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 浩一は話を続ける。


「欲望が、一気に吹き飛んだよ。ぼくは犯罪者にならずにすんだ」


 本題は、ここからだ。浩一の眉が苦しそうに歪む。


「あの日から、ぼくのなかで、あいつが『獣になれ』とささやくんだ。吉野のことを思い出すたびに、ぼくは……」


 浩一は頭をかかえる。ここまで話を聞いていた外山は、座っていたベンチから急に立ち上がった。


「俺だったら考えるまでもなく、吉野に襲いかかっていたかもな」

「え?」


 外山は浩一に顔を向けると、ニヤッと微笑んだ。


「でも、おまえは大丈夫だ、森川。おまえは犯罪者にはならない」


 はげましてくれるのは嬉しいが、浩一には外山が話したことの根拠がわからない。


「森川、おまえは『理性は飛んでたけど、身体は震えてた』って言ったよな。それは、おまえの良心が、おまえの身体を止めてたんだよ。吉野を襲わないように」


 浩一は、呆気にとられた顔で外山を眺める。外山は話を続ける。


「親父から聞いたことがあってな」


 外山は当時を思い出しながら、そのときの話を浩一に聞かせるのだった。


「人が犯罪に走りそうになったとき、そういう己を食い止めるのは、理性よりも良心の部分が大きいらしい」

「………」

「つまりだな、良心が貧弱なやつは、理性が飛んだ瞬間に罪を犯すんだよ」


 彼の話には、説得力がある。さすがは刑事の息子だと、浩一は思った。


「森川、おまえのように良心がしっかりしている人間は、そう簡単に犯罪に走ることはないんだ」


 外山の自信あふれる言葉に救われる。


「だからな、おまえはそんなに深刻に悩む必要はねえんだよ」


 外山は笑顔でいいきった。そして彼は「森川」と呼びかけると、真剣な口調で浩一に告げるのだった。


「おまえの心の中にいるヤツが『獣になれ』と、どんなにしつこくささやいても気にするな。徹底的に無視しろ。いいな」


 浩一は思った。苦しんでいる自分に、こういう助言を与えてくれるクラスメートがいることが、どれほどありがたいことか。たぶん彼以外には、いまの自分に対して的確なアドバイスはできないだろう。


 アドバイスどころか、馬鹿にされてもおかしくない。「森川は、受験勉強でノイローゼになって気が狂った」と、キチガイ扱いされるのが、むしろふつうかもしれない。


 浩一は、外山に微笑んだ。


「ありがとう」



 その後、浩一と外山はおたがいの電話番号を交換すると、それぞれ帰途についた。


 ふと、外山はふり返る。生気が感じられない浩一の背中を見ながら、眉をよせる。

 浩一は、確かに良心がしっかりしていると思う。犯罪に走るようなこともないだろう。


 だが、浩一は己の欠点に気づいたとき、またぶりかえすように悩むのではないか。

 そう、浩一には欠点がある。外山には、それがわかった。


 しかし、彼にはこれ以上どうすることもできない。


「森川……」


 心配している外山の視線に気づかず、重そうな足どりで帰路を歩く浩一もまた、同じことを思っていた。

 相談相手が外山だったからこそ、己の欠点が理解できたのだ。その事実は、なんとも皮肉であるとしかいいようがない。


 浩一にすれば、外山に元気づけられたものの、まだなんの解決にも至っていなかった。自宅に向かう足どりが重くなるのも、当然だった。



 自分の部屋に帰り着いた浩一は、ベッドに仰向けになり、外山と語りあったことを思い出す。


 もし、外山が自分と同じように己のなかにいる何者かに「獣になれ」とささやかれると、彼ならどうするだろうか。


 外山は言った。「俺なら、考えるまでもなく吉野に襲いかかっていたかもな」と。しかし浩一は、外山が本当にそうするとは思えない。


 ──あいつなら


 彼のそばで話していれば、わかる。


 ──わき上がってくる欲望を、意志の力でねじ伏せることができるだろう


 意志の力。心の強さ。浩一と外山の決定的なちがいは、そこにある。


 がっしりとした体格で、精悍な顔つきをした外山から感じるのは、彼が心も身体も強い人間であることだ。外山はじっとしていても、力強い生命力のエネルギーが、その全身から放たれているのが伝わってくる。


「ぼくは、あいつのように強くない」


 劣等感が浩一の胸に押しよせる。


 浩一と話していた外山は、得体のしれない存在のささやきに対して「気にするな。徹底的に無視しろ」といった。話す言葉に自信をみなぎらせる外山なら、それが当たり前のようにできるだろう。


 だが、心の強くない自分が、それを実践することができるだろうか。「獣になれ」というささやきに、どこまでも引きずられるような気がしてならない。


 浩一の思考はぐるぐるとまわりながら、正解へたどり着こうとする。自分の裡に居座る何者かは、やはり強い意志の力で、叩き潰さなければダメなのではないか。それができなければ……。


 浩一は、底のしれない泥沼に沈んでゆく己を思う。はたして、この泥沼から抜け出すことが、いまの自分にできるのか?


「もうすぐ、大学受験なのに」


 心の力、意志の力をいきなり強くしようとしても、すぐにはできるわけがない。


「どうすれば、ぼくのなかにいるあいつから逃れることができるんだっ」


 解決策がなにも思いつかない浩一は、両手で頭をわしづかみにする。


 ──ぼくは、獣にはならない


 そう信じることが、己を苦しめる存在に対するせめてもの抵抗であった。


 ただただ悩み続け、学校の授業も受験勉強もさっぱり手につかない。それなのに、時間だけは残酷に過ぎてゆく。




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