四次元カメラ
一
道端に落ちていた物体を拾った。それはカメラだった。片手には収まらない大きさと、それに伴うずっしりとした重さがある、重厚な黒で塗られた無骨なカメラだった。色々の角度から舐め回すように見ていると一枚の紙がひらひらと舞い落ちた。拾い上げるとそれには文字が書いてあった。『物体ノ本当ハ今ヲ視ルダケデハ理解ニ及バズ。時間ヲモ見透カスが故ニ、四次元カメラ。』
僕はかつてこのような本格的といったカメラを持った試しがなかった。奇怪な手紙を読んで、妙に興味を唆られた僕は天啓が降りたようにそれを持ち帰ってみることにしたのだ。
二
家に持ち帰った僕は早速試運転がてら何かを撮ることにした。家にある適当なものを探し机の上に置いてあった半ば枯れかけた花を見つけた。使い方など甚だ分からないがカメラなど大抵はシャッターを押せば良いだろうと思いカメラを起動した。花を写しボタンを押すとカシャッという軽快な音と共に画面が暗転し現実から切り抜かれたように静止画が現像された。『四次元カメラ』などという名前がやや気掛かりではあったが、普通に撮影できるどころか、現像機能までついたカメラらしい。これは中々面白いものを拾ったと思った。
しかしこのカメラにはシャッターのボタンと同じくらい大きく配置されたボタンがあった。基本的には分かりやすいようにシャッターのボタンのみを大きく設計する筈であろうことは何となく分かっていた僕にとって、このボタンの正体というものが気になって仕方がなかった。
ボタンを押してみると突如カメラから眩い光が鋭く差した。それはどうやらレンズの辺りから出ているらしく、反対側の僕にまで反射によって若干の虹が見える程の強い光だった。フラッシュ機能......という訳でもないらしい。想定外のことでこれは直感だけでは動かせまいと察した僕は先程の添えられていた紙から手掛かりを得ようとまた取り出した。
既に目を通した紙を見たとて新たに得るものはないだろうと半ば諦めながら紙を裏返してみると、なんと未だ読んでいない文字がそこにあった。僕は一瞬己の過失を疑ったが、しかしカメラを拾った際その紙もまた同様に舐め回すように見たことは記憶に新しい。裏返すだけで見える文字など見逃す訳がないと思ったが、事実そこには知らない記述があったのだ。僕は誰に不満を抱く訳でもないが、納得しないままで再びそれを読み進めた。『過去ヲ現世ニスルナラバ、光ガ架ケ橋トナルダロウ。我々ノ見エル物ハ、全テ光ガ司ルノダカラ。』僕の抱いた期待は無様に霧散した。折角見つかった文字もまた奇怪で意味を解さないものだったのだ。
仕方がないので自ら色々と探ってみようと、再び僕は目の前の花を写した。先の写真を撮った時との違いを明瞭にしようとした。すると画面の中の花や背景は赤青緑の残影を連れて激しい色収差を起こし、ゆらゆらと揺れていた。画面の解像度は低く、被写体である花すら目を凝らさなければ花弁の一枚一枚を区別できない程であった。花を画面に据えながらボタンを押したり角度を変えたり何なりしていた時、ふと回したダイヤルが画面の拡大と縮小を担うものでないことに気が付いた。ダイヤルを回すと電子的でありながらどこか不安定な音が流れ、画面の中で枯れかけていた花が生気を取り戻したりまた戻ったりすることに驚いた。そのままシャッターを切ると、生気を取り戻した花が写って現像された。それはまるで高度に加工された物のように自然であった。まさかこれがこの光の機能だろうか。僕は現像された写真をまじまじと見ていた。そして今撮った写真と先の写真とを見比べてみた。どうやら前者は後者より紙が薄く、天井に向けると照明が透けて見えた。これはもしかしたらと思い、まだ光を出したままで置いていたカメラを持って光に写真を透かしてみた。光は写真を貫通し奥にある現実の枯れかけた花をも照らした。するとなんと写真に写っていた元気な花が徐々に薄れていき、最後には焼き切れてなくなってしまった。僕は驚いて焼き切れていく写真を投げ、手放してしまったが、そこでようやく目の前にある現実の花の異常に気が付いた。半ば枯れかけていた筈だったのが、まるで先程の写真に写っていたもののように生気に満ちた花になっていたのだ。僕は頭痛に襲われた。
三
『四次元カメラ』と呼称されたそれは初めてあの花に使ってからというもの一切手を触れず若干の埃を被っていた。人智を超えた現象が目の前で起こってしまっては、再び使うのも恐怖で気が進まないというもので、数か月の時を経て僕はすっかりそれの存在を忘れていた。人智を超えた現象が目の前で起こったのに、存在を忘れてしまうことは一見矛盾しているが、それは僕の中では特に違和感もなく成立していた。忙しない日常生活の記憶の欠片は砂漠の砂粒の様に陳腐であり、大きく衝撃的な記憶すら埋没してしまう程に数多あるのだ。
