卒業パーティーでの婚約破棄
「エリナ・アルシア。僕は君との婚約を破棄する!」
王立エルドレッド学園の卒業パーティー。王国中の高位貴族が一堂に会し、シャンデリアの豪奢な光が降り注ぐ大広間に、レオン・クラウスの声が響き渡った。
ここは、周囲の視線が、一斉に会場の中心へ向かう。そこには、正義の鉄槌を下す執行人のような顔で胸を張るレオンと、彼に寄り添うように肩を震わせる一人の少女がいた。
ソフィア・ルネ。
平民の身でありながら、その明晰な頭脳一本で学園の狭き門、いわゆる特待生制度を勝ち取った才女だ。その質素だがどこか洗練された佇まいは、華美なドレスに身を包んだ令嬢たちの中で、かえって目を引く存在だった。
「ご……ごめんなさい、エリナ様……」
ソフィアが消え入りそうな声で、涙をこぼす。レオンは彼女を庇うように一歩前へ出た。
「いいえ。悪いのは君じゃない、……エリナ、君だ。高貴なアルシア公爵家の令嬢ともあろう者が、影でソフィアの私物を壊し、言葉の刃で彼女を追い詰めていた。その卑劣な振る舞い、君の婚約者であり男爵家の嫡男として、僕は看過できない」
対峙するエリナ・アルシアは、彫刻のような美貌に冷徹な笑みを浮かべていた。
彼女はこの学園の頂点に君臨する、銀髪の女王だ。
エリナは一度、ゆっくりと目を閉じた。
周囲からは、彼女の没落を確信する令嬢たちの嘲笑や、扇の陰で囁かれる「当然の報いだ」という声が聞こえてくる。
「……わかりましたわ。レオン様。」
静かな、しかし芯の通った声だった。
次の瞬間、エリナは優雅な所作で歩き出した。レオンは、彼女が自分に縋り付くか、あるいはソフィアに平手打ちでも見舞うのだと身構えた。
だが、エリナの白い手は、レオンを通り過ぎてソフィアの頬へと伸ばされた。
「え……?」
レオンが間の抜けた声を漏らす。
ソフィアもまた、吸い寄せられるように一歩踏み出し、二人は大勢の貴族たちの前で、ごく自然に、そして深く、互いの腕の中に収まった。
「ソフィア……。ようやく、この窮屈な仮面を脱げるわね」
「はい、エリナ様。この日のために、私は幾度も涙を流す練習をいたしましたわ」
会場は水を打ったような静寂に包まれた。
美しい銀髪と、艶やかな栗色の髪。公爵令嬢と平民の特待生。
二人の抱擁は、どう見ても被害者と加害者の和解ではなかった。
「待て……ソフィア、これはどういう……。君は、彼女に虐められていたんだろう?」
レオンは狼狽えた。彼が守ってきたはずの「弱き少女」は、エリナの腕の中から彼を見据えた。
「レオン様。貴方は本当に、猪突猛進でいらっしゃいますわ」
ソフィアの声に、もはや怯えなど微塵もなかった。
「エリナ様と私は、この学園生活で大いなる愛を育んでまいりました。けれど、公爵家と私の身分の壁、そして何より『レオン様という婚約者』が邪魔だったのです。ですから、貴方のその強い正義感を利用させていただきました」
「貴方は私達のお膳立て、というわけよ」
エリナがソフィアの腰を抱き寄せ、勝ち誇ったように告げる。
「ペンを壊したのも、教科書を汚したのも、すべてはソフィアとの合意の上よ」
「そんな……嘘だ……」
「事実よ。今夜、貴方が大勢の前で宣言したことで、私の実家も『有責による婚約破棄』を認めざるを得ないでしょう。私は晴れて自由になり、ソフィアは正式に私のものになる。……完璧な筋書きだわ。」
静まり返る会場の中、エリナは優雅に一礼し、呆然と立ち尽くすレオンを置き去りにして、ソフィアの手を引いて会場を後にした。
「……随分と騒がしかったな」
静まり返った会場で、一人の男がレオンの背後に立った。
カイル・メレット。レオンの幼馴染であり、公爵家にも引けを取らぬ名門の次男だ。彼は感情の読めない無表情で、空になったグラスを眺めていた。
「カイル……お前は知っていたのか? エリナのあの振る舞いを、僕に報告したのはお前だろう」
「俺は見たままを言っただけだ」
カイルの声はどこまでも平坦だった。
「エリナがソフィアの持ち物を壊している。ソフィアが泣きながら誰かを求めている。……嘘は一つも言っていない。それをお前がどう受け取り、どう動くかは、お前の自由だったはずだ」
「……っ、そうか。僕が勝手に、一人で踊っていただけか……」
レオンは膝をつかんばかりに肩を落とした。正義という名の盲信が、自分をただの道化に変えていた。
「まぁ、いいじゃないか。お前を欺くような女と結婚しても、先は見えていた」
カイルは淡々と言いながら、レオンの肩にそっと手を置いた。
「ありがとう、カイル」
レオンが、絞り出すような声で礼を言った。
「気にするな。これからも、俺はそばにいる」
レオンからの返事はなかった。だが、カイルの口端が、ほんの、ほんの少しだけ、獲物を仕留めた猟師のように持ち上がった。
その暗い悦びに、打ちひしがれたレオンが気づくことはない。
「さあ、行こう。レオン」
「……ああ」
力なく歩き出すレオンの隣で、カイルは一歩も遅れず、影のように寄り添う。
焦る必要はない。
レオンが真っすぐに突っ走れば突っ走るほど、その足元は危うくなる。そのたびに、カイルが隣で支えてやればいい。それを繰り返すうちに、レオンはカイルなしでは歩けなくなるだろう。
来月からは、二人とも王立騎士団への配属が決まっている。
騎士団という閉ざされた世界で、じっくりと、根を張るように、レオンの心をカイルで埋め尽くしていけばいい。
カイルはレオンの肩を抱く腕に力を込めた。
その瞳には、去っていったエリナたちよりもさらに深く、逃げ場のない執念が宿っていた。




