても信じられないくらいの博識ぶりだった。
「申し訳ございません。午後二時半を過ぎますとランチ半額サービスは終了となっております」
「そんなこといったって、行列がすごかったから空くまで待ってたのよ」
「二時半までに列に並んでいただいたお客様にはサービスを提供しております。どこかほかの場所に行ってらっしゃいましたか?」
「そうよ。その辺でお洋服を見てたんだけど、ロクなお店がありゃしないわね。それでちょっと歩いて戻ってみたら時間外ですとかいわれてもねえ……」
「どうせ私達が半額になったってそう変わらないでしょ。いいじゃない」
「他のお客様は列に並んでお待ちになっておりましたので」
「でもねえ……」
と、グダグダ文句を垂れている。時々嫌味な皮肉を混ぜてくるのが苛立たしい。
遅れてきておいて半額にしろなんておこがましいにもほどがある。チラシにもキャンペーンの時間は明記しておいたはずだ。それを無視しているのだから、陸人がわざわざ頭を下げる必要はないのに。
三分ほど押し問答が続いたが、どちらも譲るつもりは毛頭ないらしく、中年二人組の語調が徐々に荒くなってきた。
これはまずいことになったかも、と怜奈が応援に駆け付けようとすると、ちょうどわずかに残っていた他の客から注文を呼ばれてしまった。
もどかしい気持ちを抑えながら笑顔で応対する。
客商売の辛いところだ、と玲奈は思った。
「だから! お客様は神さまなんでしょ! どうして私達が文句をいわれなきゃいけないわけ?」
「それがルールです。また次回のキャンペーンにお越し下されば、半額に出来ますが」
「もう来ないわよ、こんな店。ふざけてる」
「でしたら、次回お越しの際に割引を行うということでいかがでしょうか。いつお越しいただいても構いませんので」
「来たくないっていってるでしょ」
「今回はメニューの種類も限られていましたし、ぜひ今度は色々な料理を味わっていただきたいと思いまして。なにか味にご不満はありましたか」
「それは、別に……」
「それでしたら、次に半額を使ったほうが差額も大きくなりますし、いかがでしょう。並ばないで美味しい料理を召し上がっていただけます」
「別にゴネてるわけじゃないのよ」
「分かっております。これは行列を作ってしまった私どもの誠意ですので、ぜひとも受け取ってください」
そういって柔らかに割引券を手渡す。
二人の女性はお互いに顔を見合わせたが、どこか機嫌が良くなったように口元をゆるめながら素直に金を払って出ていった。
そのあとに残ったものは安穏とした空気。
入口のドアに取り付けられた小さなベルの音が鳴り終わる前に、怜奈は陸人へ声をかけた。
「大丈夫だった?」
「慣れてますから」
こともなげに答える。
「本当ならわたしがクレーム対応しなきゃいけないんだけど、ありがとう。あんな割引券あったっけ?」
「店長には後で謝らないといけないんですけど、その場で作りました」
「あれを作りながら会話してたの?」
「怪しまれないように作業したので少し時間がかかりました。その場で書いて割引ですよといったんじゃ納得しないでしょうからね。投げやりな態度だと思われないために小細工するのに手間取ってしまいましたけど」
まったく気がつかなかった。
手元にちらりとも視線をやっている様子はなかった。よく思い返してみれば手元はレジの影に隠れていたかもしれないが、記憶はあいまいなままだ。
「まるでマジシャンだね」
「そういう仕事をしていたこともありますね」
ほら、こんな感じに、と。
陸人が片手を振るとどこからともなく五百円玉が現れた。玲奈が目を丸くする。
そして、首をひねった。自分の眼の前にいるフリーターの男の顔を見上げながら訊く。
「ねえ――陸人くんって今まで何をしていたの」
「そのうち話しますよ。そんなことより、仕事に戻りましょう」
軽く笑ってはぐらかす。
黒い前かけを揺らしながら、陸人は疲れた様子もなく業務を再開し始める。笑顔の裏にどんな経歴が隠されているのか、まったく明かそうとしない。
陸人と玲奈が出会ってから二ヶ月が経つが、知っているのは名前や血液型ばかりで肝心なことは教えてもらっていない。
「――なんだろうなあ」
怜奈は肺の奥まで冷やすように深呼吸すると、自分の顔が火照っているのに気づいた。陸人と会話したあとは、いつもそうだった。
久々の小説となります。
どうぞお付き合いください。