僕は休日に恋人と出かけた。久しぶりにあちらの仕事も落ち着き都合がつくというので会おうと思ったのである。しかし生憎なことに雨に降られてしまった僕らは仕方なく喫茶店で時間を過ごすことにした。窓際の少し湿って冷たい椅子に腰掛け適当なものを注文した。彼女は頬杖を突いて窓の外を眺めていた。窓から差している青白い光が彼女の顔を半分照らしていた。そこには夢想的でありながらどこか生気のない雰囲気があった。彼女はそのままで「残念ね」と漏らした。
「僕は雨も好きだと思うけどね。君は、雨は嫌?」
「晴れるに越したことはないわ」
「そっか。確かにそれもそうだ」
そう言って僕も窓の方を見た。窓に付いた雨粒が、下の方に流れて、別の粒に溶けて、さらに大きな粒となって下へ流れていくのを見ていた。それは夜空に瞬く星の群れを見る様に、或いは水平線に沈みゆく太陽を見る様に、一種に自然の神秘であった。だからこそ、しばらく続いていた沈黙は空間に張りつめて緊張を走らせるものではなく、溶けて包み込んでくれるものだった。余りにもそれに見惚れていた故か、店員が品を運んできた際少し驚いた。彼女も同様だったのか、僕と目を合わせては眦を下げてはにかんだ。僕もつられて、はにかんだ。
彼女は大した注文もしないで長居しては迷惑だろうと言った。彼女はこういう気遣いに長けていたし、繊細だった。僕も同意して店を出ることにした。雨は未だ止んでいなかった。時刻はそろそろ夕方に差し掛かる頃だった。傘を差しながら雨の中を歩いていると彼女の声が聴こえ難かった。まだ一緒にいることはできたが、なんとなく区切りの良い気がしたので今日は解散することにした。彼女と道を分かれ帰路についた。傘の中は音が籠って、雨を除けて、まるで外界から隔絶されているような錯覚に陥る。喫茶店の中から窓を覗いて雨を見るのも、傘の中で雨音に耳を傾けるのも似ていることだと思った。
四
夜になって電話が掛かってきた。彼女の番号からだった。連絡を取り合うことは珍しくなかったが、電話が掛かってくることはあまりなかったもので、僕は気になってすぐに電話に出た。
「もしもし。どうしたの」
「もしもし。大塚佳奈さんの交際相手の方で間違いありませんか」
「......ええ。どちら様でしょう?」
それから彼女が現在緊急搬送されて病院にいることを知らされた。電話をかけてきたのは搬送先の病院の者だった。どうやら彼女は交通事故で負傷を負っているらしい。僕は今すぐに行くとだけ相手に告げて電話を食い気味に切った。もはや半狂乱だった。タクシーに乗り込んで落ち着かないまま頭を抱えていた。自分でも知らないうちに呼吸すら乱れていたようで運転手に心配されたがそれどころではなかった。代金を投げつけるように渡して降りた後病院まで走った。雨は未だ降っていた。けれども傘は差さなかった。無我夢中で走っていた。心のどこかに、自分さえ彼女の元へ辿り着けばきっと助かるはずだという驕りがあったのかもしれない。自分こそが彼女の恋人であるということの矜持が、諦めることを許せなかったのかもしれない。昼間に自然の神秘として見ていた雨が、今では僕の心持の代弁者であるかのような親しみさえ感じていた。病室に着いて、彼女の惨憺たる姿を見た。一瞬、彼女かが分からなかったほどに、包帯も多く、顔も腫れていた。医師は植物状態だと言った。信じられなかった。信じたくないに決まっていた。だから懸命に声をかけた。手を握った。握り返されることはなかった。
帰り道は酷く虚しく暗いものだった。来た道を戻っているだけのはずなのに、その道は無限にも感じられるほど長かった。
五
翌日になっても世界の色は戻っていなかった。彼女が戻っていないのだから、至極当然のことだった。何故あの時、僕は彼女のことを家まで送らなかったのか。その後悔と罪の意識に苛まれて堪らなかった。居ても立っても居られないで家の中をうろついている時に、僕はあのカメラが目に留まった。現実を塗り替えることが本当に叶うのだったら、試す以外の選択肢はない。僕に迷いはなく、それを持って家を飛び出した。
彼女は深い眠りについていた。カメラを構えて強い光が当たっても目を覚まさないところに彼女が植物状態である現実を認めざるを得なくて唇を噛んだ。やることはあの時と変わらない。写真を撮って、現像して、現像したものを光に透かして対象にかざすだけ。ダイヤルを回すと案の定画面の中の彼女は包帯など巻かれていない健康な状態で映し出された。これだ、と思った。現像された写真を持った手は震えていた。かざせば、やがて写真は焼き切れていった。あの時と同じ反応に、僕は期待を抱いた。完全に写真がなくなって、奥にいる本人が見えた時、彼女の顔の腫れは引いて、包帯と顔の間にはちょっとした空間の余裕が生じていた。そのまま、眩しそうに目を開けた。
