「君の代わりはいくらでもいる」と言われたので辞めました。三日後、婚約者の商会が回らなくなったそうです
「君の代わりはいくらでもいるんだよ、エレナ」
クラウスは、まるで子どもに簡単なことを教えるように言った。
エレナは手にしていた帳簿を閉じた。
「そうですか」
「怒ったのか?」
「いいえ」
本当に怒ってはいなかった。
ただ、少しだけ驚いていた。
クラウスが経営するオルデン商会で働き始めて、四年。
正式な従業員ではない。
給金も受け取っていない。
婚約者の家業を手伝っているだけなのだから当然だと、クラウスの父から言われていた。
だからエレナも、そういうものなのだと思っていた。
最初は伝票を並べ替える程度だった。
そのうち帳簿を任され、仕入れ先への支払いを管理し、在庫表を作り、取引先ごとの納期まで一覧にした。
誰も整理していなかった仕事を、一つずつ形にした。
四年前には、倉庫へ行かなければ何が残っているのかさえ分からなかった。
今では一枚の表を見れば分かる。
月末になると徹夜していた帳簿も、二日前には締められるようになった。
けれど、それらをクラウスがどう評価しているのか、エレナは今日初めて知った。
「結婚したら、商会の仕事はやめてほしい」
クラウスは続けた。
「妻には妻の役目があるだろう?」
「分かりました」
あまりにもすんなり答えたからか、クラウスが眉を上げた。
「分かってくれたならいい」
「では、今日までにします」
「何を?」
「商会のお手伝いです」
クラウスは数秒黙った。
「いや、結婚するまでは続けてもらわないと困る」
「どうしてですか?」
「どうしてって……急にやめられたら困るだろ」
「でも、私の代わりはいくらでもいるのでしょう?」
クラウスが口を閉じた。
エレナは机の端に積んでいた書類を一冊取り出した。
「こちらが現在の取引先一覧です。支払日は赤、納品日は青で記載しています」
もう一冊。
「こちらは在庫管理表です。毎週月曜日に更新してください」
さらに一冊。
「こちらが月次決算の手順です。私が行っていた作業は全て書いてあります」
「待て」
「何でしょう」
「いつこんなものを作った?」
「以前からです。私が病気になったとき、誰も分からない状態では困りますから」
クラウスは三冊の帳面を見た。
「つまり……これを見れば誰でもできるのか?」
「はい」
少なくとも、エレナはそうなるように作ったつもりだった。
クラウスは安心したように息を吐いた。
「なら問題ないな」
「ええ」
エレナは立ち上がった。
「今までありがとうございました」
その日の夕方、エレナは四年間通った商会を出た。
少し寂しくなるかと思っていた。
けれど胸にあったのは、不思議なほどの軽さだった。
翌朝。
エレナは久しぶりに朝食をゆっくり食べた。
昼前には町へ出て、新しい靴を買った。
三日目。
玄関の扉が激しく叩かれた。
クラウスだろうかと思ったが、違った。
立っていたのは見知らぬ青年だった。
濃紺の上着。
胸元には、銀色の鷹の紋章。
王都最大の商会、ヴァルナー商会の印だった。
「エレナ・リース様ですね」
「はい」
「突然申し訳ありません。ヴァルナー商会のルーカス・ヴァルナーと申します」
エレナは目を瞬いた。
商会長本人だった。
「私に、何か?」
「あなたを雇いたい」
あまりにも唐突だった。
「……私を?」
「正確には、あなたの仕事のやり方を買いたい」
ルーカスは一冊の帳面を取り出した。
見覚えがあった。
エレナが作った取引先管理表だった。
「どうしてこれを?」
「オルデン商会と共通の取引先があります。担当者がこれを見せてくれましてね」
ルーカスはページを開く。
「取引条件、締日、納品周期、過去の遅延履歴。必要な情報が一か所に集約されている」
「普通ではないのですか?」
「少なくとも、うちでは三部署に分かれています」
ルーカスは笑った。
「この表を考案したのが、あなたと聞きました」
「はい」
「在庫管理の方式も?」
「はい」
