ご飯
お勧めの本を貸すようになって、一か月ほどが過ぎた。
朝の電車で会えば隣り合って座る。 読み終えたら返してもらい、次の本を渡す。
そんなやり取りが自然になっていた。
「今回のもとても面白かったです」
推理小説を片手に豊島さんが言う。
「最後の最後まで展開が読めなくて、全部繋がった時は鳥肌が立ちました」
「そうなんですよ」
紗奈も思わず顔を明るくする。
「本当に石村さんのおすすめ、外れないですね」
そう言われるたびに嬉しくなる。
自分の好きな本を楽しんでくれる豊島さん。
「次は何にしましょうか」
「もう完全にお任せしてます」
穏やかに笑われて、紗奈の胸が静かに跳ねた。
数日後。
本を受け取った豊島さんは、指で頬をなぞりながら言った。
「あの」
「はい?」
「いつもお借りしてばかりなので、お礼をしたいんですが」
首を傾げる。
「お礼?」
「食事でもどうでしょうか」
さらりと言われて、一瞬理解が追いつかなかった。
「えっ」
「嫌でしたか」
「い、いえ!」
慌てて首を振る。
豊島さんは少し安心したように笑った。
「いつなら都合がいいですか」
あれよあれよと二人で食事へ行くことになった。
金曜日の夜。
駅近く、奥まった所にある和食の個人店。
向かいに座る豊島さんはいつも通り落ち着いていた。
「こんな所にお店があるなんて知りませんでした」
「ええ。静かで落ち着いているので偶に来るんですよ」
確かに居心地がいい。料理も美味しい。
会話も途切れなかった。
読んだ本の話。 仕事の話。 学生時代の話。
お互い口数こそ多くないが、気付けば二時間近く経っていた。
ご馳走になり店を出て駅へと歩き出す。
夜風が心地よかった。
「本当に美味しかったです。ごちそうさまでした」
紗奈がそう言うと、
「良かったです」
豊島さんも満足そうに頷く。
食べた料理の感想で盛り上がっていた時だった。
「豊島?」
後ろからの声に、豊島さんが振り返る。
そこには仕事帰りらしい数名の姿があった。
先頭にいるのは八代。
その奥にはスーツ姿の数名の男女。
「あー、やっぱり豊島だ。偶、然だ」
八代は気軽に声を掛けながら近付いて――その隣にいる紗奈と目が合った。
八代さんの動きが、止まった。
「……あ」
その表情が引きつっていく。
八代さんの視線が私と豊島さんをせわしなく往復した。
「お、おう……」
妙にぎこちなくなる八代さん。
豊島さんが不思議そうに眉をひそめる。
「どうした」
「いや別に」
その時だった。
【八代 誠:デートの邪魔をしたと焦っています】
(あぁ……)
思わず納得する。
気を使わせてしまったらしい。
【八代 誠:混乱78%】
八代はかなり慌てているようだった。
さらに後ろにいた同僚たちも状況を察したのか、こちらを見ながら話し始める。
「豊島さん珍しいですね」
「もしかしてデートですか?」
私は少し居心地が悪くなって視線を泳がせた。
「彼女さん?」
「違いますよ」
苦笑を浮かべながらそう返す豊島さん。
八代さんが食い気味に口を挟む。
「違うらしいっ」
「え?なんですか八代さん、急に大声出して」
「はーい。終了終了」
「ちょっ、何がですか」
「いいんだよ、行くぞっ」
必死で話を終わらせようとしている八代さん。
その様子に困惑する同僚さんたち。
豊島さんはそんな八代さんを呆れたように見ていた。
ふと、視線を感じた。
集団の後方にいた女性。
二十代後半くらいだろうか。綺麗にまとめた髪に、隙のない化粧。
彼女だけが無言だった。
(……あれ)
一瞬だけ目が合う。
女性はすぐに視線を逸らした。
だが、胸の奥がざわついた。
「豊島さん、本当にデートじゃないんですか~?」
「だから違うって言ってんだろっ」
「だからなんで八代さんが答えるんですか」
周囲から笑いが起きる。
その時だった。
「そうですね」
後方の女性が初めて口を開いた。
全員がそちらを見る。
「豊島さんは仕事しか見てませんから」
穏やかな声だった。けれどどこか棘がある。
彼女の視線が紗奈へ向いた。
強い圧を持って。
自分は豊島と付き合っているわけではない。
それなのに。
目の前の女性は明らかに自分を警戒している。
なぜなのか。
理由は考えるまでもなかった。
彼女が豊島を見る目には確実な熱があった。
「じゃあ俺たちはこれで」
空気を断ち切るように豊島さんが言った。
「お疲れ様でした」
同僚たちへ軽く頭を下げる。
その仕草はいつも通り自然で、特別な意味など何もなさそうだった。
「すみません。行きましょう」
そう言って私を促す。
「あ、はい」
慌てて隣を歩き出す。
数歩離れると、背後で同僚さんたちの声が聞こえた。
けれど振り返る気にはなれなかった。
代わりに、背中へ向けられる視線が妙にはっきり感じられた。
羨望なのか。 警戒なのか。 それとも別の感情なのか。
分からない。
分からないのに。
胸の奥が少しだけ、ざわりと波立った。
理由の分からない、落ち着かない感覚。
まるで小さな棘が刺さったみたいに。
その感情に名前を付けることはまだできなかった。




