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「君の代わりはいくらでもいる」と言われたので辞めました。三日後、婚約者の商会が回らなくなったそうです

作者: 余白書房
掲載日:2026/10/31

「君の代わりはいくらでもいるんだよ、エレナ」


クラウスは、まるで子どもに簡単なことを教えるように言った。


エレナは手にしていた帳簿を閉じた。


「そうですか」


「怒ったのか?」


「いいえ」


本当に怒ってはいなかった。


ただ、少しだけ驚いていた。


クラウスが経営するオルデン商会で働き始めて、四年。


正式な従業員ではない。


給金も受け取っていない。


婚約者の家業を手伝っているだけなのだから当然だと、クラウスの父から言われていた。


だからエレナも、そういうものなのだと思っていた。


最初は伝票を並べ替える程度だった。


そのうち帳簿を任され、仕入れ先への支払いを管理し、在庫表を作り、取引先ごとの納期まで一覧にした。


誰も整理していなかった仕事を、一つずつ形にした。


四年前には、倉庫へ行かなければ何が残っているのかさえ分からなかった。


今では一枚の表を見れば分かる。


月末になると徹夜していた帳簿も、二日前には締められるようになった。


けれど、それらをクラウスがどう評価しているのか、エレナは今日初めて知った。


「結婚したら、商会の仕事はやめてほしい」


クラウスは続けた。


「妻には妻の役目があるだろう?」


「分かりました」


あまりにもすんなり答えたからか、クラウスが眉を上げた。


「分かってくれたならいい」


「では、今日までにします」


「何を?」


「商会のお手伝いです」


クラウスは数秒黙った。


「いや、結婚するまでは続けてもらわないと困る」


「どうしてですか?」


「どうしてって……急にやめられたら困るだろ」


「でも、私の代わりはいくらでもいるのでしょう?」


クラウスが口を閉じた。


エレナは机の端に積んでいた書類を一冊取り出した。


「こちらが現在の取引先一覧です。支払日は赤、納品日は青で記載しています」


もう一冊。


「こちらは在庫管理表です。毎週月曜日に更新してください」


さらに一冊。


「こちらが月次決算の手順です。私が行っていた作業は全て書いてあります」


「待て」


「何でしょう」


「いつこんなものを作った?」


「以前からです。私が病気になったとき、誰も分からない状態では困りますから」


クラウスは三冊の帳面を見た。


「つまり……これを見れば誰でもできるのか?」


「はい」


少なくとも、エレナはそうなるように作ったつもりだった。


クラウスは安心したように息を吐いた。


「なら問題ないな」


「ええ」


エレナは立ち上がった。


「今までありがとうございました」


その日の夕方、エレナは四年間通った商会を出た。


少し寂しくなるかと思っていた。


けれど胸にあったのは、不思議なほどの軽さだった。


翌朝。


エレナは久しぶりに朝食をゆっくり食べた。


昼前には町へ出て、新しい靴を買った。


三日目。


玄関の扉が激しく叩かれた。


クラウスだろうかと思ったが、違った。


立っていたのは見知らぬ青年だった。


濃紺の上着。


胸元には、銀色の鷹の紋章。


王都最大の商会、ヴァルナー商会の印だった。


「エレナ・リース様ですね」


「はい」


「突然申し訳ありません。ヴァルナー商会のルーカス・ヴァルナーと申します」


エレナは目を瞬いた。


商会長本人だった。


「私に、何か?」


「あなたを雇いたい」


あまりにも唐突だった。


「……私を?」


「正確には、あなたの仕事のやり方を買いたい」


ルーカスは一冊の帳面を取り出した。


見覚えがあった。


エレナが作った取引先管理表だった。


「どうしてこれを?」


「オルデン商会と共通の取引先があります。担当者がこれを見せてくれましてね」


ルーカスはページを開く。


「取引条件、締日、納品周期、過去の遅延履歴。必要な情報が一か所に集約されている」


「普通ではないのですか?」


「少なくとも、うちでは三部署に分かれています」


ルーカスは笑った。


「この表を考案したのが、あなたと聞きました」


「はい」


「在庫管理の方式も?」


「はい」


「支払い確認表も?」