「支払い確認表も?」
「……はい」
ルーカスはしばらくエレナを見た。
「それで給金はいくらだったんです?」
エレナは答えに迷った。
「いただいていません」
「はい?」
「婚約者の商会でしたので」
ルーカスは黙った。
そして、ものすごく失礼なことを聞いてしまった人のような顔になった。
「四年間?」
「はい」
「それは……」
ルーカスは何か言いかけてやめた。
代わりに革の鞄から紙を取り出した。
「では、こちらではきちんと払います」
提示された金額を見て、エレナは固まった。
「間違っていませんか?」
「間違っていません」
「でも、こんなに」
「安いですか?」
「逆です」
ルーカスは笑った。
「あなたが四年かけて作った仕組みのおかげで、人が何時間働かなくて済むと思います?」
エレナには分からなかった。
これまで、仕事は終わって当然だった。
問題が起きないことも当然。
誰かが困る前に準備しておくことも。
褒められたことはなかった。
「働いてくれますか?」
エレナは契約書を見た。
仕事内容。
勤務時間。
休日。
給金。
全てが書いてある。
自分の仕事に、初めて値段がついていた。
「はい」
そう答えたとき。
玄関の向こうから声がした。
「エレナ!」
クラウスだった。
扉を開けると、三日前とは別人のように疲れた顔をしていた。
「どうしたのですか?」
「どうしたじゃない!」
クラウスは三冊の帳面を抱えていた。
エレナが残した引き継ぎ資料だ。
「これ、分からないぞ!」
「どこがですか?」
「全部だ!」
エレナは首を傾げた。
「手順通りにすればできます」
「在庫表の数字が合わない!」
「倉庫から商品を出したときに記録しましたか?」
クラウスが黙った。
「支払い一覧も滅茶苦茶だ!」
「入金確認後にチェックを入れましたか?」
また黙った。
「取引先から、昨日の返事が来ていないと怒られた!」
「午前中に返信する、と手順書に書いてあります」
「そんな細かいこと全部できるか!」
クラウスが叫んだ。
エレナは少し考えた。
「では、代わりの方にお願いしてはいかがでしょう?」
クラウスの顔が固まった。
「君の代わりはいくらでもいる」という三日前の言葉を、本人も覚えていたらしい。
「エレナ」
クラウスは声を低くした。
「戻ってきてくれ」
「申し訳ありません」
エレナは契約書を手にした。
「もう次の仕事が決まりました」
「仕事?」
クラウスが初めてルーカスを見る。
銀の鷹の紋章に気づいた瞬間、表情が変わった。
「ヴァルナー商会……?」
「ええ」
ルーカスが穏やかに答えた。
「本日からエレナさんには、うちの業務改善を担当していただきます」
「そんな」
クラウスはエレナを見る。
「婚約はどうするんだ」
その言葉に、今度はエレナが驚いた。
「結婚したら仕事を辞める、というお話でしたよね」
「それは……」
「私は仕事を続けたいと思いました」
四年間、自分でも気づかなかった。
帳簿が整うことが好きだった。
誰かが困る前に仕組みを作るのが好きだった。
仕事そのものが好きだったのだ。
「ですから」
エレナは静かに言った。
「婚約についても、一度考え直させてください」
クラウスは何も言えなかった。
半年後。
ヴァルナー商会では、エレナが作った新しい管理方式が全支店に導入された。
残業時間は大きく減った。
在庫不足も減った。
そしてエレナの給金は、最初の契約時よりさらに上がった。
ある日の夕方。
仕事を終えたエレナに、ルーカスが声をかけた。
「もう帰るんですか?」
「勤務時間は終わりましたから」
「素晴らしい」
ルーカスは真顔で頷いた。
「うちで一番大事な規則です」
エレナは笑った。
以前なら、この時間から帳簿を整理していた。
今は違う。
仕事には時間があり。
仕事には値段があり。
そして人の価値は、「代わりがいるかどうか」で決まるものではない。
玄関を出ると、夕暮れの王都に灯りがともり始めていた。
エレナは新しい靴で、まっすぐ家へ帰った。