「ああ......! 佳奈、分かるかい、僕のこと」
「ええ......?」
困惑の声を漏らしながら彼女は上体を起こした。
「ごめんなさい。どちら様でしょう」
「え......」
理解が追い付かなかった。彼女は至って真剣な様子である。少し首を傾げて問うてきた。
「あの.......私が忘れているだけでしたら、申し訳ないんですけど」
「......いや。ごめんなさい。人違いだ。同じ名前だったから。ああ、カメラのことは心配しないで。写真は消しておくから。じゃあ......」
変わらない。何も変わってはいない。あの時の喫茶店で感じたことと同じ。この思慮深い気遣いは間違いなく彼女のものだ。けれども、それを向ける相手は僕じゃない。そうだと言って冗談めかして笑ってほしい。僕の本当が胸の中で火の粉を散らしながら渦を巻いて燃えていた。どこかで悟っていた。否、悟ったというよりは、もう頑張れなくなっていた。病院に狂ったように走り込んだあの夜に、自分の中で感じていた驕慢は、まだ完全に懲りた訳ではなかった。全く同じことだ。カメラのことさえ成功してしまえば、後の不安はないと思っていた。「誰だ」と言われることがこんなにも寂しくて落胆するようなことだとは思っていなかった。病室を出るときには、これ以上足掻くことはもはや執着で、見苦しいことだと自分に言い聞かせていた。直前に、彼女は何か言っていたようだったが、上手く聞こえなかった。
六
目に映る物全てが滅茶苦茶になっていた。一瞬でも戻りかけていた世界の色が掻き乱されて、散って、垂れていた。白と黒で構成されていた世界よりも酷く、歪なものだった。少し前までは何ともなかった都会の喧騒が、黙示録のラッパ吹きの音かのように恐ろしく聞こえてきた。視界の端にカメラが映り込んでいた。僕は惰性に満ちた身体を起こしてそれをもう一度見つめた。次第にやりようのない憎悪やら悔恨やらが身体中の穴から噴き出しそうになった。
「なんだってんだよ......」
まさかこれが現実を塗り替えた代償とでもいうのだろうか。拳を握り締めて、歯を食い縛って、全身に力を入れても、直後にはまた溜息を吐いて力が抜けた。そういうことに虚しさを感じているうち、心に空いた穴には冷たい隙間風が通って、胸の辺りがぞくぞくした。カメラを手に取ってなんとなく写真のデータを見ようとした。数日前のあの時に、彼女のデータは自分で消したにも関わらず、ないものを探そうとしていた。
写真のデータには撮った憶えのないものが大量に保存されていた。楽しそうに海で笑う少年の写真、本を手に持って驚いた顔をこちらに向ける壮年の男の写真、ハンカチで涙を拭っている制服姿の少女の写真。前の持ち主のものだろうかと思いかけたが何か奇妙だった。目の焦点が微妙に合っていなかったり、指がありえない方向に曲がっているところがあったりした。そういうのが一枚だけではなかった。何だか不気味に思ったが、彼女のことへの執念の方が勝っていた。次々画面を送って、撮られた日付が今日に近づく度に、そういう異常は見られなくなっていった。古い写真にだけ起きていたバグか何かかと思っていたところで、僕は目を疑った。彼女が写っていた。撮った憶えのない構図だった。真白い背景に笑顔で手を広げていた。
僕は困惑と怒りに呑まれていくような心持がした。写真のデータを消すことすら上手くいかない自分のことも、記憶にない彼女の写真も、全て僕らが愚弄されているような気がしてならなかった。そもそも、彼女が何故真白い背景で写っているのかが甚だ疑問だった。誰が撮ったか、或いは加工したか。──誰かに、利用されている?
このカメラが原因なのだとしたら僕は確かめなければならないと思った。写真のデータを法則に落とし込まなければならない。だから僕は、鏡に映る自分にレンズを向けた。鋭い光が鏡に反射して眩しかった。画面の中を覗き込んでダイヤルに指を添える。画面の中からカメラをこちらに向けている、鏡に映る僕はやはり色収差を起こして揺れていた。ダイヤルを回すと色収差のものとは違う黒の残影が見えた気がした。それが見えるのはどの位置かとダイヤルを微調整しているとまたしても見える。しかしそれは直後に消えてしまう。まるで捉えられないようにしているかのような意思を感じて、僕はそれを捉えようと躍起になった。これこそが全て僕の仇なのだと信じるように、ダイヤルを回し、それを探した。心臓は高鳴り、手は震え、冷や汗をかいていた。それが映った瞬間にシャッターを押すためだけの神経を鋭く尖らせていた。
「.....................今!」
七
僕はシャッターを切った。写真には僕が写っていた。僕は笑っていた。それには見覚えがあった。




