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 正座には慣れていた。しかし時間の経過と共に足首のあたりに痛みが現れ始める、ひたひたと。床の上での長時間の正座である。李凰の神が腰を掛ける席に向かって正座して、ただひたすら祈りを捧げるというのが毎朝の日課であるらしい。


 両隣の者も前の者も身じろぎを始める。明らかに痺れが来ている。かかとを上げてそこに尻を乗せるという休息の姿勢をとることは許されない。前の者のうなじには汗が滲んでいる。後ろからは歯軋りのような音がする。総勢八百人はいるであろうと思われる、十一歳から十九歳までの和服姿の少年達――少年部の全員がひしめく神の間はもはや沈黙の地獄絵図である。


 ここには二十歳以上の大人がいない。八百人もの未成年を統括するのは夏朗のようである。ずらりと並んだ少年達の先頭に彼はいて、李凰の席の前で身じろぎひとつしない。

 美しい姿勢だ。背筋も、膝の上に乗る手もしゃんと伸び、脇の下に卵一つ分以上隙間をあけたその凛としたさまは武士そのものである。あまりにも涼しい。




 少年がオルガンを弾く、非常に厳かに。その近くで少年が指揮棒を振る、非常に力強く。それらに合わせて八百人もの和服姿の少年達が歌う、胸の前で両手を合わせて。李凰国の国歌である。

 魂を揺さぶられるのである。李凰の神のもとにいる者達が奏でる歌声――ほとんどが太く逞しいがその一オクターブ上に変声期前の声が混じり一つになって神の間を揺らす。誇り高く、威厳をもって。

 歌詞はすでに覚えていた。入国前から知っていた。あの娘が歌っていた。

 ああ、いずみ。聞こえるよ。きみの歌声が聞こえる。僕は今、きみと一緒に歌っている。


 夏朗が木刀のような棒を肩に掛けて少年達の前をゆっくりと歩き、声が小さい者の額をその棒の先で突いて周っている。篤弘の左隣の少年が額を突かれてよろめき、足を踏ん張り声を張り上げる。

 再び棒を肩に掛けた夏朗が篤弘の前へとやって来る。据わった目である、あの日に見たのと同じ。

 しばらくその目で夏朗は篤弘の目を見ていた。目の合ったまま二人の間に魂の歌が勇ましく響いた。

 やがて夏朗の目はそれていった。篤弘の右隣の少年の額を棒で突いた。




 黙食が基本であるらしい。広い食堂には数百人が集まっているが、箸や皿の動く音が聞こえるだけである。質素な朝食であるが栄養士が栄養計算をして作っているという。厨房には複数人の大人がいる。皆黙っている。

「なんだ、トマト食えねえのか」

 だしぬけに抑えた声が降ってきて篤弘は顔を上げた。夏朗である。笑っている。不意打ちのような登場に篤弘は慌てて箸を置き、胸の前で手を合わせて頭を下げる。

「嫌いなもんは先に食わねえとな」

 言いながら夏朗は空いていた向かいの席に座り、机に頬杖をついて篤弘を眺めて笑うがそのさまは随分とくだけている。この時間は俗に言うオフの時間のようだ。

「ガキじゃねえんだから。頑張れ」

 トマトを口の中に押し込み涙ぐむ篤弘を観察しながら夏朗はケタケタと笑っている。



 朝食の後、洗い場に少年達がずらりと並び、自分の使った食器や箸などを黙々と洗い、それが済むと寝室に戻って自分の寝床付近の拭き掃除を黙々と始める。

 その日が平日であればその後、中学生以下の者はこの国の経営する学校へ通い、それ以外は広大な土地いっぱいに広がる畑で農作業、またはこの国が経営する病院や学校などの施設や会社での勤務に励むとのことだ。適正検査を行い、どの職場で勤務するかが決まるという。

 その日が土日や祝日であれば茶室にて茶道の稽古が始まり、午後からは剣道や柔道や弓道などの稽古に射撃の訓練、トレーニング部屋でマシンを使っての筋力トレーニング、そして李凰の神が生まれたとされる山の中で走り込みなどが行われるそうだ。