「……はい」


ルーカスはしばらくエレナを見た。


「それで給金はいくらだったんです?」


エレナは答えに迷った。


「いただいていません」


「はい?」


「婚約者の商会でしたので」


ルーカスは黙った。


そして、ものすごく失礼なことを聞いてしまった人のような顔になった。


「四年間?」


「はい」


「それは……」


ルーカスは何か言いかけてやめた。


代わりに革の鞄から紙を取り出した。


「では、こちらではきちんと払います」


提示された金額を見て、エレナは固まった。


「間違っていませんか?」


「間違っていません」


「でも、こんなに」


「安いですか?」


「逆です」


ルーカスは笑った。


「あなたが四年かけて作った仕組みのおかげで、人が何時間働かなくて済むと思います?」


エレナには分からなかった。


これまで、仕事は終わって当然だった。


問題が起きないことも当然。


誰かが困る前に準備しておくことも。


褒められたことはなかった。


「働いてくれますか?」


エレナは契約書を見た。


仕事内容。


勤務時間。


休日。


給金。


全てが書いてある。


自分の仕事に、初めて値段がついていた。


「はい」


そう答えたとき。


玄関の向こうから声がした。


「エレナ!」


クラウスだった。


扉を開けると、三日前とは別人のように疲れた顔をしていた。


「どうしたのですか?」


「どうしたじゃない!」


クラウスは三冊の帳面を抱えていた。


エレナが残した引き継ぎ資料だ。


「これ、分からないぞ!」


「どこがですか?」


「全部だ!」


エレナは首を傾げた。


「手順通りにすればできます」


「在庫表の数字が合わない!」


「倉庫から商品を出したときに記録しましたか?」


クラウスが黙った。


「支払い一覧も滅茶苦茶だ!」


「入金確認後にチェックを入れましたか?」


また黙った。


「取引先から、昨日の返事が来ていないと怒られた!」


「午前中に返信する、と手順書に書いてあります」


「そんな細かいこと全部できるか!」


クラウスが叫んだ。


エレナは少し考えた。


「では、代わりの方にお願いしてはいかがでしょう?」


クラウスの顔が固まった。


「君の代わりはいくらでもいる」という三日前の言葉を、本人も覚えていたらしい。


「エレナ」


クラウスは声を低くした。


「戻ってきてくれ」


「申し訳ありません」


エレナは契約書を手にした。


「もう次の仕事が決まりました」


「仕事?」


クラウスが初めてルーカスを見る。


銀の鷹の紋章に気づいた瞬間、表情が変わった。


「ヴァルナー商会……?」


「ええ」


ルーカスが穏やかに答えた。


「本日からエレナさんには、うちの業務改善を担当していただきます」


「そんな」


クラウスはエレナを見る。


「婚約はどうするんだ」


その言葉に、今度はエレナが驚いた。


「結婚したら仕事を辞める、というお話でしたよね」


「それは……」


「私は仕事を続けたいと思いました」


四年間、自分でも気づかなかった。


帳簿が整うことが好きだった。


誰かが困る前に仕組みを作るのが好きだった。


仕事そのものが好きだったのだ。


「ですから」


エレナは静かに言った。


「婚約についても、一度考え直させてください」


クラウスは何も言えなかった。


半年後。


ヴァルナー商会では、エレナが作った新しい管理方式が全支店に導入された。


残業時間は大きく減った。


在庫不足も減った。


そしてエレナの給金は、最初の契約時よりさらに上がった。


ある日の夕方。


仕事を終えたエレナに、ルーカスが声をかけた。


「もう帰るんですか?」


「勤務時間は終わりましたから」


「素晴らしい」


ルーカスは真顔で頷いた。


「うちで一番大事な規則です」


エレナは笑った。


以前なら、この時間から帳簿を整理していた。


今は違う。


仕事には時間があり。


仕事には値段があり。


そして人の価値は、「代わりがいるかどうか」で決まるものではない。


玄関を出ると、夕暮れの王都に灯りがともり始めていた。


エレナは新しい靴で、まっすぐ家へ帰った。

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