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夏朗が篤弘の髪に触れながらその形をしっかりと整える。それから額に眉に目に鼻にとその威力のある瞳を滑らせながら篤弘のさまをくまなくチェックする。そして和服の懐からチューブのような物を取り出し、それを絞って液体を自身の指先に乗せ、その指を篤弘の唇へと伸ばしてくる。
篤弘は少し身じろぎをする。ひんやりとした感触である。グロスというものか、店で働いていた時にヒロコが自身の唇に塗りたくっていたのと同じ種類のようである。それはヒロコの唇の上でてかてかと潤った。だから今自分の唇もヒロコのそれのように夏朗の前で光っているのか。
ふっと、だしぬけに夏朗が笑う。
「可愛いな」
篤弘の頬を撫でる。朝起きたら念入りにマッサージをしなさい、こういう動きで、と夏朗に手を掴まれながら指導された通りの手つきでしっかりとそれを実践済みの頬である。
板の上で指が小刻みに震えている。夏朗のチェックのもとでしっかりと着付けた和服の下で心臓が揺れている、ばくばくと。隣にいる夏朗まで聞こえるかもしれないほどの音を立てて。
夏朗に念入りに指導された通りの形で板の上に最敬礼をしている。もはや板に顔が付きそうである。夏朗と二人並んで最敬礼をして待つものは、李凰の神である。
ついに神がやって来る――静かに足音を立て。高級な絹の音を忍ばせて。ついに神の席に腰を掛ける。ついにこの時がやって来た。
いずみ。僕の目を通して、よく見るんだ。きみが欲した、李凰の神だよ。今、僕の前にいらっしゃる。
「顔を上げなさい」
ああ、李凰の神の声である。低く、どっしりとした、神の声。
普通の人間だな、と思ってしまった自分を叱責したい衝動に駆られた。しかし李凰の神の前でそれができるわけもなく篤弘は夏朗に教わった通りの形で自分を維持していた。
李凰の神は生身の人間の身体を借りて生きているから、それを貸し出す人間そのものは至って普通の人間なのだ。それは分かっていた。
確かこういう顔の俳優がいたな、などと篤弘は思った。浅黒く、男らしいどっしりとした輪郭の顔、やや目尻の下がった目、すっと高い鼻、しっかりとした唇。
李凰国の国王たるべき人間であるのは確かだった。高級の絹の着物を召したその身が一万人もの人間の頂点に君臨するものであることは一目で分かった。
「きみが新入りだね」
李凰が笑う。ゆるりと、という表現が適切であろう。
「夏朗に見初められたんだ、大したもんだ」
実に丁寧に、正確に、じっくりと、李凰は夏朗の名を口にした。
「寒いか」
慎也の声がやって来る。返事を待つことなくその手は自分の身から羽織を取り去り、篤弘に向かって放り投げてきた。ほらよ、との声と共に。
いいのですかと篤弘は聞く。俺は暑いと慎也は言う。俺は筋肉が多いからな、おまえはひょろい、とも。
ありがとうございますと篤弘は慎也に頭を下げ、羽織を二枚重ねて着込んだ。辺りは暗闇に包まれているからこの妙なさまに顔をしかめる者はいないだろう。
複数の少年達と共に夜の見張りを行っている。幾分と風が冷たい。
月明かりの下、広々とした庭を李凰と夏朗が散策している。その姿は随分と遠くに小さく見えるが夏朗が李凰の一歩ほど後ろを歩いているのは分かった。そして時折、足元に広がる大きな池を指差しながら。鯉について話しているのか、それとも水面にゆらゆら揺れる月の影についてか。
「夏朗様は魚がお好きだ」
隣で慎也が言う。