 流派の違いはやはり大きく、いくつもの修正を余儀なくされた。

 店で働いていた時、数人の客から篤弘の所作はまろやかで優雅だと描写された。女性的だとも。生まれ落ちた旧家で父から仕込まれた所作だ。

 その所作が夏朗の手により作り変えられることとなった。より角ばった、直線的な動きの、無骨で逞しい、堂々たる武士の所作へと。

 夏朗のすぐそばに正座しての稽古となる。夏朗の大きな手が篤弘の手首や肘や腕などを掴みながら所作を指示する。時には自らが所作を披露しながら。呼吸さえ忘れるほど篤弘はそれに見入る。魅入るとの表現が適切か。

 和敬清寂、そして剣を抜く時の動作や構えるさまと融合するかのような所作だ、武士道である。




 李凰の神が生まれたとされる山は険しく、滝もあった。足元がおぼつかず、視界が揺れ、木の根の張る地に両手をついた頃、

「だらしねえな、もうへばったのかよ」

 笑いを含んだ声が降ってきた。顔を上げずとも声の主は分かった。


 篤弘は手足を踏ん張り、激しい呼吸に揺れながら身を起こしてTシャツの胸の前で両手を合わせて頭を下げた。額から滝のように汗が流れ落ちてゆく。自分の呼吸の音がうるさい。顔を上げるとすぐそばに夏朗が便所座りをして篤弘を見ていた。さも可笑しそうに笑いながら。


 夏朗も随分と汗をかいているが涼しそうだ。まるで牧場で羊を追い立てる犬のごとく彼は、走る少年達を後ろから追い立てながら険しい山を走ってきたのだが呼吸の乱れもない。


 少年達と同じく半袖Tシャツにハーフパンツ姿であり、和服でない夏朗を目にするのは初めてだが、そのさまは外界にいる一般的な少年と何ら変わりなかった。スポーツのよくできるクラスメートそのものだ。

 その腕や脚には筋肉ががっしりと付いており、それらはいつも和服の下に隠れているからこそ逞しさが際立った。茶道の稽古の後に行われた柔道の稽古ではその筋肉によって篤弘はいとも簡単に投げられ、視界には余裕に溢れた夏朗の笑みだけがあった。


 そして篤弘は八百人もの少年達の一番尻でへばっている。こんな山を走った経験はない。皆の脚力や肺活量に驚愕である。しかし言い訳をこぼそうとする口を噛み締め、こぶしを握りしめて篤弘は引きちぎれそうな肺や筋肉達と戦う。夏朗を失望させたくなかった。


 厳しいトレーニングが行われるのには理由があるという。数ヶ月ほど前に、とある新興宗教団体によって敷地内に火炎瓶が投げ込まれ火災が起きたというのだ。屋敷にあるすべての消火器を使用し皆でバケツリレーも行ってなんとか大事には至らずに済んだらしいが、李凰国は山奥に存在するゆえの弱点を抱えていた。襲撃を抑えるべく基礎体力を向上し射撃術を学び李凰国を守ることが国民の義務となった。

 現在、李凰国には世継ぎがいない。それゆえ李凰の命を狙い、国を乗っ取ろうとする輩であるのがその新興宗教団体なのだという。団体名は、アランの教、であり、黒装束に身を包んでいると聞いた。


 視界に少女達の姿が映る。少女部も走り込みを行っているようだ。篤弘の前で呼吸を乱していた少年達の背筋がすっと伸び、篤弘の背筋もまた伸びた。少女達の前に情けない姿を晒すことはできない。

 軽く会釈をしながらすれ違うのがルールのようだった。少年部と同じ体育服で少女達が汗を光らせながら颯爽と走り去ってゆく。皆、引き締まってはいるが痩せているのとはまた違うものがあった、鍛えられているのだ。顔かたちは十人十色、しかし目の表情は皆同じである――李凰の神のもとにいる、凛々しく強く、清く正しい目。男も女も変わらない。

「頑張れ」

 夏朗の笑った声が篤弘を追ってくる。


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