「もともとこの庭に池はなかったようだが、夏朗様が鯉が飼いたいと言ったら李凰様が業者を呼んで池を作らせたらしい。李凰様は夏朗様の望みを何でも叶えようとするそうだ」
不意に咳が出て、なんだ大丈夫かと慎也の強い目が篤弘を見る。大丈夫ですと篤弘は言い、二枚の羽織をしっかりと手で掴んだ。
「李凰様の訪問日、李凰様は夏朗様の個室で一夜を共にする」
慎也が李凰と夏朗に目を戻して話を続ける。
「今後の国づくりについて話し合いをされるんだよ。夏朗様は李凰様に最も近いお方だと言われている。李凰様の側近よりもずっとな。夏朗様は大きな仕事をされているんだ、誰もやりたがらない仕事をな、お国の為にってな」
何のお仕事を、と篤弘は聞く。慎也は篤弘をちらと見て、
「じきに分かる」
と言った。それから話題を変えた。
「しかし早く世継ぎが生まれねえとこの国はやばくなるな。一時期、伝染病が流行ったようで李凰様の親族が次々に亡くなられたそうだ。唯一生き残った姪っ子は虚弱らしいしな、国王になるのは無理だ。
早く世継ぎをと思うが李凰様はもういい歳だから種次第になるな、王妃は若いんだがな。今、十八歳だ。リョウカ様だ。涼しいに、華やかの華で、涼華様だ。そんなに華やかなお方ではなかったがな。むしろ控えめで目立たない感じだった。少女部にいた方だ」
李凰国では男女共に十六歳から結婚できると聞いた。早目の結婚が推奨されるようだ。
「そういや、涼華様はもともとは夏朗様と噂になってたんだよ。それが突然、李凰様からお声がかかって結婚するはこびになった」
またも咳が出る。今度は数度咳込んだ。いやな感じがするが見張り当番を放り投げるわけにはいかない。大丈夫か、と慎也が篤弘を見やる。大丈夫ですと答えた。
「しかし今日も夏朗様は見回り二回するんかいな」
慎也が言う。
「今日は李凰様が来られてるし、おまえは三時まで見張り当番だからそれまで寝室に戻らない。今まで見回りは一回だった。おまえが入国してから二回になった。時間もまちまちで、まるで抜き打ちだ。
おまけに風呂の時間にまで現れるだろう、風呂場の見回りなんておまえが入国するまでなかったんだぞ。さらには便所まで抜き打ちだ。まったくよ」
文句を言いつつその声が元気なのは明日の朝、日課である正座をこなさなくて良いからであろう。
睡眠は常に七時間確保されるため見張り当番の時は翌日ゆっくり寝ていられる。例えば朝六時まで見張る者はその日の昼過ぎまで寝ていられ、出勤はそれ以降となるしそれが土日祝であれば茶道の稽古も免除となる。
「そういや、」
鼻の横あたりを掻きながら慎也が言った。
「夏朗様は真夜中、よく一人で便所掃除をされている。誰も来ない時間帯にな。ほら、部屋に陰徳って文字の書かれた張り紙があるだろう、あれの具現化だ」
不意に複数人の青年達が屋敷のほうに向かって歩いていった。先ほどまで一定の距離をあけながら李凰と夏朗の後ろを歩いていた青年達だ。李凰の側近達である。外してくれ、と李凰に言われたようだ。何か重要な話が李凰と夏朗の間で行われるもようである。
「李凰様の側近にもだが夏朗様の側近にも十分気をつけろ。妙なことをしでかすと即刻チクられるぞ」
隣で慎也がにやっと笑って言った。
「怖いお兄様達だ。そして側近になれば出世だ、多額の報酬もある。ただ、昔は幹部が死ねば自分らも死なねばならねえ掟があったと聞いた。今はどうか知らねえがな」
くしゃみが出る、三連発。大丈夫かよと慎也が言う。
ふと、遠くにいた夏朗がこちらを向いた気がした。
まずい、ちょっと離れよう、ちゃんと見張りをしねえと正座の刑が待っている。慎也が篤弘のそばからごそごそと離れてゆく。